2018年1月 7日 (日)

新年いっぱつめ

だいぶ遅くなってしまいましたが (汗)、あけましておめでとうございます。主筆のSimacherです。冬コミでサークル参加すると例年お正月のうちには記事が書けないというジンクスは今年も生きていました。なんとかしたいところですがね…。

さてそのコミックマーケットですが、当初のぼくの予想に反し、新刊・グッズともすべて完売という、考えうる限り最高の結果でもって2017年の同人活動を締めくくることができ、ぼく自身がたいへん驚愕しております。アイマス本であることは違いないけどアイドル要素はそんなに多くなく、日本人の多くには馴染みの薄いレーシングカー (しかも耐久レースのスポーツカーだ) をメインに据えた、いわばこのブログの連載記事の延長線上みたいな本、しかもキャラクター関連の頒布物が集まる場所に配置されていただけに、どういう反応が来るかわからない状態でしたが、結果的にはおおむねご好評をいただけたようで、サークル主宰として胸をなでおろしているところです。一方で、主宰の予想を超えたハイペースで本が捌けていったことで、「欲しかったのに入手できなかった」という方が若干名いらっしゃったのは大変残念で、これは本当に申し訳ないのですが、再版に関しては現時点では未定です。可能であれば2月12日か、5月4日の「歌姫庭園」イベントにて再版分を販売できたらいいなぁ…とは思っています。ともあれ、当日会場にやってきてわが「アルファコルセ」の奇妙奇天烈な同人誌・グッズを買っていってくださった皆様には、あらためてここで感謝させてください。本当にありがとうございました!
(以下主宰のグチ: 冬コミ本戦では配置が僻地ともいえる東7/8ホールだったことで部数の予測がむずかしく、若干コンサバか丁度良いくらいの部数で乗り込んだら完売してしまいましたが、再版分も具体的にどれぐらい刷ればよいのかまったく分らないし、資金的にも迂闊に発注するわけにいかないし…。むずかしいですね)

2017年もあっというまに始まってあっというまに終った感がありますが、モータースポーツ的には相変わらず面白い一年だったというか。日本人にとって最大のニュースは、なんといっても佐藤琢磨のインディー500優勝ですね。まさか自分が生きているあいだに日本人ドライバーがインディー500・チャンピオン (アメリカでは慣用的に500マイルのウィナーも「チャンピオン」と呼びますが、もちろんインディーカー・シリーズ全体のチャンピオンとは別) になる日が来ようとは…! ちなみにこのインディー500、F1からフェルナンド・アロンソがモナコGPをばっくれて参戦したことでも盛り上がりましたが、ニュルブルグリンク24時間レースと同日開催で、ぼくは24時間レースのほうをフルで見ていたがために、インディー500は途中で寝てしまいました。たぶん一生引きずる後悔です。

ただ、負け惜しみを言うわけではないんですが、ニュルブルグリンクのほうもすさまじいレースでした。予選では、このレースにおける専制君主とでも言うべきドイツ製GT3カーを抑え、開発ドライバーのジェフ・ウェストファルが駆るNr704 SCG003Cがポール・ポジションを獲得。レースでは数度のトラブルで下位に沈み、最後はレース残り数時間というところでフェリペ・ラザーの単独クラッシュでリタイヤしてしまいましたが、僚艦のNr702が完走を果たし、チームの面目を保ちました。
決勝レース終盤は白と緑の爽やかなカラーが印象的なランド・モータースポーツのアウディがトップを快走するも、残り一時間 (だったか…) というところで電気系のトラブルが発生し三位に後退。残り時間的に挽回はほぼ不可能で、チームスタッフらはガレージで頭を抱え涙を流す始末。若いケルヴィン・ヴァン・デア・リンデが必死で追撃するも、レース最終盤になって黒雲が低く垂れ込め始めるトリッキーなコンディションに。ドライタイヤのまま行くか、大事をとってレインタイヤに交換するかで各車の判断が分かれる中、当初ランド・モータースポーツはドライのままで行く判断をしていました。しかし最後のピットインで、あろうことか給油担当のメカニックが給油口のフタか何かを取り落とすという痛恨のミス。しかしこのミスで生まれたロスタイムを使って、なんとチームはレインタイヤに交換するという賭けに出ます。当初はそれこそ大博打だったこの一手ですが、最終ラップで北コースが土砂降りの雨に見舞われ、ドライタイヤのまま走っていたトップのWRT・アウディがコースアウト! 二位のBMWも大急ぎでレインタイヤを求めてピットインしていたため、これでランド・モータースポーツが首位に返り咲き、あまりにも劇的な優勝を手にした…という筋書き。世界中のどんな脚本家にも書けないようなストーリーが展開するのがモータースポーツの醍醐味、まさにそんなレースでした。

デイトナ24時間にセブリング12時間と、16年になかなかスリリングな展開が見られた北米スポーツカーは、あまり大きなドラマもなく、終ってみればダラーラ・キャデラックDPiの連勝劇に終始したような印象でしたね。ロードアメリカでESM・リジェ・ニッサンDPiがキャデラック勢の連勝を止めたことが記憶されるぐらいかな? ル・マンはトヨタが16年の屈辱を振り払うベく、日本国内で大々的な宣伝を行い、三台体制に増強して勇躍ル・マンへ乗り込みましたが、結果は…。16年がほんとうに「天から降ってきた災厄」とするなら、今年のはかなりまで「人災」、「人為的なミスや不注意が輻輳しての結果」という印象があります。三台持ち込んで三台とも全滅 (いちおうNr8が完走) は流石に開いた口が塞がらないというか…。敗軍をあまり責めるのもどうかとは思うのですが、見ていて不甲斐なさ、腹立たしさすら感じる戦いっぷりと言わざるを得ません。いまとなっては結果論でしかないのですが、トヨタが今年勝っていたら、もしかしたらポルシェはLMP1からは撤退しなかったかもしれない。彼らが撤退時に残したコメントのひとつに「もうやるべきことは十分やった」というのがあって、たしかにその通りなのです。ポルシェ・919が勝ち続けた三回のル・マンのうち、一回でもトヨタが勝っていれば、ポルシェのことだから彼らは嬉々として「この敗北を噛み締め、来年はさらに強くなって帰ってくる」とか言い出し…はしなかったかもしれないけれど、したかもしれない…。あまり長々と愚痴ってもどうしようもないのでこの辺にしますが、ともかくポルシェのスポーツカー撤退はショックでした。でも本当に、彼らはもらえる限りの「一等賞」をぜんぶもらって、お腹いっぱいになってパーティー会場を去っていくのだから、ここらが潮時だったのかもしれませんね。残されたトヨタやほかのLMP1チームがめちゃくちゃ強くなって、ポルシェをまた引きずり出してくれることを願わずにいられません。

F1は…まぁ、結果的にはメルセデスベンツで終ったけど、今年のフェラーリはけっこう期待を抱かせるレースが多かったし楽しかった。ただ今年調子が良かったからといって来年もそうなる保証が全然ない、というのがフェラーリのフェラーリたる所以なので、今年のフェラーリには正直そこまで期待はしません。ホンダはエンジンが全然ダメでマクラーレンと喧嘩別れしてしまいましたが、ぼくは特に推しでもアンチでもないし「まぁがんばってね」程度。正直STR・ホンダがどうなるかは今の段階では予測不能です。F1に関しては、2017年の車体規則改正で前後ウィングがものすごくダサい造形になってしまったので、当分そこまで熱を入れて見ることはないだろうと思われます。一応情勢は追いかけるけど。あと今年はあれですね、HALOデバイス (これ名前の由来は何なのか) 導入ですね。格好良くはないけど安全面を考えるとある種仕方ないものだし、そもそもウィングがまっすぐじゃなくなっちゃった時点ですでに見た目は壊滅的なのでそんな大した影響もないんじゃないかな。

最後に同人活動の話でも。今年も「緒方智絵里関連」と「モータースポーツ関連」の二刀流でもってお絵描きをしていこうと思います。あまり詳しい予定は決っていませんが、とりあえず6月17日 (なんと2018年ル・マン当日に変更になってしまった!) の智絵里オンリーイベントと、2018年冬コミは出場が確定していまして、ほかのイベントは決まり次第Twitterや当ブログで告知していきます。前者のオンリーイベントは緒方智絵里の画集、後者は未確定ですが何か恒例のモータースポーツ関連本を出したい。それでは、2018年も何卒ぼくとぼくの作品群をよろしくお願いします。

2018.1.7
Simacher

2017年12月21日 (木)

冬コミ情報

主筆です。日本はだいぶ寒くなってきましたね。さっそく本題に入りますが、脱稿+入金+見本誌受領のコミケ前恒例儀式が完了したので、コミケ情報をアップしておきます。

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2017年12月31日・コミックマーケット93出展予定、「アルファコルセ by SGR」お品書きです。とりあえずアルファコルセ側からはこの一冊+一点。すでにTwitterの方では概略をつぶやいておりますが、ポルシェ・962Cと緒方智絵里をメイン・テーマに据えた、特集形式のイラスト本です。ライバルの登場によって旧式化した後も、バランス型の設計や発展性の高さに助けられ、GpCカテゴリの終焉までを見届けた名車・962C。その最後の戦いの日々は、デビュー当初の黄金時代に比べると、(すくなくとも日本においては) 象徴性に見合うだけの知名度を得ているとは言い難いのが現状です。WSPC末期の苦闘、IMSA GTに新天地を求めた1990年代、1993年・さいごの戦い、そして1994年ル・マン―。本書は、ポルシェ・962Cの中でも特に重要なエピソードを含んだ八台を主筆が厳選し、総勢六人のゲスト参加者と共に、フルカラー・イラストと精密側面図、そして日英両言語の解説文によって、962Cが走り抜けた終末の日々をあざやかに描き出します。解説文の内容としては、おおむね当ブログで連載していた「ポルシェ962C・終りのクロニクル」シリーズを、同人誌むけに再構成したものになりますね (やや初心者向けにアレンジしたつもり)。これをアイマス関連書籍として頒布しようってんだから世も末だ。
関連グッズとして、画像にあります通り1989年にヨーストが投入したフロントオイルクーラー仕様の962C (特にこの仕様に与えられた固有の名称は無いので、いちいちこう呼ぶしかない) を模したスタンド付きキーホルダーも頒布したいと思います。製品のナスカン (キーホルダーの固定具) は、同車が履いていたスピードライン製マグネシウム・ホイールの黒い輝きをイメージしたブラッククローム仕様としました。こちらもよろしくお願いします。 

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同書のサンプル用ポスター。収録車種に関しては、もうポスターの時点でおおかたバレてるとは思いますが、とりあえずここでは「本を買った方のお楽しみ」としておきます。イラストは主筆以外に「桐義」氏 (https://twitter.com/Koma_Kiriyoshi)、「りょりょ」氏 (https://twitter.com/Blanchimont_ryo)、「田宮宗一郎」氏 (https://twitter.com/Tamiya_Soichiro)、「うろとま」氏 (https://twitter.com/urotoma) の各位にご協力いただき、また「def」氏 (https://twitter.com/defD11) には収録の側面図製作を担当していただきました。このほか「ファスト?ふれでぃ」氏 (https://twitter.com/FREDDIE_NV0A) には解説文の検証に多大な協力を得ており、本書はまさにTwitterの有志連合なくしては実現し得なかった企画ということができるでしょう。あらためて、ご協力いただいた各位に最大限の感謝を表明します。

告知の段階でもお伝えした通り、今回はぼくの数年来の友人にして同人活動の師匠的存在である「各々」氏のサークル「S.G.R. (Shanghai Girls Racing=上海娘々賽車隊)」と合体してのエントリーであるため、同氏の最新作も一緒に頒布されます。表紙がまだできていないようなのでお品書き画像には収録できませんでしたが、内容としては各々氏が現在手がけている富士GCシリーズ通史の最新刊で、1976年の鈴鹿ジュエル・シリーズ (注記参照) をとりあげたものになります。

例によって、当サークルではマレーシア・リンギットによる支払いを今回も受け付けますが、今回も手持ちのリンギット貨がすくないため、釣り銭の欠乏が予想されます。リンギット払いを希望の方は、ぴったりで払っていただくか、釣り銭分はすべて寄付として当サークルに投げ銭をしていただくかの二択になる可能性が高いことをここで申し上げておきます (20リンギットなのでキリの良い金額ではあるはず)。

当日のスペースは「東7ホール・"つ"07b」で、いわゆる智絵里島と呼ばれる、緒方智絵里関連のサークルが密集した地帯のちょうど真ん中あたりです (なぜそんな所でこんな本を頒布しようとしたのか!)。東7ホールはごぞんじ昨年に落成したばかりのスペースで、これまでアイドルマスター関連のサークルが配置されてきた東1~6ホールとはかなり離れた場所にありますのでご留意くださいませ。また本ブログの読者諸兄におかれましては、(とりあえずレーシングカー好きな方々という前提でお話しますが) ぜひこの機会に近隣他サークルの頒布物もあわせてお買い求めになり、緒方智絵里というキャラクターの持つ独特な深みに気づいていただければ、アルファコルセ主宰としてこれにまさる幸運はありません。

(注) 鈴鹿ジュエル・シリーズ: 日本で本格的なモーター・スポーツ活動がはじまったのは、1962年の鈴鹿サーキット開業以来であったが、その後開業した富士スピードウェイがスポーツカー・レース主体の路線で興行をおこなったのに対し、鈴鹿サーキットは一貫してフォーミュラーカー路線を歩んできた。日本においては、レース・シリーズは主催団体ごとというよりは、サーキットごとに開催されていたのである (富士スピードウェイのみで開催されていた富士グランチャンピオン・シリーズ、通称富士GCなどはその最たる例)。1976年に、鈴鹿サーキットはそれまでのフォーミュラー一辺倒だった路線をあらためようと、GCカーによるシリーズを開催したが、これが全3戦からなる鈴鹿ジュエル・シリーズであった。これに対し富士スピードウェイは、GCのようなスポーツカー・レースは富士スピードウェイが独自に育ててきたもので、鈴鹿サーキットはそれを横取りしようとしている、という論を展開し、しまいには鈴鹿ジュエル・シリーズに参戦したドライバーには富士GCの出場資格を与えないという独裁路線で抵抗した (いちおう富士側の言い分にもそれなりの理屈はあるのだが)。不毛な争いは最終的に鈴鹿側がジュエル・シリーズの開催をこの年限りで打ち切ることでいちおうの和平に到達したが、このジュエル・シリーズで本格的なプロフェッショナル・カテゴリへのデビューを果たした一人に、あの中嶋悟がいた。藤田直廣が前述の措置のせいでジュエル・シリーズに出られなくなり、代役を探していたヒーローズ・レーシングが目をつけたのが、当時FL500などで走っていた中嶋悟青年だったのである。

もうひとつのハイブリッド物語 ~ホンダCR-Z GT (2014)~

ハイブリッドカーは、石油資源の枯渇や環境問題などの議論に対する解決策のうちのひとつとして、並行して研究されていた電気自動車や燃料電池自動車などにさきがけて一般向けに実用化され、今日では日本や米国を中心に大きなシェアを誇るに至ったが、同時にこの技術は、二十世紀を通して一般的であった「サーキットを走るレーシングカーによって先行開発・研究を行う」スタイルによらないものであった。市販乗用車において一般的なモノコック・ボディやディスク・ブレーキ、あるいはエンジンの高回転・高出力・省燃費化といった技術は、いずれも二十世紀を通して「走る実験室」たるレーシングカーにまず投入され、技術的知見を蓄積したのち市販乗用車に搭載されるのが常であったが、ハイブリッド動力はまず机上研究からスタートし、サーキットを経ずに市販乗用車として実用化されたという点において独特であった。

かつてサーキットがあらゆる乗用車関連技術の揺籠であった時代において、レーシングカーはそのまま未来の乗用車を体現すると考えられた存在であった (現在でもレース用スポーツカーのことを「プロトタイプ」=先行試作品と呼ぶことに、この考えの名残が見られる)。しかしハイブリッドカーの時代においては、ハイブリッド技術はまず市販車によって開発され、その成果がレーシングカーによってサーキットに持ち込まれるという、前世紀には見られなかった逆行が起きた。その嚆矢はトヨタで、二〇〇六年にGTカーに試験的なレース用ハイブリッド・システムを搭載したのを皮切りに、二〇一二年にはハイブリッド動力のスポーツカーでル・マン二十四時間レースを含む世界耐久選手権への参戦を開始し、アウディやポルシェといった強力なライバルを相手に、二〇一四年には世界選手権のチャンピオンとなるに至った。また同じ二〇一二年にトヨタは、国内のコンストラクターであるaprに開発を委託したトヨタ・プリウスのレース用モデルで、全日本GT選手権 (現在Super GTと呼称される)・GT300クラスへの参戦を開始している。このプリウスGTに搭載されたハイブリッド・システムは、世界耐久選手権用のレース専用品と違って市販乗用車用のものをそのまま使っており、より市販車とのつながりを重視した活動であった。このトヨタ・プリウスに対する対抗馬としてホンダが同年後半に送り込んだのが、ホンダ・CR-Z GTである。


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エブロ製・品番45075、「無限 CR-Z GT 2014年スーパーGT」ダイキャスト製1/43スケールモデルカーである。二〇一四年のスーパーGTに、チーム・無限からGT300クラスに参戦したCR-Z GTを再現している。吊り下げ式に改められたリヤウィングや、前面吸気口の形状などから、第四戦・菅生で投入された後期型をモデルにしていることがわかる。

ホンダ・CR-Zは、二〇一〇年にホンダが発売した小型クーペ・タイプのハイブリッドカーで、名称からも分る通り、かつて販売されていた小型クーペ「CR-X」の実質的な後継車として開発されたものである。ホンダは傘下のチューニングパーツ・メーカー兼レース部隊である無限にこの車のGT300仕様を作らせ、実戦テストとして二〇一二年後半からスーパーGTに参戦を開始した。スーパーGTでは同一メーカー製ならエンジンの載せ替えは自由であったため、CR-Z GTではアメリカ・カリフォルニア州サンタクラリタに本拠を置くHPD (Honda Performance Development) がスポーツカー向けに開発したHR28TT型・2.8L V型6気筒エンジン (チーム無限はベースとなった市販車用エンジンである「J35A」と呼んでいる) が車体中央部に搭載され、これに英国ザイテック社製のレース用ハイブリッド・システムが組み合わされた。もともとコンパクトカー程度のサイズであったCR-Zに大型の6気筒エンジンを縦置きで搭載したため、エンジン・ブロックは一部が車室内に食い込むような配置になっており、ドライバーの着座位置は市販車よりも若干前進している。

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横からCR-Z GTを眺める。レーシングカー化するにあたって全幅は拡大され、大径・幅広のレース用タイヤが装着され、後部には一枚式の大型ウィングが装備されているが、ホイールベースは市販車とほとんど変わっていない。そのためこの車はGT300クラスの中でも最もコンパクトな部類に入る。

CR-Z GTは二〇一三年からスーパーGTへのフル参戦を開始し、同時に鈴木亜久里のARTAからも一台がエントリーしたため、この年から二台のCR-Z GTがスーパーGTで走ることになった。チーム無限は、同年の選手権では一度もクラス優勝を挙げることがなかったにもかかわらず、二位を四回獲得したほか全レースで入賞するなど抜群の安定感を誇り、二勝したゲイナーのメルセデスベンツを振り切ってGT300クラスの年間チャンピオンに輝いた。これは全日本GT選手権の歴史において初めて、ハイブリッドカーがチャンピオンを獲得した事例であった。これに伴い、無限は翌二〇一四年の選手権でGT300クラスのチャンピオン・ナンバーである「0」を付ける権利が与えられ、二〇〇五年以来九年ぶりに同チームに「0番」が復活することになった。 一方ARTAは、シーズンを通して入賞に届かないレースが続いたものの、第三戦・セパンと第四戦・菅生で連勝し、ドライバーランキング七位を確保した。

二〇一四年シーズンに向けて、無限は中山友貴と野尻智紀の若手ドライバーを起用し、ARTAは引き続き高木真一と小林崇志のペアで参戦した。無限はこの年から車のカラーリングを変更し、それまでのソリッドな赤色からメタリック調のおちついた深紅を前面に大きく配したほか、同社のコーポレート・カラーである「赤・金・黒」を流線状に描いた新カラーリングが用いられた。車体そのものは当初二〇一三年用と共通で、パワーステアリングの容量を増やすなど小改良にとどまったが、前年の好成績を受けて吸気リストリクターが小型化された結果としてパワー不足が予想され、GT300クラスで存在感を強めていたFIA GT3規格の車輌に対して苦戦が予想された。

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ベース車の車体寸法がちいさく、車体側にリヤウィングを装備できないCR-Z GTは、かわりにディフューザー部となる床下部分を後方へ延長し、その上にリヤウィング支柱を取り付けるという大胆な手法をとっている。二本の支柱の間は横方向の肋材で補強され、まるで高層ビルの足場のようにも見える独特な景観を生み出している。テールランプの位置は市販車と同様であるから、横方向へのフェンダーの張り出しがいかに大きいものかを察することができる。リヤフェンダー後部は途中で裁ち落とされ、タイヤ後方は外部に露出しているが、シーズン途中のアップデートによって、この部分に整流用のボートテール状構造物が配された。

無限 CR-Z GTは開幕戦・岡山で九位に入ると、続く第二戦・富士ではレース展開にも助けられ三位表彰台を獲得した。続く第三戦・オートポリスでも五位入賞を果たしたが、ライバルチームの急追や特定チームの独走を避けるための性能調整などに苦しみ、なかなかトップ集団に加わることができずにいた。しかしこの第三戦では姉妹艦ともいえるARTAの車がCR-Z GTとしての初優勝を記録するなど、依然としてCR-Z GTの戦闘力は衰えていないことも示された。

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戦闘力を取り戻すべく、無限およびARTAは第四戦・菅生に大改修をほどこした後期型CR-Z GTを持ち込んだ。夏場に向けての冷却対策でフロントのエアインテークが大型化され、三つに分かれていた吸気口が大型の一体式にあらためられたのである。リヤウィングの支柱も改修を受け、形状が変更されると共に、それまでのオーソドックスな下面支持タイプから効率にすぐれる吊り下げ式に改造された。モデルはこの後期型を再現しているが、残念ながら中央グリル部の取り回しが実車と違うものになっている (実車では下部インテークの大型化・一体化に合わせて、グリルが途中で切り取られている。実車写真も合わせて参照されたい)。

第四戦・菅生と第五戦・富士の無限 CR-Z GTは、いずれもアップデートの成果で予選では好タイムを記録できても、雨が降った決勝レースではライバルのペースについていけず、ポイントを獲得することすらできなかった。トラクション・コントローラーやABSといった電子デバイスが搭載されているFIA GT3カーに比べると、CR-Z GTのようなJAF GTカーはそのような電子機器を装備できない分、雨天時の操縦性には際立った差があった。またCR-Z GT固有の特性として、コンディションの変化に対する車輌の許容幅が思ったより狭く、特にドライ路面とウェット路面の遷移状態において操縦性が思わしくないという悪癖を抱えていることも苦戦の一因とされた。二〇一三年は雨のレースがなかったため、この特性があまり顕在化しなかったのである。

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エブロ製のダイキャスト製品ではあるが、このモデルに関しては内装なども比較的よく再現されており、正方形に近いステアリングやその背面のシフトパドル、スタビライザー調整用と思われる赤と青に色分けされた二本のレバー、さらにはハイブリッド・システム冷却用の白い通風パイプまで作り込まれている。サイドウィンドウはなぜか黄色がかった色で成形されているが、手持ちの写真を見る限りチーム無限の実車においてこのような特徴は見られない。写真では写っていないが、助手席スペースに置かれたハイブリッド・システム一式の外観もしっかり再現されている。実車ではこのハイブリッド・システムを構成するモーター、バッテリー、インバーターのために、それぞれ別系統の冷却システムが用意されるなど熱対策に注力したが、車体そのものの小ささからくるパッケージングの問題もあって、当初は熱害の問題に悩まされた。

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もともと通常の支持方式だったリヤウィングを、支柱そのものの形状を変えずに吊り下げ式に作り変えたことが分る。ウィングは下面の高流速部分がダウンフォース発生において重要であり、吊り下げウィングはその下面にある障害物を取り払うことでウィングの効率を上げるためのデバイスだが、このような戦時急造型めいた改修は他車種ではほとんど見られない。そのような意味でも、この車は独特な一台であると言える。 CR-Z GTは前期型・後期型を通して、ウィング部品はホンダがGT500クラスに投入していたHSV-010 GTからの流用であったが、この後期型では吊り下げウィングの支点部分も同車から流用されている (HSV-010 GTはCR-Z GTよりひと足早く、二〇一三年後半にこのタイプのウィングを投入していた)。

第六戦・鈴鹿1,000キロレースで、チーム無限は第三ドライバーに道上龍を加えた三人体制を敷いた (道上は決勝レースには出走していない)。CR-Z GTが得意とするテクニカルコースの鈴鹿とあって、練習走行ではGT300クラスのコースレコードを更新する好走を見せ、予選でも二位に入るなど健闘したが、レースではペナルティや終盤のトラブルなどに苦しみ八位に終った。続く第七戦・ブリラムでは九位、最終戦・もてぎでは十三位で、年間のチームランキングは十位だった。前年に比べるとなんとも寂しい戦績だったが、同時に前年のチャンピオン・マシンが一年で中団に転落するという、レースにおける物事の進歩の速さの象徴でもあった。二〇一四年においてもホンダ・CR-Z GTは十分な戦闘力を有してはいたが、それに見合うだけの安定性やスピード、あるいはほんのすこしの運が、二〇一四年のチーム・無限にはなかったのである。

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ヘッドライトはまるで書き割りのような様相だが、実車もこのような構成で、実際にライトとして機能するのは中央の四角い部分のみである。実車においてはこの赤色は光沢のあるメタリックカラーだが、モデルではコストの問題か十分には再現されていない。こちらもコストの問題と思われるが、実車ではヘッドライト脇・フロントフェンダー前端部の段差にスリットが空いており、これは二〇一二年のアキュラ/HPD製スポーツカーや、二〇一五年に登場したアウディ・R8 LMSなどに見られる手法と共通である。グリル上部に空いている小さい穴はエアジャッキの差込口。

二〇一五年は無限がスーパーGTへの参戦を休止したため、CR-Z GTの参戦はARTAの一台のみとなった。この年ARTAは開幕戦・岡山で二位、第四戦・富士で優勝し、チーム・ランキング六位を獲得するなど健闘したが、GT300クラスにおけるCR-Z GTの参戦はこの年で終了し、CR-Z GTもその使命を終えた。スーパーGTにおけるホンダのレーシング・ハイブリッド開発は二〇一四年からGT500クラスに参戦を開始したホンダ・NSX GTがその主流を引き継いだが、レギュレーション上の不利や熱害、重量の問題を最後まで解決できず、二〇一五年を最後にホンダのハイブリッドカーがスーパーGTで走ることはなくなった。ホンダは二〇一七年に、ハイブリッド・システム非搭載を前提とした新型のNSX GTを開発し、レクサスが席巻したシーズンにおいて二勝を記録した。現在のホンダにおけるレース用ハイブリッド・システムの開発は、二〇一五年にはじまったF1用エンジンの開発がその主軸を担っている。他方aprのトヨタ・プリウスは、二〇一七年現在もトヨタからの支援を得て、スーパーGT・GT300クラスへの参戦を継続している。

ホンダ・CR-Z GTは、少なくとも二台が無限により開発・製作されたと思われるが、そのシャシー・ナンバーは明らかではない。このうちARTAが二〇一五年まで運用した一台は現存し、現在も各種イベントで時折展示されている。

2017年11月21日 (火)

コミックマーケット93 参加情報

ボサボサしていたら更新が二ヶ月も空いてしまって、いや恐縮することしきり…。てなわけで表題の通りですが、今冬開催のコミックマーケット93に無事「アルファコルセ」としてスペースを頂けておりましたので参戦します。正確には、長年来の友人である「各々」氏 (@FromA_Nova) のサークル「上海娘々賽車隊」とのジョイント・エントリーで、「アルファコルセ by SGR」名義でのエントリーですね (S.G.R.=Shanghai Girls Racing、すなわち「上海娘々賽車隊」です。もともとの出自が東方サークルであったことの名残を感じられるサークル名)。日時は冬コミ三日目・12月31日、スペースは東7ホールの「つ07b」、サークルカットは以下の通り。   
   
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さて肝心の出し物、ぼくとしては新刊+グッズ一点を考えていますが、新刊の方は現段階では「緒方智絵里をテーマとした、合同誌形式のイラスト本」という体裁で決っています。べつに合同でなくてもよかったといえばよかったんですが、今回の本は今年の夏コミ前ぐらいからずっとぼくが温めていた企画でして、それに同好の士をたくさん巻き込みたいなぁ、という願望の現れだったのかもしれません。合同にするよりは一人でぜんぶ絵を描いたほうが、イラスト本としての絵柄の統一感が出るという観点からは望ましいのですが、ぼく自身の作業量の問題もあるし (分量的には一人でも出来なくはないけれど)、何よりテーマ的にいろいろな絵柄をアソートしたほうがより面白いものができるかな…という考えがあってのことです。そのテーマですが、まぁ、とりあえず「キーワードは "ドイツ"」とだけ言っておきましょう。   
グッズに関しては、内容が新刊のテーマ性と連動しているので、情報公開は新刊と同時に、ということになります。表紙のレイアウトが出来次第、おそくとも12月上旬には情報を公開する予定ですので、こちらのブログかぼくのツイッター (ツイッターの方が情報は速いですが、流れるのも速い) をチェックしてください。現在ぼく含め各参加者が原稿に注力している状況なので、こちらのブログはあんまり更新できなくなりそうですが、とりあえず作業が落ち着いたら年内最後のレーシングカー記事を一本ぐらい上げたいと思います。   
   
とりあえず現時点の報告としては取り急ぎ以上です。みなさん、冬コミ現地でお会いしましょう!

2017年9月21日 (木)

歌姫庭園14

ちょっと更新の間があいてしまい申し訳ありません。なんやかやでちゃんとした記事の執筆って二ヶ月ぶりぐらいですか。とりあえず生きてます。9月に入ってからちょっと身辺のいろいろなことがバタバタしはじめて、時間的にも精神的にもあんまりブログ書いてる余裕が無くなっちゃったんですが、前々から予告していた通り今週土曜日・9月23日の「歌姫庭園14」内「シンデレラメモリーズ13」に出展します。直前の告知になってしまいゴメンナサイ…。スペース「レ09」・「アルファコルセ」にてお待ちしております。当日販売するもののお品書きは下記画像の通りです。   
   
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既刊は前回 (25/6) の歌姫庭園13に持ち込んだものです。アクリルスタンドは、今年の5月から8月にかけてライブツアー形式で全国をまわっていた「シンデレラガールズ」5thライブの全行程終了を記念して描いた絵をスタンド化したものですが、サイズがちいさすぎたのとぼく自身の塗り方の問題? によって、だいぶ細部がつぶれてしまっています。製品化の予告は前々からしてあったのですが、もし楽しみにしていた方がいらっしゃったらたいへん申し訳ありません。幸か不幸か、今回はグッズ制作のテストケースということで数はかなり少いので、サークルへのダメージはそこまで大きくならず済んだのですが…。一時かなり真剣に発売中止を考えましたが、とりあえずこの値段で置いておきますので、多少出来がわるくても欲しいという心優しいお方は300円を置いて持ち帰ってあげてください。   
   
前回の歌姫庭園13ではけっきょく具体的な予告記事をブログに上げず終ってしまったので、遅ればせながらここで新刊のポスターみたいなものを下に掲載します。   
   
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前回イベントに合わせて製作したため日付などが古いですが…。ストーリーのある漫画本とちがって、イラスト集はなかなか抜粋サンプルを作りづらいので、苦心のすえ考えだしたのがこういうスタイルのポスター。すこしでも想像力とか購買意欲を掻き立てられているといいのですが。基本的には今年のはじめから5月~6月頃までにこつこつ描き溜めたイラストの集まりです。そのあとまた絵柄がちょっと変わったので、ぼくの最新の絵 (Twitterとかでたまに投稿している) とはすこし違う感じですね。よくいえば試行錯誤感、わるく言えば絵柄が不安定?   
   
本のタイトルはデヴィッド・シルヴィアンのベストアルバムから。一九八二年にソロでのシンガーソングライター (彼はどっちかというと「詩人」「表現者」みたいな肩書のほうが千倍似合うと思うけれど、世間的にはシンガーソングライターということになるのかな) 活動をはじめたシルヴィアンの、二〇一二年時点までの集大成となるアルバム、これ一枚 (二枚組だけど) 持っていればだいたいシルヴィアンは語れるだろう、という感じの作品なので皆さんもぜひ買いましょう。八二年以前の曲もちょっとだけ入っていてお買い得です。ぼくの絵はいろいろな人やモノ、作品からちょっとずつ様々な影響を受けた上に成り立っていると自分では考えているんだけど、多分そのなかの割とおおきい部分にシルヴィアンの楽曲が入っているんではないかと思います。   
   
今後の予定ですが、今やすっかり長いつきあいになった各々氏の「上海娘々賽車隊」とのジョイントで、冬のコミックマーケットに出す新刊の計画が進行中です (当落発表は2/11ですが、当選いかんにかかわらず出したい)。それ以降、2018年度のプランは正直白紙ですが、18年6月3日開催のCute St@r Festival内、第二回緒方智絵里オンリーイベントに、アルファコルセとしては二冊目の新刊をできれば投入したい (参加の都合がつけば…)。今後ともよろしくお願いします。

2017年7月27日 (木)

いちおう生きてます

とはいっても特にブログに書くほどのネタが無いのですよ (レーシングカーネタで二三本あるにはあるけど、リサーチとか資料作りに時間かかるのでテンション高くないと着手できない)。前記事でも言及しましたが、夏コミは落ちました。スケジュール的にも六月の新刊をつくりつつ夏コミ向けに何か、というのはきびしかったし、四月から断続的に体調をわるくしていた関係でどのみち夏コミ用の新刊は無理だったので、後知恵で言えばちょうど良かった、というか。冬に受かってたらこんどこそ何か作りたいとは思います (智絵里関連になるかは未定)。とりあえず、来る九月二十三日 (土・祝) におなじみ東京ビッグサイトで歌姫庭園が開催されるのですが、出ようかどうか検討中です。新刊は出せないにしても、何かグッズを用意して持っていければいいなぁと。   
   
そうそう、Twitterアカウントを分離しました。今後イラスト関連のつぶやき (+レース関係も一部こっちで共有します。布教活動用) は「@MsianChieriP」で行うことにします。とはいっても思いつきで作った (分けた) ので、運用状況を見て気まぐれで再統合するかもしれません。全ては気まぐれ。マレーシア人てのはそんなもんです。

2017年6月27日 (火)

歌姫庭園13お疲れ様でしたetc

いろいろ用事があってうかうかしていたら歌姫庭園が終ってしまいました。改めてブログに記事書こうかなと思っていましたが、けっきょくツイッターの方で告知しただけになってしまいまして、ここを見てくださっていた方がいたら申し訳ありません。ル・マンの後の虚脱感とか疲労感が大きく影響していたような気がします。いま思えばトヨタのあの広告は何だったんでしょうかね、いや方向性としてはああいう暑苦しいのは大好きなんだけど…。   
   
当日わが「アルファコルセ」の配置は「シ32」スペース、誰かがツイッターで「C32B」(初代ホンダNSX後期型用の3.2L V6エンジン。JGTC用は途中から3.5Lに排気量アップされ「C32B改」などと呼ばれていたはず?) と見間違えた、なんて言っていましたね。この日は東京全体が朝から雨模様で、そういえばアルファコルセのDTMデビュー戦となった1993年ゾルダーもウェットレースだったなぁ…などと思い出に浸っていましたが、じつは当日の搬入がけっこう時間ギリギリになってしまい、これからの戦いに思いを馳せる時間が正直あんまりありませんでした。この日はウェットコンディションだったことに加え、前の記事で言及したとおりシンデレラガールズのライブに日程が重なっていて (そのためスタート時間も通常より30分繰り上がっていた)、苦しいレースが予想されていましたが、まだスタート前の時点ではどんなレースになるか予想もつきませんでした。   
   
イベントは10時30分に定刻通りのスタート。自分のチームとして単独でこの手のオタク・イベントの実戦に参加するのは初だったので否応無しにテンションが上がる。当日は緒方智絵里メインのサークルがたしか四つほど参戦していて、アルファコルセはその一番端にいたのですが (左隣が智絵里サークル、右隣は工藤忍担当Pのサークルでした)、奥の方にいた智絵里サークル二箇所がけっこう大手と思しきところで、結構コンスタントに人が集まってきていました。一方こちらはといえば、アルファコルセもぼくもアイマス系サークル (絵描き) としてはこれがデビューレースなのである意味仕方ないとはいえ、ほぼ誰も来ない。他サークルの智絵里ちゃん作品を見に来た人が流れで買っていく、というパターンがもうすこしあるかなと思っていましたが、予想に反してそういうパターンがあんまり見られませんでした。なんというか知名度の差をまざまざと見せつけられているようで哀しかったですね。レースで言えば、いざスタートしてみたら周りの車がみんな自車より一周あたり3秒か4秒くらい速い中で、とにかく周回を重ねなければいけない悲壮感とでも言いましょうか。とはいえ途中でレースを投げ出してリタイヤしてしまうのもそれはそれでシャクなのと、とにかく一冊でも多くここで捌こうということで、フィニッシュまで自チームのブースにずっと座っていました。   
実は当日「釣り銭用の500円玉を用意しそこねる」という信じられないミスを犯し、一時はレース続行が危ぶまれましたが、幸か不幸かぜんぜん売れなかったので、このトラブルの影響が殆ど無いままレースを終えました。最終的なリザルトは通算で8冊 (この他取り置き分が一冊あるのでトータルでは9冊)。今回うちの本を買っていってくれた9人の方々には心よりのお礼を申し上げたいと思います。   
   
当日は40冊持ち込んでいったのですが、一日で40冊のうち8冊売れたというリザルトが「デビューレースにしてはまぁまぁ普通」の部類なのか、はたまた「全車に150周ぐらい周回遅れにされながら満身創痍で完走した」レベルなのか、こういうイベントに (コミケ以外で) はじめて参戦したぼくには判断がつきかねますが、とにかくむずかしいレースになってしまったなぁ…というのが第一印象でした。1993年にアルファコルセがDTMでデビューを果たしたゾルダーではレース1、レース2とも同チームのニコラ・ラリーニが制し、デビューレースでダブルウィンという快挙を達成していましたが、やはり同人活動では勝手が違ったというか…。とにかく「参戦を決めたレースにまに合うように車 (作品) を用意して、ちゃんとレースに出走して完走する」ことは達成できたけれど、逆に言うとそれだけで終ってしまったという感じです。たとえばほかの智絵里Pとの交流であるとか、リザルト以外にもそういった要素でもあればすこしは救われていたのかもしれませんが、その辺はぼくの対人能力の低さとかが足を引っ張ってしまった形になりますね…。   
   
かえすがえすも厳しいレースとなってしまいましたが、わがブースに足を運んでくださった参加者の皆さんには重ねてお礼を申し上げたいと思います。ぼくとしては、たった一戦でせっかく立ち上げたチームを畳んでしまうのも本意ではないし、とにかくこのレースから学べることは学んで、次の機会につなげたいと思います。将来の参戦予定ですが、じつは夏のコミケには「上海娘々賽車隊」は落選したので、そのときにどこかのサークルに委託として今回の本を預けるか、または9月23日 (土・この週末はメジャーなレース・シリーズのイベントはどれも被っていないようです) におなじみの東京ビッグサイトで開催される歌姫庭園14に参戦するか、どちらかは実現させたいと思っています。後者に参戦する場合は、状況の許す限り何かしら新しいもの (グッズにしろ本にしろ) を作って持っていきたいですね。そして、これはかなり先の話になってしまうのですが、来年2018年の6月3日 (日付的にル・マン公式テストに被っている気がする) に開催される、シンデレラガールズのキュートアイドルオンリーイベント・「キュートスターフェスティバル」内の緒方智絵里オンリー・イベントへの参戦を計画しています。このイベントで二冊目の新刊を出したいと思っています。いまから画力の研鑽をして、今回の新刊は自分の中で折り合いのつかなかった部分もあったので、その辺を確実につぶして、万全の態勢でレースに臨めるようにしたいです。   
   
…全体的に愚痴っぽい記事になってしまってすみません。正直まだちょっと心の整理がついていないのですが、いずれどこかで気持をリセットして、つぎのレースに向けて進んでいきたいと思います。最後になってしまいましたが、当日ぼくのブースで売り子をしてくださった「りょりょ」(@blanchimont_ryo) 氏に感謝します。当日はありがとうございました。   
   
Simacher

2017年5月 1日 (月)

イベント予定などなど

実現するかどうか分らないことばっかりなので今から告知記事書くのも少々気が引けるのですが、とりあえず今後の同人イベントの参加予定だけでも列記しておきます。   
   
まず6月25日 (日/2017年ル・マン24時間レースの翌週です) に、蒲田駅近くの大田区産業プラザにて開催予定の、「歌姫庭園13」というアイドルマスターシリーズの大規模なオンリーイベントがあるのですが、そこに自分のサークルで申し込みました。正確には歌姫庭園13というでかいイベントの中で開催する、アイドルマスター シンデレラガールズのオンリーイベントである「シンデレラメモリーズ12」というイベントに申し込んだと言うべきでしょうか (例えるなら「世界耐久選手権」の中の「GTE-Amクラス」に参戦を申し込んだ、という具合になるのかな)。   
サークル名は「アルファコルセ」ですが、これはぼくがシンデレラガールズでいちばん好きなキャラクターの「緒方智絵里」が四つ葉のクローバー探しを趣味としていることと、アルファロメオのレース部隊 (アルファコルセ) の象徴である四葉のクローバーのマーク* (伊語「Quadrifoglio Verde」=「緑の四葉」) をひっかけたものです。ほかにも「ダーンヴァル・コンニュー」 (借りた納屋に男三人でこもってF1カーを作っちゃうあたりが同人活動の精神とかぶるので良いと思った) とか「ブレシア・コルセ」 (正しくはスクーデリア・ブレシア・コルセ、地元の自動車クラブがレーシングチームを名乗ってタルガ・フローリオなどに参戦していた。こちらも同人活動に通ずるプライベーター精神) とか、深い紺色で有名なエキュリー・エコッセとか、いろいろ候補はあったのですが、けっきょく四葉のクローバーのキャラクター付けを重視した結果この名前に落ち着きました。自分のサークルで申し込んだとは言っても、同人サークルというのは会社やレーシングチームと違って、立上げにあたっての手続きやら何やらがあるわけではないので、もしかしたらアイドルマスター系のイベントへの参戦は今回だけ、ということになるかもしれませんし、もしかしたら十年ぐらいこの名前で活動するかもしれません。例によって予定はすべて未定なので…。   
   
上でも言いましたが、今回はアイマス系のオンリーイベントなので、出す本はモータースポーツ的な要素を排した、純粋なアイドルマスターの同人誌になる予定で、現在のところ前述の緒方智絵里をメインにしたフルカラーのイラスト本を予定しています。上海娘々賽車隊に寄稿していた頃から数えるともう五年ぐらい同人活動を (隅っこの方で) やってきていますが、モータースポーツ要素のない本を作るのはこれが初めてになります。まだ中身も完成していない状態なのでお見せできるものがなく申し訳ないのですが、無事に脱稿できたらあらためて告知します。ル・マンの翌週なので、もしトヨタが優勝するようなことになれば、時間的・体力的な余裕と相談しつつ何か関連グッズをつくっていくかもしれません。   
   
また、同イベントにおいてサークル「LunAria。」主宰「しもつき。」氏がリリース予定の「緒方智絵里お誕生日合同」誌に、頁数未定 (おそらく一頁) ですが寄稿させていただく予定ですので、こちらもよろしくお願いします。合同誌なのでいろんな参加者のいろんな緒方智絵里が見られることでしょう。もともと緒方智絵里を知っている人が買うもよし、これを機に緒方智絵里やアイドルマスター シンデレラガールズそのものに馴染んでいくのもよしと思います。   
   
歌姫庭園13に関しては、当日静岡県 (富士スピードウェイではないようですが) で開催されるアイドルマスター シンデレラガールズのライブと日付が被っていて、午後からの首都圏ライブビューイングに参加する方々の都合にあわせて、イベントの開催時間が三十分繰り上がった午前10:30~午後14:30に変更されていることにご注意ください。サークル配置などが発表されましたら、この記事に加筆するか、あたらしく記事を立てるかして、ちゃんとした形でアナウンスしたいですね。   
   
8月には夏のコミックマーケットがあるのですが、現時点ではまだ当落もわからない (発表は6月9日とのこと) うえに、現在上記の通り原稿を抱え込んでいるので、夏コミ用の新刊が出せるかどうか不透明です (上記二点はほぼ確実に出ますが…)。なるべく努力はしますが、もし万が一ぼくの方からはなにも出せないということになったら、その節は平にご容赦願いたく思います。最悪の事態に備えてここで先回りして謝罪しておきます。   
   
それでは、運が良ければ歌姫庭園13にてお会いしましょう。みなさんのご来場を (願わくば新刊と共に!) お待ちしています。   
   
*アルファロメオが今日に至るまで使用している四葉のクローバーのマークの起源は古く、1923年にアルファロメオのワークス・ドライバーであったイタリア人ウーゴ・シヴォッチがレースにおける幸運を祈願してこのマークを彼のアルファロメオ・RLに描き、そのレースでみごと優勝したことから、以後アルファロメオのレーシングカーには同じ四葉のクローバーをかたどったマークが描かれることになった。   
当初は白い菱形 (四辺形) の中にクローバーの葉が描かれている意匠であったが、この菱形の四つの辺は、当時アルファロメオ・ワークスに所属していた四人の最有力ドライバーであるシヴォッチ、アントニオ・アスカリ、ジュゼッペ・カンパリ、そしてエンヅォ・フェラーリにちなんだものであった。シヴォッチは1923年タルガ・フローリオの数ヶ月後、皮肉にもクローバーのマークを付けずに参加したレースで事故死したため、白い菱形は三角形にあらためられ、今日よく知られているアルファロメオの四葉のクローバー・マークが誕生したのである。   
時代が下るとともに、四葉のクローバーのマークはワークス・チームのレーシングカーのみならず、市販のアルファロメオ車の中で特にハイパフォーマンスを標榜したモデルにも描かれるようになった。現在アルファロメオは表立ったワークス活動を行っていないため、この四つ葉のクローバーのマークを目にすることができるのは、事実上市販のハイパフォーマンスモデルに限られている。

2017年4月30日 (日)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「白い道」~

一九九一 (平3) 年から施行された改訂版のグループC規定は、それまで燃費競争を主軸とする耐久レースであったスポーツカー・レースを、純粋にコース上での速さのみを競う中距離レースへと変貌させた。これは当時のF1カーと共通の3.5リッター自然吸気エンジンの採用や、レース距離の430キロへの短縮、燃料使用量制限の撤廃によって実現されたが、その結果として旧グループC規定に合わせて製作されたスポーツカーは一夜にして戦闘力をうしない、また一年の猶予期間をへて一九九二年からは世界選手権レースへの参戦そのものが不可能となった。これにより多くのプライベート・チームがスポーツカー・レースから撤退したばかりか、新規定に合わせたF1規格のエンジンを開発する予算を拠出できないメーカー・ワークス・チームもあいついで姿を消し、もはやスポーツカーの世界選手権レースはその命運が決したも同然であった。一方日本国内においては、国内選手権のレースとして開催されていた全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権 (JSPC) が一九九二年以降も旧規定の車を受け入れることを決定しており、新旧規定の車はそれぞれ別のクラスに組み入れられ、各クラスごとにチャンピオン・タイトルが与えられることになっていた。これは主に新規定に対応した車輌の開発がまに合わないメーカー・ワークスに向けた措置であったが、同時に旧規定車を使うプライベート・チームが離れていくことを食い止める効果も期待されていた。しかし日本においても海外においても、そのようなプライベート・チームが使っていたのは基本的に市販されているポルシェのスポーツカーであり、日本においてはそのポルシェ車はすでにニッサン、トヨタ両メーカーが総力を挙げて開発したワークス・カーに太刀打ちできないことがはっきりしていた。そのようなチームがあいついで撤退したことで、JSPCも結果的には世界選手権と同様に、参戦台数の低下に歯止めがかからない状態におちいってしまったのである。   
   
   
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HPI製、品番8872「フロムA・R91CKニッサン 1992 Mine」レジン製1/43スケールモデルカーである。一九九二年JSPC最終戦・インターチャレンヂ美祢500キロレース仕様、マウロ・マルティニとハインツ・ハラルド・フレンツェンが操縦し三位で完走したノバ・ニッサンR91CKを再現している。シャシー・ナンバーはR90C-07であると思われる。   
   
名エンジニア・森脇基恭を擁するノバ・エンジニアリングは、一九九〇年までポルシェの車に独自の改造を施しながら全日本選手権に参戦していたが、すでに市販ポルシェの戦闘力がトヨタやニッサンにおよばないことを感じ取ると、ついに一九九〇年限りでポルシェ車に見切りをつけることを決意した。当時ノバはイギリスのシャシー・メーカーであるローラ社の日本代理店としても活動しており、F3000用のシャシーなどを輸入していた実績があったため、そのローラ社がニッサン用に設計した最新式のグループC規定シャシーを購入することができた。プライベーターであったノバはエンジンに関しても選択の自由があったが、ローラ社の車体はニッサン・エンジンに合わせて設計されており、エンジン供給の打診を受けたニッサン側もこれを快諾したため、ノバはローラ製シャシーにニッサン・エンジンという、ヨーロッパのニッサン・ワークス・チームと同じパッケージで全日本選手権を戦うことになった。   
   
ノバ・エンジニアリングは一九九〇年中にローラにシャシーを発注し、ローラは彼らのために一九九〇年仕様のニッサン・R90CK用モノコックを一台あたらしく製作した。これがシャシーナンバーR90C-07の個体であり、一九九〇年末にスペア・シャシーのR90C-06と共に日本へ輸送された。R90C-06は完成状態で発送されたが、新造シャシーであるR90C-07は分解状態で日本へ送られ、ノバ側で組み立てを行ったとされる。チームは一九九〇年十二月中からR90C-06でテスト走行を繰り返し、一九九一年シーズンの開幕にそなえた。これらの車体はニッサン・R90CKと共通であったものの、ノバ・エンジニアリングでの運用にあたって大径フロント・ブレーキ装着を目的とした前輪の18インチ化などの改造がほどこされたため、「R91CK」の車名が付与された。   
   
   
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前々回の記事で紹介したニッサン・R90CKと共通の車体をもつ本車輌だが、一見しただけではそれがまったく分らないほどに改造を重ねられている。前述の通り、一九九一年の全日本選手権開幕戦の時点ではほぼニッサン・R90CKに準拠した仕様で走ったが、その後チーム側で近代化改修を重ねたことにより、オリジナルのローラ・シャシーの面影は、わずかに操縦室周辺に見られるのみである。   
   
一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースでは、ノバ・ローラは優勝したニッサン・ワークスの車から遅れることわずか1秒の二位で完走し、ニッサン・エンジンの優位性とノバ・エンジニアリングの優秀さを証明してみせた。ノバ・ローラは第四戦・鈴鹿1000キロレース、第五戦・菅生500キロレースでも連続して二位に入賞し、これにより一時はドライバーズ・ランキングで首位から4ポイント差の二位につけ、最終的にはプライベート・チーム最上位である四位に食い込む活躍を見せるなど、その戦闘力は高かった。この競争力はノバ・エンジニアリングのすぐれた開発能力に裏打ちされたもので、その象徴が一九九一年第三戦・富士500マイルレースから投入された、新型の二段式リヤウィングであった。   
この独特な構造をしたリヤウィングは、もともとはTWR・ジャガーが一九九一年のスポーツカー世界選手権ではじめて実戦に投入したもので、下段のウィングを車体下部のディフューザー出口に近づけて配置することで車体下面からの空気の吸い出しを助け、より強いダウンフォースを発生させることを主目的としていた。従来の考え方では一枚のリヤウィングを車体後部の高い部分に固定し、これをある角度まで傾斜させることによりダウンフォースを発生していたが、この手法では発生するダウンフォースの量に比例して空気抵抗が増加するという弊害があった。しかし車体下面でより大きなダウンフォースを発生させることができれば、その分リヤウィングへの依存度は減少し、あまりウィング角を立てなくとも必要な量のダウンフォースを得ることができるのである。これにより、同じ量のダウンフォースを発生しながら空気抵抗は減少するため、直線での最高速度は従来にくらべて速くなり、スポーツカー・レースにおいて最重要とされる燃費性能も改善されることが予想された。そのうえリヤウィングを立てれば、従来の車と同じ量の空気抵抗に対してより大きなダウンフォースをかけられるため、コーナーが連続するサーキットでも有利になることが予想されたのである。このように多くのメリットを享受できるため、TWR・ジャガーがこのリヤウィングを投入したと見るや、世界選手権でのライバルであったプジョーは大急ぎでこれをコピーし、自分たちの車にも同じものを取り付けたほどであったが、一九九一年夏の時点では二段式リヤウィングを採用していたの車はこの二車種だけであり、むろん日本ではノバがはじめての採用例となった。ノバ・ローラの場合、二段式リヤウィングに交換したことにより、富士スピードウェイにおける最高速は時速18キロ分の改善が見られたとされる。   
   
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二段式リヤウィングを後方から見る。車体下部、ディフューザーの出口から吐き出された高速の気流が、下段ウィング下面の負圧によって加速され、車体からの吸い出し効果を高めることによって、床下で発生されるダウンフォース効果を高めている。一方上段のウィングは主に前後の空力荷重のバランスをとるために使用され、そのウィング角は従来のものに比べるとかなり寝た状態になっている。これにより少ない空気抵抗でより大きなダウンフォースを発生することが可能となる。実車ではウィング本体や翼端板はカーボン製、上下段ウィングの間に立っている二本の支柱は強度部材であるためか金属製であった。モデルでは樹脂様の材質で再現されているが、この個体では保管状態がまずかったのか製造時の個体差か、ウィングが若干だが弓なりにしなってしまっている。 

一九九一年シーズンを好調で終えたノバ・エンジニアリングがつぎに目を向けたのは、アメリカのデイトナ二十四時間レースであった。すでに前年から参戦を予定していた日本のニッサン・ワークス・チームと共に、ノバ・エンジニアリングも彼らのローラ・ニッサンを持ち込んだのである。事前のテスト走行では好タイムを記録したが、レースではワークス・チームが終始圧倒的な速さで戦場を支配したのとは裏腹に、ノバ・ローラはマイナー・トラブルの連続で順位を落とし、八位で完走するのがやっとだった。上位入賞は叶わなかったが、このレースはノバ・ローラの数少ない全日本選手権外での活動となった。 

全日本選手権では、一九九二年に入ってもノバ・ローラの勢いはそのままで、開幕戦・鈴鹿500キロレースで二位、第二戦・富士1000キロレースで三位、第三戦・富士500マイルレースでふたたび三位に入り、開幕戦から三戦連続で表彰台に登る活躍を見せた。またこの年の第三戦では、前年に続く二回目の大改修がほどこされ、それまで使われていたニッサン・R90CK後期型と同じ丸目四灯式ヘッドライトが取り外され、かわって操縦室前端部・フロントガラス内側に小型の二灯式ヘッドライトが設置された。これにより若干ながら車体が軽量化されたほか、重量物を車体中心付近に移動したことによる運動性の向上も見込まれた。以後ノバ・エンジニアリングは一九九二年最終戦までこの第二次改修後の姿でローラ・ニッサンを運用しており、本稿で取り上げているモデルもこの状態を再現している。 

 

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ヘッドライトが取り外されたことで全体の印象がおおきく変化し、二段式リヤウィングやハイダウンフォース・サーキットである美祢に合わせた二枚のフロントダイヴプレーンによって、ベース車輌よりも攻撃的なイメージを与えている。メインスポンサーにはアルバイト情報誌であるフロム・エーが付き、車体がイメージ・カラーである黄色一色で塗られているが、これも青色基調だったニッサン・ワークスとの鮮烈な対比を演出しており、いまなお全日本選手権末期のエントラントとして特に有名な一台である。フロントガラスの内側に、キャビン内部に設置された角型のヘッドライトが見える。リヤカウル形状はおおむねR90CKに準拠するが、後端部の造形に若干手が加えられている。   
   
全日本選手権の第三戦と第四戦の間に伝統の鈴鹿1000キロレースが開催されたが、この年の鈴鹿1000キロレースは世界スポーツカー選手権の一戦とされていたにもかかわらず、出走台数はわずか十一台というありさまで、それも鈴鹿のレースだけ賞典外の全日本選手権参戦車輌の出走を認めるという特例措置をうけてのもので、スポーツカー・レースの世界的な凋落を印象づける一戦になった。このとき全日本選手権のエントラントとして参戦した二台の車のうち一台がノバ・ローラで、旧規定車であったため燃費や給油速度、最低車重などに制約のある状態であったが、すぐれた車体やエンジン、信頼性を武器に新規定の車に割って入り、四位で完走している。   
ノバ・ローラは全日本選手権第四戦・菅生500キロレースで六位完走、第五戦・富士1000キロレースではスピンによりリタイヤに終った。つづく最終戦・インターチャレンヂ美祢500キロレースは、一九九二年のJSPC最終戦であると同時に、一九八三年に発足し十年間にわたって開催されてきた全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権の最後のレースでもあった。すでに世界的なスポーツカー・レースの衰退は隠すべくもなく、世界スポーツカー選手権はエントリー台数の不足から翌年以降の開催中止が決定しており、全日本選手権も一九九三年以降はインター・サーキット・リーグ (ICL) と名を変え、スポーツカーとGTカーの混走レースの体裁をとることで、なんとかその命脈を保とうとしていた。この最終戦でノバ・ローラは三位を獲得し、JSPC最後のレースを表彰台で締めくくった。   
   
   
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キャビンセクションを見る。フロントカウル中央にあるラジエーターの排熱口や、その両脇にあるインタークーラー用開口部などは、ベース車両であるニッサン・R90CKの面影をよくとどめていることが分る。タイヤは国内ワークス・チーム同様ブリヂストンを使用した。   
   
   
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ベースとなったニッサン・R90CKとの側面形の比較。ノバ・R91CKではリヤカウル後端が斜め下向きに切り落とされているが、これはディフューザー部からの空気の引き抜きを受け持つ下段ウィングへ効果的に空気を流すための処理である。リヤのブレーキダクトはオリジナルより大型化されている。   
   
全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権は一九九二年をもって終了したが、ノバ・ローラがさいごの戦いを終えるのはもうすこし先のことだった。一九九三年、全日本選手権のあとをついで発足するはずだったインター・サーキット・リーグは、折からの不況も重なってエントリー台数がまったく集まらず、予定されていたレースはことごとく中止の憂き目にあっていたが、長い伝統のある鈴鹿1000キロレースだけは、海外からも各クラスのエントラントをかき集めた結果、なんとか開催できる見通しが立っていた。このレースに、最後となる近代化改修をほどこされ、「ノバ・R93CK」と名付けられたノバ・ローラが、たった二台のグループCスポーツカーのうち一台として参戦していたのである。いま一台は、ニッサン・ワークスとルマン商会が合同でエントリーしたニッサン・R92CPで、一九九二年のJSPCで使われていたワークス・カーそのものであった。このときノバ・ローラは、空力性能の向上を目的としたボディ形状の改修や30キロにおよぶ車体の軽量化を中心としたアップデートを受けており、一連のローラ・ニッサン車の最終仕様というべき状態に仕上げられていた。特に目を引いたのは、左右ドアの開口部を窓部分から上だけにしたことで、これにより車体下半分には開口部が存在しなくなり、車体の剛性に寄与するというものであったが、このように左右の窓のみを開口させて乗降口とする手法も、一九九一年にTWR・ジャガーがはじめてスポーツカーに使った方法だった。   
予選で一秒差をつけてポール・ポジションを獲得したノバ・ローラは、レースがスタートするとすばらしいペースで先を急ぎ、チーム・ル・マンのニッサン・R92CPが一分前後の差であとを追う展開になった。ノバ・ローラは快調に飛ばし続け、一七一周のレースが半分をすぎる頃には二位との差は二周にまでひらいた。しかしその直後から、悠々と逃げ切るかと思われたノバ・ローラに、立て続けに苦難が降りかかったのである。まず一〇九周目に、助手席側の開口窓が外れかかっていることが判明したためピットインし、この部分をテープで固定してふたたびコースインしたが、ほどなくして一一七周目にまったく同じトラブルに見舞われた。この一連の緊急修理のため二周あったチーム・ル・マン・ニッサンとの差は一周にまで縮まったが、まだ戦況はノバ・ローラに有利であった。一三二周目にこんどは運転席側の窓ガラスが外れかかり、ふたたび予定外の修復作業を強いられた結果、二位との差はついに20秒にまで詰まったが、その直後、一四〇周目にこんどは追撃中のチーム・ル・マン・ニッサンが勢い余ってスピンし、差はふたたび一周ほどにひらいたため、ノバ・エンジニアリングのスタッフは一息つくことができた。このままピットインごとに左右の窓ガラスをテープで補強しながら走れば、まだ勝つチャンスはじゅうぶんあった。   
一四五周目、ノバ・ローラ最後のピットインでさらなる不運が襲った。左フロント・タイヤを固定するホイール・ナットが想定以上の熱膨張を起こして固着してしまい、取り外せなくなってしまったのである。だめになったナットをようやく外してタイヤを交換し、黄色いノバ・ローラが猛然とピットレーンを加速していく頃には、チーム・ル・マンのニッサン・R92CPはコース中ほどにさしかかっていた。スタートから一四五周にわたって首位を死守してきたノバ・ローラが、その座から陥落した瞬間であった。しかしチーム・ル・マン・ニッサンはまだ給油のためのピットストップを一回しなければならず、それまでにノバ・ローラが差をじゅうぶん縮めれば、再逆転の可能性はまだあった。ノバ・ローラのマウロ・マルティニは思い切りアクセルを踏み、一周につき一秒以上を詰める猛攻撃を開始した。チーム・ル・マン・ニッサンが逃げ切れるかどうかは微妙なところだった。   
この日最後の災厄がノバ・ローラを襲ったのは、すでにサーキットに西日が傾き始めた一五四周目だった。最後のピット作業で補強しておいたはずの運転席側ドアの固定が、またしてもゆるみ始めたのである。ピットクルーたちが最後の緊急修理を終えてマルティニを送り出したときには、ショッキング・ピンクに塗られたチーム・ル・マン・ニッサンは一周さきを走っていた。コースに復帰したノバ・ローラはまったくペースが上がらず、最終的にトップから二周遅れの二位で完走することしかできなかった。さいごの追撃を担当したマウロ・マルティニは、がっくり肩をうなだれてつぎのように言った。   
「勝てると思っていただけにとてもがっかりしている。残念で言葉もないよ」   
鈴鹿1000キロレースの恒例行事である大花火大会が闇につつまれたコースを照らすなかで、日本におけるグループCスポーツカーによるレースは幕を閉じた。くしくも、このレースに参加した二台のスポーツカーはともにニッサンの車であり、その前年に全日本選手権のレースで火花を散らし合った二台だった。   
   
   
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ノバ・エンジニアリングが三年間にわたって運用したローラ・ニッサンは、その戦歴のなかに一度のシリーズ・チャンピオンもなければ、一回の勝利すらも刻まれてはいない。しかしあざやかな黄色のボディカラーと、度重なる改修による異様なシルエットは、当時を知る人々の中にはいまなお鮮烈な印象を残しており、最末期の全日本選手権や、当時におけるスポーツカー・レースそのものの話題に無くてはならない存在になっている。使い古されたことばで表すなら、「記録よりも記憶に残る」ような役者であった。   
   
一九九三年を最後に、ニッサン・ワークスによるスポーツカー・レース活動はいったん途絶えた。ニッサンがふたたび国際レースにスポーツカーで参戦したのは一九九七年のことであり、かつてジャガーのスポーツカーを製作していたイギリスのTWRに開発を委託したシャシーで一九九八年までル・マン二十四時間レースに出走し、一九九九年にはアメリカ・Gフォース (現・パノス) 社製のシャシーにかえて参戦したが、この年限りでスポーツカー・レースからふたたび撤退し、以後は日本国内のGTレースなどに専念する状態がながく続いた。このときの最高位は一九九八年のル・マンで記録した三位であった。   
ニッサンが突如、LMP1-H規定の新型スポーツカーで世界耐久選手権と、その一戦であるル・マン二十四時間レースへの復帰を発表したのは二〇一四年のことであり、翌二〇一五年からの世界選手権へのフル参戦が予定されていた。ニッサンが最後に自社の名を冠したスポーツカーを走らせてから、十六年が経っていた。ニッサンが市販している高性能スポーツ・クーペの名をとって「GT-R LMニスモ」と名付けられた新型車は、エンジンを車体前半部に置くという独創的なレイアウトゆえ開発作業が遅れた結果、世界選手権の前半戦を欠場せざるを得なくなり、ル・マン二十四時間レースがデビュー・レースとなった。このレースでニッサンは二台が熟成不足に起因するトラブルでリタイヤし、残る一台はどうにか最後まで走り切ったが、周回数不足により順位は与えられなかった。当初ニッサンは新車の熟成テストを急ぎ、二〇一五年後半か二〇一六年にはレースに復帰する予定であった。しかし同年十二月中旬、北米のテストコースで翌年に向けた試験走行を行ったわずか数日後に、何の前触れもなくアメリカ・インディアナポリスにある本拠地が閉鎖され、すべてのスタッフは解雇通知もなしに施設から締め出された。こうして、ニッサンのル・マン・プロジェクトは唐突にその幕を閉じたのである。以後今日にいたるまで、ニッサンはル・マン二十四時間レースをふくめたいかなるスポーツカー・レースにも参戦しておらず、またそれらのレースに参戦する競技用のスポーツカーを作ってもいない。   
   
シャシー・ナンバーR90C-07のニッサン・R90CKは、一九九〇年十二月までに日本に輸送され、発注元であるノバ・エンジニアリングによって日本国内で組立作業がおこなわれた。ノバ・エンジニアリングは同時にワークス・チームで使用していたR90C-06も取得しており、このシャシーも実際のレースで走行した形跡がある (展示されていた同車を検分したところ、一九九一年鈴鹿1000キロレースの車検証と、一九九二年デイトナ二十四時間レース用と思しきデイトナ・スピードウェイのコース図が車内に存在したため、すくなくともこの二レースに関してはR90C-06を使用したと考えられる) が、正確な運用履歴はいまだ判明していない。

(了)

2017年3月26日 (日)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「薄紅」~

一九九一年のスポーツカー・レース最高峰カテゴリは、それまでの「世界スポーツ・プロトタイプ選手権」(WSPC) から「スポーツカー世界選手権」 (SWC) へと名称が変更され、あわせてFISAが推しすすめていた3.5リッター自然吸気エンジン使用の新規定がとりいれられたが、さしあたって一九九一年度いっぱいは、旧規定にしたがってつくられた燃費レース対応の車も世界選手権に参加できることになった。ル・マン二十四時間レースを主目標とさだめていたポルシェ系のプライベート・チームや日本のマツダ・ワークスは旧規定車で選手権に参戦したが、そこには前年めざましい活躍を見せたニッサンの姿も、捲土重来を期するトヨタの姿もなかった。トヨタは新規定に対応した完全新設計の車を設計・開発するため、少なくともル・マンを含む一九九一年前半は世界選手権レースに参加しないことが決っていたが、開発が終りしだい、はやければ同年終盤にも選手権に復帰する意向があった。そしてじっさいに一九九一年のスポーツカー世界選手権最終戦・九州オートポリス430キロレースにおいて、トヨタの最新鋭戦闘機であるトヨタ・TS010が一台、翌年に向けてのテスト参戦として投入されたのである。しかしニッサンは戻ってこなかった。この年から世界選手権の一戦に復帰したル・マン二十四時間レースに参戦するには選手権全戦への参戦が規則上必須であり、ワークス・チームの参戦を確保したいFISAは世界選手権開幕戦・鈴鹿430キロレースの予選日までエントリー申請期限をのばすという異例の措置をとった。しかしニッサン側の使者はついにFISAと接触することはなく、この時点で一九九一年のル・マン二十四時間レースにニッサンはやって来ないことが決定したのである。前年のル・マンにおける蹉跌がニッサン側の態度を必要以上に慎重にさせたことと、ニッサン社内の不必要な政争にまみれた情勢が参戦を阻んだのであった。林義正、水野和敏が口をそろえて「参戦していれば絶対に勝てた」と断言するレースで勝ったのは、日本のマツダだった。二〇一七年三月現在、このときマツダが記録した優勝がル・マン二十四時間レースの歴史上唯一の日本車による優勝となっている。

こうして、一九九一年のニッサンは国際レースの舞台からしりぞき、日本国内のレースだけに参加することになった。当時日本ではスポーツカー・レースのローカル選手権である全日本スポーツ・プロトタイプカー耐久選手権 (JSPC) が開催されており、トヨタとニッサンの国内二大ワークスは、国内でのマーケティング効果に直結するこのカテゴリを世界選手権レースと同じくらい重要視していた。両ワークスとも選手権初期から自前のワークス・チーム以外に関係の深いプライベート・チームを複数抱えており、その関係はいわば大企業と提携会社のようなものであった。このうちニッサン系のプライベート・チームとして、JSPC末期まで参戦したほぼ唯一のチームが、花輪知夫 (はなわ・ともお) ひきいるルマン商会のレース部門、チーム・ル・マンであった。


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イグニッション・モデル製、品番0086「伊太利屋ニッサン・R91VP 1991 JSPC」レジン製1/43スケールモデルカーである。明記されてはいないが、おそらく和田孝夫/岡田秀樹/影山正彦の三人が操縦した一九九一年JSPC・鈴鹿1000キロレース仕様、シャシー・ナンバーR89C-03のニッサン・R90V (モデル名はR91VPとされているが、これはどうもエントリー書類上の登録名だったようである) を再現している。

チーム・ル・マンは一九七〇年代から富士グランチャンピオン・レースをはじめとする日本国内のさまざまなレースに参戦しており、全日本F2選手権では松本恵二を擁して活躍するなど、実力のあるプライベート・チームとして認識されていた。JSPCへの参戦開始は一九八四年のことで、社内の望月一男エンジニアが設計したオリジナル・シャシーに2リッターのニッサン・エンジンを搭載したちいさなスポーツカーを運用していたが、その後ニッサン製レーシング・エンジンがより大型・高出力の3リッター・エンジンになると、オリジナル・シャシーでは車体サイズや剛性が足りなくなったため、ニッサン・ワークスが使っていたマーチ製の汎用シャシーを払い下げてもらって運用していた。一九八九年後半からニッサンのワークス・チームが国内レースに最新型のローラ製シャシーを持ち込んだが、チーム・ル・マンはその翌年に型落ちとなったローラ・シャシーを一台購入し、ワークス・チームから一年遅れで長年使ってきたマーチ・シャシーと決別したのである。
チーム・ル・マンに払い下げられたのは、一九八九年に日本で走った二台のローラ・ニッサンのうち長谷見昌弘/アンダース・オロフソン組が使っていたシャシー・ナンバーR89C-03の車で、チームはこの車に一九九〇年の新型車用に設計されたサスペンション・パーツを組み込んでアップデートしたものを「R90V」という名称で走らせた。すでにニッサン系の国内プライベート・チームとしてはトップに近い地位を得ていたチーム・ル・マンは、翌一九九一年にニッサンから最新型のシャシーを一台供与されることになったが、同年開幕戦・富士500キロレースには新型車がまに合わなかったため、前年型R90Vのカラーリングを一九九一年仕様に塗り直して参戦した (このとき書類上の車輌名称も「R91V」に変更されている)。


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「R90V」という車名があたえられてはいるが、そのモノコックはまぎれもなくニッサン・ワークスが一九八九年に運用したローラ・R89Cのものである。チーム・ル・マンのスポーツカーは一九九〇年まで和田孝夫の個人スポンサーであったキャビン煙草の赤色に塗られていたが、一九九一年にあたらしいメイン・スポンサーとして婦人服ブランドの伊太利屋を獲得したため、この車も同社のイメージ・カラーであるピンクと白に塗られた。映り具合の関係で淡い色彩に見えるが、実物はかなり強烈なピンク色であり、レーシングカーとしてはめずらしい、派手で華やいだ印象を与える。

R90Vは一九九一年のJSPC開幕戦を走ったのちスペア・カーとなり、チーム・ル・マンの主力はニッサンから受領した最新型R91CPがひきついだ。R91CPはマーチやローラといった外部のコンストラクターではなく、ニッサン社内で白紙から設計されたものであり、その潜在能力はひじょうに高いと予想された。ほかのメーカー・ワークス同様に、ニッサンもまたプライベート・チームに対しては常に一年落ちの型落ちシャシーを供給していたが、一九九一年シーズンにむけて国内にセミ・ワークス待遇の直属部隊を設ける意図があった。ニッサンとのつながりが深かったプライベート・チームで、当時も参戦を続けていたのはチーム・ル・マンしかなかったため必然的にこのチームに白羽の矢が立てられたが、新型R91CPは優秀なシャシーらしいということをききつけたアメリカやヨーロッパのプライベート・チームもこの車を欲しがっており、それらをさしおいて国内のチームに新型車を供給するには何かしらの理由をつける必要があった。ニッサンがとった方法は、完全新設計であるR91CPを「一年落ちの旧型車であるR90CPの改造車」という名目でチーム・ル・マンに「払い下げる」ことであり、この車は対外的にはあくまで「R90CP・改」であると発表されていた。資金とデータのワークス・チームとの共有、および先行開発部品の耐久テストをおこなうことを条件に引き渡されたR91CPはチーム・ル・マンによって「R91VP」という車名を与えられ、リヤウィング周辺のパーツがチーム・ル・マン独自設計のものに交換された。
新型車「R91VP」は、JSPC第二戦・富士1000キロレースから投入された。しかし続く第三戦・富士500マイルレースにおいて、R91VPは和田孝夫の操縦中に第一コーナー手前でタイヤ・バーストに見舞われ、操縦不能となってスピンした。うしろを向いた車はそのまま宙に舞いあがり、つぎの瞬間木の葉落としのように地面に叩きつけられると、漏れた燃料に引火して炎に包まれながら横転し、ひっくり返った状態で第一コーナー先のエスケープ・ゾーンに停止した。和田孝夫が無傷で車から脱出できたのが信じられないくらいの大クラッシュだった。この事故で虎の子の新型車はたった二戦で廃車になってしまい、第四戦からチーム・ル・マンはスペアカーとしてしまってあった旧型のR90Vをふたたび引っ張り出さなければならなくなった。以後最終戦までチーム・ル・マンはR90Vでシーズンを戦ったが、この年を最後にチームがJSPCから撤退したため、JSPCを走ったチーム・ル・マンのスポーツカーとしては最後の車となった*。


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カウル形状などは、一九八九年最終盤に国内選手権で走った、ローラ・R89Cの改良型に準拠している。オリジナルの設計では前後17インチだったホイールは後輪が19インチに大径化され、リヤウィングは一枚式だったものが二枚式に変更されているが、いずれもオリジナルの設計ではル・マンのコースに合わせたロードラッグ志向だったものを、ダウンフォースが必要な中距離レース向けに最適化する改造であった。リヤウィングの支持部は、一九九〇年モデルではオリジナルの二本式マウントの外側に二枚の金属製補強部材をV字型に組み、独特な外観になっていたが、一九九一年になってこの補強部材は取り外されている。


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R90Vはチーム・ル・マンの手によって、改良型R89Cからさらに様々な改造が施されている。フロントまわりでは、ヘッドライトカバーの形状が変更されたことや、フロントフェンダー上に排熱用ルーバーが切られていること、フロントカウル中央部にある排熱用開口部のレイアウト変更 (スリットの数が増やされ、サイズも大型化されている)、前輪用ホイール・カバーの追加などがあげられるが、このうちフロントフェンダーのルーバー追加とカウル中央のスリット数追加は一九九一年用の改造である。タイヤはニッサン・ワークスが使っていたブリヂストンから横浜ゴムに変更されたが、これに合わせて一九九〇年シーズンの開幕前にアンダーステア軽減のための大径 (高扁平率) フロントタイヤを開発してもらい、このタイヤを収めるためにフロントフェンダーはオリジナルより若干膨らんでいる。カウルそのものは新造ではなく、オリジナルのローラ製カウルに手を加えて使っていたことが、一九九〇年一月のシェイクダウン・テストのようすを伝えるオートスポーツ誌の記事 (1990.03.01号/Nr.548) 掲載の写真より分る。また、細かい点ではあるが、実車の写真ではカウル本体と左右にとりつけられたダイヴプレーンの部品で、ピンク色の色調があきらかに違って見えるものが数葉残されている。おそらく材質の違いに起因するものと思われる。

一九九〇年のR90VはJSPC第二戦・富士1000キロレースでポール・ポジションを獲得するなど速さを見せたが、一九九一年は開幕戦・富士500キロレースでの四位と、第五戦・菅生500キロレースでの五位が唯一の完走記録で、ほかのレースではすべてリタイヤに終っている (第二戦・第三戦ではR91VPを運用)。この頃のJSPCは、優秀な市販シャシーであったポルシェ・962Cが老朽化により戦闘力を維持できなくなったことによって有力なプライベート・チームがあいついで撤退したり、ほかのカテゴリに転向していったせいで参戦台数の減少に歯止めがかからず、冒頭に述べたFISAのスポーツカー・レースに対する強権的な改革案とあいまって、メーカー・ワークス以外のチームにとっては参戦意義を見出すことがむずかしくなりつつあった。ニッサンのセミ・ワークス・チームという肩書を得たチーム・ル・マンであったが、この年限りでスポーツカー・レースの活動を一旦休止し、同時に参戦していた全日本F3000の活動に専念することになる。


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車体側面はほとんどR89Cのままだが、リヤカウル左右に排熱用ルーバーが追加されていることと、カウル側面の大型排熱口に仕切り板が設けられていることがR89Cとの主な差異である。カウル上のルーバーはモデルでは直接カウル上にスリットを開けているような表現がなされているが、実車ではスリットを開けた一枚板状のパーツをカウルにはめ込むような造形であったことが確認されている。アンテナはルーフ上から左右ドア前に移設されたが、これは一九九〇年序盤にR89C用カウルをとりつけて走ったワークス・チームのR90CPと共通する特徴である。


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スポーツカー世界選手権は一九九一年の一年間を旧規定車への猶予期間としたのち、一九九二年には予定通り新規定車のみを受け入れたが、全日本選手権はこの年も旧規定車による選手権レースを開催するという方針が決っていた。しかしプライベート・チームを引きとめることはできず、一九九二年にはチーム・ル・マンにかわってテイクワン・レーシングがニッサン系のプライベーターとして参戦したが、ワークス・カーを含めても毎レース十台前後のエントリーしか集まらないという惨状で、四十年続いたスポーツカーの世界選手権が消滅するのを見届けるように、全日本スポーツ・プロトタイプカー耐久選手権もこの年を最後に歴史書の一頁となった。ニッサンは本来目指していたはずの国際レース大会から逃避するように目をそむけ、日本国内のレースでトヨタのみと戦うことを選んだ結果、一九九〇年から三年連続でJSPCのメーカー部門におけるチャンピオンを獲得した。ふたつのワークス・チームのみが優勝をあらそう、まるで運動会か発表会のようなレースにも、「日本一」という称号が大好きな日本のファンは一定の支持をあたえた。かくのごとくどこか空虚な末期JSPCの中にあって、チーム・ル・マンのようなわずかに残ったプライベート・チームは、艶やかな造花の花束の中に人知れず紛れ込んだ名もない薄紅色の花のように、目を向ける者をひっそりと楽しませたのである。

シャシー・ナンバー03のニッサン・R89Cは、一九八九年のル・マン二十四時間で実戦デビューしたシャシーで、このとき星野/長谷見/鈴木の日本人ドライバーが操縦した。ル・マン後は全日本選手権に参戦し、インター・チャレンヂ富士1000キロレースの八位が最高位であった。
一九九〇年にはチーム・ル・マンに売却され、同チームによる改造を経て「R90V」と名付けられ、同年の全日本選手権全戦および世界選手権開幕戦・鈴鹿480キロレース、ル・マン二十四時間レースに参戦した。全日本選手権での最高位は富士500マイルレースの六位、WSPC鈴鹿とル・マン二十四時間レースではそれぞれアクシデントと点火系トラブルによりリタイヤしている。
一九九一年は全日本選手権の開幕戦および第四戦から第七戦まで参戦し、最高位は開幕戦・富士500キロレースの四位であった。同年最終戦・菅生500マイルレースが、この個体の最後のレースであった。
一九九二年のシーズン開幕前におこなわれた「モータースポーツ・コレクション '92」なるイベントにおいて、この個体がテイクワン・レーシングのカラーに塗装され展示されていたことが判明しているが、このときの車の所有権については判明していない。またイベントそのものに関しても、背後のパネルに東海テレビのロゴマークが見えることから中部地方でおこなわれたと推測されるが、それ以外の情報は開催時期に至るまでまったく不明である。

*: チーム・ル・マンのスポーツカー・レース活動そのものとしては、一九九三年の鈴鹿1000キロレースにおいてニスモと合同でニッサン・R92CPを出走させたのが最後であったが、このレースはJSPC消滅後の開催であり、したがって全日本選手権はかけられていない。

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