2017年9月21日 (木)

歌姫庭園14

ちょっと更新の間があいてしまい申し訳ありません。なんやかやでちゃんとした記事の執筆って二ヶ月ぶりぐらいですか。とりあえず生きてます。9月に入ってからちょっと身辺のいろいろなことがバタバタしはじめて、時間的にも精神的にもあんまりブログ書いてる余裕が無くなっちゃったんですが、前々から予告していた通り今週土曜日・9月23日の「歌姫庭園14」内「シンデレラメモリーズ13」に出展します。直前の告知になってしまいゴメンナサイ…。スペース「レ09」・「アルファコルセ」にてお待ちしております。当日販売するもののお品書きは下記画像の通りです。

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既刊は前回 (25/6) の歌姫庭園13に持ち込んだものです。アクリルスタンドは、今年の5月から8月にかけてライブツアー形式で全国をまわっていた「シンデレラガールズ」5thライブの全行程終了を記念して描いた絵をスタンド化したものですが、サイズがちいさすぎたのとぼく自身の塗り方の問題? によって、だいぶ細部がつぶれてしまっています。製品化の予告は前々からしてあったのですが、もし楽しみにしていた方がいらっしゃったらたいへん申し訳ありません。幸か不幸か、今回はグッズ制作のテストケースということで数はかなり少いので、サークルへのダメージはそこまで大きくならず済んだのですが…。一時かなり真剣に発売中止を考えましたが、とりあえずこの値段で置いておきますので、多少出来がわるくても欲しいという心優しいお方は300円を置いて持ち帰ってあげてください。

前回の歌姫庭園13ではけっきょく具体的な予告記事をブログに上げず終ってしまったので、遅ればせながらここで新刊のポスターみたいなものを下に掲載します。

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前回イベントに合わせて製作したため日付などが古いですが…。ストーリーのある漫画本とちがって、イラスト集はなかなか抜粋サンプルを作りづらいので、苦心のすえ考えだしたのがこういうスタイルのポスター。すこしでも想像力とか購買意欲を掻き立てられているといいのですが。基本的には今年のはじめから5月~6月頃までにこつこつ描き溜めたイラストの集まりです。そのあとまた絵柄がちょっと変わったので、ぼくの最新の絵 (Twitterとかでたまに投稿している) とはすこし違う感じですね。よくいえば試行錯誤感、わるく言えば絵柄が不安定?

本のタイトルはデヴィッド・シルヴィアンのベストアルバムから。一九八二年にソロでのシンガーソングライター (彼はどっちかというと「詩人」「表現者」みたいな肩書のほうが千倍似合うと思うけれど、世間的にはシンガーソングライターということになるのかな) 活動をはじめたシルヴィアンの、二〇一二年時点までの集大成となるアルバム、これ一枚 (二枚組だけど) 持っていればだいたいシルヴィアンは語れるだろう、という感じの作品なので皆さんもぜひ買いましょう。八二年以前の曲もちょっとだけ入っていてお買い得です。ぼくの絵はいろいろな人やモノ、作品からちょっとずつ様々な影響を受けた上に成り立っていると自分では考えているんだけど、多分そのなかの割とおおきい部分にシルヴィアンの楽曲が入っているんではないかと思います。

今後の予定ですが、今やすっかり長いつきあいになった各々氏の「上海娘々賽車隊」とのジョイントで、冬のコミックマーケットに出す新刊の計画が進行中です (当落発表は16/10ですが、当選いかんにかかわらず出したい)。それ以降、2018年度のプランは正直白紙ですが、18年6月3日開催のCute St@r Festival内、第二回緒方智絵里オンリーイベントに、アルファコルセとしては二冊目の新刊をできれば投入したい (参加の都合がつけば…)。今後ともよろしくお願いします。

2017年7月27日 (木)

いちおう生きてます

とはいっても特にブログに書くほどのネタが無いのですよ (レーシングカーネタで二三本あるにはあるけど、リサーチとか資料作りに時間かかるのでテンション高くないと着手できない)。前記事でも言及しましたが、夏コミは落ちました。スケジュール的にも六月の新刊をつくりつつ夏コミ向けに何か、というのはきびしかったし、四月から断続的に体調をわるくしていた関係でどのみち夏コミ用の新刊は無理だったので、後知恵で言えばちょうど良かった、というか。冬に受かってたらこんどこそ何か作りたいとは思います (智絵里関連になるかは未定)。とりあえず、来る九月二十三日 (土・祝) におなじみ東京ビッグサイトで歌姫庭園が開催されるのですが、出ようかどうか検討中です。新刊は出せないにしても、何かグッズを用意して持っていければいいなぁと。   
   
そうそう、Twitterアカウントを分離しました。今後イラスト関連のつぶやき (+レース関係も一部こっちで共有します。布教活動用) は「@MsianChieriP」で行うことにします。とはいっても思いつきで作った (分けた) ので、運用状況を見て気まぐれで再統合するかもしれません。全ては気まぐれ。マレーシア人てのはそんなもんです。

2017年6月27日 (火)

歌姫庭園13お疲れ様でしたetc

いろいろ用事があってうかうかしていたら歌姫庭園が終ってしまいました。改めてブログに記事書こうかなと思っていましたが、けっきょくツイッターの方で告知しただけになってしまいまして、ここを見てくださっていた方がいたら申し訳ありません。ル・マンの後の虚脱感とか疲労感が大きく影響していたような気がします。いま思えばトヨタのあの広告は何だったんでしょうかね、いや方向性としてはああいう暑苦しいのは大好きなんだけど…。   
   
当日わが「アルファコルセ」の配置は「シ32」スペース、誰かがツイッターで「C32B」(初代ホンダNSX後期型用の3.2L V6エンジン。JGTC用は途中から3.5Lに排気量アップされ「C32B改」などと呼ばれていたはず?) と見間違えた、なんて言っていましたね。この日は東京全体が朝から雨模様で、そういえばアルファコルセのDTMデビュー戦となった1993年ゾルダーもウェットレースだったなぁ…などと思い出に浸っていましたが、じつは当日の搬入がけっこう時間ギリギリになってしまい、これからの戦いに思いを馳せる時間が正直あんまりありませんでした。この日はウェットコンディションだったことに加え、前の記事で言及したとおりシンデレラガールズのライブに日程が重なっていて (そのためスタート時間も通常より30分繰り上がっていた)、苦しいレースが予想されていましたが、まだスタート前の時点ではどんなレースになるか予想もつきませんでした。   
   
イベントは10時30分に定刻通りのスタート。自分のチームとして単独でこの手のオタク・イベントの実戦に参加するのは初だったので否応無しにテンションが上がる。当日は緒方智絵里メインのサークルがたしか四つほど参戦していて、アルファコルセはその一番端にいたのですが (左隣が智絵里サークル、右隣は工藤忍担当Pのサークルでした)、奥の方にいた智絵里サークル二箇所がけっこう大手と思しきところで、結構コンスタントに人が集まってきていました。一方こちらはといえば、アルファコルセもぼくもアイマス系サークル (絵描き) としてはこれがデビューレースなのである意味仕方ないとはいえ、ほぼ誰も来ない。他サークルの智絵里ちゃん作品を見に来た人が流れで買っていく、というパターンがもうすこしあるかなと思っていましたが、予想に反してそういうパターンがあんまり見られませんでした。なんというか知名度の差をまざまざと見せつけられているようで哀しかったですね。レースで言えば、いざスタートしてみたら周りの車がみんな自車より一周あたり3秒か4秒くらい速い中で、とにかく周回を重ねなければいけない悲壮感とでも言いましょうか。とはいえ途中でレースを投げ出してリタイヤしてしまうのもそれはそれでシャクなのと、とにかく一冊でも多くここで捌こうということで、フィニッシュまで自チームのブースにずっと座っていました。   
実は当日「釣り銭用の500円玉を用意しそこねる」という信じられないミスを犯し、一時はレース続行が危ぶまれましたが、幸か不幸かぜんぜん売れなかったので、このトラブルの影響が殆ど無いままレースを終えました。最終的なリザルトは通算で8冊 (この他取り置き分が一冊あるのでトータルでは9冊)。今回うちの本を買っていってくれた9人の方々には心よりのお礼を申し上げたいと思います。   
   
当日は40冊持ち込んでいったのですが、一日で40冊のうち8冊売れたというリザルトが「デビューレースにしてはまぁまぁ普通」の部類なのか、はたまた「全車に150周ぐらい周回遅れにされながら満身創痍で完走した」レベルなのか、こういうイベントに (コミケ以外で) はじめて参戦したぼくには判断がつきかねますが、とにかくむずかしいレースになってしまったなぁ…というのが第一印象でした。1993年にアルファコルセがDTMでデビューを果たしたゾルダーではレース1、レース2とも同チームのニコラ・ラリーニが制し、デビューレースでダブルウィンという快挙を達成していましたが、やはり同人活動では勝手が違ったというか…。とにかく「参戦を決めたレースにまに合うように車 (作品) を用意して、ちゃんとレースに出走して完走する」ことは達成できたけれど、逆に言うとそれだけで終ってしまったという感じです。たとえばほかの智絵里Pとの交流であるとか、リザルト以外にもそういった要素でもあればすこしは救われていたのかもしれませんが、その辺はぼくの対人能力の低さとかが足を引っ張ってしまった形になりますね…。   
   
かえすがえすも厳しいレースとなってしまいましたが、わがブースに足を運んでくださった参加者の皆さんには重ねてお礼を申し上げたいと思います。ぼくとしては、たった一戦でせっかく立ち上げたチームを畳んでしまうのも本意ではないし、とにかくこのレースから学べることは学んで、次の機会につなげたいと思います。将来の参戦予定ですが、じつは夏のコミケには「上海娘々賽車隊」は落選したので、そのときにどこかのサークルに委託として今回の本を預けるか、または9月23日 (土・この週末はメジャーなレース・シリーズのイベントはどれも被っていないようです) におなじみの東京ビッグサイトで開催される歌姫庭園14に参戦するか、どちらかは実現させたいと思っています。後者に参戦する場合は、状況の許す限り何かしら新しいもの (グッズにしろ本にしろ) を作って持っていきたいですね。そして、これはかなり先の話になってしまうのですが、来年2018年の6月3日 (日付的にル・マン公式テストに被っている気がする) に開催される、シンデレラガールズのキュートアイドルオンリーイベント・「キュートスターフェスティバル」内の緒方智絵里オンリー・イベントへの参戦を計画しています。このイベントで二冊目の新刊を出したいと思っています。いまから画力の研鑽をして、今回の新刊は自分の中で折り合いのつかなかった部分もあったので、その辺を確実につぶして、万全の態勢でレースに臨めるようにしたいです。   
   
…全体的に愚痴っぽい記事になってしまってすみません。正直まだちょっと心の整理がついていないのですが、いずれどこかで気持をリセットして、つぎのレースに向けて進んでいきたいと思います。最後になってしまいましたが、当日ぼくのブースで売り子をしてくださった「りょりょ」(@blanchimont_ryo) 氏に感謝します。当日はありがとうございました。   
   
Simacher

2017年5月 1日 (月)

イベント予定などなど

実現するかどうか分らないことばっかりなので今から告知記事書くのも少々気が引けるのですが、とりあえず今後の同人イベントの参加予定だけでも列記しておきます。   
   
まず6月25日 (日/2017年ル・マン24時間レースの翌週です) に、蒲田駅近くの大田区産業プラザにて開催予定の、「歌姫庭園13」というアイドルマスターシリーズの大規模なオンリーイベントがあるのですが、そこに自分のサークルで申し込みました。正確には歌姫庭園13というでかいイベントの中で開催する、アイドルマスター シンデレラガールズのオンリーイベントである「シンデレラメモリーズ12」というイベントに申し込んだと言うべきでしょうか (例えるなら「世界耐久選手権」の中の「GTE-Amクラス」に参戦を申し込んだ、という具合になるのかな)。   
サークル名は「アルファコルセ」ですが、これはぼくがシンデレラガールズでいちばん好きなキャラクターの「緒方智絵里」が四つ葉のクローバー探しを趣味としていることと、アルファロメオのレース部隊 (アルファコルセ) の象徴である四葉のクローバーのマーク* (伊語「Quadrifoglio Verde」=「緑の四葉」) をひっかけたものです。ほかにも「ダーンヴァル・コンニュー」 (借りた納屋に男三人でこもってF1カーを作っちゃうあたりが同人活動の精神とかぶるので良いと思った) とか「ブレシア・コルセ」 (正しくはスクーデリア・ブレシア・コルセ、地元の自動車クラブがレーシングチームを名乗ってタルガ・フローリオなどに参戦していた。こちらも同人活動に通ずるプライベーター精神) とか、深い紺色で有名なエキュリー・エコッセとか、いろいろ候補はあったのですが、けっきょく四葉のクローバーのキャラクター付けを重視した結果この名前に落ち着きました。自分のサークルで申し込んだとは言っても、同人サークルというのは会社やレーシングチームと違って、立上げにあたっての手続きやら何やらがあるわけではないので、もしかしたらアイドルマスター系のイベントへの参戦は今回だけ、ということになるかもしれませんし、もしかしたら十年ぐらいこの名前で活動するかもしれません。例によって予定はすべて未定なので…。   
   
上でも言いましたが、今回はアイマス系のオンリーイベントなので、出す本はモータースポーツ的な要素を排した、純粋なアイドルマスターの同人誌になる予定で、現在のところ前述の緒方智絵里をメインにしたフルカラーのイラスト本を予定しています。上海娘々賽車隊に寄稿していた頃から数えるともう五年ぐらい同人活動を (隅っこの方で) やってきていますが、モータースポーツ要素のない本を作るのはこれが初めてになります。まだ中身も完成していない状態なのでお見せできるものがなく申し訳ないのですが、無事に脱稿できたらあらためて告知します。ル・マンの翌週なので、もしトヨタが優勝するようなことになれば、時間的・体力的な余裕と相談しつつ何か関連グッズをつくっていくかもしれません。   
   
また、同イベントにおいてサークル「LunAria。」主宰「しもつき。」氏がリリース予定の「緒方智絵里お誕生日合同」誌に、頁数未定 (おそらく一頁) ですが寄稿させていただく予定ですので、こちらもよろしくお願いします。合同誌なのでいろんな参加者のいろんな緒方智絵里が見られることでしょう。もともと緒方智絵里を知っている人が買うもよし、これを機に緒方智絵里やアイドルマスター シンデレラガールズそのものに馴染んでいくのもよしと思います。   
   
歌姫庭園13に関しては、当日静岡県 (富士スピードウェイではないようですが) で開催されるアイドルマスター シンデレラガールズのライブと日付が被っていて、午後からの首都圏ライブビューイングに参加する方々の都合にあわせて、イベントの開催時間が三十分繰り上がった午前10:30~午後14:30に変更されていることにご注意ください。サークル配置などが発表されましたら、この記事に加筆するか、あたらしく記事を立てるかして、ちゃんとした形でアナウンスしたいですね。   
   
8月には夏のコミックマーケットがあるのですが、現時点ではまだ当落もわからない (発表は6月9日とのこと) うえに、現在上記の通り原稿を抱え込んでいるので、夏コミ用の新刊が出せるかどうか不透明です (上記二点はほぼ確実に出ますが…)。なるべく努力はしますが、もし万が一ぼくの方からはなにも出せないということになったら、その節は平にご容赦願いたく思います。最悪の事態に備えてここで先回りして謝罪しておきます。   
   
それでは、運が良ければ歌姫庭園13にてお会いしましょう。みなさんのご来場を (願わくば新刊と共に!) お待ちしています。   
   
*アルファロメオが今日に至るまで使用している四葉のクローバーのマークの起源は古く、1923年にアルファロメオのワークス・ドライバーであったイタリア人ウーゴ・シヴォッチがレースにおける幸運を祈願してこのマークを彼のアルファロメオ・RLに描き、そのレースでみごと優勝したことから、以後アルファロメオのレーシングカーには同じ四葉のクローバーをかたどったマークが描かれることになった。   
当初は白い菱形 (四辺形) の中にクローバーの葉が描かれている意匠であったが、この菱形の四つの辺は、当時アルファロメオ・ワークスに所属していた四人の最有力ドライバーであるシヴォッチ、アントニオ・アスカリ、ジュゼッペ・カンパリ、そしてエンヅォ・フェラーリにちなんだものであった。シヴォッチは1923年タルガ・フローリオの数ヶ月後、皮肉にもクローバーのマークを付けずに参加したレースで事故死したため、白い菱形は三角形にあらためられ、今日よく知られているアルファロメオの四葉のクローバー・マークが誕生したのである。   
時代が下るとともに、四葉のクローバーのマークはワークス・チームのレーシングカーのみならず、市販のアルファロメオ車の中で特にハイパフォーマンスを標榜したモデルにも描かれるようになった。現在アルファロメオは表立ったワークス活動を行っていないため、この四つ葉のクローバーのマークを目にすることができるのは、事実上市販のハイパフォーマンスモデルに限られている。

2017年4月30日 (日)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「白い道」~

一九九一 (平3) 年から施行された改訂版のグループC規定は、それまで燃費競争を主軸とする耐久レースであったスポーツカー・レースを、純粋にコース上での速さのみを競う中距離レースへと変貌させた。これは当時のF1カーと共通の3.5リッター自然吸気エンジンの採用や、レース距離の430キロへの短縮、燃料使用量制限の撤廃によって実現されたが、その結果として旧グループC規定に合わせて製作されたスポーツカーは一夜にして戦闘力をうしない、また一年の猶予期間をへて一九九二年からは世界選手権レースへの参戦そのものが不可能となった。これにより多くのプライベート・チームがスポーツカー・レースから撤退したばかりか、新規定に合わせたF1規格のエンジンを開発する予算を拠出できないメーカー・ワークス・チームもあいついで姿を消し、もはやスポーツカーの世界選手権レースはその命運が決したも同然であった。一方日本国内においては、国内選手権のレースとして開催されていた全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権 (JSPC) が一九九二年以降も旧規定の車を受け入れることを決定しており、新旧規定の車はそれぞれ別のクラスに組み入れられ、各クラスごとにチャンピオン・タイトルが与えられることになっていた。これは主に新規定に対応した車輌の開発がまに合わないメーカー・ワークスに向けた措置であったが、同時に旧規定車を使うプライベート・チームが離れていくことを食い止める効果も期待されていた。しかし日本においても海外においても、そのようなプライベート・チームが使っていたのは基本的に市販されているポルシェのスポーツカーであり、日本においてはそのポルシェ車はすでにニッサン、トヨタ両メーカーが総力を挙げて開発したワークス・カーに太刀打ちできないことがはっきりしていた。そのようなチームがあいついで撤退したことで、JSPCも結果的には世界選手権と同様に、参戦台数の低下に歯止めがかからない状態におちいってしまったのである。   
   
   
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HPI製、品番8872「フロムA・R91CKニッサン 1992 Mine」レジン製1/43スケールモデルカーである。一九九二年JSPC最終戦・インターチャレンヂ美祢500キロレース仕様、マウロ・マルティニとハインツ・ハラルド・フレンツェンが操縦し三位で完走したノバ・ニッサンR91CKを再現している。シャシー・ナンバーはR90C-07であると思われる。   
   
名エンジニア・森脇基恭を擁するノバ・エンジニアリングは、一九九〇年までポルシェの車に独自の改造を施しながら全日本選手権に参戦していたが、すでに市販ポルシェの戦闘力がトヨタやニッサンにおよばないことを感じ取ると、ついに一九九〇年限りでポルシェ車に見切りをつけることを決意した。当時ノバはイギリスのシャシー・メーカーであるローラ社の日本代理店としても活動しており、F3000用のシャシーなどを輸入していた実績があったため、そのローラ社がニッサン用に設計した最新式のグループC規定シャシーを購入することができた。プライベーターであったノバはエンジンに関しても選択の自由があったが、ローラ社の車体はニッサン・エンジンに合わせて設計されており、エンジン供給の打診を受けたニッサン側もこれを快諾したため、ノバはローラ製シャシーにニッサン・エンジンという、ヨーロッパのニッサン・ワークス・チームと同じパッケージで全日本選手権を戦うことになった。   
   
ノバ・エンジニアリングは一九九〇年中にローラにシャシーを発注し、ローラは彼らのために一九九〇年仕様のニッサン・R90CK用モノコックを一台あたらしく製作した。これがシャシーナンバーR90C-07の個体であり、一九九〇年末にスペア・シャシーのR90C-06と共に日本へ輸送された。R90C-06は完成状態で発送されたが、新造シャシーであるR90C-07は分解状態で日本へ送られ、ノバ側で組み立てを行ったとされる。チームは一九九〇年十二月中からR90C-06でテスト走行を繰り返し、一九九一年シーズンの開幕にそなえた。これらの車体はニッサン・R90CKと共通であったものの、ノバ・エンジニアリングでの運用にあたって大径フロント・ブレーキ装着を目的とした前輪の18インチ化などの改造がほどこされたため、「R91CK」の車名が付与された。   
   
   
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前々回の記事で紹介したニッサン・R90CKと共通の車体をもつ本車輌だが、一見しただけではそれがまったく分らないほどに改造を重ねられている。前述の通り、一九九一年の全日本選手権開幕戦の時点ではほぼニッサン・R90CKに準拠した仕様で走ったが、その後チーム側で近代化改修を重ねたことにより、オリジナルのローラ・シャシーの面影は、わずかに操縦室周辺に見られるのみである。   
   
一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースでは、ノバ・ローラは優勝したニッサン・ワークスの車から遅れることわずか1秒の二位で完走し、ニッサン・エンジンの優位性とノバ・エンジニアリングの優秀さを証明してみせた。ノバ・ローラは第四戦・鈴鹿1000キロレース、第五戦・菅生500キロレースでも連続して二位に入賞し、これにより一時はドライバーズ・ランキングで首位から4ポイント差の二位につけ、最終的にはプライベート・チーム最上位である四位に食い込む活躍を見せるなど、その戦闘力は高かった。この競争力はノバ・エンジニアリングのすぐれた開発能力に裏打ちされたもので、その象徴が一九九一年第三戦・富士500マイルレースから投入された、新型の二段式リヤウィングであった。   
この独特な構造をしたリヤウィングは、もともとはTWR・ジャガーが一九九一年のスポーツカー世界選手権ではじめて実戦に投入したもので、下段のウィングを車体下部のディフューザー出口に近づけて配置することで車体下面からの空気の吸い出しを助け、より強いダウンフォースを発生させることを主目的としていた。従来の考え方では一枚のリヤウィングを車体後部の高い部分に固定し、これをある角度まで傾斜させることによりダウンフォースを発生していたが、この手法では発生するダウンフォースの量に比例して空気抵抗が増加するという弊害があった。しかし車体下面でより大きなダウンフォースを発生させることができれば、その分リヤウィングへの依存度は減少し、あまりウィング角を立てなくとも必要な量のダウンフォースを得ることができるのである。これにより、同じ量のダウンフォースを発生しながら空気抵抗は減少するため、直線での最高速度は従来にくらべて速くなり、スポーツカー・レースにおいて最重要とされる燃費性能も改善されることが予想された。そのうえリヤウィングを立てれば、従来の車と同じ量の空気抵抗に対してより大きなダウンフォースをかけられるため、コーナーが連続するサーキットでも有利になることが予想されたのである。このように多くのメリットを享受できるため、TWR・ジャガーがこのリヤウィングを投入したと見るや、世界選手権でのライバルであったプジョーは大急ぎでこれをコピーし、自分たちの車にも同じものを取り付けたほどであったが、一九九一年夏の時点では二段式リヤウィングを採用していたの車はこの二車種だけであり、むろん日本ではノバがはじめての採用例となった。ノバ・ローラの場合、二段式リヤウィングに交換したことにより、富士スピードウェイにおける最高速は時速18キロ分の改善が見られたとされる。   
   
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二段式リヤウィングを後方から見る。車体下部、ディフューザーの出口から吐き出された高速の気流が、下段ウィング下面の負圧によって加速され、車体からの吸い出し効果を高めることによって、床下で発生されるダウンフォース効果を高めている。一方上段のウィングは主に前後の空力荷重のバランスをとるために使用され、そのウィング角は従来のものに比べるとかなり寝た状態になっている。これにより少ない空気抵抗でより大きなダウンフォースを発生することが可能となる。実車ではウィング本体や翼端板はカーボン製、上下段ウィングの間に立っている二本の支柱は強度部材であるためか金属製であった。モデルでは樹脂様の材質で再現されているが、この個体では保管状態がまずかったのか製造時の個体差か、ウィングが若干だが弓なりにしなってしまっている。 

一九九一年シーズンを好調で終えたノバ・エンジニアリングがつぎに目を向けたのは、アメリカのデイトナ二十四時間レースであった。すでに前年から参戦を予定していた日本のニッサン・ワークス・チームと共に、ノバ・エンジニアリングも彼らのローラ・ニッサンを持ち込んだのである。事前のテスト走行では好タイムを記録したが、レースではワークス・チームが終始圧倒的な速さで戦場を支配したのとは裏腹に、ノバ・ローラはマイナー・トラブルの連続で順位を落とし、八位で完走するのがやっとだった。上位入賞は叶わなかったが、このレースはノバ・ローラの数少ない全日本選手権外での活動となった。 

全日本選手権では、一九九二年に入ってもノバ・ローラの勢いはそのままで、開幕戦・鈴鹿500キロレースで二位、第二戦・富士1000キロレースで三位、第三戦・富士500マイルレースでふたたび三位に入り、開幕戦から三戦連続で表彰台に登る活躍を見せた。またこの年の第三戦では、前年に続く二回目の大改修がほどこされ、それまで使われていたニッサン・R90CK後期型と同じ丸目四灯式ヘッドライトが取り外され、かわって操縦室前端部・フロントガラス内側に小型の二灯式ヘッドライトが設置された。これにより若干ながら車体が軽量化されたほか、重量物を車体中心付近に移動したことによる運動性の向上も見込まれた。以後ノバ・エンジニアリングは一九九二年最終戦までこの第二次改修後の姿でローラ・ニッサンを運用しており、本稿で取り上げているモデルもこの状態を再現している。 

 

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ヘッドライトが取り外されたことで全体の印象がおおきく変化し、二段式リヤウィングやハイダウンフォース・サーキットである美祢に合わせた二枚のフロントダイヴプレーンによって、ベース車輌よりも攻撃的なイメージを与えている。メインスポンサーにはアルバイト情報誌であるフロム・エーが付き、車体がイメージ・カラーである黄色一色で塗られているが、これも青色基調だったニッサン・ワークスとの鮮烈な対比を演出しており、いまなお全日本選手権末期のエントラントとして特に有名な一台である。フロントガラスの内側に、キャビン内部に設置された角型のヘッドライトが見える。リヤカウル形状はおおむねR90CKに準拠するが、後端部の造形に若干手が加えられている。   
   
全日本選手権の第三戦と第四戦の間に伝統の鈴鹿1000キロレースが開催されたが、この年の鈴鹿1000キロレースは世界スポーツカー選手権の一戦とされていたにもかかわらず、出走台数はわずか十一台というありさまで、それも鈴鹿のレースだけ賞典外の全日本選手権参戦車輌の出走を認めるという特例措置をうけてのもので、スポーツカー・レースの世界的な凋落を印象づける一戦になった。このとき全日本選手権のエントラントとして参戦した二台の車のうち一台がノバ・ローラで、旧規定車であったため燃費や給油速度、最低車重などに制約のある状態であったが、すぐれた車体やエンジン、信頼性を武器に新規定の車に割って入り、四位で完走している。   
ノバ・ローラは全日本選手権第四戦・菅生500キロレースで六位完走、第五戦・富士1000キロレースではスピンによりリタイヤに終った。つづく最終戦・インターチャレンヂ美祢500キロレースは、一九九二年のJSPC最終戦であると同時に、一九八三年に発足し十年間にわたって開催されてきた全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権の最後のレースでもあった。すでに世界的なスポーツカー・レースの衰退は隠すべくもなく、世界スポーツカー選手権はエントリー台数の不足から翌年以降の開催中止が決定しており、全日本選手権も一九九三年以降はインター・サーキット・リーグ (ICL) と名を変え、スポーツカーとGTカーの混走レースの体裁をとることで、なんとかその命脈を保とうとしていた。この最終戦でノバ・ローラは三位を獲得し、JSPC最後のレースを表彰台で締めくくった。   
   
   
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キャビンセクションを見る。フロントカウル中央にあるラジエーターの排熱口や、その両脇にあるインタークーラー用開口部などは、ベース車両であるニッサン・R90CKの面影をよくとどめていることが分る。タイヤは国内ワークス・チーム同様ブリヂストンを使用した。   
   
   
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ベースとなったニッサン・R90CKとの側面形の比較。ノバ・R91CKではリヤカウル後端が斜め下向きに切り落とされているが、これはディフューザー部からの空気の引き抜きを受け持つ下段ウィングへ効果的に空気を流すための処理である。リヤのブレーキダクトはオリジナルより大型化されている。   
   
全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権は一九九二年をもって終了したが、ノバ・ローラがさいごの戦いを終えるのはもうすこし先のことだった。一九九三年、全日本選手権のあとをついで発足するはずだったインター・サーキット・リーグは、折からの不況も重なってエントリー台数がまったく集まらず、予定されていたレースはことごとく中止の憂き目にあっていたが、長い伝統のある鈴鹿1000キロレースだけは、海外からも各クラスのエントラントをかき集めた結果、なんとか開催できる見通しが立っていた。このレースに、最後となる近代化改修をほどこされ、「ノバ・R93CK」と名付けられたノバ・ローラが、たった二台のグループCスポーツカーのうち一台として参戦していたのである。いま一台は、ニッサン・ワークスとルマン商会が合同でエントリーしたニッサン・R92CPで、一九九二年のJSPCで使われていたワークス・カーそのものであった。このときノバ・ローラは、空力性能の向上を目的としたボディ形状の改修や30キロにおよぶ車体の軽量化を中心としたアップデートを受けており、一連のローラ・ニッサン車の最終仕様というべき状態に仕上げられていた。特に目を引いたのは、左右ドアの開口部を窓部分から上だけにしたことで、これにより車体下半分には開口部が存在しなくなり、車体の剛性に寄与するというものであったが、このように左右の窓のみを開口させて乗降口とする手法も、一九九一年にTWR・ジャガーがはじめてスポーツカーに使った方法だった。   
予選で一秒差をつけてポール・ポジションを獲得したノバ・ローラは、レースがスタートするとすばらしいペースで先を急ぎ、チーム・ル・マンのニッサン・R92CPが一分前後の差であとを追う展開になった。ノバ・ローラは快調に飛ばし続け、一七一周のレースが半分をすぎる頃には二位との差は二周にまでひらいた。しかしその直後から、悠々と逃げ切るかと思われたノバ・ローラに、立て続けに苦難が降りかかったのである。まず一〇九周目に、助手席側の開口窓が外れかかっていることが判明したためピットインし、この部分をテープで固定してふたたびコースインしたが、ほどなくして一一七周目にまったく同じトラブルに見舞われた。この一連の緊急修理のため二周あったチーム・ル・マン・ニッサンとの差は一周にまで縮まったが、まだ戦況はノバ・ローラに有利であった。一三二周目にこんどは運転席側の窓ガラスが外れかかり、ふたたび予定外の修復作業を強いられた結果、二位との差はついに20秒にまで詰まったが、その直後、一四〇周目にこんどは追撃中のチーム・ル・マン・ニッサンが勢い余ってスピンし、差はふたたび一周ほどにひらいたため、ノバ・エンジニアリングのスタッフは一息つくことができた。このままピットインごとに左右の窓ガラスをテープで補強しながら走れば、まだ勝つチャンスはじゅうぶんあった。   
一四五周目、ノバ・ローラ最後のピットインでさらなる不運が襲った。左フロント・タイヤを固定するホイール・ナットが想定以上の熱膨張を起こして固着してしまい、取り外せなくなってしまったのである。だめになったナットをようやく外してタイヤを交換し、黄色いノバ・ローラが猛然とピットレーンを加速していく頃には、チーム・ル・マンのニッサン・R92CPはコース中ほどにさしかかっていた。スタートから一四五周にわたって首位を死守してきたノバ・ローラが、その座から陥落した瞬間であった。しかしチーム・ル・マン・ニッサンはまだ給油のためのピットストップを一回しなければならず、それまでにノバ・ローラが差をじゅうぶん縮めれば、再逆転の可能性はまだあった。ノバ・ローラのマウロ・マルティニは思い切りアクセルを踏み、一周につき一秒以上を詰める猛攻撃を開始した。チーム・ル・マン・ニッサンが逃げ切れるかどうかは微妙なところだった。   
この日最後の災厄がノバ・ローラを襲ったのは、すでにサーキットに西日が傾き始めた一五四周目だった。最後のピット作業で補強しておいたはずの運転席側ドアの固定が、またしてもゆるみ始めたのである。ピットクルーたちが最後の緊急修理を終えてマルティニを送り出したときには、ショッキング・ピンクに塗られたチーム・ル・マン・ニッサンは一周さきを走っていた。コースに復帰したノバ・ローラはまったくペースが上がらず、最終的にトップから二周遅れの二位で完走することしかできなかった。さいごの追撃を担当したマウロ・マルティニは、がっくり肩をうなだれてつぎのように言った。   
「勝てると思っていただけにとてもがっかりしている。残念で言葉もないよ」   
鈴鹿1000キロレースの恒例行事である大花火大会が闇につつまれたコースを照らすなかで、日本におけるグループCスポーツカーによるレースは幕を閉じた。くしくも、このレースに参加した二台のスポーツカーはともにニッサンの車であり、その前年に全日本選手権のレースで火花を散らし合った二台だった。   
   
   
12

 

ノバ・エンジニアリングが三年間にわたって運用したローラ・ニッサンは、その戦歴のなかに一度のシリーズ・チャンピオンもなければ、一回の勝利すらも刻まれてはいない。しかしあざやかな黄色のボディカラーと、度重なる改修による異様なシルエットは、当時を知る人々の中にはいまなお鮮烈な印象を残しており、最末期の全日本選手権や、当時におけるスポーツカー・レースそのものの話題に無くてはならない存在になっている。使い古されたことばで表すなら、「記録よりも記憶に残る」ような役者であった。   
   
一九九三年を最後に、ニッサン・ワークスによるスポーツカー・レース活動はいったん途絶えた。ニッサンがふたたび国際レースにスポーツカーで参戦したのは一九九七年のことであり、かつてジャガーのスポーツカーを製作していたイギリスのTWRに開発を委託したシャシーで一九九八年までル・マン二十四時間レースに出走し、一九九九年にはアメリカ・Gフォース (現・パノス) 社製のシャシーにかえて参戦したが、この年限りでスポーツカー・レースからふたたび撤退し、以後は日本国内のGTレースなどに専念する状態がながく続いた。このときの最高位は一九九八年のル・マンで記録した三位であった。   
ニッサンが突如、LMP1-H規定の新型スポーツカーで世界耐久選手権と、その一戦であるル・マン二十四時間レースへの復帰を発表したのは二〇一四年のことであり、翌二〇一五年からの世界選手権へのフル参戦が予定されていた。ニッサンが最後に自社の名を冠したスポーツカーを走らせてから、十六年が経っていた。ニッサンが市販している高性能スポーツ・クーペの名をとって「GT-R LMニスモ」と名付けられた新型車は、エンジンを車体前半部に置くという独創的なレイアウトゆえ開発作業が遅れた結果、世界選手権の前半戦を欠場せざるを得なくなり、ル・マン二十四時間レースがデビュー・レースとなった。このレースでニッサンは二台が熟成不足に起因するトラブルでリタイヤし、残る一台はどうにか最後まで走り切ったが、周回数不足により順位は与えられなかった。当初ニッサンは新車の熟成テストを急ぎ、二〇一五年後半か二〇一六年にはレースに復帰する予定であった。しかし同年十二月中旬、北米のテストコースで翌年に向けた試験走行を行ったわずか数日後に、何の前触れもなくアメリカ・インディアナポリスにある本拠地が閉鎖され、すべてのスタッフは解雇通知もなしに施設から締め出された。こうして、ニッサンのル・マン・プロジェクトは唐突にその幕を閉じたのである。以後今日にいたるまで、ニッサンはル・マン二十四時間レースをふくめたいかなるスポーツカー・レースにも参戦しておらず、またそれらのレースに参戦する競技用のスポーツカーを作ってもいない。   
   
シャシー・ナンバーR90C-07のニッサン・R90CKは、一九九〇年十二月までに日本に輸送され、発注元であるノバ・エンジニアリングによって日本国内で組立作業がおこなわれた。ノバ・エンジニアリングは同時にワークス・チームで使用していたR90C-06も取得しており、このシャシーも実際のレースで走行した形跡がある (展示されていた同車を検分したところ、一九九一年鈴鹿1000キロレースの車検証と、一九九二年デイトナ二十四時間レース用と思しきデイトナ・スピードウェイのコース図が車内に存在したため、すくなくともこの二レースに関してはR90C-06を使用したと考えられる) が、正確な運用履歴はいまだ判明していない。

(了)

2017年3月26日 (日)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「薄紅」~

一九九一年のスポーツカー・レース最高峰カテゴリは、それまでの「世界スポーツ・プロトタイプ選手権」(WSPC) から「スポーツカー世界選手権」 (SWC) へと名称が変更され、あわせてFISAが推しすすめていた3.5リッター自然吸気エンジン使用の新規定がとりいれられたが、さしあたって一九九一年度いっぱいは、旧規定にしたがってつくられた燃費レース対応の車も世界選手権に参加できることになった。ル・マン二十四時間レースを主目標とさだめていたポルシェ系のプライベート・チームや日本のマツダ・ワークスは旧規定車で選手権に参戦したが、そこには前年めざましい活躍を見せたニッサンの姿も、捲土重来を期するトヨタの姿もなかった。トヨタは新規定に対応した完全新設計の車を設計・開発するため、少なくともル・マンを含む一九九一年前半は世界選手権レースに参加しないことが決っていたが、開発が終りしだい、はやければ同年終盤にも選手権に復帰する意向があった。そしてじっさいに一九九一年のスポーツカー世界選手権最終戦・九州オートポリス430キロレースにおいて、トヨタの最新鋭戦闘機であるトヨタ・TS010が一台、翌年に向けてのテスト参戦として投入されたのである。しかしニッサンは戻ってこなかった。この年から世界選手権の一戦に復帰したル・マン二十四時間レースに参戦するには選手権全戦への参戦が規則上必須であり、ワークス・チームの参戦を確保したいFISAは世界選手権開幕戦・鈴鹿430キロレースの予選日までエントリー申請期限をのばすという異例の措置をとった。しかしニッサン側の使者はついにFISAと接触することはなく、この時点で一九九一年のル・マン二十四時間レースにニッサンはやって来ないことが決定したのである。前年のル・マンにおける蹉跌がニッサン側の態度を必要以上に慎重にさせたことと、ニッサン社内の不必要な政争にまみれた情勢が参戦を阻んだのであった。林義正、水野和敏が口をそろえて「参戦していれば絶対に勝てた」と断言するレースで勝ったのは、日本のマツダだった。二〇一七年三月現在、このときマツダが記録した優勝がル・マン二十四時間レースの歴史上唯一の日本車による優勝となっている。

こうして、一九九一年のニッサンは国際レースの舞台からしりぞき、日本国内のレースだけに参加することになった。当時日本ではスポーツカー・レースのローカル選手権である全日本スポーツ・プロトタイプカー耐久選手権 (JSPC) が開催されており、トヨタとニッサンの国内二大ワークスは、国内でのマーケティング効果に直結するこのカテゴリを世界選手権レースと同じくらい重要視していた。両ワークスとも選手権初期から自前のワークス・チーム以外に関係の深いプライベート・チームを複数抱えており、その関係はいわば大企業と提携会社のようなものであった。このうちニッサン系のプライベート・チームとして、JSPC末期まで参戦したほぼ唯一のチームが、花輪知夫 (はなわ・ともお) ひきいるルマン商会のレース部門、チーム・ル・マンであった。


00

イグニッション・モデル製、品番0086「伊太利屋ニッサン・R91VP 1991 JSPC」レジン製1/43スケールモデルカーである。明記されてはいないが、おそらく和田孝夫/岡田秀樹/影山正彦の三人が操縦した一九九一年JSPC・鈴鹿1000キロレース仕様、シャシー・ナンバーR89C-03のニッサン・R90V (モデル名はR91VPとされているが、これはどうもエントリー書類上の登録名だったようである) を再現している。

チーム・ル・マンは一九七〇年代から富士グランチャンピオン・レースをはじめとする日本国内のさまざまなレースに参戦しており、全日本F2選手権では松本恵二を擁して活躍するなど、実力のあるプライベート・チームとして認識されていた。JSPCへの参戦開始は一九八四年のことで、社内の望月一男エンジニアが設計したオリジナル・シャシーに2リッターのニッサン・エンジンを搭載したちいさなスポーツカーを運用していたが、その後ニッサン製レーシング・エンジンがより大型・高出力の3リッター・エンジンになると、オリジナル・シャシーでは車体サイズや剛性が足りなくなったため、ニッサン・ワークスが使っていたマーチ製の汎用シャシーを払い下げてもらって運用していた。一九八九年後半からニッサンのワークス・チームが国内レースに最新型のローラ製シャシーを持ち込んだが、チーム・ル・マンはその翌年に型落ちとなったローラ・シャシーを一台購入し、ワークス・チームから一年遅れで長年使ってきたマーチ・シャシーと決別したのである。
チーム・ル・マンに払い下げられたのは、一九八九年に日本で走った二台のローラ・ニッサンのうち長谷見昌弘/アンダース・オロフソン組が使っていたシャシー・ナンバーR89C-03の車で、チームはこの車に一九九〇年の新型車用に設計されたサスペンション・パーツを組み込んでアップデートしたものを「R90V」という名称で走らせた。すでにニッサン系の国内プライベート・チームとしてはトップに近い地位を得ていたチーム・ル・マンは、翌一九九一年にニッサンから最新型のシャシーを一台供与されることになったが、同年開幕戦・富士500キロレースには新型車がまに合わなかったため、前年型R90Vのカラーリングを一九九一年仕様に塗り直して参戦した (このとき書類上の車輌名称も「R91V」に変更されている)。


09

「R90V」という車名があたえられてはいるが、そのモノコックはまぎれもなくニッサン・ワークスが一九八九年に運用したローラ・R89Cのものである。チーム・ル・マンのスポーツカーは一九九〇年まで和田孝夫の個人スポンサーであったキャビン煙草の赤色に塗られていたが、一九九一年にあたらしいメイン・スポンサーとして婦人服ブランドの伊太利屋を獲得したため、この車も同社のイメージ・カラーであるピンクと白に塗られた。映り具合の関係で淡い色彩に見えるが、実物はかなり強烈なピンク色であり、レーシングカーとしてはめずらしい、派手で華やいだ印象を与える。

R90Vは一九九一年のJSPC開幕戦を走ったのちスペア・カーとなり、チーム・ル・マンの主力はニッサンから受領した最新型R91CPがひきついだ。R91CPはマーチやローラといった外部のコンストラクターではなく、ニッサン社内で白紙から設計されたものであり、その潜在能力はひじょうに高いと予想された。ほかのメーカー・ワークス同様に、ニッサンもまたプライベート・チームに対しては常に一年落ちの型落ちシャシーを供給していたが、一九九一年シーズンにむけて国内にセミ・ワークス待遇の直属部隊を設ける意図があった。ニッサンとのつながりが深かったプライベート・チームで、当時も参戦を続けていたのはチーム・ル・マンしかなかったため必然的にこのチームに白羽の矢が立てられたが、新型R91CPは優秀なシャシーらしいということをききつけたアメリカやヨーロッパのプライベート・チームもこの車を欲しがっており、それらをさしおいて国内のチームに新型車を供給するには何かしらの理由をつける必要があった。ニッサンがとった方法は、完全新設計であるR91CPを「一年落ちの旧型車であるR90CPの改造車」という名目でチーム・ル・マンに「払い下げる」ことであり、この車は対外的にはあくまで「R90CP・改」であると発表されていた。資金とデータのワークス・チームとの共有、および先行開発部品の耐久テストをおこなうことを条件に引き渡されたR91CPはチーム・ル・マンによって「R91VP」という車名を与えられ、リヤウィング周辺のパーツがチーム・ル・マン独自設計のものに交換された。
新型車「R91VP」は、JSPC第二戦・富士1000キロレースから投入された。しかし続く第三戦・富士500マイルレースにおいて、R91VPは和田孝夫の操縦中に第一コーナー手前でタイヤ・バーストに見舞われ、操縦不能となってスピンした。うしろを向いた車はそのまま宙に舞いあがり、つぎの瞬間木の葉落としのように地面に叩きつけられると、漏れた燃料に引火して炎に包まれながら横転し、ひっくり返った状態で第一コーナー先のエスケープ・ゾーンに停止した。和田孝夫が無傷で車から脱出できたのが信じられないくらいの大クラッシュだった。この事故で虎の子の新型車はたった二戦で廃車になってしまい、第四戦からチーム・ル・マンはスペアカーとしてしまってあった旧型のR90Vをふたたび引っ張り出さなければならなくなった。以後最終戦までチーム・ル・マンはR90Vでシーズンを戦ったが、この年を最後にチームがJSPCから撤退したため、JSPCを走ったチーム・ル・マンのスポーツカーとしては最後の車となった*。


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カウル形状などは、一九八九年最終盤に国内選手権で走った、ローラ・R89Cの改良型に準拠している。オリジナルの設計では前後17インチだったホイールは後輪が19インチに大径化され、リヤウィングは一枚式だったものが二枚式に変更されているが、いずれもオリジナルの設計ではル・マンのコースに合わせたロードラッグ志向だったものを、ダウンフォースが必要な中距離レース向けに最適化する改造であった。リヤウィングの支持部は、一九九〇年モデルではオリジナルの二本式マウントの外側に二枚の金属製補強部材をV字型に組み、独特な外観になっていたが、一九九一年になってこの補強部材は取り外されている。


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R90Vはチーム・ル・マンの手によって、改良型R89Cからさらに様々な改造が施されている。フロントまわりでは、ヘッドライトカバーの形状が変更されたことや、フロントフェンダー上に排熱用ルーバーが切られていること、フロントカウル中央部にある排熱用開口部のレイアウト変更 (スリットの数が増やされ、サイズも大型化されている)、前輪用ホイール・カバーの追加などがあげられるが、このうちフロントフェンダーのルーバー追加とカウル中央のスリット数追加は一九九一年用の改造である。タイヤはニッサン・ワークスが使っていたブリヂストンから横浜ゴムに変更されたが、これに合わせて一九九〇年シーズンの開幕前にアンダーステア軽減のための大径 (高扁平率) フロントタイヤを開発してもらい、このタイヤを収めるためにフロントフェンダーはオリジナルより若干膨らんでいる。カウルそのものは新造ではなく、オリジナルのローラ製カウルに手を加えて使っていたことが、一九九〇年一月のシェイクダウン・テストのようすを伝えるオートスポーツ誌の記事 (1990.03.01号/Nr.548) 掲載の写真より分る。また、細かい点ではあるが、実車の写真ではカウル本体と左右にとりつけられたダイヴプレーンの部品で、ピンク色の色調があきらかに違って見えるものが数葉残されている。おそらく材質の違いに起因するものと思われる。

一九九〇年のR90VはJSPC第二戦・富士1000キロレースでポール・ポジションを獲得するなど速さを見せたが、一九九一年は開幕戦・富士500キロレースでの四位と、第五戦・菅生500キロレースでの五位が唯一の完走記録で、ほかのレースではすべてリタイヤに終っている (第二戦・第三戦ではR91VPを運用)。この頃のJSPCは、優秀な市販シャシーであったポルシェ・962Cが老朽化により戦闘力を維持できなくなったことによって有力なプライベート・チームがあいついで撤退したり、ほかのカテゴリに転向していったせいで参戦台数の減少に歯止めがかからず、冒頭に述べたFISAのスポーツカー・レースに対する強権的な改革案とあいまって、メーカー・ワークス以外のチームにとっては参戦意義を見出すことがむずかしくなりつつあった。ニッサンのセミ・ワークス・チームという肩書を得たチーム・ル・マンであったが、この年限りでスポーツカー・レースの活動を一旦休止し、同時に参戦していた全日本F3000の活動に専念することになる。


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車体側面はほとんどR89Cのままだが、リヤカウル左右に排熱用ルーバーが追加されていることと、カウル側面の大型排熱口に仕切り板が設けられていることがR89Cとの主な差異である。カウル上のルーバーはモデルでは直接カウル上にスリットを開けているような表現がなされているが、実車ではスリットを開けた一枚板状のパーツをカウルにはめ込むような造形であったことが確認されている。アンテナはルーフ上から左右ドア前に移設されたが、これは一九九〇年序盤にR89C用カウルをとりつけて走ったワークス・チームのR90CPと共通する特徴である。


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スポーツカー世界選手権は一九九一年の一年間を旧規定車への猶予期間としたのち、一九九二年には予定通り新規定車のみを受け入れたが、全日本選手権はこの年も旧規定車による選手権レースを開催するという方針が決っていた。しかしプライベート・チームを引きとめることはできず、一九九二年にはチーム・ル・マンにかわってテイクワン・レーシングがニッサン系のプライベーターとして参戦したが、ワークス・カーを含めても毎レース十台前後のエントリーしか集まらないという惨状で、四十年続いたスポーツカーの世界選手権が消滅するのを見届けるように、全日本スポーツ・プロトタイプカー耐久選手権もこの年を最後に歴史書の一頁となった。ニッサンは本来目指していたはずの国際レース大会から逃避するように目をそむけ、日本国内のレースでトヨタのみと戦うことを選んだ結果、一九九〇年から三年連続でJSPCのメーカー部門におけるチャンピオンを獲得した。ふたつのワークス・チームのみが優勝をあらそう、まるで運動会か発表会のようなレースにも、「日本一」という称号が大好きな日本のファンは一定の支持をあたえた。かくのごとくどこか空虚な末期JSPCの中にあって、チーム・ル・マンのようなわずかに残ったプライベート・チームは、艶やかな造花の花束の中に人知れず紛れ込んだ名もない薄紅色の花のように、目を向ける者をひっそりと楽しませたのである。

シャシー・ナンバー03のニッサン・R89Cは、一九八九年のル・マン二十四時間で実戦デビューしたシャシーで、このとき星野/長谷見/鈴木の日本人ドライバーが操縦した。ル・マン後は全日本選手権に参戦し、インター・チャレンヂ富士1000キロレースの八位が最高位であった。
一九九〇年にはチーム・ル・マンに売却され、同チームによる改造を経て「R90V」と名付けられ、同年の全日本選手権全戦および世界選手権開幕戦・鈴鹿480キロレース、ル・マン二十四時間レースに参戦した。全日本選手権での最高位は富士500マイルレースの六位、WSPC鈴鹿とル・マン二十四時間レースではそれぞれアクシデントと点火系トラブルによりリタイヤしている。
一九九一年は全日本選手権の開幕戦および第四戦から第七戦まで参戦し、最高位は開幕戦・富士500キロレースの四位であった。同年最終戦・菅生500マイルレースが、この個体の最後のレースであった。
一九九二年のシーズン開幕前におこなわれた「モータースポーツ・コレクション '92」なるイベントにおいて、この個体がテイクワン・レーシングのカラーに塗装され展示されていたことが判明しているが、このときの車の所有権については判明していない。またイベントそのものに関しても、背後のパネルに東海テレビのロゴマークが見えることから中部地方でおこなわれたと推測されるが、それ以外の情報は開催時期に至るまでまったく不明である。

*: チーム・ル・マンのスポーツカー・レース活動そのものとしては、一九九三年の鈴鹿1000キロレースにおいてニスモと合同でニッサン・R92CPを出走させたのが最後であったが、このレースはJSPC消滅後の開催であり、したがって全日本選手権はかけられていない。

2017年2月10日 (金)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「蒼い月」~

ニッサンが欧州における実働部隊であるニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパを通して、世界スポーツ・プロトタイプ選手権に参戦を開始したのは一九八九年のことであった。このときニッサンはそれまでのマーチ製シャシーにかえて、英国ローラ社に製作を委託した新型シャシーを使用していたが、翌一九九〇年も世界選手権レースならびにル・マン二十四時間レース (この年もル・マンは世界選手権から外されることが決定したため、メルセデスベンツの意向で世界選手権に専念したかったサウバーはル・マンを欠場した) では引き続きローラ・シャシーを使用することがニッサン全体の方針として決定していた。ローラ・ニッサンのシャシーはすでにデビュー年の一九八九年後半からさまざまな改造が施されており、一九九〇年用の新型車はこの改良された昨年型車をベースとして設計された。


00

イグニッション・モデル製、品番0083「ニッサン・R90CK 1990 WSPC」レジン製1/43スケールモデルカーである。一九九〇年のどのレースの仕様であったかは明記されていないが、ヘッドライトカバーやフロントのエアロパーツの形状から一九九〇年シルバーストーン480キロレースに参戦した仕様と推測される。このレースのNr23はシャシー・ナンバーR90C-01の個体であり、シーズン開幕前の一九九〇年二月に豪州フィリップ・アイランド・サーキットでシェイクダウンをおこなった第一号シャシーである (このときのテストカー仕様もモデル化されている)。

一九九〇年にはローラ製車輌のほかに、ローラ・シャシーの品質管理や完成度に不満を持っていた林義正が前年型R89Cのモノコックをベースに独自開発した車輌が日本国内の選手権レースに投入されたため、ローラ製の世界選手権用車輌とそれをベースにした全日本選手権用車輌を区別する必要が生じた。前者はR90CK、後者はR90CPと呼ばれたが、ローラ側ではこの世界選手権用車輌を前年型の名称「R89C」からの連番である「R90C」と公的に呼称しており (R89C同様、ローラ社内の命名規則にしたがった「T90/10」という名称も記録には登場する)、そのため海外の文献ではこの車は単に「R90C」とされることも多い。R90CKのKは当時ローラの施設があった英国クランフィールド (Cranfield。英国モータースポーツ産業の首都ともいわれるミルトン・キーンズにほど近い地名。日本語版Wikipediaでは"クラウンフィールド"とされているが誤記ではないかと思われる) のCから音をとった、当時ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの本拠地があったミルトン・キーンズのKをとった、あるいは単に「改」の意味であるなどと言われており諸説あり*、一方でR90CPのPは日本のニスモが本拠地を置いている追浜 (Oppama) のPをとったとされている。ローラ側の認識としては、あくまでも世界選手権用の主力機「R90C」が本命であった。

R90C (以下、混乱を避けるためR90CKと表記する) の基本設計はR89C同様ローラ社のエリック・ブロードレイおよびアンディ・スクリヴェンによってなされ、ボディワークの設計は主にニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパが行った。R90CKはモノコックレベルではほとんどR89Cと差がなく、3.5リッター8気筒のVRH35Z型ターボ・エンジンや、ヒューランド社製五速ギヤボックスなどもR89Cからのキャリーオーバーである。エンジンは九〇年に向けてニッサン側でアップデートされ、出力は約40馬力ほどアップした840馬力前後を発生したと伝えられる。このエンジンは耐久性がきわめて高く、世界選手権レースのピットでニッサン・エンジンだけが特にオーバーホールされたようすもなく、うっすらとホコリを被っている様に外国人記者がおどろいたという口碑が残されているが、真偽のほどは定かではない。


01

真横からR90CKを見る。フロントまわりからキャビン・セクションに至る造形はR89Cの影響が色濃く残されており、フロントウィンドウの傾斜角が強められた以外は、ほとんどR89C改のような設計となっている。一方リヤのデザインはロードラッグ一辺倒だったR89Cの流れを汲まず、タイヤカバーの装着を前提としないボディワークや高くマウントされたリヤウィングなど、比較的ダウンフォース重視のデザインであることがうかがえる。タイヤは前年に引き続きUKダンロップを使用。

前年後半にかけて、世界選手権でサウバー・メルセデスやヨースト・ポルシェと対等のパフォーマンスを発揮できるようになったニッサンは、翌一九九〇年を飛躍の年ととらえ、特にル・マン二十四時間レースにおける勝利を第一目標に据えた。この年のニッサンは世界選手権の短距離レースはあくまでもル・マンへ向けての予行演習と見ており、他チームのように積極的な予選順位争いや優勝争いを行わなかったことからも、ニッサンがル・マンをいかに重要視しているかが見て取れた。この年ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは前年までメルセデスベンツにいたデヴィッド・プライスやボブ・ベルを筆頭に、一年で世界選手権から撤退したアストンマーティンのワークス・チームなどから人材をかき集め、日本からは往年の名ドライバーである生沢徹がニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの総大将として派遣されて来るなど、人事面でも増強が図られ、ニッサン欧州部隊はF1チームなみの人的資源を入手することになった。特にサウバーと組んで前年の世界選手権を蹂躙したメルセデスベンツからプライスとベルを雇い入れたことで、耐久王サウバー・メルセデスの知見を学習できたことは、ニッサンにとってこのうえない利益であった。

一九九〇年の世界スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦は四月八日の鈴鹿480キロレースだったが、このレースまでには新車の開発・熟成がまに合わず、またヨーロッパから遠い日本までワークス・カーや人員を輸送するコストなどを勘案した結果、鈴鹿ではR90CPのみが走行した。ローラ製R90CKのデビュー戦は続く第二戦、四月二十九日のモンヅァ480キロレースで、このレースから欧州部隊は二台のレース・カーに一台のスペア・カーという三台体制を組んだ。モンヅァではジュリアン・ベイリー/ケニー・アチソンのNr23がなんとか七位で完走したが、ジャンフランコ・ブランカテリ/マーク・ブランデルのNr24はフィニッシュ間際に燃料切れでリタイヤしてしまった。続くシルバーストーンのレースではNr23がサスペンション・トラブル、Nr24がまたしてもフィニッシュ間際の燃料切れで二台ともリタイヤとなったが、ル・マン直前の第四戦スパ・フランコルシャンではNr23が三位表彰台を獲得し、ル・マン本番への期待を高めた。

03

このモデルではいわゆる前期型のR90CKを再現しているが、判別点はいずれもフロント周りに集中している。まずヘッドライトがR89C後期型と同様のちいさな角型一灯であることからル・マン以前の仕様であると判別でき (ル・マン後の世界選手権レースではル・マン仕様と同じ丸型二灯のヘッドライトが装着されていた)、サイドミラーが赤色に塗装されていることからモンヅァを走った仕様ではないことが分る (モンヅァではサイドミラーが無塗装のままで黒かった) ため、シルバーストーンかスパ・フランコルシャンのいずれかの仕様となる。スパ・フランコルシャンのレースではニッサンは長いタイプのフロントアンダーパネルを使用していたため、フロントが短いモデルの仕様はシルバーストーン480キロレースの仕様であることが推理できた。フロントカウル上面のラジエーター排熱口やフロントウィンドウ両脇に設けられたインタークーラー用の吸気口など、多くの部分がR89Cと共通の設計であったことが分る。

一九九〇年のル・マン二十四時間レースは六月十六日の週末に行われた。すでに一九九〇年も世界チャンピオンは確実と見られていたサウバーは前述の通り欠場が決っており、ヨースト・ポルシェは他メーカーの新型車に太刀打ちできず次第に戦闘力を落としている状態で、日本のワークス・チームにとって敵は事実上TWR・ジャガーただ一チームのみという状況であったため、欧州部隊二台、北米部隊二台、日本のニスモが持ち込んだ一台の五台で挑むニッサンのル・マン初優勝に期待がかかった。
予選ではTWR・ジャガーとトムス・トヨタはレース重視の戦略として積極的なタイム・アタックをおこなわず、ヨースト・ポルシェは大改修をうけたコースで必要とされるダウンフォース量を見誤り、一台をクラッシュで全損させるなど苦戦した。新開発のパワフルな8気筒エンジンに助けられたニッサンは好タイムを連発したが、北米アンディアル社が特別にチューニングした3164ccのエンジンを搭載するブルン・モータースポーツのポルシェがその前に立ちはだかった。ニッサンは欧州部隊のスペアカーに予選アタック用のエンジンを一基積んでおり、マーク・ブランデルがブルンのタイムを逆転しようとコースインしていった。しかしタイム・アタックに入る直前になって、ターボの過給圧を制御するウェイストゲート・バルブがつっかえてしまい、過給圧が想定以上に上がっていることが判明した。これを知った日本人のエンジニアはすぐにブランデルをピットへ戻すよう指示を出させたが、デヴィッド・プライスはこの指令を出す際に「ついうっかり」無線のボタンを押し忘れたのである。何も知らないマーク・ブランデルはそのままタイム・アタックに飛び出して行った。ブランデルはパワーの怪物と化した車と格闘するように走り、ブルン・ポルシェを6秒も上回るタイムでポール・ポジションを奪還した。ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ最良のの時であった。
しかし予選後になって、このエンジンは思わぬトラブルを引き起こした。ニッサンの予選用エンジンはル・マンの一ヶ月ほど前に生沢徹の発案で製作されたが、時間がなかったため一基しか用意できなかった。ニッサン本社のモータースポーツ活動責任者であった町田収 (まちだ・おさむ) はニスモの水野和敏、北米部隊のキャス・カストナーにそれぞれ予選用エンジンの提供を打診したが、両チームの監督ともこれを断ったため、特別製エンジンの存在は予選が終るまで特に周知されていなかったのである。これを知った北米部隊のメカニックたちは激怒し、欧州部隊のメカニックとのあいだに暴力沙汰が発生するに至ったと伝わる。もともと組織内部での相互連携がとれていなかったニッサン艦隊の統率は、この一件で事実上崩壊した。


0509

R89Cと共に。デザインの継続性がなんとなく分る一枚である。ロードラッグ化を最重要目標とし、曲線的で優美なラインのR89Cに比べて、R90CKはよりダウンフォース重視の角ばったデザインをしているが、たとえば車体側面の処理などはほとんど変更されていない。ル・マン二十四時間レースが開催されるサルテ・サーキットが一九九〇年を前に改修され、長いストレートがシケインで分断されたことも影響していると思われる。赤・青・白の三色を配したワークス・カラーは、前年度から塗り分けが変更され、側面の白色が上面に移動している。

相互連絡に致命的な齟齬をかかえたまま、ニッサンは六月十六日・土曜日のル・マン決勝レースに臨んだ。午前のウォームアップ走行ではやくも欧州部隊のNr25が駆動系にトラブルを抱え込み、ギヤボックスが交換されたがフォーメーション・ラップ中にふたたびトラブルを起こして走行不能になってしまい、ニッサンはレースがスタートしないうちから一台をうしなってしまった。レースはスタート直後からポールポジションのNr24ニッサンと二位のブルン・ポルシェのトップ争いが繰り広げられたが、一時間ほどが経過した時点でまず北米部隊のNr84がホイールのトラブルから緊急ピットインを余儀なくされ、優勝争いからは一歩下がった。
スタートから四時間弱が経過した午後八時ごろ、ニッサン陣営にさらなる苦難がふりかかった。ジャンフランコ・ブランカテリの操縦するNr24ニッサンが、コントロールライン直後のゆるい右コーナーで周回遅れのトムス・トヨタと接触し、フロントカウルが大破したのである。この修復に時間を取られたNr24は優勝争いから完全に脱落し、かわって北米部隊のNr83がブルン・ポルシェやTWR・ジャガーを追う展開になった。Nr24はその後、深夜になってギヤボックス・ケーシングのトラブルでリタイヤし、この時点で欧州部隊が全滅したため、ニッサンの戦力は二台の北米部隊と一台の日本部隊に減った。そのうち北米部隊のNr84はさまざまなトラブルを抱え込んでペースが上げられず、日本のニスモが投入した独自設計のR90CPも熟成不足で期待されたパフォーマンスを発揮するに至らず、事実上Nr83が孤軍奮闘しているようなものだった。それでも北米部隊は持ち前の実戦勘と勝負強さでTWR・ジャガーに食らいつき、日曜日の日の出を迎えようとする午前五時すぎには、トップのジャガーと同一周回の二位を走っていた。日が昇ってから十分にペースアップできれば、TWR・ジャガーを逆転することも可能な位置であった。
そのNr83が突然ピットに飛び込んできたのは、サルテ・サーキットの空に夏至近くの太陽が昇りきった日曜日の朝のことであった。操縦していたチップ・ロビンソンが「コックピットに燃料の匂いが充満している」と訴えたのである。検査の結果、モノコック内部のゴム製燃料バッグが擦り切れて亀裂を生じ、そこから燃料が漏れていることが判明した。レース中にそんな大トラブルに対する処置が用意されているはずもなく、Nr83はまさにこれから追い上げにかかろうというところでリタイヤせざるを得なかった。もはやワークス・カーのうち生き残っているのは度重なるトラブルで挽回不可能なほど遅れてしまっている北米部隊のNr84と、こちらも万全ではない状態でトップテン圏内に踏みとどまる日本部隊のNr23だけであった。その後Nr23はレース終盤にギヤ・トラブルが発生しながらも、メカニックが十分強でギヤボックスを全交換するという離れ業を見せ、後方にいたトムス・トヨタが遅いペースで走り続けたことにも助けられ総合五位で完走した。もう一方のNr84は十七位だった。総合で五位というのは日本メーカーによるル・マン参戦の歴史の中では最高位の成績であったが、レース前の記者会見で総責任者の町田収が優勝を確約するほどの威勢の良さはどこにも見られなかった。ニッサンはふたたび敗れたのである。優勝したのは、四台中二台をトラブルでうしないながらも、残った二台で1-2フィニッシュを果たしたTWR・ジャガーだった。

ニッサンの命取りになったのは、レース前から問題となりつつもついに根本的な解決を見なかった、欧州部隊と北米部隊の反目だった。優勝争いをしていたニッサン車のうち、欧州部隊のNr24はギヤボックス・ケーシングの、北米部隊のNr83は燃料タンクのトラブルでそれぞれリタイヤした。しかし欧州部隊は改修されたサーキットの荒い路面が燃料タンクにダメージを与えることを、また北米部隊はヒューランド製のギヤボックス・ケーシングに構造上の欠陥があることをそれぞれ知っており、独自の対応策まで立てておきながら、この点を各ニッサン系チームに周知した形跡もなければ、活動の母体である日本のニスモに通達したようすもなかったのである (ニスモのR90CPはヒューランド製ではなく、ニッサン内製のギヤボックスを使用していた)。一九九〇年ル・マンにおけるニッサンは、連合軍の体裁は保っておきながら、実態としては三つの別々なチームの寄せ集めのようなものであった。この頃のニッサンは「同じ部署に天皇が三人いる」と言われたほどの異様な社内風紀で、何を発言するにも事前の根回しをやっておかなければならないという状況だったとの証言が存在するが、そんなニッサンの社風を鏡に写したような敗北だった。


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リヤ周りを見る。R89Cではリヤカウル後端に取り付けられていたテールライトは、R90CKではアンダーパネル側に移設されている。規則の変遷により現代では見られなくなった大容積のディフューザーがひときわ目を引く。このスケールにしては比較的細部まで再現されており、フロントの細かいエアロパーツなどは薄いエッチング・パーツで仕上げられているが、やはり14,904円という定価を考えると、再現性や工作精度などは手放しで値段相応と折り紙をつけることはできない。

ル・マン後の世界スポーツ・プロトタイプ選手権後半戦では、熟成の進んだR90CKは表彰台圏内に割り込むパフォーマンスを安定して見せられるようになっていった。サウバーの牙城は依然として崩し難かったが、それ以外のチームの中ではトップレベルの速さを維持できるまでに成長していたのである。後半戦に向けてニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパははNr23にベイリー/ブランデル、Nr24にブランカテリ/アチソンとドライバー登録を組み換えたが、第五戦ディジョン・プレノワではNr23が二台のサウバーに次ぐ三位、第六戦ニュルブルグリンクでは同じくNr23が五位、第七戦ドニントンではNr24が四位と、まずまずのリザルトを記録している。
第八戦モントリオールは、ニッサンが世界選手権レースでの優勝にもっとも近づいた一戦になった。レースが半分ほど経過した六十一周目に、ヘスス・パレハが操縦するブルン・ポルシェを、他車のグラウンド・エフェクトで巻き上げられて舞い上がったたマンホールの蓋が直撃するというめずらしいアクシデントが発生したのである。ポルシェはひとたまりもなくコース脇の壁にクラッシュし、車からは火の手が上がったが、ドライバーのパレハは幸運にも無傷で脱出した。この事故でコース上が危険な状態にあると判断されたため赤旗が出され、レースはそのまま終了となったが、この時点でNr23はトップのサウバーから6秒遅れの二位を走っており、それがそのまま最終順位になったのである。ニッサンはこの後の最終戦メキシコでもNr23が記録上二位でフィニッシュしているが、これは本来二位でフィニッシュしたサウバーの車が規定量以上の燃料を使ったために失格処分となり、三位だったニッサンが繰り上がったもので、優勝したもう一台のサウバーとは二周差があった。


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一九九〇年の世界選手権レースでは、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは一度も優勝できなかったが、後半戦に複数回の表彰台を獲得したので年間のチーム・ランキングでは前年の五位から躍進し三位を得た。二位のTWR・ジャガーとは4ポイント差だった。前年に比べて進歩が見られる内容だったが、ニッサンがもっとも重要視していたル・マン二十四時間レースで惨敗した事実は動かしようもなかった。一九九〇年は世界選手権レースが燃費競争として争われた最後の年だったが、ニッサンはこの年を最後にスポーツカーの世界選手権レースからは姿を消し、今日に至るまでル・マン二十四時間レース以外にその姿を見せていない。欧州と北米からそれぞれ最精鋭の部隊が出揃い、車体やエンジンが一線級の性能を有し、さらに有力なライバルチームが欠場していた一九九〇年のル・マンは、ニッサンにまわってきた千載一遇の、そして最後のチャンスであった。ニッサンはそれをものに出来なかったのである。

ニスモのチーフエンジニアとして、主に全日本選手権での戦いを指揮した水野和敏は、一九九〇年のル・マンについてつぎのような趣旨の回想をしている。
「(R90CPは) 一年目で熟成不足だったし、最初から勝てるとは思っていなかった」
「もし一九九一年のル・マンに出場していれば、優勝できたと思っている」
すこし穿った (ともすれば嫌味な) 見方をすれば、すでに一九九〇年の時点で日本側の林義正ひきいる実戦部隊にとって、欧州部隊はどうでもよい存在に成り下がっていたとも読み取れる。じっさい、ローラ社製のシャシーに不満を持ったニスモが独自に設計した、R90CPにはじまる日本製のニッサン・スポーツカーは、その後国内の選手権レースでトヨタを相手に優位に戦いを進め、特に車体やエンジンの性能では完全にトヨタを上回っていると考えられた。しかし一九九〇年以降のニッサンは、社内での勢力争いや内紛に明け暮れ、ニッサンの代表としてFISAや他メーカーの重鎮を相手に立ち回った町田収は本社を追い出され、翌年の世界選手権への参戦は不可能となった。一九九一年以降のニッサンは日本国内のスポーツカー・レースにのみ参戦し勝利を重ねたが、そこで得たものは「全日本チャンピオン」という、どこかむなしい響きの称号だけであった。かつてニッサンがあれほどがむしゃらに追い求めたル・マン制覇という目標は、ほかならぬニッサン自身の手によって打ち捨てられたのである。目指す理想郷の風景をみずから描いた絵を壁にかけておきながら、自分の手でその絵を破り捨ててしまったようなものであった。

ニッサン・R90Cまたはローラ・T90/10は、一九九〇年中に七台分のモノコックが製作され、うち六台が一九九〇年に実戦投入された。
シャシー・ナンバー01のニッサン・R90CKまたはローラ・T90/10は、一九九〇年二月までに完成し、オーストラリアのフィリップ・アイランド・サーキットや英国ドニントン・パーク・サーキットなどでシェイクダウン・テストを行ったと考えられる。一九九〇年四月二十九日の世界スポーツ・プロトタイプ選手権第二戦・モンヅァ480キロレースではNr23のスペア・カーとして持ち込まれ、続く第三戦・シルバーストーン480キロレースではNr23のレース・カーとして走行した。ル・マン二十四時間レースではNr24のスペア・カーとして予選用エンジンを搭載し、ポール・タイムを記録している。ル・マン後には世界選手権の第六戦ニュルブルグリンク、第七戦ドニントン・パークの各480キロレースに、それぞれNr24、Nr23のスペア・カーとして持ち込まれ、第八戦モントリオール、最終戦メキシコシティの各480キロレースではNr24のレース・カーとして、それぞれ五位、四位を記録した。最終戦の四位がこのシャシーの最高位であり、また記録にある分の最終レースでもある。

*: 「オートスポーツ」Nr.552 (1990.04.15号) において、Kは「改」の意味であるとする記述が見られる。日本では、ノバ・エンジニアリングが使用していたR90CベースのモノコックであるR91CKに限り「改」を意味するとの情報も敷衍しているが、どちらが正しいのかは不明である。

2017年1月 3日 (火)

2016年総括+2017年一発目

新年あけましておめでとうございます、主筆のSimacherです。12月31日まで開催されたコミックマーケット91に参戦したところ、三日間の全日程につきあったことで体力をすべて使い果たし、今日ようやく回復してきたところです。なんか新年記事を元日のうちに書けなくて申し訳ない。おかげさまで冬コミに持ち込んだイラスト集は完売しました、ありがとうございました。

さっそく2016年の総括をやっていきたいと思います。F1はロスベルグがついにチャンピオン獲得…と思ったらいきなり引退してしまいましたね。子供が出来て家庭という存在が彼の意識の中に入り込んできたこととか、F1デビューから十年という節目の年に悲願であったワールド・チャンピオンを獲得したこととか、たぶん彼はひとつの大きな理由があって引退したんではなく、いままでずっと張り詰めていた緊張の糸がふっと切れてしまって、円谷幸吉の遺書ではないけれど「疲れてしまって、もう走れない」と思ってしまったのではないでしょうか。いままでハミルトンとの鍔迫り合いでなかなか勝てず「彼は一対一の決闘では永遠にハミルトンに勝てないのではないか」なんて言われたりもしていただけに、その呪縛を踏み越えていった2017年の彼が楽しみだったのですが、ここは本人の意思を尊重するほかないと思います。ちょうどぼくがF1を見始めた年にデビューしたこともあって、わりと好きなドライバーだったんですがね。今年のF1もベンツ無双状態でしたが、それにしては各レースそこまで退屈にもならず、チャンピオン争いも接戦だったし面白いシーズンだったんじゃないかと思います。
マクラーレンは…うーん。確かにすごく進歩したと思いますが、速くなることによって逆にチーム体制が滅茶苦茶なことが明らかになってしまったというか。いまやあのチームはF1チームとして完全に三流、四流ですね。ホンダもまだまだ勉強不足だと思うけど、もはやエンジンがどうとか車体がどうとかいう問題ではないように思います。当初からジェームス・キーのいるSTRとかと提携できていれば良かったのだろうけど、かつてB.A.Rと組んだ時のように、「その程度のチームしか提携してくれそうなところが無かった」というのが案外実情だったりして。

そしてスポーツカー。今年のスポーツカー耐久レースはいやもう凄まじい一年でした。ル・マンの衝撃的な結末は全世界を混乱のさなかに陥れましたが、ほかのレースもなにしろ最終ラップのさいごの瞬間まで決着のつかなかったレースばかり。数え上げると、デイトナ二十四時間レース (ESMリジェ・ホンダとWTRコルベットが最後のスティントまで秒差の争い)、セブリング十二時間レース (ラスト十五分でESMリジェのデラーニが四位から猛チャージし大逆転優勝)、ニュルブルグリンク二十四時間レース (燃料戦略を見誤り最後に余分な給油をおこなったHTPが最終ラップでブラックファルコンに抜かれ首位陥落)、そしてもはや説明不要のル・マン二十四時間レースと、最終ラップに入ってから勝負のひっくり返ったレースの多いこと多いこと。ほかにもワークス勢がつぎつぎ脱落し満身創痍のアウディが勝ちを手にしたWECスパ、BMWとベントレーの十時間以上にわたる死闘が繰り広げられたスパ=フランコルシャン二十四時間レース、富士のふもとでトヨタが二年ぶりのWEC戦勝利を記録した感動のWEC富士、マイケル・シャンク・レーシングがプロトタイプ・クラス最後のレースで値千金の優勝を記録しデイトナの恨みを晴らしたプチ・ル・マンと、2016年のスポーツカー/GTカー・レースは全体的に見ても「退屈なレースが無い」という、とてもすばらしい一年でした。その一方でアウディのWEC撤退やVWのWRC撤退など、モータースポーツ界をゆるがすニュースもありましたが、個人的にはスポーツカー・レースはまだもうしばらくは今のすばらしい状態のままでいてくれると思いますね。WECに限っても、BMWのGTEクラス参戦やLMP2クラスの隆盛など、あかるい話題には事欠きません。

今年もおそらく活動の主軸は絵描きのほうになると思います。ぼくの絵で、たとえばそれまでスポーツカー・レースを知らなかった層の人が、この人類のすばらしい営みに目を向け、それこそ「ああ、地上にはこんなことをしている人たちもいるのだな」程度にでも、モーター・レーシングのことを知ってくれれば幸いですね。ただ今シーズン、特に夏頃からぼくのほうも何かと忙しくなることが予想されるので、コミックマーケットへの参加を含め、どれだけアクティヴに活動できるかはまだ未知数です。すべてはその時にならないと分らない、というのは典型的なマレーシアン・スタイルですね。予定とは決定するまで未定である。あと今年はもっとこう、レース仲間だけでなくて、たとえば絵師だとか、もっと多角的な交流を持ってみたいですね。しかし肝心のぼくがレースの話しかしないからむずかしいか。
ブログの更新頻度は今年もたぶん低いです。というか基本的に「ブログにちゃんとした文章上げるほどじゃないけど、どっかに記録として残したい」みたいなネタはぜんぶTwitterのほうに投げてるので…。ニッサンの連載は1月中には再開したいところですね。

なんか書くこと思いつかなくなってきたんでこの辺にしときます。今年もゆるく生きましょう。

2017.01.03
Simacher

2016年12月29日 (木)

冬コミ参加情報 (超今更)

なんだかんだ気力が沸かなくて告知がこのタイミングになってしまいましたが、今回の冬コミケもアイドルマスターイラスト本で参加することになりました。十二月三十一日・土曜日 (三日目) 東「マ-09a」、サークル「上海娘々賽車隊」(今回は受かりました) にて、夏に出したものと同じコンセプトの、アイドルマスター シンデレラガールズ×モータースポーツの画集を一冊五百円にて頒布します。夏の時はB5版でしたが、今回フルカラーの画を細部まではっきり見せたいとの意図から、思い切ってA4版に大型化しました。頁数も24頁に増えていますが値段は据え置きなのでお得です。また、お品書き画像にもある通りサークル主宰「各々」氏が執筆している富士グランチャンピオン・レースの年度別レース記録、その1975 (昭50) 年版が併売されます。こちらは一部三百円、挿絵はかねてから懇意にさせていただいている「桐義」氏 (夏にぼくが売り子を務めた「逆さスポイラー」主宰です) によるものです。

当日はお隣 (マ-08b) の「うろとま」氏のサークル「万年テールエンダー」にてアイドルマスター×F1の絵本が、また同サークルにて「りょりょ」氏のアイドルマスター シンデレラガールズ×スカイラインGT-R R33イラスト集が併売される予定です。夏の告知記事で「アイドルマスターのレーシングカー・イラスト本が三冊並ぶという空前にして絶後 (絶後かどうかはわかりませんが空前なのはまちがいない) の状況」という言葉を使いましたが、さっそく第二例ができてしまいましたね。どうしてこうなった。


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さてお品書きの隅に書いてありますが、今回もマレーシア・リンギットによる支払いは (一応) 受け付けます。ただし今回ぼくの手元にリンギット貨の手持ちが無い (前回帰省したときに持ち帰るのをわすれた) ので、お釣りは出せません。50リンギット札で払ったら価格は50リンギットになります。その点ご了承ください。

ぼくの本の表紙ですが、ニッサンGT-R LMニスモの、ル・マン後の2015年夏から秋にかけて、世界耐久選手権のスプリント戦に参戦するべく試験走行を行っていた、ハイダウンフォース仕様のものです。表紙イラストの候補がこの車とモンテヴェルディORE-1B、マクラーレンMP4-31の三者あり、自分では決めきれなかったので民主主義にしたがうことにした (Twitterでアンケートをとった) ところこうなりました。みんなこの車ボロクソに言いますけど本当は好きなんですかね。あと前回が予想以上に早く完売しちゃったので今回思い切って部数増やそうかと思っていたのですが正直増やしすぎました気がします。みんな買いましょう。

2016年11月14日 (月)

先週末

11月5日 (土) に中央大学の学園祭イベントとして開催された声優の高森奈津美さん (「アイドルマスター シンデレラガールズ」前川みく、「ハイスクール・フリート」柳原麻侖、ほか。愛称「なつ姉」「なつさん」) のトークショーに行ってきました。その翌日、11月6日 (日) に、こんどは法政大学の学園祭イベントとして開催された、同じく声優の三上枝織さん (「ゆるゆり」赤座あかり、「進撃の巨人シリーズ」クリスタ・レンズ、ほか。愛称「みかしー」) と大空直美さん (「アイドルマスター シンデレラガールズ」緒方智絵里、「いなり、こんこん、恋いろは。」伏見いなり、ほか。愛称「そらそら」) のトークショーにも行ってきたので、観測史上類を見ない、ひじょうにオタク濃度の高い週末を過ごしておりました。筆が遅いので記事になるのはこのタイミングです。

前者のイベントはぼくの友人であり、なつ姉の大ファンでおられる某氏からお誘いいただいたもので、後者はぼくがツイッターか何かで告知を見つけて自分で応募したら当選していたというもの (なつ姉ファンの某氏も当選したので二人で見に行くことに)。高森奈津美さんは現在「高森奈津美のP!ットインラジオ」という、2015年10月からやっている自動車ネタ中心の映像付きネットラジオ番組を持っていて、そもそもぼくがなつ姉を知ったのは、件の某氏がこのラジオを放送開始前からぼくにしつこくすすめて来たからだったと記憶しています。実はそれまでぼくはいわゆる「中の人」事情にまったく首を突っ込んだことがなく、なつ姉が前川みくの担当声優だったという事実もここらへんではじめて気付いたはず。そういう意味では、この熱狂的なつ姉ファンの某氏は、ぼくのオタクとしての人格形成にけっこう影響を与えているんじゃないかという気がしますね。

DSC_5589b

DSC_5590b…当たってしまいました。なつ姉トークイベントの終盤、こういったイベントではお約束のプレゼント抽選会があったのですが、なんとサイン色紙を引き当ててしまうという滅茶苦茶な強運を発揮。正直今年の分のツキがもう残ってないんじゃないかと心配になるレベル。うひゃー。

「なんだ自慢話だけじゃないか」って言われると困るので、真っ当なインプレッションも書きたいと思います。声優というのは演技の仕事だから、仕事の方向性としては俳優に近いと思っているのですが、俳優の場合たとえば映画やドラマや舞台などに出演して、ファンはそれを見に行く (ファンでなくても見に行くか) ので、たとえばこういったトークイベントなんかじゃなくても、(役柄に扮してはいるけれど) その人本人の姿をテレビや劇場で見ることができる。しかし声優の場合、表に出るのはだいたい「声」の部分だけで、姿形の部分はアニメやゲームの各キャラクターだったり、吹き替えだったら別の役者だったりするわけです。だからある意味「姿が見えない」ものなんですよ。声優がたとえばアニメやゲームで声を当てていて、ぼくらがその作品を見ているとき、ぼくらはその「声」によってのみ、キャラクターの向こうに生身の人間がいることを認識することができるし、あるいは「声」と「キャラクター」があまりにも密接に結びついていたら、認識できないかもしれない。ぼくの場合、なつ姉に関しては前述の「P!ットインラジオ」の配信映像を見ていたので、「なつ姉が動いている」ところ自体は見たことがあったのですが、それでも実際に本物の (?) なつ姉やそらそらやみかしーを目にしたときは、不思議な感動を禁じ得ませんでした。よく知っているキャラクターに声を当てている、いわゆる「中の人」が、当たり前のように目の前で動いたり、喋ったりしているというのは、なんとなく超現実的な気分にさせられる体験でしたね。あんまり感想になってないか。

«ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「青の一番星」~

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    ソビエト時代の東側諸国におけるモータースポーツ活動について書かれているたいへん誰得なブログ (褒め言葉)。この辺の史料を日本語でまとめたサイトって史上初かもしれません。
  • 作った静止画一覧
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