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2011年8月

2011年8月30日 (火)

第7回MMD杯総括

さて、前の記事で触れた第7回MMD杯ですが、8月29日21時(JST)をもって全プログラムを消化、閉幕しました。閉幕式・表彰式は9月3日を予定しているとのことです。前回に引き続き、今回もわがしむまっは・スクアドラ・コルセ(弱そうな名前だ・・・w)が弱小コンストラクターながら、マレーシア代表として参戦。本選では動画3本を一挙に投下する暴挙(愚挙)に訴え、「下手な鉄砲」理論のみごとな実践を見せ付けてくれました。2本が予選からの「予備予選突破組」、1本は本選のみの「特例参戦?」です・・・が、そもそもMMD杯には大会理念的に「予選落ち」「予備予選落ち」といった概念が無いので、情念と絶望が支配する美しき戦の場・プレQグランプリの出場にあずかる機会はないわけです。あったら絶対「MMD界のコローニ」「MMD界のユーロブルン」「MMD界のオゼッラ」の異名をとる大活躍(?)をしてご覧に入れるのですが・・・笑。

さて、冗談はよそにして、MMD界のオゼッラが今回送り込んだマシン群(?)が上の3本です。記事を書いている8月29日午後23時(マレーシア時間)の時点で、「再生数・コメント・マイリスト」の数値は、上の動画からそれぞれ「3019・126・254」、「2080・57・95」、「2775・91・109」となっています。たくさんの応援マイリスト、宣伝、再生、コメント、どうもありがとうございました。


さて、ここから製作後記。コメント返しも交えて解説?していきたいと思います。一番上の動画については、拙記「フォトジェミックのつくりかた」において解説しているのでリピートしません。全編にわたって例のトイカメラエフェクトをかけています。これ、トイカメラ以外にも「ランダマイズ」「露光過多」などのパラメータープリセットが収録されているので、使い方次第で万能エフェクターに出来るかもしれません。研究の価値あり、です。で、本選動画のサムネになっているあの画像、あれ実は私のPC壁紙です。色の出方や構図、背景の溶けかた、全てにおいて気に入ってます。以下コメ返し。

(予選)>背景がGT5とは
そうですねー。知らない人が見たらまさかゲーム(それもガチガチのレースゲーム)なんて露も思わないでしょう・・・笑

>七葉さんはフォトジェミックが似合うね
実写との親和性という意味ではダントツでしょうね。「可愛さ」という点でLat式に一歩譲るところもあるかもしれませんが、シリアス、切な目の空気を出したいときに重宝します。

(本選)>GT5買ってなかったけど見てみるかな
お勧めですが、クルマについてある程度知識がないとキツイものがあるかも知れません。でも適当にクルマ買って写真撮ってるだけでも楽しめるので、やっぱりお勧めです。これをきっかけにクルマに興味をもち始めては如何でしょう。あ、ミクは登場しませんよ。

>(前略)これの背景全部GT5ってこと?
うん。フォトトラベルでいろいろと。何といっても「最初からボケた状態の写真が撮れる」のがいいですね。4ではまだ画質や自由度の問題がありましたが、5から箱庭状ステージになって、とても撮りやすくなりました。ロケ地が少ないのが最大の難点ですが。

>コメントする隙が無い
もともとコメントで盛り上がる性質の動画じゃないですからね・・。肯定的な意味で言ってくれたのならうれしいです。

>フォトトラベルの使い方をことごとく間違えてるなw
ある意味それが狙いですから・・・笑。このアイデアをひらめいたときは「俺って天才じゃね」とか本気で思ってましたが、まあ結局そうでもなかったですね。なにしろMMD界のミナルディですから。

>スクリーンセーバーにしてくれんかなあw壁紙でもいいけど
すでになってます(笑。冗談はさておき、壁紙にして1,2枚ばらまくのもいいかも知れません。ただこういうものは何処でどうやって公開すればいいものか・・・誰か親切な方、ご教示願います。あ、余談ですが、今回使用した画像、実はFlickrに上げてあります。興味のある方は探してみてはどうでしょうか。

>色がきれいだ/>色の調整がうまいなあ
ありがとうです。あのトイカメラソフト、ホント使いやすいです。それでいて多機能・軽い・エフェクト多彩なんだから、もうどれだけオールラウンダーなのかと。

>一枚の絵として綺麗に溶け込んでるなぁ
ありがとうございます。思うに、上でも言ってますがGT5カメラの性質上、最初から「前ボケ」「後ろボケ」の状態の写真が撮れる、のが強みでしょうね。普通の写真から加工してああするのは一寸なかなか大変なんじゃないでしょうか。

>元写真の加工がうまいんだな
えー、、、夢をぶち壊す?ようで申し訳ないんですが、殆どの写真において元写真(=GT5の画像、ってことでいいのかな)をいじってません。加速度的に時間が切羽詰っていく中での製作でして、プロセスを大きく端折らざるを得ませんでした。(元)写真を読み込み、ミクを配し、出力し、エフェクトをかけ、、の繰り返しです。

>これミク入れた後で全体を加工してるんだな
ずばり、そうです。というかこのトイカメラエフェクトの場合、そうしないと妙な写真になっちまう恐れがあるんで、、、ただ表現手法(被写体を浮かせる)としては興味深いので、今度試してみるかも。効果があればまた次の動画に採用しましょう。

>zipでください!
「じpでくれ」ってヤツですね(笑。上でも言ったように壁紙として何枚か配布、は考えてますが、さすがに全部はありがたみが薄れるのでちょっと(作るほうも結構苦労があるんですよ)・・・。ここはひとつ自分で作ってみてはどうでしょうか(ぉぃ)。

>不自然なポーズが無いのも良い
どうもです。ポージングやアングルは結構、本・雑誌などから持ってきたりしているんです。雑誌といっても「TopGearマガジン」とか「F1レーシング」とかですが・・・。F1(ドライバー)フォトに意外と印象的なカットがあったりするんですな、これが。

2番目の「From the Rooftop -Somewhere in the Silence」ですが、これはアニメ映画「攻殻機動隊SAC -Solid State Society-」内で使われた音楽で、作曲・菅野よう子、作詞・ティム・ジェンセン、歌・イラリア・グラツィアーノ(ILA)という顔ぶれ。劇中、公安9課に属する狙撃手「サイトー」と、密入国してきたテロリストでありスナイパーの「ラジ・プート」との狙撃対決の際にかかっていた・・・はず(DVD貸し出し中なので確認できませんでした)。あのシーンは英語音声で見ても日本語音声で見てもゾクゾクするほどカッコいいんですが、このBGMがまたオシャレなんですな。イラリアというと「I Do」に代表されるバラード系の作品が有名ですが、こういうのを歌わせても似合うこと似合うこと。透き通って渋く響く歌声は、流行の先端を行くような歌手にはちょっと真似できないでしょうね。映像は前回参戦の「スターダスター」のヤツの延長線上にあるコンセプトで作っています。随所にコローニ的省力加工が見受けられますが、笑ってお許しを・・・え?コローニに失礼な物言いだって? ・・・コメ返しいきましょうか。

(予選)>実写合成かな?
むうう・・ちょっと違います。実写を背景動画として読み込み、MMDでモデルを配して出力してますが、これは実写合成に入るのだろうか・・・?

>本選期待!
ご期待に沿う動画だったでしょうか。コメントありがとうでした。

>マレーシアの風景?
・・・いや、そうじゃないです。前回もですが、素材はだいたいYouTubeからです。

(本選)>退廃的な空気が素敵
その反応は予想外だった!笑 ・・映像のせいかな?コメントありです。

>(前略)何を表現したいのか明確にわかると、もっと素晴らしかった
そうですか・・・。今後の課題がまたひとつ・・・w。コメントありでした、これからも(コローニなりに)精進したく思います。

>洋楽風PVなのかな
>日本っぽくないセンスだな・・確かに洋楽のPVにありそうだ
あ、それはあるかも。普段あまり邦楽聴かない・見ないもので・・・。お気に入りはColdplayにQOTSAにリンキンパークにスコット・マシュー(攻殻BGM担当の人)。見事にバラバラですが・・・。

>腕と服が背景色と同化してしまう(後略)
多分、私のせいです(爆)。ちょっと明度上げすぎたかな・・・次回気をつけるとしましょう。コメントありがとうでした。

さて、3つ目。もともとYouTubeで昔から存在したネタ「The Italian Man Who went to Malta」がベースの一種のパロディ動画です。元動画を見てもらうとわかりますが、ペイントで作られた静止画なので(この手作り感がまた笑いを誘うw)、これに倣ってMMD上で出力した静止画のスライドショーです。つまり動きません。そこ、「面倒だっただけだろ」とか言わない。たとえどんな大作を作り上げる腕があったとしても、この動画ならこの手法で攻めるのが「MMD界のユーロブルン」たる者の心得です。・・・ごめんなさいやっぱりめんどくさかっただけです

ところでこの動画、初級レベルの英語力(含リスニング)があれば十分楽しめるものですが、どうもコメントを見ているとそうでもないみたい。種明かしをすると、英単語の「Piece(一切れ)・Piss(ションベン)」「Fork(フォーク。イタリアーノ・イングリッシュでは"Fock"フォック)・F*ck(とても書けません笑)」「Sheets(シーツ。ベッドの上に敷いてあるあれ)・Sh*t(クソ)」の聞き間違いがテーマです。要するにイタリア人のムチャクチャ訛った英語のせいで引き起こされるカオス、ということですね。これどの辺まで実話なんでしょうかね、すごく気になりますw。やっぱり英語ネタは日本人の方には早すぎた?みたいですが・・・。ここでコメ返しいきましょう。

>動かない・・・
ネタ元に似せた結果こうなりました。めんどくさいってのもありますが

>難しいw
そんなに難しい語彙は入ってないんですけどね・・・ 現役時代のライコネンのインタビューのがよっぽど難しいですよ笑。

>面白いけど英語必須は敷居上がるわなー
そうでしたか・・・ちょっとネタの選定を間違えたかな。

>誰か日本語字幕を・・・
実は最初から、投稿者コメントで字幕つけようとも思ってたんですが、いかんせんアレを日本語に訳するのは私には無理でした。ゴメンナサイ・・・。

>なぜチャイニングw
ちょいと注釈しますと、「チャイニング」はつまり一時期話題になった「中国ガンダム」の愛称?で、この動画にはホテルマネージャー役で出演しています。ネタ元のキャラがなんとなくあんな感じ(元動画参照)だったので彼に白羽の矢が立った、というわけ。ただそれだけのことです。

>マレーシアではイタリア人の発音コケにしてるってことか?
マレーシアでは・・・というか、YouTubeでは、ですね。マレーシアはどうかわかりませんが、少なくともうちのクラスではそうですw。

>この動画長さ(筆者注:1分13秒)なら日本語付けた版つければいいのに
えー、上記のとおりですが翻訳作業を諦めざるを得ませんでした。よって日本語訳はいまんとこナシ、です。誰か日英両言語のユーモアセンスに優れる方、字幕つけてあげてください(またも丸投げ・・)。

というわけで、MMD界のフォルティ・コルセは以上のような結果を残して第7回MMD杯会場をあとにしたのであります。リザルトは、、、ま、どうせ「MMD界のAGS」に相応しいものになるでしょうがね(おいおいおい)・・・。最後に、今回も懲りずにわが動画たちを応援してくださった皆さんに最大級の感謝を。そして、文中にて比喩表現として登場した(させられた)ドベチーム関係者とそのファンの皆さん、ごめんなさい。Jumpa Lagi!

2011年8月28日 (日)

F1コラム:ザ・底辺チーム・エレジー ~博士の愛したドベチーム~

さて、前回記事において、こんにち話題に上ることの少なくなってきている偉大なるテール・エンダー達の戦いの場、「予備予選」(プレQ)について書かせていただいた。一寸の虫にも五分の魂、底辺であっても、トップチーム同士の厳しい戦いに遜色ない(たった1時間の)激戦を繰り広げる舞台は用意されていたのだ。しかしこの戦いの辛いところは「TVに映らない」というところである。予選落ちなら、少なくとも金曜午後や土曜日からカメラを回しているTV局(あるいは地元局)に運良く映してもらえる可能性もないこともないが、まさか金曜朝8時、誰もが布団の中で目覚まし時計に愚痴を吐いている時間に、うだつの上がらないドベチームだけのためにクソ重いTVカメラを持ち出そうなんて酔狂な考えの持ち主はいなかった。かくして、DNPQに終わったチームのスポンサーが得られる宣伝効果はゼロなのである。しかし、プレQ施行以前が主な参戦期間だったオゼッラは別にしても、例えばブルンやライフといったチームにさえ、必ずスポンサーが一つ二つは付いていた。よほど慈善企業が好きなのか、或いはドライバーにくっついてやってきたのであろう。91年日本GPのコローニのように、土壇場でスポットスポンサーを得る例もあるし、89年序盤のティレル(プレQ組ではない。どころかかなり好走を見せた)など、ほぼノースポンサーで走っていた。今回記事では、その善良(酔狂?)なスポンサー達と、彼らがプレQ組のマシンに添えた彩り(つまりスポンサーカラー)、ひいてはマシン、更にはチームそのもの(要するに全部・・)を中心に取り上げていこうと思う。一次資料がなかなか見つからない国に住んでおり、ネット上でもあまり有用な資料が得られなかったため、多くの部分を記憶や伝聞に頼って執筆せざるを得なかったことをお断りしておく。多少の事実との相違や記憶違いは、大目に見ていただければ幸いだ。

オゼッラ・スクアドラ・コルセ (Osella Squadra Corse)

エンツォ・オゼッラが創設したこのイタリアンチームは、1980年よりF1参戦を開始し、1990年にホイールメーカー「フォンドメタル」に買収されるまでこの名前で活動した。参戦当初から予選落ちの常連であり、スポンサーは常に「身内」ともいえるイタリア企業たち(一説には、スポンサーシップが税金対策だったとも言われる)が主だった。1984年イタリアGPでピエルカルロ・ギンヅァーニが5位2ポイントを獲得したのが最初で最後のポイントフィニッシュであった。これ以外にもアメリカGP(ダラス)でヨー・ガルトナーが5位に入っているが、チームが1カー体制でエントリーしたためポイントには加算されていない(ガルトナーはその後、1986年ルマンにおいてミュルサンヌ・コーナーでクラッシュし、事故死している)。
81年までは白ベースに濃紺のアクセント、82年以降は明るいブルー基調のカラー(1986年のものは特に調和が取れていて美しい)。88年は黒ベースに黄を入れた「スティエバーニ」カラー、89年は白ベースに赤とオレンジのピンストライプ(「フォンドメタル」を大きくフィーチャー)。フォンドメタルが資本参加した90年はオレンジ・濃紺・赤の3色配置であった。
初期のマシンは独自開発であったが、アルミのスペースフレームにカウルを被せるという古色蒼然なやり方で、明らかにオーバーウェイトであった。'83年からはアルファロメオのエンジン供給を受け、それと共に翌年からアルファ・183Tの車体を小改良したFA1Fとその親戚(改良版)たちをこき使って行くことになる。1号機がFA1、その改良版がFA1B、と続いていって、FA1IからJ、Kを飛ばしてFA1L(87~88年)、以下FA1M/FA1ME(90年)まで続く。Fはフォーミュラー、Aはアウトモビリ、1がF1をそれぞれ表し、最終年の「E」はエンツォ・オゼッラに敬意を表して彼のイニシャルを取っている。84年のFA1F以降、じつに88年・FA1Lまで、延々と同一の基本設計を使いまわし、しかも基本的なツボを抑えてくるマシン作り能力はある意味、脱帽に値する。しかしアルファエンジンは燃費が悪く、またシャシーの出来も良くなく、80年代を通して予選落
ちの常連であった。エンジンは82年までDFV 、83~84年序盤がアルファロメオV12、以降88年までアルファロメオ890T(88年はブースト圧が2.5に制限されていたのだが、よくもまあ実質83年生のエンジンで走ったものだ)、89年以降フォードDFR。
主なスポンサーはMS(80年代初期。タバコ)、SAIMA(同、運送会社)、パイオニア(同、カーオーディオ。現地法人か?)、デニム(同、化粧品。85年・88年ウィリアムズにも)、ケレマタ("Kelemata" 83~85年、化粧品。86年ティレルにも)、ミルデ・ソルテ("Milde Sorte" 84年、タバコ)、ランディス&ジル("Landys & Gyr"、読み方不明。86、87年、エネルギー開発)、エドモンド("Edmondo" 86~87年、不明)、ヴィクトル("Victor" 85~87年、不明)、スティエバーニ("Stievani" 88年、ビデオデッキ?)、シレナ("Sirena" 88~90年、セキュリティシステム)、SPAL(89~90年、不明。92年BMSにも)、フォンドメタル("Fondmetal" 89~90年、ホイール)、といったところ。大体イタリア企業である。これだけスポンサーが付いていながら資金難に陥る、ということはどれもこれもよほど小口の支援だったのだろう。87年鈴鹿では、一部で伝説となった「300円事件」を起こしている(パドックに置く椅子を3つ借りにサーキットオフィスへ行ったが、レンタル料1脚300円のために1脚だけ借りていった、というもの)。そもそも日本への遠征資金を捻出できたのが奇跡的ですらある。

余談ながら、筆者の手元に「1990年シーズンガイド」といった風の英語ブックレットが存在するのだが、オゼッラ・チーム紹介の欄に、「オーナーの執念で現在まで生き残っている」の一文が書かれていた。確かに、執念でもなければあんなチーム、さっさと手放して隠居したくもなるだろうに、なあ・・・。筆者のベストセレクションは86年・FA1Hと89年・FA1M。

フォンドメタル (Fondmetal)

上記のオゼッラを買収し、1991年から翌年第13戦・イタリアGPまで参戦したチーム。チームトップはエンツォ・オゼッラからガブリエル・ルミ(後ミナルディ)に交代。カラーは赤(ややピンクがかっていたように見える?)、黒、黄の配色。91年はオリビエ・グルイヤール→ガブリエル・タルキーニ、2カー体制が義務付けられた92年はタルキーニに加えてアンドレア・キエーサが加入(Rd11後エリック・ファン・デ・ポールに交代)。フォンドメタルのテイクオーバーによってマネジメントや資金面が多少なりとも安定し、特に92年はTWR製シャシーにフォード・HBエンジンを獲得したことで事実上の「ベネトン・パッケージ」となり期待がかかった。しかしシャシーに予算を割きすぎたツケで徐々に資金繰りが悪化し、遠征費用の欠乏をきたしイタリアGPを最後に撤退。その後はミナルディへの資本参加を行い(2000年)、相変わらずのドベっぷりを見せてくれた。
マシンは91年GR01、92年は中盤からGR02を投入。特にセルジオ・リンランドが鉛筆を執ったGR02はアンへドラルFウィングやF翼端板ボーテックスなど、流行の機軸を多く取り入れたデザインで見た目も「速そう」ではあった。事実、予選ではベテランのタルキーニがたびたびシングルグリッドにつけ気を吐いたが、資金難とシャシーが自家製ではなかったためか開発が進まず、入賞まであと一歩の歯がゆい展開が最後まで続くこととなった。結局「ドベチーム・ドベマシン」の汚名から脱却できず終わったが、GR02は実際に速さが伴った上、ルックスもすっきりしていて見目よろしいと来ており、「ドベチーム」で終わらせるには勿体無いほどの出来といえる。
スポンサーはあまり多くない。スゴマトゥット("Sgoma Tutto" 92年、不明)、フォッパペドレッティ("Foppapedretti" 91~92年、家具)、リースプラン("LeasePlan" 92年後半、海運。エリック・ヴァン・デ・ポールの持込)辺り。にしてもワープロで打ちにくいこと打ちにくいこと。

コローニ (Coloni SpA)

「F1・3大エンツォ」というのがあって、全部わかったらF1マニア度中級くらいにはいけるのだが、エンツォ・フェラーリ、上に書いたエンツォ・オゼッラ、そしてもうひとりがエンツォ・コローニである。それまでF3の名門チームだったコローニは、87年イタリアGPにて初めてF1に姿を現し、以後1991年までF1を戦った。F2やF3000を飛び級してやってくるドライバーは多いが、チームはなかなか珍しいといえる。ドベチームの例に漏れず徹頭徹尾カネが無く、その割にはクルーが陽気(有体に言えば「プロ意識の欠如」といったところか。しかし、成績がドベな上クルーがみんな陰気くさったチームは恐ろしすぎて見たくない)な、典型的な「イタリアン・ドベチーム」であった。思うに、あの頃のイタリアの男にとって「F1チームを持つ」ことは「一国一城の主」に似た、甘美な響きを持っていたのだろう・・・たとえそれがDクラスから動かしようのないチームであったとしても。
初期のマシンはロベルト・オーリが手がけたもので、シンプルな特徴のないシルエットであった。この頃の自然吸気エンジン搭載マシンに多い、「エンジン上部開口型」カウルを持つFC187、翌年型になってフルカウルが付いたFC188、その89年型であるFC188Bと続いて、1989年中盤からカラーリング、基本設計とも一新した全くの新型車「C3」を投入。しかしぴかぴかの新車であっても、彼らのチーム力をもってしてはプレQの突破すら困難であった(操縦性は思いのほか良かったらしい)。90年、スバルとのジョイントが大失敗に終わり、「C3B」に変えて「C3C」を投入。車体に全くスポンサーロゴの付かない状況は翌年まで続き、ついに1991年を最後に撤退。その後は下位フォーミュラーで有力チームに成り上がっている。
エンジンは、90年第1戦~第6戦で(とんでもなく遅い)スバル・フラット12を搭載した以外、すべてフォード・コスワースDFZ(87~88年)/DFRである。
カラーリングは黄色一色が良く知られているが、89年の新車投入以降は白ベースに黒、ブルー、黄を織り交ぜたカラーリングを施している。また、1990年にスバルが参入した際には白ベースにオレンジ・緑という塗装だった。その後90年後半戦は黄色に戻り、91年は再び白ベースに。ブルーとグレーがアクセントとして加えられており、見てくれはなかなか綺麗なものだった。

主なスポンサーはヒモント("Himont" 87~89年、不明)、Lpr(87~88年、ブレーキ)、モアロー("Moaroe" 88年、ピザ屋?)、マグナボスコ("Magnabosco" 88年、工業機械)、キャスト("Cast" 87~88年、不明)、ル・サンク("Le Cinq"、大きな「5」のマークで有名。89年、フランスのTV局)、スバル(90年)、マテウス("Mateus" 91年、ワイン。すごくマズいらしい)、ガルプ("Galp" 同、オイルメーカー。マテウスと共にペドロ・チャべスによって持ち込まれた)、JACCS(91年終盤2戦、信販。服部尚貴によって持ち込まれた)。
余談。服部は終盤2戦にスポンサー持参で乗っていたが、日本GPでオファーがあった際「もともといくら出せば乗せてやる、という契約だったのが、個人交渉で交通費からギャラまで全部出させた」という。確かに日本人として、またドライバーとしてすばらしい交渉能力だが、コローニごとき(失礼)にギャラを出させたところで幾許になるかたかが知れているだろうし(ペドロ・チャべスは「1万USD」と発言していた)、そもそも当時のコローニに支払い能力があったこと自体、驚異的ですらある。日本GPでは一口2万円で観客から個人スポンサーを募り(S-GTのグッドスマイルレーシングですらそんなことはやっていなかったぞ)、これが結構集まったというから、そのうちいくらかは彼のポケットに入ったのかもしれない。
余談その2。いつのお話だったか失念したが、シーズン終盤戦(最終戦一つ前=日本GPだったか)で、レースを終えてF1カーを運送するところへインタビュアーがやってきて、コンテナの中をのぞいてみると、F1カーのパーツにまじってサーフボードやテニスラケットなんぞが入っている。尋ねてみると、「最終戦が終わったらみんなで遊びに行くから、今から向こうへ運んでおくのさ」。清々しいまでのイタリアン・ドベチームであった。

ユーロブルン (EuroBrun Racing)

コローニと並んでプレQグランプリの常連として語り草になるチーム。耐久レースの雄ウォルター・ブルンがユーロ・レーシングと組んで(ユーロブルンの名前の由来)、88年から90年第14戦まで参戦した。強烈な個性を持つイタリアンチームに比べて、ややパンチに欠ける(?)きらいがあり、「ただ単にむちゃくちゃ遅い」というカワイソウな印象である。初年度はブルンの専属ドライバー的存在だったオスカル・ララウリと、F3000王者ステファノ・モデナを起用。翌年フォイテク(Rd11後ララウリ)の1台体制になるも、資金難にあえぐ90年、何を思ったか再び2台に(モレノ-ラングス)。第14戦でチームが瓦解した後、浪人の身にあったモレノはナニーニの負傷を受けて急遽、日本GPからベネトンに加入、その日本GPでベネトン1-2の一翼、2位に入る大金星を射止めている。
マシンは88年の1号機、ER-188から進んでいってER190まで。「ユーロレーシング」のイニシャル「ER」が入っているように、チーム内で主導権を取っていたのは常にユーロレーシング側であった。188/188Bはぼってりした感じで、あまり速そうではなかった。189からスリムになったが、遅いのは相変わらず。188Bは燃料タンク以後のカウルをすべて取り払い、エンジンが丸見えになった状態である。冷却に問題でもあったのだろうか。エンジンは初年度がDFZ、89年以降ジャッドCVを使用。
初年度は真っ白なカラーで参戦した(あとのほうのGPではスポンサーが付いて黄色が入る)が、翌年後半からはイエーガーマイスターの参入で例のオレンジ色に塗られる。悪くはないがいかんせんマシンが遅すぎた。90年はあろうことか銀色ベース。シルバーメタリックに輝くユーロブルンは最高にカッコ悪かった・・・。
スポンサーはMSOS('88年、不明)、イエーガーマイスター("Jagermeister" 89年後半、ハーブリキュール)、JSK(90年、ドイツの建設会社。現在は倒産しているという)、Lpr(同、ハイドロリックブレーキ)。

オニクス (Onyx Grand Prix)

F3000などに参戦していたチームで、1989年~1990年第10戦まで参戦。89年度は「マネートロン・オニクス」、90年中盤から「モンテヴェルディ・オニクス」。参戦期間を通して同じマシン(90年はBスペック)、ORE-1を使用。見分け方は、青地に入るピンストライプがピンク色(!)なのが89年式、緑色なのが90年式。またカーナンバー(89年は36、37。90年は35、36)でも判別できる。J-P・ヴァン・ロッセムの「マネートロン」なる会社(虚業であった)が持ち込んだスポンサー資金により、新興チームの中ではもっともコンペティティブに見えた。事実ヨハンソンが89年ポルトガルで3位表彰台をゲットするなど、幾度の入賞を含め光る活躍を見せる。しかしロッセムがF1に巨額の資金をつぎ込むことを渋り始め、89年いっぱいで撤退。90年はスイス・バーゼルの自動車会社モンテヴェルディが経営を務めたが、チームの内紛が続き、秋を待たずに撤退した。「底辺ラヴァー」の筆者から見ても、どうにも中途半端でいけないチームだ。
マシン設計はアラン・ジェンキンスが担当。小奇麗にまとまった感じのするORE-1は、それぞれ「Onyx」、「v.Rossem」、「Earle」(マイク・アール、参戦当初のチーム代表)を示す頭文字からネーミングされた。エンジンは2年通して(例によって)フォードDFR。
スポンサーは89年マネートロン、90年モンテヴェルディ以外目立ったものは付いていない。マネートロンの資金で十分持つと思われたのであろうが、上述のとおり「底辺ワールド」ではそう上手くいくことは少ないのだ。ヨハンソン、ガショー、レート、フォイテクといった、筆者が歓喜するようなドライバーを取り揃えていた点だけは評価できる。
またまた余談。90年のあるレース、レートが原因不明のハンドリング悪化を訴えた。とりあえずマシンをばらしてチェックするが、特にこれといって問題はない。おかしいと思って上から下まで見通すと、なんとドライブシャフトが逆向きに組みつけられていたという。底辺チームには非常に良くあるエピソードだが、どうもこのチームのまとまった印象とは離れている小話のように思う。

AGS (Automobiles Gonfaronaise Sportives)

南仏・ゴンファロンという小さな町からスタートしたレーシングチーム。86年最終戦から91年第14戦スペインまで参戦。アンリ・ジュリアン率いるF1チームとして、86年最終戦(豪州)に、前年型ルノーRE60をモディファイしたJH21にモトーリモデルニV6ターボを搭載して突如出現(ドライバーはカペリ)。87年はDFZに載せかえ、パスカル・ファブル(第14戦後モレノに交替)を起用。ギリギリながら予選を通過することも間々あった。88年以降ストレイフ、タルキーニ、ダルマスといった、「ドベチームご用達」ドライバー達を次々起用。底辺チームの慣例(様式美?)に倣い、年が進むにつれて財政が火の車になっていき、91年開幕時点での負債総額実に150億円。普通そんな赤字を抱えてまで参戦しようとは思わないぞ。案の定というか例によってというか、予選落ち・予備予選落ちの山を築くことに長けたチームで、決勝にでてもギアボックスやメカニカルトラブルでDNFに終わるのが関の山、といった標準的ドベチームであった。
マシン設計は良く言えば「堅実」、ありていに言えば「見るべきものがない」。まあこの記事に載るようなマシンは大体そんな感じなのだが・・・。87年のJH22などは見た目いかにも遅そうというか、もっさりしていて、しかもカウル上に不恰好の極みの煙突状エアインテークが付いていたり、こんなマシンが予選を通過してくるのが不思議で仕方ないものだった。88年以降はかなりマシ(まとも)になり、以降はプレーンな設計が晩年まで続く。エンジンは88年までDFZ、以降DFRを採用。このエンジンチョイスも、ある意味ドベチーム的様式美の一端といえなくもないか?

カラーリングはかなりコロコロと変わっている。86・87年は白地に「エル・シャッロ」の赤いストライプ(+へんてこなバラのロゴマーク)に金縁のホイールで、もうどこをどうやったらこんなカラーがひねり出せるのか、といいたくなるほどだった。88~89年はグレー、ブラック基調(88年ブラジルのみ真っ白)の渋いカラー(=筆者モロ好み)に路線転換。91年は白地にブルー、新車投入後は水色・紺色地に虹色という、まるでゲイコミュニティのような全く意味不明なカラーリングだった。1990年のJH25に塗色された、黒地に灰・黄文字で「ラピダス」のマシンは、トップチームと変わらない美しさを持つと思う(成績の話は抜きにして)。
善良なるスポンサー達は主にフランスの国内企業。エル・シャッロ("El Charro" 86~87年、ファッションブランド?)、ブイグ("Bouygues" 88~89年、建設会社)、テッドラピダス("Ted Lapidus"、単に"Lapidus"とも。ファッションメーカー)あたり。他にも零細スポンサーがいろいろ付いていたが、いまひとつ思い出せない。やはりイタリアンチームと比べてしまうと、あまり印象の深いところではなかったのだろう。

フットワーク (Footwork Arrows)

91年から一時的にアロウズを買収し、96年まで「フットワーク」の名前で参戦していたが、母体はれっきとしたアロウズ。ここでは、特に90年(この年はアロウズ名義)~93年の、「フットワーク」スポンサーシップを前面に推しだしたチーム体制のころについて語る。ご存知日本の運送会社であるフットワークだが、93年のEC統合を目前にして国際的な市場を欲したのであろう、手っ取り早い策としてF1を選んだ(バブル華やかなりし時代のお話だ)。91年にポルシェに3000万ドル(!)ポンと渡してV12を作らせたエピソード(そしてその後のドベっぷり)はつとに有名。F1ではそんなやり方は通用しない、ということを全世界に知らしめた。その後無限ホンダ・エンジンと鈴木亜久里を擁して日本色を強めるが、ポイントをゲットして帰ってくるのはいつもチームメイトのほうであった。
1990年A11Bはロス・ブラウンの手になる佳作だったが、90年に彼が離脱したため設計の現場は経験の浅いジェームズ・ロビンソンに任された。翌年のFA12Cからはアラン・ジェンキンスが担当している。92年に無限ホンダV10を獲得してからは速さ・信頼性とも大きく改善し、特に93年はワーウィック、鈴木亜久里とも予選シングルグリッドの常連とあるも、レースでなかなか結果が付いて来ず、期待はずれに終わった。90年以外にも、91年フランスGPでポルシェに三行半を突きつけてからのシーズン後半戦をDFRで戦っている。94年以降、フットワークは大々的な支援活動を終了し、マシンから「Footwork」の文字は消えた。
カラーリングは一貫して白地に赤のアクセント。当時のフットワークのCIだが、図らずも「日の丸カラー」である。フットワーク以外にスポンサーは、カモッツィ("Camozzi" 90年、油圧機器)、ギアボックス("Gearbox" 90年、服装)、USF&G(90年、金融)、ブラウパンクト("Blaupunkt" 91年、オーディオ機器)、東芝(92~93年、家電。鈴木亜久里の持ち込み)といった面々が付いている。90年のA11B(前年A11とは結構違うクルマ)は、見た目もカラーリングもすっきりしていて美しい。対照的に91年のFA12Cは、シングルステーのFウィングなどどうしても「ボテッ」とした印象がぬぐえず、実際に3000万ドルのポルシェV12エンジンは重く回らず走らず、予選落ちを山と築いて終わった。まあ、バブル期によくありそうな話ではある。

ラルース (Larrouse)
戦績的にここに含めるのはやや不本意だが、スポンサーがかなりおいしいことになっているので記載。87年から94年まで参戦。プレQグランプリには89年後半~90年前半まで参加している。鈴木亜久里(なぜかコイツもワープロではとっても打ちにくい)の90年日本GP3位表彰台が、おそらくチーム最後の輝きだっただろう。88年まではDFZを乗っけた単なる底辺だったが、89年にランボルギーニV12のユーザーとなる。当初は「V8程度のパワーしか出ていなかった」という代物で信頼性も悪かったが、90年ごろには熟成も進み、速さをつけてくる。その矢先にリジェの詐欺めいた手段に乗っかってエンジンをぶん取られてしまい(リジェ・ランボルギーニは結局91年、1ポイントも獲得できなかった。人から奪っておいてこの体たらくは正直カッコ悪いぞ)、あっという間に煙を吐くハートチューンのDFRで91年を戦う(いちおう、こちらはUS・カナダで1ポイントずつ獲得)。その後92年からふたたびランボルギーニを搭載。94年はランボルギーニ撤退によりフォードHBを載せる。90~91年亜久里、92年片山右京と、なかなか日本人ドライバーと縁のあるチームだった。
マシン設計はクリス・マーフィーが主に担当。参戦開始当初のLC87、LC88はエアファンネルが外に露出したスタイルだった。89年開幕戦に、応急的にLC88Bにランボルギーニ3512を搭載しているのだが、カウル全開の後部に巨大なV12が鎮座する様は一種威容(「異様」と打とうとしてこう出てきたのだが、まんざら間違いでもないよなぁ)だった。ランボV12は、パフォーマンス的にはベストではなかったかも知れないが、サウンドは間違いなくベスト・オブ・GPエンジンであろう。YouTubeにて90年ロータス・ランボルギーニのオンボード映像が流通しているので、聞いてみるといい。今日の2400ccV8がかすんで見える(聞こえる?)美しい音色だ。

スポンサーは主にキャメル("Camel" 88~89年、タバコ)、エルクロン("Elkron" 88年、電子アラーム)、ローヌ・プーラン("Rhone-Poulenc" 88~90年、製薬)、セーヌ・マリティム("Seine-Maritime" 89年、フランスの自治体)、ゲオ(90年。ご存知レンタルビデオ屋)、ユニシス("Unisys" 90~92年、コンピューター)、バイエル("Viel&Cie" 88~90年、金融)、セントラルパーク("Central Park" 91~92年、地産)、キャビン("Cabin" 92年、タバコ)といった辺り。93年まで一貫して黄・緑・紺・赤の混ざった、カッコいいカラーリングだった。

後期ブラバム (Motor Racing Development Ltd.)

正式名称「モーター・レーシング・デベロップメント(MRD)」、通称「ブラバム」。3度世界王者に輝いたサー・ジャック・ブラバムの創設した偉大なチームで、66、67年にコンストラクター部門連覇、81、83年にはネルソン・ピケを擁して2度のドライバーズ・チャンピオンに輝いた。いち早くターボエンジンを導入し、パワフルなBMW直列4気筒ターボを搭載して大活躍。しかし他社のターボ技術熟成が進んだ1984年以降成績は下降線をたどり続け、名手ネルソン・ピケをもってしてもさっぱり勝てなくなり、マシン開発にも失敗し(おもな原因:ゴードン・マレー)、ついにBMWの撤退によってエンジンをも失い、1988年シーズンを不参戦で終える。1989年、チームは日本人・中内康児が率いる「ミドルブリッジレーシング」なる組織に買収され、その後1992年ハンガリーGPまで参戦。この記事では、この1989~92年の「後期」ブラバムを取り上げる。
カラーリングはいわばブラバム「伝統」の白/紺。スポンサーの関係もあり、1980年からずっと使われてきたカラーリングだ。色合いによって白/青だったりもしたが、92年末期、日本のロック・グループ「聖飢魔ll」がスポンサーについた際は「ピンク/青」というすさまじいカラーに塗られた。この92年式BT60Bは、後のワールドチャンピオン、デイモン・ヒルのデビューマシンでもある。また開幕数戦ではジョバンナ・アマティなる女性ドライバー(もともと日本の中谷明彦を乗せるつもりだったが、Sライセンスが発給されず。話題性を優先したFISAの思惑とされている)が乗っていたが、ブッちぎりで遅かった上に予定されていたスポンサーからの入金がなく、第3戦後(順当に)解雇されている。他にはステファノ・モデナ、マーティン・ブランドル、デビッド・ブラバム(サー・ジャックの次男)、マーク・ブランデル、エリック・ヴァン・デ・ポールといった、渋い面々を取り揃えていたのが特徴。89年は予備予選組の中でトップクラスの速さを誇り、レースでもたびたびポイントフィニッシュを挙げ、「腐ってもブラバム」を見せ付けた。しかし後期になるにつれて結果が付いてこなくなり、92年に入ると資金難から開発も進まず予選落ちの常連と化し、ついに資金が枯渇したハンガリーGPで撤退した。
マシン設計は堅実そのもの。あまり冒険しない設計で安定したマシンだったが、一発のスピードに絶望的に欠ける上、ヤマハ・エンジンの信頼性が悪く、結果につながらないことが多かった。90年までジャッドV8を搭載、91年にはヤマハV12エンジンを積んでいる。しかしヤマハはよりコンペティティブであったジョーダンとの道を歩むことを決意(その後のジョーダン・ヤマハの命運はご存知のとおり)、92年は再びジャッドに戻る(こちらはV10)。
スポンサーは末期症状を呈するチームらしく、零細(しかも日本企業)が多い。バブルで金余りの日本企業が、「まあちょっとやってみっぺか」的なノリでF1に進出していった時代である。主なものはバイオトロン("Bioptron" 89年、ハンガリーの製薬会社)、伊太利屋(90年、婦人服)、カルビー("Calbee" 90年、食品)、山善("Yamazen" 90~92年、工作機械)、マドラス("Madras" 91~92年、靴)、三井物産(91年、物産)、住友海上(91年、保険)、オートバックス("Autobacs" 91年、自動車部品)、三越(90~91年、百貨店チェーン)、リースプラン("LeasePlan" 92年序盤、海運。エリック・ヴァン・デ・ポール持ち込み、ポールの移籍に伴い後半戦よりフォンドメタルに鞍替え)、聖飢魔ll(92年後半、ロックバンド)。ほとんど日系企業だ。特に91年はヤマハがエンジン供給していたこともあり、日系企業のブラバムに対する手厚い(?)サポートが目立っている。

ライフ・レーシング・エンジンズ (Life Plc.)

どうあがいても底辺チームから動かしようが無いのがこのライフ。元フェラーリのエンジニア、フランコ・ロッキが開発したW12エンジンは、V8エンジンのバンクの中に直4エンジンをもう一つ乗っけるという、良くも悪くも画期的なアイデアであった。V8のサイズでV12のパワーを実現できる、と意気込んだロッキは、エルネスト・ヴィタにエンジンを売り込み、1989年にF1参戦を企て失敗したファースト・レーシングのモノコックを購入してF1参戦を開始。チーム名「ライフ」は、エルネスト・ヴィタのファミリーネームの英訳である。1990年開幕戦から、資金が尽きた第14戦まで参戦。
このチーム、もうこれだけで記事一本書けそうなほどネタの宝庫なのだが、まあここではほどほどに割愛しておきたく思う。彼らのマシン「L190」(「F190」とも)はフェラーリのごとく真っ赤に塗られ(ロゴまでフェラーリに似せていたのが哀愁を誘う)、スリムなノーズセクションは「おっ」と思わせるものがあるが、エンジンが鎮座する部分のカウルは大きく膨れ上がり、両脇には巨大な洞窟のようなエアポッドが開いているという外見であった。ものを見る能力に恵まれた人間なら、到底「格好いいレーシングカー」とは思えないようなマシンである。
ライフW12エンジンは、上記したように「V8サイズ、V12パワー」を目して設計されたものだが、結局のところロッキが目指したいいとこ取りはならなかった。ばかりか、V8のアンダーパワーとV12の過重、過熱問題をも抱え込むハメになってしまったのだ。まるでバーナード・ショウ翁のブラックジョークの世界である。700馬力のホンダ・エンジンや600馬力のフォード・エンジンに対抗するには、F3000マシンより遅い350馬力(!)のエンジンに過重なシャシーではお話にならないのは明白であった。事実、彼らのプレQのタイムはどれも5分とか7分とか(唯一の計測ラップで故障するとこういうタイムになる)、果ては15分などという意味不明なタイムをたたき出している。しかも、コイツは5週以上持ったことが無いのだ。信頼性悪化の原因は、おもに相互バンク間で発生する熱干渉のせいだったと言われるが、それぐらい設計段階で予見できなかったものだろうか・・・。第13戦後、ついにW12を捨て元レイトンハウスのテスターだったドライバー、ブルーノ・ジャコメリのコネでジャッドV8を入手したが、エンジンが変わってもプレQ通過タイムには程遠く、遠征費用がかさむ日本・豪州連戦を前に撤退。資金以外にも、参戦目的の変化(もともとW12エンジンの実戦テストであり、エンジンを下ろした時点で参戦意義がなくなる)も撤退を促した要因だった。
ドライバーは当初ゲーリー・ブラバムを起用したが、たった2戦で夜逃げされ(正しい判断だったと思う)、その後は老兵ブルーノ・ジャコメリを起用(最後にF1を走ったのは1983年・トールマン)。チーム内のコネで引き込まれたジャコメリだが、走らないマシンに嫌な顔一つせずエンジン組み立てを手伝ったり、律儀に金曜朝にサーキットに現れて、ニコニコしながら1時間過ごしていた。立派な人間だ。
投資先を見誤ったとしか思えないスポンサーはS.T.I.P.A.C(不明。サーチしたところフランスのベビー用品メーカーが出てきた・・・笑 )、アルビニ&フォンタノット("Albini & Fontanot" 家具メーカーか?)、ライフPlc (不明、系列会社か)辺り。
以下余談。どのGPだったかプレQで、ピットアウト後400mでマシンがストップ。原因はなんと給与未払いに腹を立てたメカニックが「エンジンオイルを抜いておいた」ため。ある意味、最強のチーム力である。

アンドレアモーダ (Andrea Moda)

ライフ同様、不動のD級チーム。上に挙げたコローニが撤退後、それを買収したイタリアの靴メーカー(なぜGPに興味を持ったのか・・・)社長アンドレア・サセッティが、ニック・ワースが製作したS921(その後彼は「シムテック」チームを立ち上げる)で92年開幕戦から第12戦ベルギーまで参戦。ライフ同様ネタの宝庫的存在。マシン(初期はコローニC4を流用)・エンジン(ジャッドV10)がしっかりしていたが、それを補ってなお余りある(といったら語弊があるだろうか?)ほどマネージメントがメチャクチャだった。開幕戦は保証金滞納で出場停止、第2戦はS921が間に合わず不参加。ちなみにこの年の参戦台数(開幕時点)は32台、予選上限は30台、ということは、このチームの2台が参加するかどうかで、金曜朝の風物詩・プレQグランプリレースの開催そのものが左右されるという状況であった。他にも、年間予算500万ドルなのにレースクイーンが4人もいたり、スタッフのシャツが日替わりだったり(服飾メーカーのプライドか?)、妙なところで存在感のあるチームである。最後はサセッティがベルギーGPにおいて通関書類偽造のかどで逮捕されるという悲喜劇的な幕切れに終わり、「F1の信用を失墜させた」と怒り狂ったFISAからF1サーカスを追放された。FISA(FIAも)なんぞ「強きを助け弱きを挫く」ために存在するようなものだから仕方が無いが、こういうチームもいたほうが人間臭くて面白い、と思ってしまうのは筆者がドベチーム的思考に毒されているからなのだろうか。
エンジンはジャッドGV V10。個体そのものは後年、ヤマハV10のベースになった良作だが、使用料の滞納が原因で、カナダGPではブラバムからエンジンを借りて(!?)出走している。おおらかな時代である。
ドライバーは当初アレックス・カフィとエンリコ・ベルタッジア。しかし開幕戦・第2戦とも走っていないため、このラインナップは実質的な意味を持たない。その後第3戦からロベルト・モレノとペリー・マッカーシーの2台で参戦、しかしチームはモレノ偏重の体制で(実力的に仕方ないか)、マッカーシーなど「ドライ路面をウェットタイヤで走らされた」事すらあるという。モナコGPで予備予選中にヴェンチュリラルースの片山右京が自爆したため、モレノが奇跡的に決勝グリッドにマシンを並べる「事件」を起こしたが、それ以外は順当に全戦DNPQ。スポンサーはアンドレアモーダ(ようするに自分の会社)以外に、夕刊フジがついていたりもした。

これ以上長くなると筆者の書く気がうせるのでこの辺にとどめておく。右のリンクリストにF1関連のリンクが2つ(一番上のね)入っているので、そこからもっとディープな話題を求めたり、或いは画像を探すだけでも十分楽しめるだろう。もちろん、「今はこの記事でおなかいっぱい」という読者諸兄もいるかもしれないが、そうであれば筆者の幸いである。なにしろ、それはF1初心者にとって十分すぎるほどの(ムダな)知識をインプットすることが出来た、ということなのだから・・。

2011年8月27日 (土)

F1コラム:ザ・底辺チーム・エレジー ~「予備予選グランプリ」~

「最近になってF1を見始めた」という人も多いだろう。日本では小林可夢偉のトップドライバーを向こうへ回す大活躍でファンも増えていると聞くし、筆者の居住するマレーシアでは、同国のビジネスマンの夢であるトニー・フェルナンデスの興したエア・アジアがスポンサードするチーム・ロータスの参戦によってF1が注目を浴び始めている。最近で言えば、そういった「F1観戦ルーキー」の間で取りざたされがちなチームの筆頭に、今をときめくレッドブルが挙げられる。以下マクラーレンやフェラーリなどの強豪チーム特に'11年の優勝経験チーム、これもだいたい10人に8.5人くらいは知っている。メルセデスGPは今ひとつ精彩に欠けるチームだが、マレーシアの国営石油会社ペトロナスが全面スポンサードとあって、TVCM垂れ流しの影響でやはり知名度は高い(「皇帝」ミハエル・シューマッハの存在も一役買っているに違いない)。とまあこんな感じで、トップチームはTVにも良く映るし広告効果も高く、自然人目につくというわけだ。

それに比べて、既に撤退してエントリーリスト上から名前が消えて久しいチームの扱いはひどいものである。例えばミナルディ、これは2005年を最後にトロ・ロッソと名を変えレッドブル・セカンドとして参戦しているのだが、この母体である「ミナルディ」というチームの名前を知っている人間は、筆者のまわりでは一人しかいない。ミナルディなぞ、底辺チームの雄としてフェラーリにも負けない熱烈なファン層(?)を持つチームであるというにこの扱いなのだ。例えばオゼッラやコローニ、ユーロブルンといったチームを知っている人間が、果たしてあなたの生活圏内に何人いるだろう。ひょっとするとあなたも知らないかもしれない。今回のF1コラムでは、普段そういったF1初心者が一寸目も向けないようなチームについて書いていこう。

1989年ごろのF1は、今と違って「大盛況」だった。観客もそうだが、エントラントも然りである。この年から一時代を築いたターボ・エンジンが全面的に禁止され(87年からNAエンジンそのものは解禁されていたし、88年にはターボ・エンジンに大きな制限が課され性能差の軽減を図っている)、3500cc自然吸気エンジンのみが使用を許可されることとなったのだ。また前年より、名機「DFV」の流れを汲むフォード・コスワース製「DFZ」エンジン(3500cc V8自然吸気、推定最高出力575~600hp)の一般市販が開始され、新規チームがF1に参入する絶好の機会を演出したのだ。そして1989年、エントリーリストに名前を連ねたチームは実に20。総参戦台数、39台(ユーロブルンのみ1台体制)。そのうち日曜日の決勝レースでグリッドに就けるのが26台、予選に参加できる台数が30台。あとの9台を篩いにかけるべく、1988年から「予備予選」(Pre-Qualify、「プレQ」とも)が金曜朝に行われることになった。予備予選が免除される台数は26台という規定があったため、13台が予備予選に出走し、そのうち4台が通過(=予選出走)という決まりができた。筆者の中では、だいたいのケースに於いて88年から92年(第11戦まで)に開催された「予備予選・グランプリ」の出場チームを「底辺チーム」と定義している。

さて、プレQにはもうひとつ規定があって、「前半8戦と後半8戦で対象チームが入れ替わる」というルールがある。例えばプレQ対象チームであっても、その年の前半戦で十分な戦績を残せば後半戦はプレQ免除の可能性が出てくるし、逆に名門チームであっても、前半戦でドベにはまれば後半戦でプレQ組に成り下がる可能性も出てくるというわけ。ここで、参考までに90年までの「プレQグランプリ」参戦組を記してみよう(通してじゃないのは、単に調べるのが面倒だから。ネット上にも殆どプレQ・GPの詳細はない)。

88年(初年度):オゼッラ(Nラリーニ)、コローニ・フォード(Gタルキーニ)、ユーロブルン・フォード(Oララウリ、Sモデナ)、BMSスクーデリアイタリア・フォード(Aカフィ) 5台中4台通過

89年前半:ブラバム・ジャッド(Sモデナ、Mブランドル。88年を欠場したため新規チーム扱いとなりプレQ組に)、ユーロブルン・ジャッド(Gフォイテク)、オゼッラ・フォード(Nラリーニ、Pギンヅァーニ)、スクーデリアイタリア・フォード(Aカフィ。同僚チェザリスは免除)、リアル・フォード(Vヴァイドラー。同僚ダナーは免除)、コローニ・フォード(P-Hラファネル)、AGS・フォード(Jヴィンケルホック)、オニクス・フォード(Sヨハンソン、Bガショー)、ザクスピード・ヤマハ(Bシュナイダー、鈴木亜久里。亜久里はこの年全戦DNPQという有名な記録を打ち立てる)、13台中4台通過、ただし開幕戦ブラジルはAGSの欠場により特例で5台通過。

89年後半:オニクス・フォード(Sヨハンソン、Bガショー→JJレート)、ラルース・ランボルギーニ(Mアルボレート、Pアリオー)、オゼッラ・フォード(Nラリーニ、Pギンヅァーニ)、AGS・フォード(Gタルキーニ、Yダルマス)、コローニ・フォード(Pラファネル、Rモレノ)、ユーロブルン・ジャッド(Gフォイテク→Oララウリ)、ザクスピード・ヤマハ(Bシュナイダー、鈴木亜久里)、13台中4台通過。

90年前半:ラルース・ランボルギーニ(Eベルナール、鈴木亜久里)、AGS・フォード(Gタルキーニ、Yダルマス)、ユーロブルン・ジャッド(Rモレノ、Cラングス)、オゼッラ(Oグルイヤール)、コローニ・スバル(Bガショー)、ライフ(Gブラバム→Bジャコメリ)、9台中4台通過。

90年後半:リジェ・フォード(Nラリーニ、Pアリオー。オニクス撤退により第11戦より再び免除)、AGS・フォード(Gタルキーニ、Yダルマス)、ユーロブルン・ジャッド(Rモレノ、Cラングス、第14戦後撤退)、オゼッラ(Oグルイヤール)、コローニ・フォード(Bガショー)、ライフ(Bジャコメリ、第14戦後撤退)、9台中4台通過。

とまあ、何気にこのセクションだけで執筆に1時間くらいかかっているほど資料がないのだが、チーム名を眺めているだけで筆者などワクワクしてきてしまうのだ。これらのチームのうち、リジェは90年前半の度重なるトラブル、DNFがたたって一時的にPQ組に落とされたものの、すべて通過している(DNQもベルギーGPでのアリオーのみ)。また過去の戦績や実績、歴史もあり、「名門チーム」と呼ぶに差し支えない、例外的な存在であろう。その他プレQグランプリ参戦チームを見ていると、圧倒的多数がフォード・コスワース・エンジンを搭載している事実に気づく。フォード・コスワースDFZと、その改良版DFR(89年より市販)は、いわば「プレQ組ご用達」な、ちょっと不名誉なエンジンであったわけだ。ホンダやフェラーリといったマルチ・シリンダー・エンジン勢が甲高く美しいサウンドを響かせて疾走していたのに対し、フォードコスワースはDFVの流れを汲むドロドロという低く濁った、なんとも前時代的な音であった。そんな「土臭い」音が象徴するように、DFZ/DFRエンジンは常にアンダーパワーに悩まされ、そのパワーを何とかしようとしばしばベースエンジンの限界を超えた(コイツの大元は1968年のDFVなのだ)チューニングを施され、結果「信頼性」というお荷物をも抱えることになってしまった。下位チームがこんなことになったら絶望である。もともと遅い上によく壊れる→プレQグランプリに回される→TVに全く映らない→スポンサーが付かない、お金がない→開発できないからもっと遅くなる・・・。潔いまでの悪循環である。事実、上に挙げた「予備予選コンテンダー」達は、殆どが90年代前半までに資金難によって姿を消している。

このフォード・コスワースエンジンを搭載した、80年代末期~90年代初期の底辺F1マシンたちが、筆者のまさにストライクゾーンなのだ。アラン・ジェンキンス、クリス・マーフィー、アントニオ・トマイーニ、ミッシェル・コスタといった、「一流デザイナー」から一歩離れたところにいるデザイナー達が設計したマシンたちは、どれも簡素なラインにオーソドックスな(言い換えれば「特徴のあまりない」)設計理論を持ち、お世辞にも「速そう」とか「綺麗」といった代物ではなかった。しかし、例えばオニクスORE-1のあのインダクションポッドのラインは、マクラーレンには出来なかった芸当だ。或いはオゼッラ・FA1Mのカウル後方、エンジンマウント上部のバルジ形状は、AGS・JH25の、ラピダスカラーの灰・黒・黄に塗られた美しいカラーリングは、どれもマクラーレン、フェラーリ、レッドブルにはない魅力である。当時のトップチームのマシンの、工芸品のような美しさとは違った、「人間臭さ」を主張してやまないプレQグランプリのマシンたちに、もっと目を向けてはどうだろうか。

2011年8月12日 (金)

ゆきはねミクさん

新しくMMDで動かせるミクモデルが公開されました。「ゆきはね」氏の手になるもので、こちらにて配布中です。特徴としては、緑がかったカラーに変更されたトルソ、幼めに調整された顔立ち、短い(というか常識的な長さ?)ツインテール、ハイヒール化されたブーツ、といったところ。ということで、さっそく静止画を(1枚だけですが)作って遊んでみました。

Yhtestjpg_effected

640サイズ、エッジ0.48にて出力です。エッジなしだとどうあがいても左手が白とびしてしまってダメでした。エッジは0.5くらいを推奨とあるので、まあこれでOKでしょう。背景はルツェルン・カペルブリッジにて撮影、後ろにいるのはマセラティ・GT MCストラダーレ(風に改造したグランツS。車高調+モビーディックウィング+RAYSトリニティ装着で外見だけカスタム)。ポーズは借り物、文字通り3分クッキング状態なので、突き詰めればもちっといい出来になったかと思います。

さて、以下余談。マセラティのハイエンド・スポーツモデルである「グランツーリスモ」の最上級グレード「S」を元に、いわばメルセデスのAMGやBMWのMシリーズの位置づけで開発された(と思う)のがこのMCストラダーレ。「MC」は「マセラティ・コルセ」(名GTカー、MC12を覚えている方も多いはず)、「ストラダーレ」はイタリア語で「ストリート」。つまりコイツは「レース車輌のストリートバージョン」という前提のもとに産み落とされたわけです。パワーは10馬力アップの450hp、トルクは20Nmアップの510Nm。エンジンベイに横たわる(?)は各所にリファイン、再調整が施された4700cc・V8自然吸気。遮音材の排除や排気系統の見直し、リアシート撤去などにより1400kgまでダイエットを敢行しつつ、カーボンフレームのバケットシートの表皮には最高級のアルカンタラが使用され、イタリアンな粋っぽさをかもし出しています。ステアリングコラムの巨大なパドルをタッチすれば、60ミリ秒でブリップダウン。跳ね上がる回転計の針にあわせて唸りを上げるハイ・オクターヴのレーシング・サウンドが、デイリーユースに十分耐えうるこのクルマの出自がかつてのF1チャンピオン・コンストラクターであったことを思い起こさせます(筆者注:マセラーティは1950年代、アルファロメオやフェラーリとともにF1グランプリの黎明を支えた存在。しかしその後60年代を境に撤退し、以後レース界に表立って登場してはいない)。これほどまでにハード・ボイルドでありながら、ボディーラインはオリジナルのそれを良く残しています。ゴテゴテしたエアロパーツや無骨なエア・ヴェントなど言語道断。フロントホイールアーチからAピラー、そしてトランクリッド先端へ流れる美しい一本のラインに見事に融けこむ、控えめながらしっかりと機能を果たすリアウィング。オリジナルそのままのデザインでフロントグリルを取り囲む空気取り入れ口は左右にチャンネルが開けられ、カーボンセラミックのブレーキパッド(ブレンボ製)に風を送ります。ひとことで言ってしまえば、Briliantなクルマです。

・・後半、趣味がモロに出てきて本題と全く関係の無いお話になっちまいました。どうもすんません。しかし綺麗なクルマですよねえ・・・

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