« 2014年9月 | トップページ | 2014年12月 »

2014年11月

2014年11月17日 (月)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1987」

始発があれば終電があるし、命あるものはいずれ死ぬし、形のあるものはいつか壊れる。はじまりがあれば終りがある。1982年、いわゆる「グループC」規定の施行とともにモータースポーツ・シーンに一挙に到来したポルシェの時代も、そういった意味ではいずれは終る性質のものであった。ただ長く続くか、みじかく続くかの違いだけである。ポルシェは新規定の時代が明けるや、時をおかず最新鋭兵器956 (のち962C) で世界中のスポーツカー競技の覇者となり、まさに一夜にして世界の頂点に立ち、ほかの車はすべてポルシェの足元に傅かなければならなかった。そしてその王朝の終りは、はじまり同様唐突なものではなく、自らのすわる玉座を押し流そうとする時代の流れのなかでひじょうにゆっくりと訪れた。それは例えば地面に立てた棒が倒れるごとく一瞬のものではなく、むしろ川べりの盛り土が水の流れに蝕まれてすこしづつ削れてゆくようなものであった。この長い物語は、さまざまの逆境のなかでポルシェ・ワークスや各チームのクルーたちが見せた、じつに尊敬すべき敢闘精神によって書かれたものである。以下このシリーズでは、いわゆる「末期戦」のポルシェ・962Cの残した航跡を、モデルカーとともに再確認していきたい。テーマ上、「962C」という車の成り立ちや基本的なつくりについては割愛し、あくまである特定の時点における特定の車に絞って解説したく思う。   
(この物語をより深く理解するには、グループC規定の発足やポルシェ・956という車、またその歴史的背景などをある程度知っていることが望ましい。しかしさしあたっては、「ポルシェがつくった962Cというレーシングカー」が一世を風靡し、かつて世界中のサーキットで無敵を誇っていたという事実をわかっていればじゅうぶんであろう。)      
      
8701

 

スパークモデル・S0943、ポルシェ962C n.18 LM 1987。1987年ル・マン24時間レースにて、ポール・ポジションを得ながらも約一時間でエンジン・トラブルによりリタイヤした、シャシーナンバー962-008の個体である。ドライバーはヨッヘン・マス、ボブ・ウォレック、ヴァーン・シュパンであった。   
   
1987年のル・マンは、いわゆる「グループC時代」が中興期をむかえ、爛熟の域に達した頃であった。1985年大会からトヨタが、翌86年大会からニッサン、ジャガーが参戦し、さらにこの年からサウバーの車にメルセデス・ベンツの5リッターエンジンが積まれることとなり、それまでポルシェ以外には小規模なプライベート・チームしかいなかったスポーツカー・レースに、一気にメーカー色が添えられた頃だったのである。当然彼らはル・マンで勝つことを目標としており、特にイギリス人トム・ウォーキンショウが頭領となって「三カ年でル・マンに優勝する」ことを目標とし、一年ごとに熟成の度合いを増してきたジャガーはポルシェにとっておおきな脅威となった。ポルシェの962Cは、車体構造を見るとおおむね956に準拠したものであり、その基本的な設計思想は956の構想が練られた1981年の時点からいくばくも進歩していなかった。彼らが武器としたのは設計の真新しさではなく、すでに1970年代から築いてきた耐久レースにおける豊富な経験、特にターボ・チャージャー付きエンジンという複雑でむずかしい機械を取り扱ってきた経験と、その経験によって設計された車の懐の深さであった。すでにほかの車で、部分的に見ればあきらかにポルシェよりすぐれた設計を持つものが何台かあらわれていたが、二十四時間のレースを走りきっての総合力、持久戦に持ち込まれた場合の打たれ強さは、いぜんとしてポルシェにわずかの分があったのである。このような芸当は、まさに長い経験からくる設計の巧妙さがなくては実現できぬものであった。    
   
8710

 

タバコ会社のロスマンズのマークが描かれた、白と青の平べったいシルエットこそは、グループC発足いらいポルシェのワークス活動を象徴する記号であった。1989年大会までル・マンのコースにはその全長が六キロにもおよぶ長い直線区間が存在し、ここでのスピードの伸びがそのままラップ・タイムとなってあらわれ、勝敗を決した。そこでル・マンに出場するスポーツカーは、みなコーナーをうまく曲がるのにはかかせないダウンフォース効果をある程度削ってでも、空気抵抗を減らし直線区間でのスピードを最重要視するような設計になっていたのである。当然のことながらコーナーでのスピードは悪化したが、全開率のひじょうに高いル・マンのような特殊なコースに限っては、あまり問題にはならなかった。   
   
1982年にグループC規定が発足してから、ル・マンで優勝した車にはすべてポルシェのバッジが輝いていた。そのうち1982年、1983年、1986年の大会における勝利がポルシェ・ワークス・チームのもので、あとのものはポルシェの車を使ったプライベート・チームによって達成されたものであった。    
ワークス・ポルシェ四勝目、単にポルシェ車としては六連勝という大記録がかかった1987年大会は、ポルシェにとってじつに苦しくはじまり、そしてじつにたのしく終った。まず、レース前におこなわれた練習走行において、ワークス・チームの19号車がクラッシュ・炎上し、修復不能と判断されて出走を取りやめてしまった。これでポルシェはレースを一周も走らぬうちに一台が脱落してしまったのである。しかしレースがはじまると、もっとひどいことになった。はやくも四周目にプライベートのポルシェがエンジン・トラブルでリタイヤし、これに触発されたかのように、一時間もしないうちにポルシェの車はつぎつぎとエンジンがおかしくなって、リタイヤに追い込まれていった。レース開始から一時間過ぎの時点で、ついにワークス・ポルシェの18号車がリタイヤした。これでポルシェ・ワークスの手駒は17号車ただ一台となってしまい、ポルシェは絶体絶命の状況におちいった。ほかのプライベート・ポルシェはみなリタイヤするか、トラブルをおそれてペースを下げたまま走らざるを得なくなっており、総合優勝が狙えるのはワークス・ポルシェだけという状況であった。残り二十三時間をたった一台だけで、三台が三台とも健在のジャガーを相手に戦うのは、あまりにも心もとなかった。    
もろもろの状況の原因は、エンジンをコントロールするコンピュータにあった。ターボ・エンジンはエンジン本体での燃焼が良くないとその性能を発揮できず、したがって供給される燃料の質に合わせて燃料の噴射を制御するプログラムを変え、つねに最適の状態で燃料が燃えているようにしなければならなかったが、この年の大会では各チームに支給された燃料の質がわるかったため、それに合わせてエンジンを制御するコンピュータのプログラムに変更が加えられていた。そのプログラムがまちがっていたのである。    
ワークス・チームはすぐに次の手を打った。彼らはワークス・カーに積まれていたコンピュータのチップを抜き取り、問題の部分を確認すると、その場でエンジン制御のプログラムを書き換えはじめたのである。プログラムを書き換えて燃焼をコントロールすること自体は、歴戦のポルシェ・チームのスタッフにとってはなんでもないことだった。点火タイミングを一・五度遅角させるようにプログラムが書き換えられたチップをあらためて積み込まれたワークス・カーは、まるで最初の一時間の地獄絵図が幻であったかのように快調に飛ばしはじめた。そしてそのまま、三台のジャガーがコース上のアクシデントやエンジン・トラブルなどで脱落してゆくのを尻目に、独走で勝ってしまったのである。優勝したハンス・シュトゥック、デレク・ベル、アル・ホルバートは、二位の車にじつに二十周という大差をつけていた。まさに完全な勝利であったが、結果的にこれがポルシェ・962Cとしては最後のル・マン優勝となってしまったのである。    
   
   
87058707

 

モデルは標準的な1/43スケール、レジン・キャスト製の完成品で、ワイパーなど一部金属製部品が使用されている。ほかのどの車にも似ていない、ひと目でポルシェとわかる風貌をしている。この四角いケースに納められた丸型四灯式のヘッドライトは、こまかい形状の違いはあれど、ポルシェ956の登場からポルシェ962Cの終焉まで、ワークスのル・マン仕様車にはかならず見られた意匠上の特徴であった。このモデルのモチーフである1987年仕様車は、つごう十年近くにわたって連綿と進化を重ねたポルシェ962Cという車の、いわばもっとも原初の姿をとどめている。962Cがはじめてル・マンに実戦投入された1985年大会からこの1987年大会まで、各部の形状や寸法にほとんど違いは見られない。リヤウィングは抵抗削減のためボディーとほぼ同一面上に装着され、必要最低限のダウンフォースしか発生しないようになっている。車体下部に吸い込まれた空気を効率よく放出するため、リヤデッキ下面は大角度で上方へ向かい、ディフューザーを形成している。これに合わせ、リヤエンドはひじょうに上下幅が狭く、細長い。その上下幅ギリギリに、矩形のシンプルなテールライトが装着されている。車両規則上必要な部品でもある。   
   
8708

 

リヤエンド付近を側面から見る。ホイールには白色の円盤状カバーが装着され、空気抵抗の削減に一役買っている。ホイール本体はドイツBBS社のマグネシウム製六本スポークのもの。大角度で跳ね上げるディフューザーの造形の一部に、リヤエンドのボディカウルがうまく同化している。横幅の広い水平対向エンジンを積む関係上ポルシェ車はスペースの制約がきびしく、この部分の開発ではつねに他の車に一歩劣っている状態であった。   
   
8709

 

全体を望見する。全高は低く抑えられながらも、真横から見るとボディラインがうねっていて、まるで深海を泳ぐ魚のようにも見える。本来このモデルの「ロスマンズ」ロゴは別添付の転写マークとして付属し、購入者が自分で貼り付けるものであったが、中古で購入したモデルのためすでに貼付済であった。   
   
ポルシェとしても、せっかく手に入れた名誉と地位をみすみす明け渡すつもりはなく、この962Cはその後1990年代に入るまでル・マンを走り続けることになる。しかし962Cは、この劇的な1987年大会を最後に、二度とル・マンで勝利の祝杯をあげることはかなわなかった。この車が「スポーツカー・レースでは敵なしの962C」としてル・マン1987年大会に勝利した瞬間、一転「かつて常勝を誇った962C」としての長く苦しい戦いの第二幕は開いたのである。    
   
1987年ル・マン24時間レースに参加した962-008は、同年三月の世界スポーツカー選手権開幕戦より投入され、同年世界スポーツカー選手権のハラマ360km、ヘレス1000km、モンヅァ1000km、シルバーストーン1000km、ル・マン24時間の各レースに参戦し、ハラマとモンヅァで三位、ヘレスとシルバーストーンで二位に入ったほか、ヘレスからシルバーストーンまで三戦連続でポール・ポジションを獲得している。この車のこの年の戦歴はル・マンまでのみであった。   
翌1988年、この車はル・マンの19号車としてふたたび持ちだされ、その後ドイツ・スーパーカップ選手権のディープホルツおよびニュルブルグリンクのレースに参戦した。特筆すべきはこのスーパーカップ仕様車で、200km強の超短距離レース用にモノコックの剛性を削って軽量化し、ポルシェが開発中であったダブルクラッチ式ギヤボックスであるPDKを搭載していた。その後10月にはWSPC最終戦・富士1000kmレースに参戦したが、これがポルシェ・ワークスとしての最後のWSPCレースとなった。このレースで二位に入っている。   
1989年にこのシャシーはオーストラリア人の元ポルシェ・ドライバーであるヴァーン・シュパンのチームに売却され、オムロン・ポルシェとして全日本スポーツカー選手権 (JSPC) 全戦、およびWSPC開幕戦鈴鹿480kmとル・マン24時間の各レースに参戦した。JSPC開幕戦富士500kmレースで二位を獲得、また初夏の富士1000kmレースでは優勝を果たしている。

« 2014年9月 | トップページ | 2014年12月 »

フォト
無料ブログはココログ

リンクリスト

  • Pixivページ
    自分の描いた絵を置いておく倉庫。当初ニコ静との並行運用だったが今はこっちがメイン (多分…)。更新頻度は高くない。同人イベントの参加情報とかも投下される。
  • Kumaryoong's Paddock
    ソビエト時代の東側諸国におけるモータースポーツ活動について書かれているたいへん誰得なブログ (褒め言葉)。この辺の史料を日本語でまとめたサイトって史上初かもしれません。
  • 作った静止画一覧
    主にMMDで作った静止画を上げています。最近はこっちの頻度のほうが高いですね。
  • Racing Sports Cars
    ル・マンや旧WEC/WSPC/SWC、さらには旧WCMなど、スポーツカー・レースの参戦車両の膨大な資料写真を有するサイト。ドライバー別・車種別検索機能完備。F1もちょびっとだけあります(70年~82年)。
  • F1-Facts
    1950年イギリスGPより、F1に関する全記録を蒐集・公開しているサイト。各年度リザルトページからマシン一覧・写真ページに飛ぶことができます。あなたの知らない名車に出会えるかも。IEは右クリックでの画像保存が出来ないので、PCに保存する際はFireFoxなどを使用してください。
  • 誰得 (boulog)
    謎多きF1マニア(?)、bou_ckさんのブログ。「Wikipediaに載ってないような脳内資料置き場」を標榜するだけあって、その名に恥じぬディープ過ぎるF1マシン解説!Wikiどころか、ネット上にもそうそう無いようなマシンが目白押し。ちなみに「誰得」とは「誰が得するんだこんなもん」的意味合いのフレーズ。 2015.12.13追記: このほどYahooブログからfc2ブログに移転されました。
  • 作ったもの一覧。
    私の動画作品一覧です。気力の低下と更新頻度の低下はすべからく連動しています。