« ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1987」 | トップページ | 2014年総括 »

2014年12月 5日 (金)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「断章・WSPC」

1987年の世界スポーツ・プロトタイプ選手権シーズン途中に、ポルシェはある発表によって全世界のスポーツカー・レース関係者をあっと驚かせた。それは、ポルシェ・ワークスチームがこの年なかばをもって世界選手権戦からいったん撤退し、新型車の開発に集中するというものであった。当時ポルシェはアメリカ市場をにらんでインディカー・レースに参戦していたが、このエンジンをベースとした世界選手権用の新型エンジンを製作し、これを新型車に載せてふたたびカムバックしようという意図で、これはすでにポルシェ本社が962Cの将来性に見切りをつけていたことのあらわれでもあった。ワークス・ポルシェ復帰までのあいだ、962Cはそれぞれプライベート・チームの運用に任せられることになり、ポルシェ社は技術者を送り込んでこれをサポートする役割を担うこととなった。   
   
1988年、すでにワークス活動を休止していたポルシェ・チームがワークスとして参加したレースがたった二レースのみあった。ひとつは伝統の一戦ル・マンであり、もうひとつは十月に行われたWSPC最終戦・富士1000キロレースで、前者はポルシェにとって連勝記録のかかった大一番、後者は日本のプライベート・チームに向けてポルシェの優位性をアピールするためのものであった。しかしポルシェは、この二レースとも勝つことができなかった。ル・マンでは、クラウス・ルドウィグ、デレク・ベル、ハンス・シュトゥックというエースドライバー三人の車が最後の瞬間まで食い下がったがジャガーにやぶれて二位に終り、富士でもルドウィグとプライス・コブのポルシェはジャガーに優勝をゆずらなければならなかった。大メーカーのワークス・カーに対抗しうる新車の投入はまさに急務となった。    
   
ところが、1989年の世界選手権にポルシェの新車はあらわれなかった。そればかりか、前年までプライベート・チーム向けに細々と続けられてきた962Cのメーカー開発までが打ち切られてしまったのである。ポルシェ本社はこのころ経営状態が日毎に苦しくなっていくような状況で、期待されていたCARTのレースでも思うように結果が出ず、モータースポーツ活動全体が縮小傾向にあった。すでにスポーツカーのエンジンと車体をそれぞれ新規に開発している余裕はどこにもなかったのである。けっきょくポルシェは1990年をもってCARTシリーズからも撤退し、以後しばらくメーカー・ワークスを表に出した活動から遠ざかることになる。    
   
8901

 

一見するとポルシェ962Cにはとても見えない車だが、れっきとした962Cであり、キャビン周辺には962Cの面影がよく残っている。ポルシェは1988年をさいごにポルシェ・ワークスとしてスポーツカーを走らせることはなくなったが、この車の開発にかかわったレース・スタッフの多くが、当時プライベーターとしてポルシェ本社とのつながりが深かったヨースト (イェスト)・レーシングへ出向し、このチームが事実上のワークス・チームとなって、ポルシェ962Cを延命させることとなった。その手始めに、彼らがポルシェ962Cに対しておこなった大改造の結果が写真の車である。ポルシェ・ワークス・チーム向けの962Cは1984年から1988年までに-001から-010までの十台がつくられ、このほかプライベート・チーム用に量産スペックのシャシーが-101からの連番で製作された。このシャシーはシャシー・ナンバー962-142として製作されたもので、ヨースト・レーシングおよびポルシェによって大々的な改造をほどこされ、あらたに962-011のナンバーを刻まれた。ワークス・スペック・シャシーである0番台のシャシー・ナンバーこそは、この車がポルシェ直系の、いわば962Cの正統な末裔であることを物語っている。ポルシェは、長く戦ってきた962Cを見捨てるようなことはしなかったのであった。   
   
8903

 

それまでボディと一体型であったリヤウィングは、当時ほかのスポーツカーの多くがそうであったように、ボディカウルとは分離した形状にあらためられ、ギヤボックス後部に構造体を取り付けてそこにマウントする方式をとった。以後このスタイルが、世界選手権レースにおけるポルシェの標準系となっていく。この改造により後方への気流が改善されるとともに、セッティング作業を簡便化することができた。ディフューザーは後輪の最後端と同一面上まで伸ばされている。エンジンは引き続きワークス・スペックの3.0L (2994cc) 6気筒ターボ・エンジンを使用した。   
   
8918

 

大改造により、フロントの造形はオリジナルからはかなりかけ離れ、直線が強調された荒々しいスタイルに変貌している。962Cのモノコックは旧態的なアルミ板金によって構成されていて、年を追って高度化するエンジン・パワーやタイヤのグリップに対して剛性が不足するようになり、もともとの車両特性とあいまってコーナーでは常に悪性のアンダーステア傾向を示すようになっていた。この対策として、一部プライベート・チームではモノコックをカーボン材で補強したり、あるいはモノコック自体を強度にすぐれるアルミ・ハニカム材やカーボン・ファイバーでつくりなおしてしまうこともあったが、ヨースト・ポルシェの連合軍はかたくなにワークス時代の教えを守り、最後までアルミ材のモノコックを使い続けた。アンダーステア対策として、まずフロントに荷重をもっていく方法が考案され、そのため従来は車の中央付近に置かれていたエンジン・オイル・クーラーを、フロント・エンドに移設している。写真のヘッドライト下の四角い穴がそれで、この開口部は従来フロント・ブレーキの冷却口として開けてあったものだが、この奥にオイル・クーラーを二つに分けて設置し、ブレーキ冷却用にはあらたにフロントカウル上に三角形のNACAダクトが開口された。このレイアウトは実際に効果を発揮したが、アクシデントの際のリスクなどを考慮した結果、この一年限りで元に戻された。   
   
8902

 

ヘッドライトも従来の丸型にかえて、角型のものが使用された。ライトカバー形状もそれまでのものとは一線を画するデザインで、前述の改装とあわせて、フロントの印象がだいぶ異なって見える。オイル・クーラーの移設でフロントエンドが延伸され、横から見た印象は956に近づいている。フロント荷重を増やすため、左右に一枚ずつ小型のダイブ・プレーンが装着されている。   
   
ヨースト・レーシングは、1989年開幕戦の鈴鹿480キロレースには旧型車二台を持ち込んで戦い、7号車のボブ・ウォレック/フランク・イェリンスキが二台のサウバーにつぐ三位に入った。ジャガーは前年までの十二気筒ノーマル・エンジンの車に見切りをつけ、この年から新型のターボ・エンジン車を世界選手権用に投入するつもりでいたのだが、エンジン開発の遅れから序盤戦を旧型のノーマル・エンジン車で戦わざるを得なくなり、あまり大きな脅威とはならなかった。反対にメルセデス・ベンツ・エンジンを使うスイスのサウバー・チームは、メーカー本社からの資金・技術の援助が年ごとに潤沢になり、この年からは車のカラーリングをそれまでのスポンサー・カラーから一転、メルセデス・ベンツのシンボルカラーである銀色一色に塗り、世界唯一のメルセデス・ワークスであることを内外に誇示していた。当然その速さは相当なもので、鈴鹿のレースでは二台のサウバーを脅かすことができた車は一台たりとも存在しなかったのである。    
   
1989年世界スポーツ・プロトタイプ選手権第二戦の舞台は、フランスのディジョン・プレノアというちいさなサーキットであった。この年のディジョン・プレノアは五月にもかかわらず猛烈な暑さに見まわれ、中にはピットインのたびに車の冷却器にバケツいっぱいの氷水をかけて冷やしているチームまで出てくるありさまだった。このレースで、待望の新型962Cが投入された。準備が間に合わなかったため、もう一台の962Cは旧型車を使うことになり、新型車はエースドライバーのウォレック/イェリンスキに与えられた。予選は五位で、ポルシェのなかではトップの順位だったが、ポール・ポジションは前戦につづいてサウバーが手中におさめていた。ところがレースになると、暑さで熱せられた路面がタイヤを焼き、サウバーの二台はまったく思うようにペースを上げられないことが判明した。サウバーが使っていたのはミシュラン・タイヤで、ポルシェ車のほとんどはグッドイヤー・タイヤを使っていた。ミシュラン製のタイヤはグリップはよかったが熱によわく、その分サウバーの車は頻繁なタイヤ交換をしいられて、せっかくのハイペースを活かしきれなかったのである。反対に、飛び抜けて速くはなかったものの、終始安定したペースで走ることができたウォレック/イェリンスキのポルシェはそういったトラブルにまったく悩まされることなく、480キロのレースを走りきって、三十八秒差で優勝してしまったのである。サウバーは二位と三位で、もう一台のヨースト・ポルシェは七位であった。    
   
しかしそれ以外のレースでは、ヨースト・ポルシェは一度も勝利することはできなかった。ディジョンでの優勝は、悪コンディションに阻まれたサウバーの隙に乗じて勝ちをかすめ取ったようなもので、通常の条件下でおこなわれたほかのレースでは、やはり総合力で劣っているポルシェは、エンジンの良さを活かして旧式の車ながら信じられないほどの燃費を実現していたサウバー・メルセデスには勝てなかったのである。メルセデス・ベンツにはモータースポーツ活動に投入できる豊富な資金があり、ポルシェにはそれがなかった。この1989年のディジョン・プレノアでの勝利は、ポルシェ962Cが記録した世界選手権レースにおける最後の勝利となったのである。これ以外のレースでは、7号車のウォレック/イェリンスキがブランズハッチとスパのレースでそれぞれ二位になったのが最高位であった。ヨースト・ポルシェはシーズンを通して八十四点を獲得し、世界スポーツ・プロトタイプ選手権のチーム部門では総合二位を得た。サウバー以外のエントリーとしては最上位であり、ジャガーやニッサン、トヨタなどのメーカー・ワークスよりも上であった。    
   
8904

 

フランク・イェリンスキは西ドイツ、ボブ・ウォレックはフランスのドライバーで、いずれもF3のレースを経てスポーツカーに転向してきたドライバーであった。以後このふたりは次第に苦戦の度合いを深めていくヨースト・ポルシェにあって、その牽引役として活躍することになる。   
   
8910

 

モデル自体ははスパークモデル製だが、ドイツのモデルカーショップであるCar.timaが特注生産させたもので、五百台の限定生産であったため探すのに難儀した。手持ちの個体は中古品として入手したもので、紙製スリーブケースが欠品している状態ではあったが、ほかに異常は見当たらない。台座は基本的に通常のスパークモデルと同じつくりだが、車名以外にこの車が1989年ディジョンの世界スポーツカー選手権レースで優勝したことが誇らしげに記されている。   
   
8919

 

オイル・クーラーをフロントに移設した、1989年世界選手権仕様の962Cはこのモデルカーのシャシーである962-011と962-145の二台が製作され、いずれも7号車のウォレック/イェリンスキ組が使用した。このほか、ワークス用962-004が962-104Cの新ナンバーに更新され、シーズン途中にリヤ側のみこの仕様に準じた近代化改修をほどこされ、独立式のリヤ・ウィングを与えられた。この仕様は結果的に一年のみの短命に終ったが、ポルシェ962Cとして最後の世界選手権レース優勝をとげたこと、またその独特な外見から、962Cのなかでもひときわ象徴的な一台である。ポルシェ962Cという「種」の寿命は、ゆるやかにその限界を迎えようとしていた。   
   
1989年世界スポーツ・プロトタイプ選手権、ディジョン・プレノア480キロレースで優勝したポルシェ・962-011は、1989年に962-142としてヴァイザッハのポルシェ・ファクトリーで製作されたモノコックをベースに、新たに011のシャシー・ナンバーを与えられたものである。この年はドイツ・スーパーカップ選手権全戦に参戦し、それと並行して世界スポーツカー選手権の鈴鹿480km、ハラマ480km、ブランズハッチ480kmの各レースを除く全戦に参戦した。このうちブランズハッチのレースでは962-011はスペア・カーとして持ち込まれ、962-145がレース・カーとして使用されている。10月にはJSPCの一戦であったインターチャレンヂ富士1000kmレースに962-145とともに参戦した。この年の世界選手権ではディジョン480kmレースで優勝し、スパ480kmレースで二位を得た (ブランズハッチ480kmレースでは962-145が二位に入っている) ほか、ドイツ・スーパーカップ選手権でボブ・ウォレックがチャンピオンとなった。   
1990年にはオイル・クーラー位置を元に戻され、IMSA-GTPシリーズのデイトナ24時間レースおよびセブリング12時間レースに参戦した後、WSPCニュルブルグリンク480km、ドニントン480km、メキシコシティ480kmの各レースでスペア・カーとして持ち込まれた。メキシコではレース・カーとして使用され、六位を得ている。   
1991年にはIMSA-GTPシリーズのウェストパームビーチ2時間、マイアミ2時間、ワトキンス・グレン500km、ラグナ・セカ300kmの各レースにスポット参戦し、並行して欧州のローカル選手権であったインターセリエ・レースにも二戦にスポット参戦した。ワトキンス・グレンのレースでは予選ポール・ポジションを、ラグナ・セカのレースでは六位を獲得している。   
1992年にはリヤウィングを大幅に改造された上でジャンピエロ・モレッティのMOMOレーシングにレンタルされ、同年IMSA-GTPシリーズのデイトナ24時間、セブリング12時間、ニューオーリンズ1時間45分、ラグナ・セカ2時間、デル・マー2時間の各レースを除く全戦と、インターセリエ・シリーズの四戦に参戦した。IMSA-GTPシリーズではロード・アトランタ・グランプリ、IMSAワトキンス・グレン、ロード・アメリカ300kmの各レースで六位を獲得した。   
1993年に962-011はヨースト・レーシングの管理下に戻り、IMSA-GTPシリーズのデイトナ24時間、ロード・アトランタ1時間45分、ワトキンス・グレン500km、ロード・アトランタ500km、フェニックス2時間の各レースと、インターセリエ最終戦ツェルトウェグに参戦したほか、IMSA-GTPシリーズ・セブリング12時間レースにスペア・カーとして持ち込まれ、このうちロード・アトランタで三位、ロード・アメリカで二位を記録している。このシャシーが参加した最後のレースであるインターセリエ・ツェルトウェグは1993年10月17日の開催であり、このシャシーは1989年シーズンから1993年シーズンという、まさにグループCスポーツカーの栄華と凋落の季節をつねに最前線にあって走り抜けた、いわば功労シャシーであった。

« ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1987」 | トップページ | 2014年総括 »

コメント

角形ライトも渋くていいです✨

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1322474/58178312

この記事へのトラックバック一覧です: ポルシェ962C・終りのクロニクル 「断章・WSPC」:

« ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1987」 | トップページ | 2014年総括 »

フォト
無料ブログはココログ

リンクリスト

  • Kumaryoong's Paddock
    ソビエト時代の東側諸国におけるモータースポーツ活動について書かれているたいへん誰得なブログ (褒め言葉)。この辺の史料を日本語でまとめたサイトって史上初かもしれません。
  • 作った静止画一覧
    主にMMDで作った静止画を上げています。最近はこっちの頻度のほうが高いですね。
  • Racing Sports Cars
    ル・マンや旧WEC/WSPC/SWC、さらには旧WCMなど、スポーツカー・レースの参戦車両の膨大な資料写真を有するサイト。ドライバー別・車種別検索機能完備。F1もちょびっとだけあります(70年~82年)。
  • F1-Facts
    1950年イギリスGPより、F1に関する全記録を蒐集・公開しているサイト。各年度リザルトページからマシン一覧・写真ページに飛ぶことができます。あなたの知らない名車に出会えるかも。IEは右クリックでの画像保存が出来ないので、PCに保存する際はFireFoxなどを使用してください。
  • 誰得 (boulog)
    謎多きF1マニア(?)、bou_ckさんのブログ。「Wikipediaに載ってないような脳内資料置き場」を標榜するだけあって、その名に恥じぬディープ過ぎるF1マシン解説!Wikiどころか、ネット上にもそうそう無いようなマシンが目白押し。ちなみに「誰得」とは「誰が得するんだこんなもん」的意味合いのフレーズ。 2015.12.13追記: このほどYahooブログからfc2ブログに移転されました。
  • 作ったもの一覧。
    私の動画作品一覧です。気力の低下と更新頻度の低下はすべからく連動しています。
  • アカクテハヤイ フェラーリエフワン
    沖縄在住のフェラリスタ、Shigeoさんのブログ。1日1更新(原則)でフェラーリのさまざまな話題を取り扱います。レア物のフェラーリミニカー募集中だそうな。
  • METMANIA
    私の作るペーパークラフトの大半はここからきています。ヘルメットのぺパクラって多分ここにしかありません。