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2015年5月

2015年5月25日 (月)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1990・中」

1990年、スポーツカー・レースは規定変更にかかわる紛糾によって混乱したが、その影響は伝統の一戦ル・マン24時間レースにもあらわれていた。3,5リッター規定の施行により参加台数がおおきく減少することを予想した主催者のフランス西部自動車クラブがこの規定に反発し、FISAと反目した結果ル・マンのレースが世界選手権戦から外されてしまったのである。このためあくまでも世界選手権タイトルにこだわったサウバー・メルセデスがレースを欠場することになったが、この年のWSPCでグッドイヤー・タイヤを獲得し、前年にも増して独走していたサウバー・メルセデスの欠場は、ほかのメーカー・ワークスをよろこばせた。この年はニッサンがル・マンに向けて特に力を入れてきており、前年取り逃がした勝利を今年こそ奪回したいジャガーや、耐久レースでの長い経験を武器にしたたかなレースを得意とするヨースト・レーシングとのあいだの激闘が予想された。   
   
また1990年という年は、ル・マン24時間レースにとって大きな変革の年でもあった。この年からコース中程にある全長6000mのストレート区間が、ふたつのシケインによって三本のみじかいストレートに分断されたのである。6000m、時間にして約一分ほどもアクセルを全開にしていたのでは安全上問題がある、というのが表向きの理由であったが、実際にはFISAのなかば嫌がらせめいた指示であった、ともささやかれた。ともかく、レースが行われるサルテ・サーキットはそれまでとはまったく違ったスタイルに変貌を遂げ、このコースを走るのは誰もがはじめて同然という状態になった。理論上は誰にでも勝つチャンスがあった。    
   
このレースにおいて、ポルシェ陣営は車輌の空力設定について判断が分かれた。ヨースト・レーシングはじめ多くのポルシェ・ユーザーは、シケインの設置が全体のスピードに与える影響は無視できる範囲と判断し、従来と同じくコーナリング・スピードを犠牲にしてでも空気抵抗を減らす、特製のロードラッグ・カウルを持ち込んだ。反対に、ブルン・モータースポーツ、リチャード・ロイド・レーシング、アルファ・レーシング、チーム・デイヴィーの各チームは、新レイアウトでは単純な直線スピード重視のセッティングよりも、ある程度ダウンフォースをつけてコーナリング・スピードを向上し、全体のバランスを重視したセッティングに分があると判断し、スプリント・レース用とおなじスペックのハイダウンフォース・カウルを持ってきていた。リチャード・ロイド・レーシングは、二台エントリーした車のうち一台をハイダウンフォース仕様、もう一台をロードラッグ仕様で走らせ、またアルファ・レーシングは、二種類のカウルを持ち込んで実際に比較テストを行い、そのうえで最終的な決定を下した。レースにおいて、両者の明暗はくっきりと分れることになる。    
   
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1990年ル・マン24時間レースにヨースト・レーシングから出走した、シャシーナンバー962-145のポルシェ962Cである。車体形状は1988年にワークス・チームが使用したものとほぼ同一であり、いわばワークス製962Cの最終仕様、「第一世代」の終りにあたる。初期型の962Cと見比べてみると、同じように見えても実際には各部で異なっていることがわかる。    
   
モデルはスパークのレジン製1/43スケール。品番はスパーク通常仕様の「Sいくつ」ではなく「KBS034」、国際貿易株式会社の特注モデルである。同社は一時期日本におけるスパークモデルの代理店を務めており、「日本の耐久レース」をテーマとした数々の特注製品を発売していた経歴があった。この時期のル・マン24時間レースはF1同様バブル景気の後押しを受けた日本企業のメイン・スポンサーが多く、それらのレース・カーを特注で製品化したり、あるいは日本で開催された世界選手権レースの仕様でスポーツカーをモデル化させたりといったラインナップであった。国際貿易はその後、記憶が確かなら2012年頃にスパークの取り扱いをやめてしまったため、残念ながらこのシリーズも打ち切られてしまっている。    
   
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初期型ともっとも異なるのはテールまわりである。1988年に車体寸法の規定が変更され、車体後端部の跳ね上げの最大地上高が若干低められた。そのため車体後部の厚みが増している。962Cは水平対向エンジンを搭載する関係上、どうしてもこの部分の跳ね上げを高く取れなかったため、この変更はポルシェ有利に働くはずであった。   
   
1990年のル・マンに、ヨースト・レーシングはワークス仕様シャシー二台 (8号車962-013、7号車962-015) とカスタマー仕様シャシー二台 (6号車962-144、9号車962-145) の計四台をそろえて臨んだ。しかしレース前のウォームアップ走行で、8号車のジョナサン・パーマーがさっそくふたつのシケインの間のストレートで大クラッシュし、短時間での修復が不可能とみられたためレースから撤退しなければならなくなってしまった。原因はサスペンション・トラブルではないかと推測された。サルテ・サーキットはその大部分を公道を封鎖した区間が占めており、シケインが追加されたストレートも公道区間であったが、シケインそのものはあとからつくられたものであった。そのためストレートとシケインのあいだに舗装の段差ができており、ダウンフォースをギリギリまで削ったロードラッグ仕様の車はこの段差での安定性を欠いていた。ヨースト・レーシングの判断は裏目に出てしまったのである。このときパーマーがクラッシュさせたシャシーのシャシー・ナンバーが13であり、それとアクシデントを関連付けて語る者もあった。実際にそのことが影響していたのかどうかはわからないが、ヨーストはこの年ル・マンでもまったくいいところなく終っている (ちなみにこの962-013シャシーはのちに修復され、1993年のル・マンにその姿を見せることになる。このあたりの物語は後日あらためて詳述したい)。    
シケインの餌食になったのはポルシェだけではなかった。レースが半分ほどをすぎたあたりでニッサンの車が燃料タンクの亀裂によってリタイヤしたが、この原因はシケインの段差を乗り越える際のショックに燃料タンクが耐えられなかったためであったといわれている。    
   
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この年のル・マンでは、ヨースト・レーシングのうちワークス仕様の二台は世界選手権戦とおなじくカーオーディオメーカーのブラウプンクト、6号車はフランスのジャン・ルイ・リッチが持ち込んだ不動産会社のDBグループとガス会社のプリマガス、そして9号車は日本のスポーツ用品メーカーであるミズノがメインスポンサーになった。9号車は世界選手権戦にもブラウプンクト・カラーで全レースに参戦したが、開幕戦の鈴鹿480kmとこのル・マン24時間レースのみミズノ・カラーであった。白地にブルーのツートーンが爽やかなカラーリングである。写真では明るく映っているが、実際のモデルは実車同様、もうすこし暗いブルーである。   
   
レースがはじまると、ヨースト・レーシングはじめ大多数のポルシェ・ユーザーの判断がまちがっていたことはいっそうあきらかなものとなった。予選ではニッサンがポール・ポジションを奪ったが、そのすぐあとにスイスのブルン・モータースポーツが用意した962Cがつけたのである。ブルンの車はハイダウンフォース・カウルでコーナリング・スピードを確保しつつ、アメリカのアンディアル社が耐久レース用に改造した3.2リッター仕様のエンジンを搭載して、ストレート・スピードの不利をエンジン・パワーで補っていた。レースでもこのブルン・ポルシェはスタート直後から首位のニッサンに食い下がり、途中ジャガーに抜かれる局面もあったが最終盤まで二位を堅持し、自身もまたドライバーであったウォルター・ブルンのすぐれた才覚を証明するかと思われたその矢先、二十四時間のレースが残り十分少々となったところで突如エンジンから白煙を吹き上げ、コース脇にストップしてしまったのである。ル・マン24時間レースの規則には「参加車は24時間終了時点でコース上にあり動いていなければならない」と明記されており、したがってブルンの車は最終的に二位に入ったジャガーと同じ三百五十五周を走りながら、完走扱いにすらならなかったのである。なんとも劇的な、そして後味のわるい幕切れであった。    
この突然のリタイヤによってジャガーは期せずして1-2フィニッシュを果たしたが、三位には日本のアルファ・レーシングがエントリーしたポルシェが入った。このアルファ・レーシングは同時期に全日本スポーツカー選手権に参戦していたチームで、ドライバーは三人ともイギリス人を起用したがチーム・スタッフは日本人中心に揃えられ、車のメンテナンスも日本の東名自動車のスタッフが行っていた。ヨースト・レーシングの車は、7号車のイェリンスキ/ベル/シュトゥック組が、ニッサン、トヨタの両ワークスを抑えて四位に入ったのが最高だった。    
   
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9号車のドライバーはスタンレー・ディケンズ、ボブ・ウォレック、ジョン・ウィンターの三人で、このほかウィル・ホイが補欠ドライバーとして当初予定されていた。予選は二位のブルン・ポルシェから6秒遅れの18位、決勝レースでは特におおきなトラブルもなく淡々と走りきり、13周遅れの8位で完走している。出走した三台のヨースト・レーシング車のなかでは二番目の成績で、もう一台の6号車は14位であった。レース内容としては特によくもわるくもなく、ただスタートして完走したというだけのことだった。チームが当初期待していたような、メーカー・ワークスの車と優勝争いをする場面はついに一度もなかったのである。そればかりか、ポルシェ962Cがル・マンにおいてトップ5圏内で完走すること自体、この年が最後であった。   
   
シャシーナンバー962-145のポルシェ962Cは、1989年のル・マン24時間レース用にヨースト・レーシングが発注し製作されたカスタマー・スペックのシャシーで、同レースで三位を得た。6月末にドイツ・スーパーカップ (DSM) ノリスリンク戦にスポット参戦し優勝している。その後改修が施されて962-011同様のフロント・オイルクーラー配置にアップデートされ、7月のWSPCブランズハッチ戦では7号車、ウォレック/イェリンスキ組のレース・カーとして使用された。続くWSPCニュルブルグリンク、ドニントンでは7号車のスペア・カーとして持ち込まれ、10月初頭のJSPCインターチャレンヂ富士1000kmレースへのスポット参戦を挟んで、WSPC最終戦メキシコにふたたびレース・カーとして参戦した (この年のヨースト・レーシングの歩みは以前の記事でも述べてある)。ル・マン以外では、WSPCブランズハッチ480kmレースで二位を得たのが最高位であった。    
1990年にはオイル・クーラーの位置を元に戻す改修を受けてカスタマー・スペック仕様に戻され (「1990・上」参照)、ヨースト・レーシングの9号車として開幕戦・鈴鹿480km (このとき9号車として持ち込まれたのは962-129) を除くWSPC全戦とル・マン24時間レース (本記事の仕様) に参加した。    
1991年のスポーツカー世界選手権にヨースト・レーシングは参加せず、かわりにデイトナ24時間レースをはじめとするIMSA-GTP選手権シリーズに、最終戦デル・マー2時間レースを除く全戦に参戦した。この間デイトナではポール・ポジションを獲得、セブリング12時間レースで三位、ロードアトランタ300kmレースで五位、マイアミ二時間レース・ポートランド300kmレースでそれぞれ六位でフィニッシュした。GTPレースの合間には実戦テストも兼ねてインターセリエ・シリーズにも参戦し、またこの年のル・マンにヨースト・レーシングの三台目として持ち込まれ、実際に予選を走ったが、決勝レースを前に出走を見合わせている。    
このシャシーは91年ル・マン後からジャンピエロ・モレッティのMOMOレーシングに貸し出され、1992年にはデイトナ24時間、セブリング12時間、ニューオーリンズ1時間45分の各レースにMOMOレーシングから出走し、セブリングでは三位を得た。その後インターセリエのレースに二戦出走したのち引退している。    
   
(つづく)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1990・上」

1989年にポルシェ・ワークス・チームがスポーツカー・レースから一旦撤退したことにより、ヨースト・レーシングはその活動を引き継ぐことになった。彼らはポルシェの支援を得て1989年の世界スポーツカー選手権に参戦し、また同年ル・マンではメルセデス・ベンツやジャガー、ニッサンといったワークス・チームと互角に戦い、最終的に三位を得た。ポルシェはこの間、すでに施行が時間の問題となっていたグループC規格の改定にむけて新車の開発を行っており、この年初めには同社CARTプロジェクト用のV8ターボ・エンジンをベースにしたエンジンを962Cに搭載してテスト走行を行っていた (このシャシーは962/8-001としてテスト専用に新造され、その使命を終えると通常の962Cの仕様に戻されたうえで962-141の新シャシー・ナンバーを与えられ、ヨッヘン・ダウアーに売却された。ダウアーはこのシャシーで1989年6月から翌1990年にかけてWSPCやインターセリエ、デイトナ24時間レースなどに散発的に参戦した。この962/8-001が通常仕様と具体的にどのように異なっていたかに関する資料は見つかっていない)。大方の予想ではポルシェ・ワークスは新型車が完成しだいサーキットに戻ってくるものと考えられており、したがってヨースト・レーシングがワークスのかわりの役目を果たすのもそれまでの間だけであるはずだった。   
   
しかし、年が明けて1990年を迎えると、雲行きはどんどんあやしくなっていった。1990年は世界中のほぼすべての自動車レースの世界選手権で政治紛争の嵐が吹き荒れたが、スポーツカー・レースにおいてはとりわけ事態が紛糾した。論争の焦点はグループC規格の改定にかんする問題で、エンジンの規格をそれまでの排気量・過給とも自由、ただし使用燃料総量を一意的に規制する、というものから、F1用エンジンとおなじ3.5リッター自然吸気のみに一本化し、燃費規制を撤廃、あわせてレース距離を短縮しレースそのものの高速化・短時間化をはかるものであった。これはF1エンジンと規格を同一化することで、F1に参戦しているメーカーや、F1参戦を考えているメーカーが同時にスポーツカー・レースに参戦してくることを促すねらいがあった。またレースの短時間化によって、テレビ放映や集客などの数字を改善することが (すくなくとも表向きには) 目的であるとされた。しかし自動車メーカーにとって、あたらしくレース専用のエンジンを設計するのはとてもコストのかかることだったので、賛成の立場を示した者はほとんどなかった。それにレース距離を短縮し、燃料使用量も無制限ということにしてしまうと、もはや耐久レースとしての競技の意義は無いにひとしくなってしまうのである。当初1989年から施行される予定だった改革案はこのため頓挫し、ひとまずは3.5リッター自然吸気エンジンの車を燃費規制なしで混走させることと、レース距離をそれまでの1000kmから480kmに短縮するのみにとどめられた。このため1989年以降も、引き続きレースの主役はさまざまな形態のエンジンを搭載したスポーツカーによる燃費レースになるはずであった。    
   
ところが最終的に、翌1991年からグループC規格は事実上前述の3.5リッター・エンジン車に一本化されることがほぼ決定してしまったのである。この背後にはプジョーの存在があった。かつて世界ラリー選手権がグループBで競われていた頃、プジョーはアウディの四輪駆動車やランチアのミッドエンジン車に対抗すべく、そのふたつを合体させたようなミッドエンジンの四輪駆動車をつくり、連戦連勝の快進撃をつづけた。しかしその直後、死亡事故の発生を契機としてFISAがグループB車輌の公認をすべて引き上げてしまい、プジョーの連勝劇は唐突に終りをつげたのである。これに激怒したプジョーは民事訴訟でFISAを告訴するまでに至ったが、最終的にプジョー側から和解することで平和裏に決着した。この譲歩の代償として、FISAはプジョーの提案をほぼそのまま受諾する形でスポーツカーのレギュレーションを改訂したのである。    
   
このことは、スポーツカー・レースに参戦するほとんどすべてのメーカー・ワークスの計画を大幅に狂わせた。ポルシェは規定に合致する3.5リッター自然吸気エンジンと、それを搭載するスポーツカーを白紙から開発することを選び、このため新車が間に合うまでヨースト・レーシングが引き続き最前線でポルシェの看板を背負って戦うことになった。1990年は旧規定のスポーツカーが走れる最後の年になるはずであったが、各メーカーとも例年にましてすさまじい開発競争をくりひろげ、潤沢な予算と人員を配して必勝の体制で挑みかかった。ポルシェはこの頃CARTレースにも参戦しており、また3.5リッター・エンジンの開発も同時に行っていたためスポーツカー・レースに全力を振り向けることができず、苦戦が予想された。    
   
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慢性的なリソース不足の中で、ヨースト・レーシングは962Cに大規模な近代化改修を行った。写真手前の車は、この1990年最終仕様と同一の仕様で1990年11月に製作されたシャシー・ナンバー962-155の個体であり、ドイツのオベルマイヤー・レーシングがこれを購入し1993年のル・マン24時間レースに出走した。写真奥の1989年仕様とはオイルクーラー位置以外基本的には同一の形状をしているが、ヘッドライト形状やフロントエンド/リヤエンドの処理が改められ、ホイールベースが若干延長されている。また写真では見えていないが、1989年仕様に比してディフューザー上端の張り出しが延長され、エアトンネルの容積が拡大されている。この個体については後日の記事で詳述したい。   
   
962C-90Mont-Wollek-Jelinski-2

 

参考までに、実車の写真を掲載する。1990年WSPCモントリオール、カーナンバー7のボブ・ウォレック/フランク・イェリンスキ車で、シャシーナンバー962-012の個体である (この仕様は現在のところモデル化されていない)。ターボ・チャージャー用のシュノーケル型吸気口が追加されているのが確認できる。この年からエンジンが3.2L (3164cc) に拡大され、まずWSPCラウンド用に投入された。ヨースト・レーシングがル・マン用にこのエンジンを投入するのは翌1991年のことである。   
   
小規模チームながら力強い戦いを続けた1989年WSPCとはうってかわって、1990年のレースはヨースト・レーシングにとって苦難の連続となった。おおきな原因はタイヤだった。皮肉にも前年ヨースト・レーシングが使用してその優秀さを証明したグッドイヤー・タイヤが各チームのあいだで争奪戦となり、最終的にミシュランから乗り換えたサウバー・メルセデスとダンロップから乗り換えたジャガーが獲得した。ヨースト・レーシングはサウバーと交換するかたちでミシュラン・タイヤを使わなければならなくなり、ごく低調な成績しか得られなかったのである。この年のヨーストの入賞記録は四位、五位が各一回ずつと六位が三回で、いずれもNr.7のウォレック/イェリンスキ組が記録したものであった。最終的なチーム・ランキングは五位で、C2クラスのシャシーにフォードのF1用エンジンを積んだにわか仕立てのC1カーを使うスパイス・エンジニアリングにも負けていたが、この年のポルシェ・ユーザーの中では最上位であり、また一年を通して大不振に終ったトヨタ・チーム・トムスよりは上位の成績であった。    
   
962C-89Donington-Ricci-Pescarolo962C-90Dijon-Pescarolo-Ricci

 

前述の1990年ワークス仕様は1990年を通して二台のみが投入され、ラウンドによって参戦した三台目以降の車は写真のような設定であった。リヤカウルの形状は1989年仕様とほぼ同一であり、フロントカウルも異なる形状をしている。一見すると通常の962Cと共通の形状に見えるが、フロントエンドが延長されており、ボディ全体の寸法は-011系のボディと共通化されている。これにより空力特性も多少改善されたと思われる。この仕様は前年から一台のみ投入された-011系シャシーのセカンドカーとして開発され、スプリント・レースに特化したワークス仕様カウルにかわって、その後も主にヨースト・レーシングから各種耐久レースに参戦した。上写真が1989年WSPCドニントンの962-104C (もとは85年投入の962-004。修理の際に新ナンバーを与えられ、89年まで最前線で活躍した長寿シャシー)、下写真が1990年WSPCディジョンの962-144である。

 

(つづく)

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