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2015年10月20日 (火)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「断章・新大陸」

この一連の記事ではポルシェ・962Cの、主に欧州の世界選手権レースにおける戦いをとりあげてきたが、そもそもポルシェ・962という車は北米大陸におけるIMSA-GTP選手権レース向けに設計されたものであった。「962」の名をもつ車の実戦デビューが1984年1月のデイトナ24時間レースであり、この車が既存の956をベースに北米レースの規定に合致する改造を施されたモデルであったことは、ファンのあいだではよく知られた事実であることだろう。具体的には、「着座状態でドライバーの爪先が前車軸より前に突出してはならない」とする、いわゆる「フットボックス・レギュレーション」に対応するため、前車軸を120ミリ前進させたこと、それにともないノーズがみじかくなったこと、各車の性能を均一化させる規則にしたがってシングルターボ化されたことが主な変更点であった。ヨーロッパ同様、北米大陸においても、962は実戦デビューの翌年、すなわち1985年から一般のプライベート・チームに販売されることとなった。   
   
歴史書によると、現在北米大陸として知られている土地は、ヨーロッパ人であるコロンブスによって「発見」され、この大陸に入植したもっとも最初の「開拓者」たちは、同じくヨーロッパからやって来たひとびとであった、という。すなわちアメリカは、ヨーロッパ人によって「開拓」されていったのである。地理的、気候的、また歴史的な要因から、近代以降のアメリカはヨーロッパとは明らかに一線を画する社会的発展の道を歩んできたが、ともすればこのことによって、アメリカはヨーロッパより「格下」の世界であるという不正確な偏見が (特にヨーロッパにおいては) まかり通ることになった。モーター・スポーツひとつとってみても、そのことは明瞭である。一方にグランプリ・レースがあれば他方にはインディーカー・レースがあり、一方にツーリングカー・レースがあれば他方にはストックカー・レースがある、といった具合だ。そんな中で、二度の世界大戦の後に勃興した「スポーツカー・レース」は、ヨーロッパとアメリカという、ふたつの世界をまたいで存在する貴重なモーター・スポーツであった。しかしこのスポーツカー・レースすらも、二十世紀後半以降、ヨーロッパとアメリカで対照的な発展をとげることになる。一方の中心はグループC規定のスポーツカーによる世界耐久選手権であり、もう一方の中心はIMSAによるGTP選手権であった。この時代のスポーツカー・レースを論ずるうえで、西欧の世界選手権レース、アメリカのIMSA-GTPレース、極東のJSPCレースはいわば三本の柱であり、いずれの視点を欠いてもその興亡を俯瞰することはできなくなるのである。    
   
8929スパークモデル製・型番43DA89、1/43スケールのレジン製完成モデルで、1989年デイトナ24時間レースにジム・バスビーがエントリーし、みごと総合優勝を果たしたNr.67のポルシェ962 (シャシー・ナンバー962-108C/C03)* を再現している。もともと2010年以前に品番S0939として販売されていた絶版品を、2015年にデイトナ24時間レース優勝車シリーズとして、スリーブケースを専用デザインにあらため再販したモデルだ。旧モデルとの金型の差異は定かではないが、写真を見比べる限りでは、旧金型では厚ぼったく実感を損ねていたヘッドライトカバーの透明パーツが、薄いフィルム様の素材に置き換えられ、よりリアルに再現されているように見える。    
   
8938一見して、ヨーロッパの「962C」ではないとわかる独自のボディスタイルをしている。独特なロングテール・タイプのリヤウィングや、リヤカウル上面に大きく洞窟のように開いたダクト、ミラー・ビールのカラーである金色に塗られたボディなどが、グループC仕様の962Cを見慣れた目には新鮮に映る。モデルでも精密に再現されているBBS製のツーピース・メッシュ・ホイールは、スピードライン製と並んでこの時代のスポーツカーのデファクト・スタンダード・パーツであった。    
   
ジム・バスビーひきいるバスビー・レーシングは、アル・ホルバートと並んでアメリカでもっとも早くからポルシェ・962を購入して走らせたプライベート・チームのひとつであった。アメリカのレースにはポルシェ・ワークスは参加していなかったので、勝ち星を争うのはつねにプライベート・チームが購入したポルシェだった。しかしその中で、名レーサーであったアル・ホルバートのチームはポルシェから特別待遇を与えられ、北米におけるポルシェ・ワークスの名代として活動することをゆるされたのである。彼のポルシェには85年シーズンから、アンディアル社がチューニングした特別製のエンジンが与えられた。このエンジンはほかの962の2,994ccに対して3,164ccの排気量を持ち、排気量によって最低重量を規定するIMSAの規則ではほかのポルシェよりひとまわり重くならざるを得なかったが、パワーの優位がそれを帳消しにしてくれた。当然のことながら、ジム・バスビーはみずからのポルシェにも特別製のエンジンをまわしてくれるよう頼んだが、アメリカにおいてポルシェ・ワークスに伍する待遇を受けていたのはホルバートだけであり、バスビーにはそれがなかったため、このエンジンがすぐにバスビーの手元に渡ることはなかった。対策として、バスビーは名エンジニアであったエド・ピンクをチームに引き入れた。彼はボッシュ製の制御コンピューターをハックすることで80馬力分のアドバンテージを手に入れ、パワー面における不安はある程度解消されることとなった。    
   
エンジンの強化と並んで、バスビーはもともと強度が不足気味であった962の板金製モノコックの強化にとりくんだ。折しも1986年のデイトナ24時間レースで、バスビー・レーシングの962-108がクラッシュにより大破し、大規模な修理が必要とされていた。バスビー・レーシングはスペアのシャシーであった962-105でシーズンを戦うとともに、ポルシェ本社から指名されたファブリケーターであるジム・チャップマンに、アルミハニカム材製の高剛性モノコックの製作を依頼したのである。この新型シャシーは962-108B (C02) と名付けられた。CはチャップマンのCであり、02はチャップマン製モノコック・タブとしての通しナンバーである。初号機であるC01は、(意外なことに) 種種折衝のすえホルバート・レーシングに渡り、アメリカにおけるもうひとつの有力ファブリケーターであったファブカー社製モノコックである962-HR1のモノコック・タブ部分のみを置き換えるかたちで使用された。962-108Bは1987年開幕戦デイトナから実戦投入されたが、同年シアーズ・ポイント300キロレースでクラッシュにより大破した。このシャシーを修復するよりあたらしいモノコックを作ったほうが早いと判断したジム・バスビーは、チャップマンに二台目のハニカム・モノコックを発注し、完成したモノコックは1988年に引き渡された。このモノコックこそが、シャシー・ナンバー962-108C (C03) として1989年のデイトナ24時間レースに参戦し優勝した、今回とりあげる個体である。ほぼ同じ時期に、欧州のレースにおいてもリチャード・ロイド・レーシングが同様の手法をもちいてモノコックの強度不足に対処していた事実は興味深い。チャップマン製モノコックは素材をアルミ板金からアルミハニカム材に置き換えることでねじれ剛性を大幅に強化し、またフロント・バルクヘッドもアルミ板金にかえてビレット・アルミ素材を使うことで、剛性を高めるとともに足回りのセッティングの幅を広げた。    
   
8931すでに北米でのデビューから五年が経過した1989年の時点での姿であり、オリジナルの962/Cからは多くの変更が加えられている。ボディワークは完全な新設計であり、モノコックの剛性不足と並んでオリジナルの大きな弱点であったダウンフォース不足を解消するための努力が随所に見られる。写真は前輪後方に設けられた大きなえぐり込みで、ここからタイヤハウス内の高圧空気を掃き出し、ドラッグを削減する目的がある。同時期のGTPレースで無敵を誇っていたエレクトラモーティヴ・ニッサンGTP ZX-Tの処理をコピーしたもので、風洞設備を持たないバスビー・レーシングのような小規模プライベート・チームにとっては、「持てる者」の出した結論をそのまま踏襲することが往々にして最善手であったことを物語っている。89年式ではリヤビュー・ミラーがドア上からフェンダー上に移設されているが、これもやはり空力的な理由によるものである。    
   
8932リヤの形状もオリジナルから大きく手が加えられている。ディフューザーのエアトンネル部は上部が嵩上げされ、容積が増したことでより強いダウンフォースを生み出すようになっている。1989年モデルでリヤウィングのメイン・エレメントの取り付け位置が引き下げられ、エア・トンネル出口に近くなったことで、ディフューザー部からの空気の吸い出しを促進しダウンフォース獲得に貢献している。ボディワークは後輪のやや後方で切り落とされており、外側からはカウルの一部に見える車体後部の大きな平面が翼端板の一部であったことがわかる。この部分が空気を仕切るフェンスの役割を果たし、ディフューザーからの空気の吸い出しをより効率化させていたと思われるが、これもエレクトラモーティヴ車のコピーである。チャップマン製モノコックのリヤサスペンション・レイアウトはオリジナルの通りであったが、フロントサスペンションはピックアップポイントが変更されている。    
   

 

962-89Daytona-Wollek-Bell-Andretti-2画像サイズがちいさいが、1989年デイトナ24時間レースのプラクティス・セッションにおけるバスビー・ポルシェの姿。ノーズ・カウルが延長されているように見えるのは、じっさいに956用のノーズが装着されているためである。バスビー・レーシングは1988年頃から、ハイダウンフォース・セッティングとしてファクトリーから取り寄せたル・マン用セットの956用ノーズカウルを装着し、フロントが伸びた分だけリヤウィングの取り付け位置を前進させるというセットアップをこころみていた。こうすることで空力中心点を前へ寄せてフロントに荷重をかけ、アンダーステアを消すことができたのである。このハイダウンフォース仕様はけっきょく決勝レースでは投入されなかった。フロントに取り付けられた一組のダイブ・プレーンに注意されたい。画像はMulsanne's Cornerより。    
   
1988年のデイトナ24時間レースで、バスビー・ポルシェは予選第一位を獲得しながらわずか一周の差でジャガーに勝利を譲るという、苦いレースを経験していた。1989年のレースでは、すでにヨーロッパでもポルシェを下して新耐久王となったジャガーにくわえて、強力なオリジナル・シャシーを武器に戦うエレクトラモーティヴ・ニッサンが優勝争いにくわわった。エレクトラモーティヴ・ニッサンは前年のIMSA-GTPレースで前人未到の大記録であるシーズン八連勝という快挙を成し遂げており、大一番であるここデイトナでも勝って、全米チャンピオンの座をいっそう強固なものにしようとの意気込みでレースに臨んでいた。予選ポール・ポジションはニッサンが奪い、そのあとにジャガーともう一台のニッサンが続き、四位と五位にそれぞれプライベートのポルシェが入った。バスビー・ポルシェは十二位になるのがやっとで、前年とは打って変わって苦戦ムードが漂い始めていた。頼みの綱はデレック・ベル、ボブ・ウォレック、ジョン・アンドレッティという三人のドライバーであり、耐久レース経験の豊富な彼らの力こそが、バスビー・レーシングが優勝を狙える唯一の希望であった。    
   
レースがはじまると、予選第一列を占めたニッサンとジャガーがまっさきに飛び出し、予選五位のブルース・リーヴェン率いるハヴォリン・レーシング・ポルシェがこれに続いた。バスビー・レーシング・ポルシェは後方からじわじわと順位を上げていく耐久レースらしい戦い方で、後方から上位陣の脱落を狙い撃つ作戦で周回を重ねた。ベテラン・ドライバーの実戦勘こそがなせる技であった。レースが半分をすぎたところでコース上を霧が覆いはじめ、コンディションが危険であるとして四時間近い赤旗中断があったが、その時点でバスビー・ポルシェはすでにニッサンに次ぐ二位を走っていたのである。レース再開後三時間弱、残すところあと五時間というところで、トップを行くニッサンがエンジン・トラブルでリタイヤした。計算通り十九時間目にしてトップに浮上したバスビー・ポルシェを、こんどは二位のジャガーが猛追しはじめた。しかしジャガーはプライス・コブの操縦中にスピンし、またレース終盤になってエンジン温度が上昇しはじめたため、追撃を断念せざるを得なくなった。しかしそれでも、24時間の戦いに勝ったバスビー・ポルシェとやぶれたジャガーのあいだには、たった二分弱ほどしか差がなかったのである。前年のル・マン24時間レースにおいて、ポルシェ・ワークス・チームがついにジャガーに敗北し、耐久王の座をあけわたした半年後の出来事であり、アメリカにおいては依然ポルシェの力は健在であること、また創意工夫によって設計の旧態化した962でも最新のスポーツカーと戦って勝利をおさめる可能性があることを、ジム・バスビーは示してみせたのである。    
   
8933グループC規定の962Cと見比べてみると、リヤカウルにはダクトや開口部が乱立し、どことなく無骨な印象を受ける。カウル上部中央のNACAダクト (角度の関係でやや見えにくい) は空冷エンジンの強制冷却ファン、その背後の仕切りが設けられた大きな開口部はターボ用インタークーラー、右側に立つ大型のシュノーケル・ダクト (BOSCHのステッカーが貼られている) はターボ・チャージャー、その脇にあるやや小ぶりなシュノーケル・ダクトはブレーキに、それぞれ空気を供給するものである。IMSA-GTPレースでも、ジャガーやニッサンの台頭により相対的にポルシェの戦闘力は落ち込み、1988年なかばからグループC仕様の4バルブヘッド・水冷式ツインターボ・エンジンの使用が許可されるに至ったが、バスビー・レーシングは89年シーズンいっぱいまでIMSA規定の2バルブヘッド・空冷式シングルターボ・エンジンを使い続けた。    
   
8934カウル上にはエンジン・チューナーであるアンディアル社のロゴが輝く。1988年9月にアル・ホルバートが航空機事故で死亡すると、ホルバート・レーシングの解散によって宙に浮いたアンディアル社の独占契約がバスビー・レーシングにもたらされることになった。この契約を持ち込んだのはアンディアルのボスで、ポルシェの北米モータースポーツ活動を任されていたアルヴィン・スプリンガーであったが、彼は同時にミラー・ビールのスポンサー契約も持ち込んだため、車体はそれまでの白いBFグッドリッチ・タイヤのカラーリングから、金色の派手なカラーリングに塗り直された。白と緑のアクセントがほのかにアメリカらしさを感じさせる。アンディアル・チューンのエンジンは予選用セットアップで850馬力以上、決勝レース用のセットアップでも800馬力以上を発生したとされる。    
   
8937バスビー・レーシングが運用したチャップマン製モノコックのすばらしさを語るエピソードがある。1989年シーズン中盤になって、ジム・バスビーはセカンドカー用にグループC規定の962Cを一台購入し、比較のためのテスト走行をおこなった (このシャシーのナンバーについては伝わっていない。「ハンス・シュトゥックがドイツ・スーパーカップ選手権で乗っていた個体」という証言があり、ここから推察するに962-007、-008、-009のいずれかであることは確かである。962-009はスーパーカップ専用の軽量シャシーであり、可能性としてはこの個体がもっとも高い)。テストはライムロック・パークでおこなわれ、ボブ・ウォレックが操縦をうけもった。ヨーロッパから持ち込まれたワークス・スペックの962Cは、4バルブヘッド装備のツインターボ・エンジンというすぐれた心臓部を持っていたにもかかわらず、チャップマン製モノコックの962よりも一秒も遅かったのである。ウォレックはヨーロッパ仕様の962について「ブタのような機動性」であるとコメントし、アンダーステアがあまりにもひどいことを訴えた。バスビー・レーシングのテクニカル・ディレクターであったマイケル・コルッチは、962のオリジナル・モノコックについてつぎのように語っている。    
「いちばんの弱点がシャシーの剛性で、ねじれ剛性が5350lbs/deg (約2426kg/deg) しか無かった。ダウンフォースも、ニッサンやジャガー、トヨタといったライバルに比べて劣っていた」    
IMSA-GTPにおいて無敵を誇るようになったエレクトラモーティヴ・ニッサンが当初使用し、剛性面に不満を持っていたローラ製シャシーのアルミ・モノコックのねじれ剛性が約8000lbs/deg (約3629kg/deg)、その後トレヴァー・ハリスが設計しジム・チャップマンが製作したハニカム材製オリジナル・モノコックのねじれ剛性は12,000lbs/deg (約5443kg/deg) であった。すでに962Cのオリジナル・デザインは、運用者の側でなんらかの手を加えないかぎり、どうにもならないところまで来ていたのである。    
   
デイトナ24時間レース以後、セブリング12時間レースをふくめたIMSA-GTPレースは、たちまちのうちにエレクトラモーティヴ・ニッサン (この年からニッサンの直属部隊となった) の天下と化した。前年からローラ製シャシーを大改造したトレヴァー・ハリス設計のオリジナル・シャシーを投入し、このシャシーを実戦で磨いたエレクトラモーティヴは、ヨーロッパにおけるグループCレースを担当したニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの苦戦を尻目に、すっかりアメリカのスポーツカー・レースにおける無敵艦隊にまで成り上がったのである。ヨーロッパで王座についたジャガーすら太刀打ちできないほどの速さであった。エレクトラモーティヴがライバルというライバルをすべて蹴散らすなかで、ポートランド、タンパ、デル・マーの各レースで、ジャガーがかろうじて優勝をかすめとった。この二チーム以外での優勝は、バスビー・レーシングの962がウェスト・パーム・ビーチであげた一勝が唯一のものであった。    
   
89361989年シーズンの年間ランキングで、バスビー・レーシングはポルシェ・ユーザーの中では最上位の成績をおさめた。しかし翌1990年シーズンから、ジム・バスビーはポルシェにかえてエレクトラモーティヴ・ニッサンのシャシーを購入し、一台体制でレースに参加するようになった。ポルシェ962は前年ニッサン、ジャガーの二大メーカー・ワークスを相手に善戦敢闘を見せはしたが、すでにそのシャシーはあらかた開発しつくされ、これ以上進歩する余地はどこにもなかったのである。また、1989年からGTPクラスにステップアップして来たダン・ガーニーのオール・アメリカン・レーサーズ (AAR)・トヨタも力をつけはじめており、IMSA-GTPレースもメーカー・ワークスによる全面代理戦争の戦場となりつつあった。バスビー・ニッサンはこのシーズン中に二位を一度、三位を二度獲得したが、この年限りでジム・バスビーのチームはIMSA-GTP選手権から姿を消した。自身もまた長い経験をもつレーシング・ドライバーであったバスビーは、小規模プライベート・チームがまるで水雷戦隊のように、身ひとつで大メーカー・ワークスに立ち向かい、必殺の一撃でその死命を制することができる時代の終りを、感じ取っていたのかもしれない。    
   
シャシー・ナンバー962-108C (C03) のポルシェ962は、破損した962-108B (C02) の代替モノコックとしてジム・チャップマンにより製作され、1988年デイトナ24時間レースでデビューした個体である。このシャシーはバスビー・レーシングから同年IMSA-GTP選手権のデイトナ24時間レース、マイアミ3時間レース、ウェスト・パーム・ビーチ3時間レース、ミッドオハイオ500キロレース、ワトキンス・グレン500キロレース、ポートランド300キロレース、シアーズ・ポイント300キロレース、コロンバス300キロレース、デル・マー2時間レースの各戦に参戦した。最高位はデイトナ24時間レースの二位であった。    
1989年にはデイトナ24時間レースをはじめとするIMSA-GTP選手権レース全戦に参戦し、うちデイトナ24時間レース、ウェスト・パーム・ビーチ3時間レースで優勝している。このシーズンの後、このシャシーはグンナー・レーシングのケヴィン・ジャネットに売却され、2005年以来イギリスのコレクターであるヘンリー・ペアマンが所有している。    
*チャップマン製モノコックは一般に八台が製作され、一台がスペア・モノコックとして保管され、残る二台がボブ・エイキンに、二台がジム・バスビーに、三台がアル・ホルバートに渡ったとされる (ホルバートが取得した三台は彼の死後ポルシェ・アメリカの管理下におかれ、のちにカスタマー向けスペアとして販売されたという)。これらチャップマン製962用モノコックには本稿で述べたとおり通しナンバーが振られていたが、この通しナンバーのつけ方は資料によって異なり、たとえばRacing Sports Carsアーカイヴでは、本稿で紹介した962-108Cを「C02」としている。いっぽうヘンリー・ペアマン・コレクションの紹介ページ、またMulsanne's Corner主筆であるマイケル・フラーの著書「Inside IMSA's Legendary GTP Race Cars: The Prototype Experience」においては、このシャシーは「C03」と紹介されている。この差異は「C01」をホルバート・レーシングが取得し962-HR1に組み込んだ第一号モノコックの個体とするか、バスビー・レーシングが取得しそのまま運用した第二号モノコックの個体とするかによって生じているものと考えられる。本稿では「製作者による製作順を示す通しナンバー」としての整合性を重視し、この個体は「C03」であるとした。

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