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2015年12月

2015年12月28日 (月)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「終章・1994」

中国・晩唐の詩人李商隠の書き残した詩に、「登楽遊園」という作品がある。むすびの二句はつぎのように書かれている。   
「夕陽無限好/只是近黄昏」   
夕陽の落ちる景色はじつにみごとなものだが、日の入りが近いから長くは見ていられないのが口惜しい、という内容である。夕陽のうつくしさを歌った詩は多く書かれているが、思うに夕陽の風景というのは単純な景色のよさだけではなく、一日の終りに太陽が沈みゆくその瞬間に、空一面を橙色に染め上げる場面の壮大さ、そしてその場面がほんの一瞬しか見られないことの儚さが、人びとに感慨をあたえるのだろう。   
   
1993年シーズンをもって、グループCのスポーツカーが走るレースは地上から消滅した。かつて世界中のサーキットで覇を競ったポルシェ、ジャガー、ベンツ、ニッサンらワークス・カーのエンジン音は跡形もなく絶え、ヨーロッパにおいては市販車改造のGTカーが、北米大陸においては既存のスポーツカーをオープン・トップ化し、さまざまな改造によってコストを抑止した「ワールド・スポーツ・カー」規定の車が、それぞれ次の世代の主役を担うものと予想された。1993年にはル・マンをいろどる脇役の立場にすぎなかったGTカーは、翌1994年には早くもレースの主役となることが予想されていた。しかし、それまでプライベート・チームの走らせるスポーツカーが埋めていた枠をGTカーで埋め直すには時間がかかることが予想されたため、1994年の一年間は移行期間とされ、さだめられた改造を施せば、1990年時点におけるグループC規定に準拠したスポーツカーも出走することが可能となった。具体的な改造内容は燃料タンク容量の縮小、前後車軸間のフラットボトム化、直径33.4mmの吸気リストリクター装着 (1993年は直径35.7mmであった) によるエンジンのパワーダウンが中心であった。前年のル・マンで旧規定スポーツカーを走らせ、クラス優勝を果たしたサード・トヨタとトラスト・トヨタは、このクラスにあつかい慣れたスポーツカーを持ち込むことにした。目標は総合優勝だった。いっぽうのGTカー・クラスは、主にイタリアのフェラーリやフランスのヴェンチュリーが製作したスーパーカーにレース向けの改造を施した車が主役となり、このほかアメリカのIMSAレースから招待されたGTSクラスの車も少数ながら参加した。これらGTカーは、前述の規定に合致するよう改造されたスポーツカーにくらべても、なお総合優勝の可能性は低いと見られていた。   
   
1993年のフランクフルト・モーターショーで、ドイツのある自動車メーカーがエキゾチックなスーパー・カーを発表した。メーカーの名はダウアー・シュポルトヴァーゲンといったが、この組織はかつてヨッヘン・ダウアー・レーシングを名乗り、ポルシェ962Cでスポーツカー・レースに参加していたレーシング・チームそのものであった。服飾ビジネスで財を成したヨッヘン・ダウアーは、1991年にみずからのレーシング・チームの活動を終了した後、ポルシェ962Cをベースにしたロードゴーイング・スポーツカーの製作を計画し、実際にポルシェから962C用のモノコックや各種パーツを購入し、ドイツ国内の法規を満足する改造を施したものを「ダウアー962」として市販したのである。この市販第一号車が展示されたのであったが、ポルシェのモータースポーツ部門がこの車に注目した。もとがレーシング・カーとはいえ、ダウアー962は明らかに市販乗用車であり、したがってこの車の改造車はGTカーとしてさまざまなレースにエントリーすることができた。当時のGTカーの規則では、一台でも市販されている車であれば、その車を改造してGTカー・カテゴリに参戦させることが可能だったからである。ポルシェの目はル・マンに向いていた。ポルシェが最後にル・マンで優勝してから、すでに七年の歳月がすぎていた。ポルシェ製スポーツカーがその絶頂期にあった頃デビューし、以後ポルシェという大帝国の衰退、そしてスポーツカー・レースそのものの凋落と終焉までを見届けた962Cの、その長く苦しい冒険旅行を締めくくるのに、ル・マンにおける勝利は最高級の贈り物となるはずであった。こうして、962Cの最後のレースは、1994年のル・マン二十四時間レースに定められた。   
   
9401スパークモデル製1/43スケール、シャシー・ナンバー962-176→GT003のダウアー962GT LMである。Nr.36はヤニック・ダルマス/マウロ・バルディ/ハーレイ・ヘイウッドにステアリングを託された。同社のル・マン優勝車シリーズの一台として、特製のスリーブ・ケースに収められ販売されているもので、「43LM94」という特別な品番が与えられている。外見的には、かつてル・マンをはじめとする世界中のスポーツカー・レースを席巻したポルシェ956/962Cの面影を残してはいるものの、外装パーツのほとんどは市販化にあたって新造されたものであった。市販車をベースにヨースト・レーシングがレース向けの改造を施し、前後カウルやリヤウィングの配置などが市販車とはことなっている。豪奢な内装は軽量化のためとりはずされ、車体もレーシング・カラーに塗装されてはいるが、フロントフェンダー上に移設されたサイドミラーの形状などに、市販乗用車としての名残を見出すことができる。   

   
1994年のル・マン二十四時間レースは、早い段階から優勝争いはトヨタとポルシェの両者が主役になるだろうと予想された。トヨタ陣営は1990年中盤から投入した、排気量3576ccのV8ターボ・エンジン「R36V」を搭載する94C-Vを、サードとトラストが一台ずつ持ち込んだ。車のベースは1991年から投入された91C-Vでモノコックも同一のものであったが、このレースに合わせて各種の改造がなされ、約550馬力を発生した。いっぽうのポルシェは、ヨースト・レーシングを中心に組織された「ル・マン・ポルシェ・チーム」名義で、二台のダウアー962GTを投入した。エンジンは市販バージョンが搭載していたものと同じ、962C用エンジンがベースの2994ccの水平対向6気筒ターボ・エンジンで、GTカー・クラスとスポーツカー・クラスの規則の違いによりこちらは約600馬力を発生することができた。両者を比較すると、タイヤの耐久性とコーナリング速度においてはトヨタの旧規定スポーツカーがまさり、いっぽうのポルシェは直線でのスピード、燃料搭載量、連続周回可能な周回数にすぐれていた。   
   
   
9402フロントカウルを見ると、オリジナルの962Cと共通な要素は丸型四灯式のヘッドライト配置くらいのものであることがわかる。ノーズは空気抵抗低減のため、オリジナルの962Cよりも滑らかな曲線状の形状を持つ。ヘッドライトの下には横長型のターニング・インジケーター・ランプが取り付けられているが、これもダウアー962GTの市販車としてのルーツを想起させる。市販のダウアー962GTのモノコックはポルシェ962C用のアルミ板金製モノコックをそのまま流用しており、ル・マンに持ち込まれた二台のレーシング・カーと一台のスペア・カーは、いずれも純正962C用のモノコックからロードゴーイング・カーとして製作され、その後レーシングカーにふたたび改造された経緯を持つ。   

   
予選では、トヨタの二台が四位/八位、ポルシェの二台が五位/七位にそれぞれ入った。レースはこの四台がまっさきに飛び出し、はげしいトップ争いが繰り広げられた。コース上における速さはポルシェが上回り、トヨタはその差をタイヤ交換回数を減らすことによって詰めた。序盤はポルシェ優位のままレースが進行したが、その後二台のポルシェはあいついでトラブルに見舞われ、信頼性にすぐれるトヨタにリードを明け渡すことになった。日付が変わる頃には、トラスト、サードの順でトヨタが第一位・第二位を独占し、ポルシェを引き離しはじめた。ダウアー・ポルシェは、市販車を改造したGTカーとしてはまちがいなく無敵の存在だったが、規則によりスピードを抑止されているとはいえレース専用に製作されたスポーツカーの前では、明確な優位はなにひとつ持っていなかった。東の空が明るみはじめた午前四時すぎになって、トラスト車のギヤボックスに故障が発生し、ピットでギヤボックスを交換しなければならなくなったため、サード車がかわってトップに立った。このサード車を直接追撃できる位置にいたのはNr.36のポルシェだったが、レース中盤にドライブシャフトを破損したためトヨタに三周以上も差をつけられており、よほどの幸運がなければ挽回は不可能と思われた。   
   

9403ロードラッグ化のためリヤウィングはボディとほぼ同じ高さに取り付けられている。ウィング下面に向かってボディワークは急な下り坂を形成し、この部分に気流を導いてダウンフォース効率を向上させている。手前の黒色に塗られた部分がキャビンだが、中央部に「凹」字様のくぼみが設けられている。おそらく前方投影面積をちいさくすると同時に、リヤウィングに効率よく気流を流し込むための処理と思われる。   

   
9405リヤエンドを見る。この部分の造形もオリジナルの962Cとは似ても似つかないものとなっており、わずかに低くマウントされたリヤウィングと横長の端面に開けられた開口部だけが、オリジナルと共通する意匠となっている。矩形の大型テールライトは汎用品か市販車用パーツを流用している可能性があるが定かではない。   

   
レースが残り九十分を迎えても、トヨタのリードは崩れなかった。もはやポルシェは追撃をあきらめなければならないだろうと思われたそのとき、トップを走るサード・トヨタがピットロード出口で突如ストップした。シフトリンケージのトラブルであった。シフトレバーとギヤボックスをつなぐ棒状の部品が折損したのである。観客は総立ちになった。しかしサードはここまで来てリタイヤで終るつもりはまったくなかった。ドライバーのジェフ・クロスノフはそのままスロー走行でほぼ一周を走りきり、ふたたびピットにもどってきたのである。その場にいたカメラマンやジャーナリスト、レポーター、さらには他チームのメカニックまでもが遠巻きに見守る中、サードのピットでは決死の修理がはじめられた。サード・トヨタが修復作業とドライバー交代を完了し、万雷の拍手喝采に送り出されてふたたびコースに戻ったとき、トップを走っていたのはNr.36のポルシェであった。サード・トヨタは三位だった。クロスノフから車をひきついだエディ・アーバインはギヤボックスの状態が万全ではない車で猛烈なアタックをかけ、最後の最後でポルシェの1-2体制を崩すことに成功したが、レースはそこで終りだった。ポルシェ962Cは、かつてグループCの時代をともに戦い抜いたトヨタとの最後の決闘を、これ以上ないほどのドラマチックな展開のすえ制したのである。   
   

 

9406日の沈まぬはずの大帝国に生を受けたポルシェ962Cは、その後ライバルチームの猛攻や時流の劇的な変化により、大帝国が砂上の楼閣のごとく土台ごと崩れ落ちる中で、沈んでゆく太陽を追って長い長い旅を続けた。その旅のまさに終らんとする瞬間、太陽が西の山間に沈むとき、その夕陽は地上でもっともうつくしい景色であったに違いない。惜しむらくは、うつくしい夕陽と同じように、ポルシェ962Cが散り際に放ったまばゆい光もまた、長くは見られなかったことである。二台のダウアー・ポルシェは、同年八月に開催された鈴鹿1000キロ・レースに参戦し、サード・トヨタとふたたび相まみえる予定であったが、この来日はその後キャンセルされた。理由は明らかになっていない。1995年からGTカー・カテゴリの規則は書き換えられ、ダウアーのような極少数生産のエキゾチック・カーは事実上締め出された。このことにより、ダウアー962GT LMはたった一度のレースにのみ出走し、そのたった一度のレースで勝利をおさめるという、レーシングカーとしてはきわめて特異な生涯をおくることになった。   
   
「新たなヒカリに会いに行こう―」   
2015年に放映されたアニメ作品「アイドルマスター シンデレラガールズ」の主題歌「Shine!!」の歌い出しは、以上のようなフレーズである。劇中でさまざまな挑戦に直面しながら、ひとつひとつそれらを克服し乗り越え、それぞれのまっすぐな夢に向き合ってゆく登場人物たちのように、ポルシェもまたメーカーの原点であるサーキットに、新たなヒカリを求め続けた。1996年と1997年には、ヨースト・レーシングがポルシェ・エンジンを搭載するワールド・スポーツ・カー規定の車でル・マン二十四時間レース連覇を果たし、翌1998年にはポルシェ・ワークス・チームが新開発のポルシェ911 GT1でル・マンを制し、ポルシェ・エンジンの三連覇を完成させた。この1998年に優勝記録を十五に伸ばしたのち、ポルシェはながらくル・マンの総合優勝からは遠ざかっていた。しかし2014年、ポルシェは突如としてル・マン二十四時間レースをふくむ世界耐久選手権に復帰すると、2015年には早くも圧倒的な強さでル・マンの優勝トロフィーを奪還した。ポルシェ962Cがその一生涯をかけて歩んだ旅路が、今日のポルシェの礎を築いたことは、想像に難くない。 ポルシェ962/C用として製作されたモノコック・タブは、レーシング・オン第466号掲載の「特集・ポルシェ962C」内付表によると (重複、ナンバー変更などを除外すれば)、130台が製作されたとされる。現存するポルシェ962/Cの個体は、博物館に陳列されたり、個人のコレクターの管理下に置かれているもののほか、ヒストリックカー・レースに参加している個体も存在する。すでに初登場から三十年が経過したいま、世界各地に散逸した「彼女たち」は、いずれも苛烈な競争とは無縁の、しずかな余生を過ごしている。
   
シャシー・ナンバー962-176のポルシェ962Cは、1990年にヨッヘン・ダウアーによって発注され米・ファブカー社によって製作されたモノコックをもつシャシーで、当初市販のダウアー962GTに使用される予定であった。1994年のル・マン二十四時間レースに向けて、ほかの二台 (962-169および962-173) とともにGT1規定を満足するための改造を施され、同時に新シャシー・ナンバー「GT003」を与えられている。このレースに参加し、優勝したのが唯一の実戦経験であった。ちなみにル・マンにスペア・カーとして持ち込まれたシャシー・ナンバー962-169→GT001の個体は、ほかならぬダウアー962GTの量産第一号車である。   
   
(了)

2015年12月 9日 (水)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1992/1993」

エドワード・ブルワー・リットン男爵は、19世紀イギリスの政治家であると同時に劇作家としても名高く、有名な「ペンは剣より強し」のフレーズは、彼が1839年に執筆した戯曲「リシュリュー」が初出である。リットン男爵の著作のひとつに「ポンペイ最後の日」という小説がある。主人公である青年貴族グローカスと、悪役であるエジプトの僧正アーバセスがイタリアのポンペイで対決するが、物語のクライマックスでヴェスヴィオ火山が噴火しポンペイの街が灰に包まれる、というあらすじの物語で、当時の社会で人気を博しベストセラーになった作品である。登場人物らの設定や中心となるドラマはもちろん虚構だが、実際に西暦79年に発生したヴェスヴィオ火山の大噴火と、それによる古代都市ポンペイの壊滅に材を取っており、物語はおおむね当時の時代背景をよく描いている。作中ではポンペイはローマ帝国領内でも指折りの繁栄を謳歌する港湾都市・商業都市として描写され、人々は美食や美容、闘技鑑賞など、思い思いの娯楽に興じている。史実においては西暦79年8月25日に発生したと伝わる火砕流により、ポンペイの栄華はさながら舞台の大暗転のごとく一瞬にして封印され、都市はその原型を保ったまま長い眠りについた。住まう者を失った物言わぬ構造物の数々のみが、過ぎし日の活況を静かに語っている。   
   
1991年から全面的に再編されたスポーツカー世界選手権は、その初年度においてはつねに二十台弱の出走台数が確保されていた。新規定である3500cc自然吸気エンジンを搭載したスポーツカーはカテゴリ1に分類され、ジャガー、プジョー、メルセデスベンツの三つのメーカー・ワークスが覇を競い、ジャガーがチャンピオンに輝いた。グリッドの後方にはプライベートのスパイス・フォードやポルシェがおり、彼らのほとんどはスポーツカー世界選手権の一戦であったル・マン二十四時間レースへの参戦権を得るためだけにシリーズに参戦していたが、それでもグリッドの数を合わせる役には立った。旧規定のターボ・エンジンを搭載したスポーツカーはカテゴリ2に分類され、翌年からは参戦資格を失うことが決っていた。    
   
翌1992年のスポーツカー世界選手権は、かろうじて選手権レースの体裁をたもっていた前年とはうってかわって、悲惨きわまるものとなった。開幕戦のモンヅァ500kmレースにエントリーした二十五台のうち、実際にスタートしたのはたったの十一台だった。メーカー・ワークスの車は二台のプジョー、二台のトヨタ、一台のマツダだけであった。ジャガーは前年いっぱいでメインスポンサーだったシルクカット・タバコが支援を終了したためヨーロッパのレースには参戦せず、メルセデスベンツはF1に新天地を求めてスポーツカーから離れていた。グリッドを賑わしていた名門プライベート・チームのポルシェは、すでに規則によって締め出されていた。この年のル・マンでは、FIAの施策に反発する主催者のACOが台数を確保すべく特別に旧規定スポーツカーの出走を認めたが、例年通り五十五台分が用意されたグリッドに並んだのは、わずか二十八台だった。この数字は現在でもル・マン史上最少の出走台数として記録に残っている。すでにスポーツカー・レースを延命する術が残っていないことは、もはや誰の目にも明らかだった。史上最低となる出走八台で行われた最終戦・マニクール500kmレースをもって、四十年続いたスポーツカー世界選手権はその幕を閉じた。かつて隆盛を誇ったスポーツカー・レースの世界選手権にしては、あまりに呆気無い最期であった。    
   
962C-92RA-Larrauri-Winter1991年から主戦場をアメリカ・IMSA-GTPレースに移していたヨースト・レーシングは、その翌年ポルシェ962Cに最後の大規模な近代化改修を施した。1991年のスポーツカー世界選手権で圧倒的な速さを見せたジャガーXJR-14に倣い、車体後部のカウルは全面的に見直され、二段式のリヤウィングが取り付けられた。複葉機からの連想で「レッドバロン・ウィング」と呼ばれたこのリヤウィングは、上段のウィングがダウンフォースを発生し、ディフューザー出口とほぼ平行に取り付けられた下段のウィングが車体下部から空気を吸い出すというもので、床下で発生されるダウンフォースの高効率化により、上段のウィングを寝かせてマウントでき、すくない空気抵抗でより多くのダウンフォースを得ることができた。この年のIMSA-GTPは、ヨーロッパで大活躍したジャガーXJR-14が持ち込まれ、前年途中から新型車を投入したイーグル・トヨタや、連覇記録のかかるエレクトラモーティヴ・ニッサン、古豪ヨースト・ポルシェらと激しく覇を競ったが、車体下面のダウンフォースの効率化に着目し、床下の設計を徹底的に攻め抜いたイーグル・トヨタがジャガーの追撃をかわしてチャンピオンに輝いた。すでにヨーロッパのレースと同様に、IMSA-GTPも資金力のある有力チームが大金を投じて開発した車が勝つレースになっていた。1992年のヨースト・ポルシェは、ジャガーやトヨタ、ニッサンを相手に敢闘し、数度のシングル・フィニッシュを記録したが、優勝することはついになかった。   

   
1992年シーズンの閉幕をもって、グループCのスポーツカーが出走できるメジャー・レースは地上から消滅したかに見えた。スポーツカー世界選手権はすでに中止が決り、いまだ旧規定車で競われていた全日本スポーツプロトタイプ選手権も、まるで世界のスポーツカー・レースの趨勢と歩調を合わせるように、その前途には暗雲が低く立ち込めていた。1993年に向けて、全日本スポーツプロトタイプ選手権はGTカーとの混走レースを中心とした「インターサーキット・リーグ」として再編成が図られたが、組織された選手権レースには程遠い形態で、もはや消滅したも同然だった。アメリカのIMSA-GTPレースは健在だったが、このシリーズも宣伝効果の不足やメーカー・ワークスのあいつぐ撤退によってスポーツカー・クラスの出走台数が激減し、市販車改造のレーシングカーによって争われるGTO/GTUクラスが大勢を占めるようになっており、スポーツカー・クラスはもはや風前の灯だった。残された最後の砦はル・マンだった。前年同様、この年もACOは新旧規定のグループCスポーツカーを受け入れた。ACOは同時にスポーツカー・レースの衰退が不可避なものと見て取り、ル・マンの原点であるGTカー・レースへの回帰路線を打ち出し、市販車改造のGTクラスを新設した。これらの施策により1993年のル・マン二十四時間レースは前年に引き続きプジョーとトヨタの優勝争いが繰り広げられたほか、出走台数も四十七台を数えた。うち二十六台がGTカーだったが、旧規定スポーツカーも十五台が参戦した。ポルシェ962Cをはじめとする旧規定のスポーツカーにとっては、この1993年ル・マンが、最後の檜舞台となるはずであった。    
   
93091993年ル・マン24時間レースの公式テストに出走した、ヨースト・ポルシェ962C、シャシー・ナンバー962-013の個体である。マニュエル・ロイター、ジョン・ウィンター、フランク・イェリンスキが操縦した。基本的には1992年IMSA-GTP仕様のボディを翌年に向けて改良したもので、上の1992年仕様の写真と見比べると、リヤウィング形状が変更されていることがわかる。この仕様は1993年のIMSA-GTPにヨースト・レーシングが持ち込んだものと同一である。   

   
通常、公式テストに参加した仕様のモデルカーというのはよほどのことでない限り発売されないのだが、このモデルはフランスのスポーツカー・レース総合情報サイトである「Endurance-info.com」が、日本のポルシェ系GTチームとして活動していた「T2Mモータースポーツ」のマネージメントを行っていた金子オフィスなる企業と提携してリリースしたスパークモデル製特注品で、現在のところこの金型で作られたモデルは写真の仕様のみが存在すると思われる。特にモデルの型番のようなものは付与されていない。限定333台の販売で、すでに発売から数年が経過しているため希少価値は高い。現在T2Mモータースポーツはその活動を休止しており、金子オフィスのウェブサイトも十年近く更新が止まっているため、このモデルに関する情報すらも入手困難である。    
   
9310ヘッドライトにはカバーがかけられているが、これは短距離レースであるIMSA-GTPシリーズ戦用の装備である。従来フロントに設けられていた床下に空気を取り入れる開口部は埋められており、モデルでも銀色のインサートによって再現されている。驚くべきことに、この段階に至っても実車はほぼオリジナルのアルミ・モノコックを使っていた。  

9311   前輪直後に弧状のパネルラインが見えるが、この部分はもともと前輪のホイールハウス内から空気を排出するための開口部が設けられていた部分で、デイトナやル・マンなどの高速セッティングではこのように盲蓋で塞がれていた。ドア後部にはターボ・チャージャー用の潜望鏡型吸気口が見える。1992年の近代化改修で、吸気系・冷却系の配管レイアウトが見直され、合わせて冷却器のアウトレットが側面に移動している。アウトレット内部から見える銀色の蓋状のものは、ターボ用のポップ・オフ・バルブと思われる。   

   
9313二段式リヤウィングの構造がわかる。モデルは少々リヤウィングの高さがデフォルメされており、実車よりもだいぶ背が低くなってしまっている。下段ウィングとディフューザーの位置関係を見ることができるが、このタイプの二段式ウィングにおいて、メインとなるウィングは上段のダウンフォース発生用ウィングではなく、下段にある床下から空気を吸い出すほうのウィングである。このウィングに合わせてリヤタイヤ後方のボディカウルは全面的に改修され、下段のウィングに空気を流すべくリヤタイヤ直後から急な下り坂を描くように落とし込まれている。カウル中心に見える半円形の開口部は排熱口である。   

   
この年のル・マン公式テストに、ヨースト・レーシングはGTP仕様の最新式962Cを一台、ロングテール・カウル最終型の仕様を一台持ち込み、比較テストをおこなった。GTP仕様車はすばらしい速さを見せ、ロングテール・カウルの旧型車に対してラップ・タイムで実に七秒もの大差をつけた。しかし、ヨースト・ポルシェがル・マンの決勝レースをこのセットで走ることはなかった。1993年ル・マンの規則では旧規定スポーツカーは最低車重900kg、直径35.7ミリの吸気リストリクターの装着が義務付けられており、これにより最大出力は550馬力から600馬力ほどに制限された。ヨースト・レーシングは、パワーと燃費のバランスを勘案した結果低ドラッグのロングテール・カウルに利があると判断し、GTP仕様車の参戦を見送ったのである。    

93011993年のル・マン二十四時間レースにヨースト・レーシングから出走した、二台のポルシェ962Cである。右手のNr.17、シャシー・ナンバー962-013の個体はマニュエル・ロイター/ジョン・ウィンター/フランク・イェリンスキ、左手のNr.18、シャシー・ナンバー962-014の個体はボブ・ウォレック/アンリ・ペスカローロ/ロニー・マイスナーがドライブした。スパークモデル製品だが型番がNr.17はS2083、18号車はS1918とやや離れており、前者のほうがあとから製作されたモデルであると思われる。スポンサー以外では、Nr.18のみフロントカウルに小ぶりなエクステンション・パネルが取り付けられているのが外見上の相違点である。   

   
9302実車もそうだが、モデル的にも1988年から投入されたロングテール・タイプ最後期型のボディとまったく同じ仕様である。ロングテール・タイプのカウルはル・マンにおけるポルシェ製スポーツカーの共通の姿とでも言うべきものであり、数度にわたる大改造の果てに、細部の違いはあれどおおむね962Cの「原初の姿」を保った状態で最後のル・マンを走った事実は、どことなく数奇な運命を感じさせる。Nr.17は予選でトヨタ、プジョー両ワークス以外の最高位である七位につけたが、決勝レースではエンジン・トラブルによりリタイヤしている。僚艦であるNr.18は予選八位からスタートし、九位でフィニッシュしたが、旧規定スポーツカー・クラスで優勝したサード・トヨタからは十二周も差をつけられていた。サード・トヨタの予選順位は十位であり、その予選タイムもヨースト・ポルシェからは五秒近く遅かった。ヨースト・レーシングは、グループCスポーツカーが参加できる最後のル・マンで962Cに有終の美を飾らせるべく、クラス優勝を目指してペースを上げたが、車体やエンジンがそれについていけなかったのである。1993年ル・マンのヨースト・ポルシェは最新型の3164cc仕様エンジンではなく、古いタイプの2994ccエンジンを搭載していたが、おそらく吸気リストリクター装着状態での最適化がまに合わなかったのではないかと推測する。  

  

9304この年のル・マンには、ヨースト以外にもプライベート・チームの962Cが複数台参戦したが、写真のモデルはオベルマイア・レーシングが投入したシャシー・ナンバー962-155の個体である。以前の記事でご紹介した通り、1990年WSPC仕様に準ずるカウルを装着してある。四角いヘッドライトが特徴的だが、このタイプのカウルにおいても、床下に空気を取り込むフェンダー先端中央の開口部は埋められている。こちらもスパーク製で、モデルの型番はS1919と、この年のヨースト・ポルシェNr.18のモデルと連番になっている。同チームのレギュラー・ドライバーであったユルゲン・オッペルマン、オットー・アルテンバッハにくわえて、ロリス・ケッセルがドライブした。    
   

  

9307巨大なル・マン二十四時間レースの公式ロゴマークが目を引くが、じつはこのスポンサーシップは大会公認のものではない。長らくオベルマイア・レーシングのメインスポンサーを務めてきたフランスのガス会社であるプリマガスがル・マン前に離脱してしまい、おそらくスポンサーロゴのついていない真っ白なボディで走ることをきらったチーム側が、空いたスペースを埋めるためにル・マンのロゴマークを貼り付けたのである。これに対して主催者ACOは「カラーリングを変更しない限り出走を認めない」との声明文を発表し、チーム側と一触即発の空気が流れたが、最終的に (いかなる理由によるものか不明だが) 出走は認められた。ブレーキ性能を強化するため、ポルシェ勢の中で唯一カーボン・ブレーキを装備した甲斐あって、この車は予選でヨースト・ポルシェの二台に続く九位を獲得し、決勝レースではポルシェ勢最上位となる七位でフィニッシュした。   

   
9305ヘッドライトや前後カウル細部の形状以外、基本的には1991年仕様の962Cと同じスタイルをしている。リヤウィングが赤と黒に塗られているが、これはプリマガスのスポンサー・カラーの名残である。前述の経緯で「勝手に」貼り付けられたル・マンのロゴマーク以外にスポンサーロゴがほとんど見当たらないことから、運営資金には相当苦労したものと思われるが、そんな中での七位完走は大健闘と言ってよいだろう。ホイールは標準的なスピードライン製ではなく、BBS製のメッシュ・タイプを装着している。   

   
9308 一種独特なテールランプ形状をしているが、これは1990年WSPCに投入されたワークス仕様とは異なる形状である。ディフューザー後端が1989年仕様に比して延長され、容積が増している。   

   
9303

1993年ル・マン二十四時間レースをもって、「純然たる」ポルシェ962Cの同レースにおける長い長い旅はついに完結した。ル・マン後の七月におこなわれ、この年無敵を誇ったイーグル・トヨタが欠場したIMSA-GTP・ロードアメリカ500kmレースで、シャシー・ナンバー962-016の962Cを操縦するジョン・ウィンター/マニュエル・ロイターがポール・ポジションから優勝したが、これが純正スペックの962Cにとって最後の優勝となった。この年十月初旬におこなわれたフェニックス二時間レースをもってIMSA-GTP選手権は幕を閉じ、同時にポルシェ962Cは世界中のサーキットから姿を消したのである。スポーツカー・レースの世界にグループC規則が導入され、ポルシェ962Cのベースモデルとなったポルシェ956が登場してから、実に十一年の歳月が過ぎていた。ポルシェ962Cは、もっとも原初の、そしてもっとも鮮烈な戦績を残したグループCスポーツカーの末裔として、グループCというカテゴリ、さらにはスポーツカー・レースそのものの繁栄と衰退、そして死を見届け、自らもまた、静かに表舞台から去って行った。最後に優勝した962Cが、特にそのキャリア末期に数多く作られたカスタマー・チームによる改造車ではなく、ポルシェ・ワークスの血統をひきつぐヨースト・レーシングによるものであったことは、感慨深い事実である。
   
「ポンペイ最後の日」において、噴火による火山灰が街に降り注ぎ住民が逃げ惑う中、グローカスとアーバセスは最後の決闘を行い、悪役アーバセスは打ち倒される。わかりやすい勧善懲悪の物語で、使われている文章も比較的平易だが、火山の大噴火という破滅的な状況の中でおこなわれる死に物狂いの闘いという場面設定は、それ自体に一種独特の凄みがある。ポルシェ962Cの登場以降、その戦いの場であったスポーツカー・レースは大きな変動の時代を迎え、そして唐突に消滅へと収斂して行った。ポルシェはかつてスポーツカー・レースの世界で日の沈まぬ大帝国に喩えられたが、急激に悪化する状況の中で、まるで山間の向こうへ沈みゆく太陽を追いかけるように、ポルシェ962Cは走り続けた。彼らはその長い旅路のまさに終ろうとする瞬間に、もっとも美しい夕日を目に焼き付けることになるが、その話は次回に持ち越したい。    
   
以下、本記事で取り上げたシャシーの履歴を記す。例によって長いので格納した。    
   

  

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