« 2015年総括+2016年いっぱつめ | トップページ | 近況もろもろ+告知 »

2016年1月 7日 (木)

白い鴉 ~ポルシェ・インディー・プロジェクト (1980)~

それまでル・マン二十四時間レースをふくむ世界中のスポーツカー・レースを席巻していたポルシェが、北米市場開拓のためアメリカでもっとも長い伝統をもつインディー500マイル・レースに翌年から参戦すると発表したのは、1979年12月のことであった。ポルシェは1970年にル・マンで初優勝をとげて以来、モータースポーツにおいて輝かしい実績を残していたが、自動車会社としての規模はちいさく、商品ラインナップも目玉である小型スポーツカー「911」以外は決定打に欠ける状況であった。北米というビッグ・マーケットにおいて地歩を築くことができれば、モータースポーツにおけるポルシェの優位性をよりいっそうアピールできるばかりでなく、会社としておおきく成長するチャンスをつかむことにもつながるはずであった。

インディーカー・レース参戦のアイデアを出したのは、VW所属ポルシェ・アウディ北米販売部長を務めていたジョー・ホッペンであった。彼はアメリカにおけるインディーカー・レースの宣伝効果を理解していたが、同時にポルシェがGTカー・レース以外のモータースポーツにあまり積極的ではないことも理解していた。かつてポルシェは1950年代の終りから1960年代のはじめにかけてF1グランプリに参戦していたことがあったが、それは特に目的もなく惰性で参加していたようなもので、やがてF1プロジェクトはさしたる成果のないまま中止されてしまったのである。それ以来ポルシェは、市販自動車とつよい関連性を持つカテゴリ以外のレースには参戦していなかった。しかしホッペンには切り札があった。彼の個人的な親友であった、北米におけるポルシェの代理店を経営するヴァセク・ポラクが、インタースコープ・レーシングのオーナーであったテッド・フィールドを紹介してくれたのである。インタースコープ・レーシングは1975年に活動を開始し、F5000レースやインディーカー・レース、GTカー・レースなどに参戦していた、アメリカ有数のプライベート・チームであった。実績と経験の点では、インタースコープ・レーシングは提携するのに申し分のないチームであった。ポルシェはエンジン開発に専念し、車体やレース運営のことはインタースコープ・レーシングと、それをひきいるテッド・フィールドに一任しておくことができたからである。幸運なことに、テッド・フィールドはポルシェによるインディーカー・プロジェクトに興味を示し、協力することについて前向きに検討すると約束してくれた。こうして説得材料を揃えたホッペンは、当初反対の立場にあったフェリー・ポルシェを説き伏せ、ポルシェのインディーカー・レース参戦計画を具現化させることに成功したのである。

940_00トゥルースケール・ミニチュアズ (TSM) 社製1/43レジンモデル、「ポルシェ・タイプ940」*である。1980年初頭に実走テストをおこなっていた、インタースコープ・レーシング所有のインディーカーがモデルで、このようなテストカーがモデル化されることは非常にめずらしい。スパークモデル・ブランドを有するミニマックス社と関係があり、金型の開発などはミニマックスが請け負っていると言われているが、たしかにレジン材質の表面の質感などはスパーク・クオリティに近い。標準的なスパークモデルのケースに比べるとひとまわりほど大きいサイズのケースに収められているが、木製の台座にアクリル製ケース、紙スリーブという構成はスパークモデルとまったく同じである。

インディーカー用エンジンを製作するにあたって、ポルシェがそのベースとして選んだのは、ル・マンで走ったGTカーである935/78用の3211cc水平対向6気筒ターボ・エンジンであった。これをインディーカーの規則に合致させるべく2650ccまでスケール・ダウンするとともにターボ・チャージャーを一基減らしてシングル・ターボ化し、同時にこれも規則で使用が義務付けられたメタノール燃料を使えるように各部を改造したのである。このエンジンはブロック部分が空冷、シリンダー・ヘッド部分が水冷という、いわば「半水冷」とでもいうべき独特の冷却構造を持ち、軽量化と高出力化を両立していた。GTカー用にくらべて最高回転数が引き上げられ、約9000回転で650馬力を発生したとされる。

940_03車体はインタースコープ・レーシングが使っていたヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ製のインディーカーで、資料 (英「モーター・スポーツ」誌、1980年1月号) によると一年落ちのVPJ6Bであるとされる。パーネリ・ジョーンズ・レーシングは1974年から1976年にかけてF1に参戦しており、それ以降はF1で使っていたフォード・DFVエンジンをインディーカー用にターボ化したフォード・DFXエンジンが同社製インディーカーに搭載されていた。この車輌はV8ターボ・エンジンからストレス・マウントできない水平対向6気筒ターボ・エンジンに換装するため、車体後部にサブフレームを組む改造がほどこされている。パーネリのF1カーは元ロータスのモーリス・フィリップが設計したものであったが、フィリップはその後もパーネリにとどまってインディーカーの設計を手がけたため、F1参戦期以降のパーネリ製インディーカーはすべてF1カーの設計をもとにした端正なスタイルを持っている。モーリス・フィリップは、ロータスF1を代表する名機・タイプ72を設計した人物として歴史に名を残しているが、同時にアメリカ史上初のインディーカー・コンストラクター専属のデザイナーでもあった。

940_04F1カーゆずりのうつくしいボディ・デザインがよくわかる。インタースコープ・レーシングは発足以来、すべての車を黒色に塗っていたが、この車はテスト車であるためか白色に塗られている。ノーズに輝くポルシェのエンブレムがまばゆい。TSM製モデルはスパークと違い、台座上の文字が車体前部に来るようにプリントされており、どことなく格調高い雰囲気を漂わせている。その佇まいはさながら博物館の展示をそのままスケールダウンしたかのように見える。

1980年初春までにはエンジンが完成し、この新型エンジンがインタースコープ側で改造された車体にドッキングされて実走テストをおこなう手はずが整った。ドライバーはハワイ出身者として唯一、インディー500マイル・レースの決勝に出走した経験のあるダニー・オンガイスであった。オンガイスは長年インタースコープ・レーシングの主戦ドライバーを務めた男で、その勇猛果敢なドライビング・スタイルから「ダニー・オン・ザ・ガス」の愛称で呼ばれていた。水平対向エンジンを搭載できるよう改造をうけた車体は「インタースコープ・PGB」という名前で呼ばれたという記録が残っている。型落ちのパーネリ・シャシーの使用はあくまで一年限りの暫定的なもので、1981年からはポルシェとインタースコープ・レーシングが共同で開発した新型シャシーが投入される予定であった。試運転は、インディー500マイル・レースの開催されるインディアナポリス・モーター・スピードウェイに近いレイアウトを持つカリフォルニア州のオンタリオ・モーター・スピードウェイで行われ、テスト用の暫定仕様車ながらコース・レコードを塗り替えるすばらしい走りをしたと伝えられるが、このテストにはごく少数のチーム関係者しか帯同していなかったため、公式の記録は何も残されていない。この走行で、ポルシェの新エンジンには信頼性の問題、特に潤滑系の不具合があることがわかったが、同時にその高いパフォーマンスもあらためて確認された。エンジンの熟成が進み、また新型車が投入されれば、インタースコープ・ポルシェがインディーカー・レースを制するのは時間の問題であるはずだった。

940_13車体右側を見る。カウル側面の大きな突起は、シフトレバーを操作する際にドライバーの手がカウルとレバーの間に挟まれないようにするための「逃げ」であり、Hパターン・ギヤボックス時代のフォーミュラー・カーにはよく見られた外見的特徴であった。実車はコクピット脇にサイドミラーが取り付けられているが、モデルではなぜか省略されている。見たところ欠品ではないようなので、もともとついていない状態で型を起こしてしまったと思われるが、実車においてはサイドミラーがついていない状態の写真は見当たらず、この仕様の意図は不明である。単純なミスだろうか?

前途洋々に見えたプロジェクトだったが、そのさきゆきには暗雲が立ち込めていた。アメリカにおけるインディーカー・レースはUSAC (アメリカ自動車クラブ) によって主催されており、「USACナショナル・チャンピオンシップ」と呼ばれていたが、主催団体による宣伝効果の不足や意思決定の透明性などに不満を持ったエントラント側が、1979年にダン・ガーニーを統領として参加者団体であるCART (Championship Auto Racing Teams) を立ち上げ、独自の選手権を開催すると言い出したのである。CARTは当時のF1においてバーニー・エクレストンが統括していた参加者団体であるFOCA (Formula One Constructors Association) を手本とし、参戦チームに対する利益の還元などを謳っていた。このため有力チームやドライバーが相次いでUSACを見限ってCARTに加入し、1979年末の時点でUSAC側に立つ有力ドライバーはA.J.フォイトただ一人となっていた。ポルシェがインディーカー・レース参戦を決めたのは、そのような政治的闘争がおこなわれている真っ只中であった。

当時のインディーカー・レースのレギュレーションにおいては、エンジンの気筒数によって最大過給圧がきめられており、オッフェンハウザー製4気筒エンジンは60in.Hg (約2.03bar)、フォード製8気筒エンジンは48in.Hg (約1.62bar) まで過給することができた。ジョー・ホッペンは参戦にあたってのUSACとの交渉の中で、6気筒エンジンの最大過給圧はそのあいだをとって54in.Hg (約1.83bar) とすることを確認してあった。しかしポルシェ・エンジンの性能を警戒したA.J.フォイトはUSACに働きかけ、ポルシェ・エンジンの最大過給圧を下げるよう規則を改訂しなければ自分もCART側に立つことをほのめかしたのである。USACにとって、最後の大物ドライバーであるA.J.フォイトに離反されることは、組織としての死を意味した。フォイトは前述の極秘テストをヘリコプターで偵察していた他チームの人員から情報を得たとも、USACのエンジン視察に随行した自チームのエンジニアから報告を受けたともいわれているが、いずれにしろ1980年シーズン前の時点で、ポルシェ製のインディーカー・エンジンの性能について、それなりに正確な情報を得ていたと思われる。

940_10940_06940_09車体後部のサスペンション、駆動系、ターボ・チャージャーとウェイストゲート・バルブは、いずれも実車そのものに勝るとも劣らない密度で精密に再現されている。タービン本体はドイツ・KKK製、ウェイストゲート・バルブはアメリカのギャレット製であった。フォードDFX搭載車はターボ・チャージャーがギヤボックス上部に配置されていたが、ポルシェ・エンジン車では重心位置を下げるためか、車体後部の一段低い位置に移動されている。ブースト圧は事前の合意にあわせて54in.Hgにセットされていたが、これより高い過給圧では900馬力を発生することもできたという。

USACがインディーカーの過給圧に関する規則を改定し、四つ以上の気筒数をもつエンジンの最大過給圧を一律に48in.Hgに制限すると発表したのは、1980年4月のことであった。インディー500マイル・レースそのものは5月の最終週におこなわれることになっていたが、練習走行や予選を二週間もかけて大々的におこなうので、レースの開幕までは半月もなかった。この報告をきいたフェリー・ポルシェは驚愕し、ついでA.J.フォイトのやり口に激怒しプロジェクトをキャンセルすると言い出した。それまでずっと54in.Hgの過給圧を前提に開発してきたエンジンを、一ヶ月たらずで48in.Hgの過給圧にあわせて再開発することは、どう考えてもできない相談だった。

ビジネスマンとしての勘をそなえていたホッペンは、ルールはいついかなる時に勝手に変えられるかわからないということを知っていた。彼はバックアップ・プランとして、ブースト圧を48in.Hgにセットしたエンジンの開発を並行しておこなうよう指示してあったのである。しかし、このエンジンが世に出ることはなかった。ポルシェがインディーカー・プロジェクトの中止を発表してしまったからである。こうして、ポルシェ・インディー・プロジェクトは、一度もインディアナポリスを走ることなく、歴史の闇に葬られていった。活動期間は半年にも満たなかった。ジョー・ホッペンはつぎのように述懐している。
「ポルシェの上層部はこの計画に乗り気ではなかった。インディーカーの開発は、会社全体としての資金やリソースがじゅうぶんではない時期に、彼らがほんとうにやる気のあったレースから資金やリソースを吸い取ってしまっているように見えたのだろう」
「だから (USACによる最大過給圧に関する規則改訂は) 渡りに舟といった具合で、"エンジンを開発しなおす時間がない"ことが (計画中止の) 表向きの言い訳にされた」

940_12一説によると、パーネリ・シャシーにポルシェ製エンジンを搭載したインタースコープ・PGBは四台が製作され、うち三台がヴァセク・ポラクに売却されたという。ポラクの死後、このうちシャシー・ナンバー0031の一台が市場に出回り、マット・ドレンデルのコレクションとして収蔵されているが、このモデルもおそらくこのシャシー・ナンバー0031の個体を再現しているものと思われる。この個体は2002年にグンナー・レーシングによるフル・レストアを受け、完全に近い状態で動態保存されており、時折北米各地のクラシックカー・ショーに姿を見せている。

940_11ポルシェ・インディ・プロジェクトの中止は唐突であり、またテッド・フィールドには知らされていなかったため、インタースコープ・レーシングはポルシェを相手に訴訟を起こしたが、この訴訟は法廷外での和解で決着した。インタースコープは1980年のインディー500マイル・レースにはそれまで通りパーネリ・フォードで参戦し、1981年にロマン・スロボディンスキーが設計したオリジナル・シャシーを投入した。このオリジナル・シャシーこそが、当初予定されていたポルシェ・エンジン搭載の新型シャシーだったが、その正式名称は明らかになっていない (単にインタースコープ・シャシーと記述されたり、愛称である「バットモービル」と書かれたりしている)。

歴史の流れに埋もれていった白い鴉にとって唯一のなぐさめは、そのために開発されたエンジンが意外な形で新天地を得たことであった。1982年、スポーツカー・レースの世界選手権にグループC規定が導入されると、ポルシェは新設計のグループCカーである956を投入し、ランチアとの激闘を制してチャンピオンに輝いた。その後956は1985年までル・マンを四連覇するという偉業を達成したが、その956の初期型に積まれていたエンジンは、インディー用に開発された2650ccの水平対向6気筒ターボ・エンジンであった。

ポルシェがインディーカー・レースに参戦するのは、この十年近く後、1987年シーズンを待たなければならなかった。このときポルシェはオリジナルのカーボン・モノコックを投入する予定であったが、投入直前になってCART側の規則が変更され、フルカーボン・モノコックの使用が禁止されたのである。これは当時インディーカー・レースに参戦していた、アメリカとつながりの深いコンストラクターであるペンスキーやローラに、カーボン・モノコックの製作技術を蓄積させる時間的余裕を与えるための規則変更と噂された。ポルシェはさしたる戦績を上げられないまま、1990年をもってインディーカー・レースから撤退し、以後北米のオープンホイール・レースには参戦していない。

前述の通り、ポルシェ・タイプ940 (インタースコープPGB) は四台が製作された。現在所在が知られているのはシャシー・ナンバー0031の一台のみである。このモデルがどのシャシーを再現しているのかは定かではないが、実車取材の際に供されたのが0031であった可能性は高いと思われる。
*台座の表記によれば、この車の車名は「ポルシェ・タイプ940」である。しかしポルシェはあくまでエンジンだけを製作したのであり、車体はインタースコープ・レーシングがチーム所有のパーネリ製シャシーを改造したものであることを考えると、この車は「パーネリVPJ6B・ポルシェ」あるいは「インタースコープ・パーネリ・ポルシェ」と称されるべきであるようにも思えるが、実際に文中に出てくる「インタースコープ・PGB」という車名がどこまで一般的であったのかも不明である。インディーカー・レースは基本的に汎用シャシーをチームが購入して走らせるケースが多く、オリジナル・シャシーについては正式名称が曖昧であるか、そもそも定まっていないケースも多いことを考えると、この車にも「特定の正式名称」というものは存在しないのかもしれない。よくもわるくも、アメリカ的な大らかさであると言えよう。

« 2015年総括+2016年いっぱつめ | トップページ | 近況もろもろ+告知 »

コメント

モデルは精密で良い出来に見えるし、箱や台座も白で統一されてて高級感ありますね。
しかしまあ白い鴉とは実にいい例えかなと。インタースコープのマシンはみんな黒だったのに
どうしてこいつだけ白いんでしょうね?
自然界ではアルビノは生き残るのが難しいというが、この車もその通りになってしまった。
でもCAN-AMを滅ぼされて10年経っていないから、アメリカ人の警戒もわからなくはないですよね。
とはいえ仮に参戦していても2年後にはGr.Cが始まるし、水平対抗エンジンがベンチュリー構造の
グラウンドエフェクトカー達に対抗できていたかも考えると、この車は実に微妙な時代に
現れた不思議なマシンなんじゃないかな、と思ったりするのです。

コメントありがとうございます。この車だけ白いのは、おそらく単に「テストカーだったから色を塗ってない」程度のことじゃないかとは思いますが、結果的にこの車の数奇な運命というか、インタースコープのチーム史のなかでの特異性をハイライトしていて面白い。たぶん実戦に出ることがあったら黒く塗られていたでしょう。

>実に微妙な時代に現れた
ポルシェが急に撤退した理由というのも諸説あって、調べた限りだと「単純にAJフォイトにブチ切れたから」、「開発がまに合わないので仕方なく (文中にでてくる48in.Hg仕様エンジンは最初から存在しないという前提)」、「グラウンドエフェクト時代の到来を見て、フラット6では勝負にならないと判断したから」という異説が見つかりました。最後のやつはそれなりに信憑性が高いと思われるんですが、じゃあわざわざオリジナルシャシーなんか作らせるだろうか? という…。
ポルシェ史の研究で名高いジャーナリスト・作家のカール・ルドウィグセンは最後の説を採用しているようですが、本稿ではランディ・レフィングウェルの「Porsche Legends: Inside History of the Epic Cars」にある記述を採用しています。中庸というか、あいだをとった感じの結論だったことと、当時のポルシェの活動内容 (スポーツカー・GTカーがメイン) ともおおむね合致するからです。けっきょく真実は最後まで闇の中、ですが…。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1322474/63343990

この記事へのトラックバック一覧です: 白い鴉 ~ポルシェ・インディー・プロジェクト (1980)~:

« 2015年総括+2016年いっぱつめ | トップページ | 近況もろもろ+告知 »

フォト
無料ブログはココログ

リンクリスト

  • Kumaryoong's Paddock
    ソビエト時代の東側諸国におけるモータースポーツ活動について書かれているたいへん誰得なブログ (褒め言葉)。この辺の史料を日本語でまとめたサイトって史上初かもしれません。
  • 作った静止画一覧
    主にMMDで作った静止画を上げています。最近はこっちの頻度のほうが高いですね。
  • Racing Sports Cars
    ル・マンや旧WEC/WSPC/SWC、さらには旧WCMなど、スポーツカー・レースの参戦車両の膨大な資料写真を有するサイト。ドライバー別・車種別検索機能完備。F1もちょびっとだけあります(70年~82年)。
  • F1-Facts
    1950年イギリスGPより、F1に関する全記録を蒐集・公開しているサイト。各年度リザルトページからマシン一覧・写真ページに飛ぶことができます。あなたの知らない名車に出会えるかも。IEは右クリックでの画像保存が出来ないので、PCに保存する際はFireFoxなどを使用してください。
  • 誰得 (boulog)
    謎多きF1マニア(?)、bou_ckさんのブログ。「Wikipediaに載ってないような脳内資料置き場」を標榜するだけあって、その名に恥じぬディープ過ぎるF1マシン解説!Wikiどころか、ネット上にもそうそう無いようなマシンが目白押し。ちなみに「誰得」とは「誰が得するんだこんなもん」的意味合いのフレーズ。 2015.12.13追記: このほどYahooブログからfc2ブログに移転されました。
  • 作ったもの一覧。
    私の動画作品一覧です。気力の低下と更新頻度の低下はすべからく連動しています。
  • アカクテハヤイ フェラーリエフワン
    沖縄在住のフェラリスタ、Shigeoさんのブログ。1日1更新(原則)でフェラーリのさまざまな話題を取り扱います。レア物のフェラーリミニカー募集中だそうな。
  • METMANIA
    私の作るペーパークラフトの大半はここからきています。ヘルメットのぺパクラって多分ここにしかありません。