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2016年3月28日 (月)

BMW 3.0CSL Nr.21/一九七三年スパ二十四時間レース

一九七三年七月二十一日のベルギー・アルデンヌ地方は、真夏らしからぬどんよりした曇り空に覆われた、寒い土曜日であった。この日の午後にはヨーロッパ・ツーリングカー選手権の第五戦・スパ=フランコルシャン二十四時間レースがスタートすることになっており、山中のサーキットに集まった観客たちの熱気は空を覆う黒雲をも吹き飛ばさんばかりであった。スタート時刻が近づくと、三台の最新型BMW 3.0CSLを先頭に、じつに六十台のツーリング・カーが下り坂のストレートに整列し、競技長がスタートの合図であるベルギー国旗を振り下ろすのを今や遅しと待ち構えた。スパ=フランコルシャン二十四時間レースは一九二四年から開催され続けている伝統的なツーリングカーの耐久レース大会であったが、この年の大会がのちに大会史上最悪のレースとして知られるようになることを、すくなくとも第一列の真ん中からスタートした予選第二位のオーストラリア人ブライアン・ミュアーは、予期していなかった。   
   
   
00Fドイツのモデルカー・ショップである「Car.tima」が特注した、スパークモデル製1/43スケールモデル、「BMW 3.0CSL」である。一九七三年のスパ=フランコルシャン二十四時間レースにBMW・アルピナ・チームからエントリーした、ハンス・ペーター・ヨイステン/ブライアン・ミュアー組のNr.21を再現しており、品番はCar.tima社特注であることを示す「CA043 11004」がつけられているほか、特別デザインの紙製スリーブ・ケースに収められている。モデルとなった車やレースが日本では少々マイナーな部類に入ることと、四百台の限定生産であるため、現在ではほとんど日本の市場には出回っていないが、ドイツの酒造メーカーであるイェーガーマイスターのあざやかな橙色が特徴的で、人気の高いモデルである。   
   
ケルンに生まれたハンス・ペーター・ヨイステンがレース活動をはじめたのは一九六〇年代であった。彼は最初からツーリングカー・レースを志向しており、各種ローカル・ツーリング・レースに参戦していたと伝わるが、初期のキャリアは明らかになっていない。一九七二年、三十歳になったヨイステンはアルピナ・チームのBMW 2800CSでドイツ・レーシングカー選手権にフル参戦を開始し、年間ランキングで九位を得た。この年の選手権レースにおける最高位は四月のニュルブルグリンクのレースで得た三位表彰台であった。翌一九七三年、七月八日におこなわれたニュルブルグリンク二十四時間レースにて、ヨイステンはニキ・ラウダとともにアルピナのBMW 3.0CSLに搭乗し、独走で優勝をおさめた。このレースはヨイステンにとって初のビッグ・レースにおける勝利であり、またその走りがドイツ国内外のレース関係者の目にとまるきっかけにもなった。ヨイステンはすでに三十一歳と、これからレーシング・ドライバーとして本格的な活動をはじめるにはすこしばかり高齢であったが、その走りは可能性を感じさせるものであった。アルピナ・チームは、来たるスパ・フランコルシャン二十四時間レースに、同チームのエース車としてラウダ/ヨイステンを出場させることを決定した。当時F1グランプリにも参戦していたニキ・ラウダはその後スケジュールの折り合いがつかなかったのか直前で出場をキャンセルし、彼のポジションにはオーストラリア人のベテラン・ドライバーであるブライアン・ミュアーが代役としてすわった。   
   
   
10F2BMW 3.0CSLは、BMWが「ノイエ・クラッセ・シリーズ」として開発した一連の小型車につづいて発売された、「E9」シリーズとよばれる大型スポーツ・クーペの高性能モデルである。車名の「CSL」はそれぞれ「コンパクト」、「スポーツ」、「軽量」を意味していたが、名の通り大排気量の重い6気筒エンジンを搭載したことによる重量増を各部の軽量化により解決し、またエンジンや燃料噴射装置などに改造をほどこしてパワー・アップしたものであった。3.0CSLのレーシングカーには、コーナリング性能向上のため市販車にはない大型リヤ・ウィングが装備されていたが、この時代のツーリングカーにおいてウィングの装着はまだめずらしいものだった。このほかにもレース仕様車はレース用の太いタイヤをおさめるため前後フェンダーが拡大され、排気量を3.3Lないし3.5Lまで拡大したレース専用のエンジンが搭載されている。全長の長い6気筒エンジンを縦置きで搭載しているため、特にフロント部分が前に伸びた独特な外見を持っている。   
   
   
02F市販の3.0CSLは片側二灯・計四灯のヘッドライトが特徴であったが、このNr.21は内側の二灯の上から追加ライトを装備している。グリル類のパーツは実車同様縁がメッキ処理されており、BMW車の象徴であるキドニー・グリルもよく再現されているが、写真でわかる通りこのキドニー・グリルの接着がずれてしまっているのが残念である。横に大きく広がったフロント・フェンダーにより、市販モデルとは比べ物にならない迫力のある外観になっている。軽量化のためかドア・ミラーのたぐいは取り付けられていない。   
   
一九七三年のスパ=フランコルシャン二十四時間レースは、予選からBMW勢の優位をつよく印象づけるものとなった。予選でポール・ポジションを獲得したのはワークス・チームが送り込んだハンス・ヨアヒム・シュトゥック/クリス・エイモンのBMWであった。シュトゥック、エイモンの二名とも当時もっとも勢いがあると考えられていた有力ドライバーで、彼らの予選タイムである3分49秒100は、予選第二位に入ったアルピナ・チームのミュアー/ヨイステン組をじつに3秒も引き離す圧倒的なものであった。第三位には僅差でワークス・チームのセカンド・カーが入り、その後方第四位にはもう一台のアルピナ・BMWが付けた。BMWは予選で第一位から第四位を独占する快挙を達成したのである。BMW最大のライバルであったドイツ・フォードのエントリーするフォード・カプリは五位と六位に並んだが、もっとも速いフォード・カプリの予選タイムは予選四位のアルピナ・BMWよりさらに3秒近くも遅かった。   
   
四台のBMWはスタートと同時に飛び出し、予選の順位のまま快調に後続車を引き離しはじめた。スタート後にポール・ポジションのクリス・エイモンがフロント・ホイールのベアリングにトラブルを抱え、修理のためピットインを強いられて後退したため、かわって予選第二位からスタートしたアルピナ・チームのブライアン・ミュアーがトップに立った。すでに他車をリードしていたBMW勢はレース開始からしばらくするとあいついでペースをゆるめたが、ブライアン・ミュアーはそうしなかったので、トップを走るアルピナ・BMWと二位以下の差はどんどん広がっていった。   
   
03Fこの車の外見的特徴のひとつに、ステッカーで塞がれたリヤウィンドウがある。このスパ=フランコルシャン二十四時間レース仕様のみに見られるものだが、リヤウィンドウから強い日差しが入り込んで、バックミラーを確認するドライバーが眩惑されないようにするためのものであった。モデルではデカールで再現されているが、一分のゆがみも無く綺麗に貼り込まれている。スポンサーのイェーガーマイスターはドイツの薬草酒メーカーの大手だが、同メーカーは一九七〇年代から積極的にモータースポーツ活動を援助しており、イメージ・カラーとしてあざやかな橙色を使っていた。この色は今日にいたるまで「イェーガーマイスター・カラー」としてファンの間で親しまれている。   
   
   
05モデル右側面。6気筒エンジン搭載によってロングノーズ化された車体前方が特徴的である。ドア付近にある黒い帯はガムテープであり、助手席側である右側ドアおよびドアノブをテープで塞ぎ、走行中に不意に開いたりしないように対策している。この時期のツーリングカーはまだ部品精度なども良くなく、また軽量化と高剛性化を両立できる技術もなかったため、このような防護措置は一般的であった。フロントのボンネット両端に設けられた長いフィンは市販車にも装備されており、整流効果を狙っている。排気口は車体後部ではなく、右側面に設けられている。車体をぐるりと一周する銀色の細帯は塗装やデカールではなく、実車同様の金属製別パーツで再現されており、じつに精密に仕上げられているが、個体によってはこの部分の接着が甘く、帯が浮き上がってしまっているものがあるため注意を要する。一九七三年の時点でワークス車はより大きなブレーキを装備できる15インチ・ホイール (16インチという説もある) を装着していたが、プライベーターであるアルピナ・チームは小径の14インチ・ホイールを使い続けており、この違いもしっかり再現されている。   
   
深夜十一時ごろ、ブライアン・ミュアーから操縦を交代したハンス・ペーター・ヨイステンはトップの順位を保ったまま、百数周目 (このときの周回数は明らかになっていない) のマルメディ・カーブに入っていった。マルメディは全長14キロのスパ=フランコルシャンのコースのちょうど中間地点付近にある、右へまわる高速コーナーであった。ヨイステンの目の前には、ロジャー・デュボスとクロード・バロー=レナのアルファロメオ2000GTVが走っていたが、彼らはともに周回遅れの下位クラスであった。順位争いをしていた二台のアルファロメオを一気に追い抜こうと、ヨイステンは走行ラインをはずれたままマルメディへ入っていった。ヨイステンのBMWはそのままカーブを抜けていったが、立ち上がりで走行ラインの外側に積もっていたタイヤカスを拾って姿勢をくずし、半回転して横を向いたままコース上にストップしてしまった。マルメディは上り坂の途中にあったため、コーナー入り口にあるマーシャル・ポストからは坂の上にあるコーナー出口で何があったのか視認できず、したがって後続の車輌に注意をうながすようなシグナルは何一つ発せられなかった。   
ヨイステンが追い抜いた二台のアルファロメオが事故地点にさしかかったとき、大柄なBMWはまだ横を向いたままの姿勢で止まっていた。ハンス・ペーター・ヨイステンは不運にもスピンした際にエンジンをストールさせてしまっており、すぐにコースに戻ることができなかったものと思われる。彼がエンジンを再始動させ、コースへ復帰することは叶わなかった。このとき丘の上からレースを観戦していた観客のひとりは、この後起こった一連の出来事についてつぎのように証言している。   
「BMWは車体が大きいから、コース幅のほとんどを塞ぐようにして止まっていた。車の前と後ろにライトがあって、その真ん中はほとんど暗闇だ。下にいたマーシャルは何も見えないようだったが、われわれのいた場所からは何が起きているかはっきり見ることができた。五秒か十秒ぐらいしてから、グループ1のアルファロメオが二台、(バロー=レナ、デュボスの順で) テール・トゥ・ノーズでコーナーを立ち上がってきた。バロー=レナは寸前で気付いて避けたが、かわいそうなデュボスは避けきれずBMWに衝突した。まるで爆弾が爆発したような、おそろしい衝撃だった」   
   
クロード・バロー=レナは止まっていたBMWを避けようと急ハンドルを切ったためにスピンし、100メートルほど滑っていって止まった。幸運にも無傷で車から脱出できたバロー=レナは事故現場に急行し、ふたりのドライバーを救出しに向かった。あとで判明したことだが、ハンス・ペーター・ヨイステンとロジャー・デュボスの二名は、ともに衝突の衝撃で即死していた。事故直後に現場にさしかかった"プーキー"のアルファロメオ2000GTVと、ヒューブ・ヴァーミューレンのオペル・コモドアも、事故車の残骸を避けようとしてバリアに衝突したが、いずれもドライバーに怪我はなかった。ロジャー・デュボスの婚約者は、このレースで七位完走を果たしたオペル・コモドアのドライバーのひとり、クリスティーヌ・ベッカースであった。   
   
おそるべき死亡事故が発生してからわずか三十分後、マルメディの手前にあるル・コームとよばれるS字カーブで、マッシモ・ラリーニの操縦するアルファロメオ2000GT Amクーペがスロットルのトラブルからガードレールに激突し、フェンスを乗り越えてコース外へ転落した。頭部に重傷を負ったマッシモ・ラリーニはリエージュの病院に搬送されたが、容体は危機的であり、レースの七日後に治療の甲斐なく死亡した。事態にとどめの一撃をくわえるかのように、マッシモ・ラリーニのアルファロメオの残骸もまだ片付けられぬうちに、こんどはプライベートのBMW 2002に乗っていた地元ベルギーのレイモン・ラウスがまったく同じコーナーで大クラッシュし、重症を負った。   
   
立て続けに衝撃的な事故に見舞われたにもかかわらずレースは中断されなかったが、エース・ドライバーのひとりをうしなったアルピナ・チームはもはやレースをするどころの話ではなかった。ミュアー/ヨイステン組の脱落によって、二位を走っていたアルピナ・チームのもう一台のBMWがトップに立ったが、この車はヨイステンの事故を受けてレースから撤退し、アルファロメオのレース活動を担当していたアウトデルタ・チームもこの判断にしたがいワークス・カーをすべて引き上げた。日付が変わった深夜一時半ごろから雨が降り出し、このためスピンする車が続出した。重大事故の連続ですっかりまいっていた各チームは、この危険なコンディションの中でレースをすることをよしとせず、軒並みペースを落として競走を放棄しはじめた。もはやレースをしたがっているドライバーはほとんど残っていなかった。   
事故の後はアルピナにかわってワークスのBMWが1-2体制を形成した。シュトゥック/エイモン組のBMWはレース終盤にバルブのトラブルでリタイヤしたが、もう一台のヘゼマンス/クェスター組のBMWが優勝した。二位にはフォード・カプリが入ったが、三位から七位まではすべて下位クラスであるグループ1の車が入った。スタートした六十台のうち、完走できたのはその半分にも満たない二十七台だけであった。   
   
06車体後方。角張った無骨な印象のあるフロントとは対照的に、リヤまわりは丸みを帯びた簡素な印象を受ける。広げられたフェンダーの曲線がうまく元のデザインと融合しておりひじょうに美しい。リヤウィングの下にもう一段、ダック・テール状のエアダムが設けられているが、これは市販車にも取り付けられており、レースの規則によっては大型のリヤウィングを取り外して走っていたこともあった。台座後方には、このモデルが四百台中の六十台目であることが記されている。   
   
   
08F外見の迫力から「バットモービル」などと呼ばれたBMW 3.0CSLは、各モデル・メーカーから特注品を含め数多くのバリエーションが製作されており、この一九七三年スパ=フランコルシャン二十四時間レース出場車輌も複数モデル化されているが、このNr.21は現在のところこのスパーク製特注モデルのみが製作されているようである。いまわしい死亡事故の歴史をもつ車をことさらモデル化したくないという心境も理解できなくはないが、このような悲惨な過去を持つ車をもモデル化することによって、事故の記憶を人々の中にとどめておくことも、また重要なことだと思う。この一九七三年のレースにかんする資料は、少数の目撃者による証言、レースのもようを伝える当時のちいさな雑誌記事、そしてこのモデルカーがそのほとんどを占める。多くのレース・ファンにとって、ハンス・ペーター・ヨイステンとロジャー・デュボス、マッシモ・ラリーニ、そして一レースのなかで三人の死者を出すという前代未聞の惨状を呈した一九七三年スパ=フランコルシャン二十四時間レースは、いまだに遠い未知なる世界の出来事である。   
   
当時、レーサーという職業はいまよりもずっと死に近いところにあり、レース中の死亡事故それそのものは珍しい事象ではなく、したがって各新聞・雑誌の報道も、単に死亡事故が発生したという以上のことは報じなかった。イギリスの雑誌「モーター・スポーツ」一九七三年九月号にはヨーロッパ・ツーリングカー選手権第五戦および第六戦のようすを伝える記事が掲載されたが、その中で本稿に述べる事故を記載した部分は以下のような数行の文章だけであった。   
「深夜にヨイステンのBMWがマルメディでスピンし、ロジャー・デュボスのアウトデルタ・グループ1・アルファロメオGTVに衝突される事故によってバトルは中断された。両ドライバーはともにその場で死亡した。半時間後、マッシモ・ラリーニのアウトデルタ・アルファロメオGT Amがル・コームでバリアを飛び越えてクラッシュし、重傷を負ったラリーニはその後死亡した。アルピナは残っていたペルティエ/メンヅェル組の車をリタイヤさせ、アウトデルタはすべてのチームをレースから引き上げた」   
しかし事故は何も残さなかったわけではなかった。一九七三年のスパ=フランコルシャン二十四時間レースが巨大な喪失感を残して終ったことで、スパ=フランコルシャンの長く危険なコースを改修すべきだという機運が高まったのである。一周の全長が14キロあるスパのコースはそのほとんどが一般公道で構成されており、路面の舗装はわるく、コースそのものも山林の中を縫うようにして走るためきつい勾配が連続し、また多くの箇所でエスケープ・ロードがまったく存在しなかったため、コースアウトはそのまま大クラッシュを意味した。そしてそのようなコースを走るには、スパの全開区間の多いレイアウトではいかなる車でも平均速度が出すぎるようになっていたのである。一九七八年までにスパ=フランコルシャンは大改修を受け、現在のレイアウトに近い一周が7キロ前後のコースに姿を変えた。   
   
死亡したドライバーのひとりであるマッシモ・ラリーニには、ニコラという名の甥がいた。ニコラ少年は九歳のときに叔父の死を経験しながらも、叔父の夢であったレーシング・ドライバーの道を歩んだ。ニコラはF1グランプリに参戦したのち、一九九三年に当時ヨーロッパ最高峰のツーリングカー・レースであったドイツ・ツーリングカー選手権でチャンピオンとなったが、その車には二十年前と変わらぬアルファロメオのマークと、同社製レーシングカーにつけられる幸運の四つ葉のクローバーのマークが輝いていた。ニコラ・ラリーニは、叔父マッシモの果たせなかった宿願を二十年越しに果たしてみせたのである。

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コメント

CSLかっこいいですよね。にしても悲しいマシンだのう…。
最後でちょっとだけ救われたけど、ちょっとだけですな。

Bouさん毎度コメントありがとうございます。
3.0/3.5CSL、バットモービルと呼ばれただけあって正面の迫力はスケールモデルでもすさまじい。逆におしりがアンバランスなぐらいドノーマルなのがなんだかかわいいです。今回とりあげたこれは、まぁ…。たぶん歴代CSL系統の中でもトップクラスに暗い歴史を持つ車でしょうね。今回残念ながらシャシー・ナンバーまで調べが付きませんでした。

>最後でちょっとだけ救われたけど、ちょっとだけですな。
しかもBMWのほう関係ないという。でもあれだ、徹頭徹尾悲劇な映画で最後にちょっと救いをもたせたシーンが出てくるのと同じで、この「ちょびっと加減」が物語にするとなかなか良い具合というか…。救いのないシーンなんか無いに越したことはないんですがね。

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