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2016年3月

2016年3月29日 (火)

風は東へ ~JRMレーシング・HPD ARX-03a (2012)~

イギリス人ジェームス・ラムゼイ率いるJRモータースポーツ・グループの名前がレース・シーンにあらわれたのは二〇一〇年と、比較的あたらしい部類に入る。もともとSUMO POWERという日本車向けチューニングパーツの販売店を営業していたラムゼイが、この年新設されたFIA GT1世界選手権に参戦するために組織したチームであり、車は日本で開発されたニッサンGT-R GT1を初年度から二台運用することになっていた。ジェームス・ラムゼイは八週間という、レーシング・チームを設立するには短すぎる準備期間でゼロからチームを興し、この年のFIA GT1世界選手権第二戦で優勝を飾る快挙を達成した。翌年ラムゼイはSUMO POWERのほかにJRMと名付けたセカンド・チームを六週間のうちに設立し、四台のGT-R GT1を運用する大艦隊の指揮官となった。このうち一台のGT-Rが二〇一一年のFIA GT1世界選手権チャンピオンとなったが、GT1の世界選手権はエントラントの不足によりこの年で打ち切られることが決ってしまい、GT1カーを使うレースは地上からなくなってしまったのである。ラムゼイがつぎなる目標として打ち立てたのが、二〇一二年から開催されることが決定したFIA世界耐久選手権 (WEC) であった。スポーツカー・レースの世界選手権が開催されるのは、グループC時代の一九九二年以来じつに二十年ぶりのことであった。参戦の発表は開幕戦・セブリング十二時間レースが間近に迫った二月になって唐突になされ、事前に通達されていなかったJRMのスタッフもこの決定に驚いたと伝わる。   
   

 

00スパークモデル製1/43スケールモデル、HPD ARX-03aである。二〇一二年ル・マン二十四時間レースに、JRMから出走し総合六位に入賞した、シャシー・ナンバーARX03-07の個体を再現している。品番はS3709と通常のスパーク製品と変わらないが、ル・マンを走ったスポーツカーやGTカーをメインに据えているスパークモデルらしく、ル・マン出走車に与えられる特別デザインの紙製スリーブ・ケースに収められている。   
   
二〇一二年に世界耐久選手権が復活するまで、ル・マン二十四時間レース以外のスポーツカー・レースの最高峰は北米大陸を中心に行われているアメリカン・ル・マン・シリーズ (ALMS) だと考えられていた。そのALMSに北米ホンダのレース部門であるホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント (HPD) がアキュラ・ブランドで参戦を開始したのが二〇〇七年のことである。* 世界的な不況によりアキュラ・ブランドでのスポーツカー・レース活動は二〇〇九年でいったん終了したが、その後はHPDと各プライベート・チームが連携する形で独自に開発が続けられ、車名は「アキュラ」から「HPD」に変わった。二〇一一年にはハイクロフト・レーシングとともにトップ・カテゴリであるLMP1クラスへの進出を図ったが、この年発生した東日本大震災によりホンダの海外レース活動はおおきな制約を受け、せっかくのLMP1カーは三月のセブリング十二時間レースを走っただけで、倉庫の奥にしまい込まれてしまった。しかしHPDはスポーツカーを走らせる計画を終了するつもりはなく、二〇一二年に向けたLMP1クラス用の新型車の開発は続けられた。それまでの「ARX-01」シリーズの改修型ではないことを意味する「ARX-03」の名前が付けられたこの新型車は、ALMSのみならず世界耐久選手権にも投入されることが決定した。   
   
   
01JRMレーシングのコーポレート・カラーである黒と赤に塗られたボディが精悍な印象を与えている。チーム名の入ったデカール以外スポンサー・ロゴはほとんど見当たらない。JRMはここでも準備期間の不足に悩まされ、二〇一二年世界耐久選手権の開幕戦であるセブリング十二時間レースの前に車を組み立てる時間が十日しかなかった。このためスポンサーを探す時間的余裕がなく、資金のほとんどはチームからの持ち出しに頼っていたという。   
   
前述のとおり、ARX-03aは二〇〇七年から二〇一一年まで使用されたARX-01シリーズとは違う、まったく新しいスポーツカーとして開発されたと発表された。しかし実際には、LMP1向けに最適化されたAR6型3.4L・8気筒自然吸気エンジンや車体各部の空力処理などは、二〇一一年に開発されたARX-01eからそのまま流用されており、モノコックもARX-01シリーズ同様クラージュ製スポーツカーのものを使用している。ARX-01eはそれまでLMP2クラスで走っていた車を改修し、LMP1用に仕立てあげた改造車であったため、当時のライバルであったレベリオン・レーシングの使うローラ製スポーツカーに比べると、戦闘力の不足は隠せなかった。   
   
   
02上方からARX-03aを俯瞰する。フェンダー上部に矩形の穴が開口されていることと、車体後部に大型の垂直安定板が取り付けられていることが外見上の大きな特徴だが、これは前年二〇一一年から施行された新しい車体レギュレーションに対応したものである。サイドポッドは箱型に近い直線的な造形で、あまり手の込んだ処理は施されていない。同時期のローラやOAKモーガン製のスポーツカーが、この部分を曲面を多用した造形に仕上げているのとは対照的である。リヤフェンダー内側にある突起は排気口のハウジング。   
   
きびしい資金難と、ピット内で最後の組立作業を行わなければならないほどの準備期間不足に見舞われながらも、JRMは初戦であるセブリング十二時間で健闘を見せた。予選ではレベリオン・レーシングが持ち込んだ旧型のローラ・トヨタを上回る六位を獲得し、レースではトラブルにより最終的に十七位完走扱いに終ったが、一時は総合二位まで浮上したのである。このレースにはALMSに参戦しているピケット・レーシング、世界耐久選手権に参戦しているストラッカ・レーシングとJRMから一台ずつ、合計三台のARX-03aがスタートしたが、最高位はストラッカ・レーシングの十位であった。   
   
世界耐久選手権は第二戦以降ヨーロッパ大陸でのレースに戻ったが、JRMはヨーロッパでは苦戦が続いた。ル・マン二十四時間レースに向けた実戦テストの意味合いもあるスパ=フランコルシャン六時間レースでは、予選八位・決勝十二位のリザルトがやっとだったのである。同じ車を使うストラッカ・レーシングは予選六位・決勝七位だった。原因は資金難以外にも、JRMの経験不足が大きかった。JRM自体がまだ歴史の浅いチームだったことと、それまでJRMが参戦していたGTカーのレースとスポーツカー・レースではものごとの進め方がだいぶ違っていたことが、チームの足を引っ張ったのである。直接のライバルであるストラッカ・レーシングやレベリオン・レーシングは、それまでも何年かスポーツカーの耐久レースに参戦しており、スタッフも全員が耐久レースの戦い方をよく知っていた。JRMがストラッカ・レーシングよりすぐれている点があるとすれば、耐久レースで活躍していたデヴィッド・ブラバムとピーター・ダンブレック、前年にF1グランプリも経験したカルン・チャンドクという三人のすぐれたドライバーの存在であった。デヴィッド・ブラバムはFIA GT1選手権でSUMO POWERのGT-R GT1に搭乗していてチームとは気心の知れた関係であり、まだ若いチームの牽引力となることが期待された。   
   
   
03

 

08フロントフェンダーの全長が短縮された以外、全体の空力処理は先代であるARX-01eと似通っている。独特な多角形断面のモノコックや、二本の長いバルジが設けられたノーズ・セクションは、ベースとなったクラージュ製モノコックの面影を感じさせる。フロントエンドに設けられた垂直なスプリッター・プレートもARX-01eから引き継がれたパーツだが、二〇一二年仕様では高速コースであるスパ=フランコルシャンとル・マンでのみ用いられ、それ以外のレースでは一般的なダイヴプレーンが装着されていた。フロア中央部は高く持ち上げられ、床下へ積極的に空気を流す構造になっている。ヘッドライト脇のスリットは追加パーツで再現されているが、実車の複雑な一体成型パーツ (上記リンクのARX-01e細部写真を参照されたい) をこのスケールで再現するのはさすがに無理があったのか、簡単な追加パーツで形を作ってある。内部機構的には、前後サスペンションのレイアウトは二〇〇八年に走ったアキュラARX-01bの頃からほとんど変わっていない。   
   
ル・マン二十四時間レースの予選では、JRMは十一位を得るにとどまった。ストラッカ・レーシングは七位であった。チームとしての経験が浅いJRMは、プラクティスと予選の走行時間を決勝用セッティングの最適化に費やすことにしていたため、積極的なタイム・アタックは行わなかったのである。   
レースは土曜日の午後三時にスタートしたが、ストラッカ・レーシングはスタート直前にギヤボックス・トラブルが発生し落伍した。JRMのスタート・ドライバーであったデヴィッド・ブラバムはスタートで前にいたペスカローロ・チームの童夢・ジャッドを抜いて九位にあがり、その後一時間近くにわたって後方のペスカローロ・チームとOAKレーシングの追撃をかわしつづけた。その後ドライバーはチャンドク、ダンブレックと交代したが、JRMは安定したペースで走り続け、そればかりかつぎつぎに順位を上げ始めたのである。前を行くワークス・カーがあいついでアクシデントで脱落したためだった。まずトヨタの一台が周回遅れのフェラーリと接触してクラッシュし、もう一台も下位クラスの車を追い抜く際に接触して車体を破損し、ピットインを余儀なくされて脱落した。日没前後にはアウディの一台がコースアウトしてタイヤバリアに衝突し、これも修理に時間を取られたため後退を余儀なくされた。JRMは無理にペースを上げて前の車を追いかけることをしなかったが、終始トラブルを起こさず走り続けており、午後九時三十分の時点では総合六位を走っていた。   
午後十時すぎ、コース序盤のS字コーナーでピーター・ダンブレックがスピンした。原因はタイヤのパンクであった。車はサンドトラップに突っ込んで止まったので車体へのダメージはなかったが、ダンブレックは三輪状態の車でコースをほとんど一周してピットへ戻らなければならなかった。このピットインでタイヤ交換と同時にサスペンション・ダメージのチェックも行ったため、JRMは十七位まで落ちた。しかしそれまでのレース・ペースはよかったので、うまくいけばレース終了までにポジションをいくつか回復できるはずであった。   
デヴィッド・ブラバムに交代したJRMはふたたび安定したラップ・タイムで周回を重ね、後方から追い上げてきたストラッカ・レーシングのペースを意識しながら快調にとばした。ドライバーはその後チャンドク、ダンブレックと交代し、長い夜が明けた午前六時半頃にはダンブレックが七位を走っていた。他車のリタイヤにも助けられたが、数時間のうちに十七位からはるばる追い上げてきたのである。例年リタイヤが続出し「魔の時間帯」と呼ばれる日曜午前二時から午前五時までの間、JRMはクラッチの点検のために一度ピットに入っただけで、それ以外はいかなるトラブルにも見舞われなかった。   
日曜午前十時すぎになって、五位を走っていたレベリオン・レーシングの車がクラッチ・トラブルで脱落した。これでJRMは六位に上がった。あとは何も起きなかった。アウディが1-2勝利を達成したル・マンで、JRMは何もかもが初体験の状態で六位という成績を収めたのである。上々の結果といわなければならなかった。ル・マン二十四時間レースも世界耐久選手権の一戦に組み込まれていたが、レース距離が長いため獲得ポイントは通常のレースの二倍とされていた。そのル・マンで六位に入ったことにより、JRMはLMP1チーム・ランキングで、レベリオン・レーシングにつぐ順位に上昇した。レベリオン・レーシングが二台体制で、JRMが一台体制であることを考えると、この順位は望外のものだった。   
   
   
05車体側面はこの時代のLMP1カーにしては単純な造形であり、サイドポッド前端下部の造形もあまり手が込んでいるようには見えない。この部分のデザインもおおむねARX-01eからのキャリーオーバーである。助手席スペースに立っている黒い長方形状の物体はオンボードカメラだが、このパーツはARX-01eでは搭載されていなかった。リヤのホイールハウス前端部、ミシュランのロゴが貼ってある部分が曲線状にへこんでいるが、このへこみの部分で空気溜まりを作り、ボディ側面を流れる気流が剥離しないようにする処理である。二〇一二年になるとLMP1のワークス・チームが使い始めたミシュラン製の幅広フロントタイヤがプラベート・チームにも行き渡るようになったが、設計の古いARX-03aはこの新型フロントタイヤを使用できず、コーナリング性能で新型タイヤを使うレベリオン・レーシングのローラ製スポーツカーに一歩遅れをとっていた。   
   
   
11現在のル・マン用スポーツカーではドラッグ低減のためリヤフェンダー前端をサイドポッド中央付近まで持ってくることが多いが、この車はまだ従来のみじかいフェンダーを持っている。フェンダー前端、ビバンダムマークの下にある開口部はリヤブレーキ冷却用。フェンダー上面はARX-01eではなだらかな曲面状であったが、ARX-03aではここに高圧空気を引き抜くための穴を開けることが規則できめられたため、この部分を平面状に成形し、その両側をフェンスで囲む処理が施されている。開口部の前後で発生する乱流を一定の領域に押し込めて、リヤウィングの効率に影響しないようにする措置と考えられる。モデルのパーティングラインからもわかるが、一見つながっているように見えるリヤウィング翼端板とフェンダー上のフェンスはそれぞれ別パーツであり、ハイダウンフォース仕様のセッティングではこの大型フェンスが存在しないタイプのカウルも使用された。   
   

 

07リヤエンドの造形もこれまたARX-01eに瓜二つと言ってよいものだが、レギュレーションに従い取り付けられた大型の垂直安定板と、リヤウィング翼端板付近の処理はARX-03シリーズ特有のものである。リヤウィング翼端板の外側と内側でフェンダーの高さが違っていることに注目されたい。二本のリヤウィング支柱の間に渡しかけられた横方向の支持部材に、垂直安定板の突起が接続され、リヤウィングの取り付け強度を部分的に受け持っている。この車の準同型車であるLMP2クラスのARX-03bや、オレカ製スポーツカーなどにも見られる処理である。   
   
   
06ボディ後端を見る。リヤウィングを上面から吊り下げて支持するタイプのマウント (いわゆるスワンネック・マウント) が特徴的だが、このタイプのマウントは二〇〇九年にアキュラのスポーツカーがはじめて導入したものである。ウィングによるダウンフォース効果のほとんどはその下面を流れる空気の流速により生み出されるが、ウィングを上から吊り下げることで下面の障害物をなくし、空気をよりスムーズに流してダウンフォース量を増加させる効果がある。当然ながらこのタイプのリヤウィング・マウントもARX-01eで見られたものである。   
   
ル・マン二十四時間レースでの好成績によりストラッカ・レーシングをリードしたJRMだったが、ル・マン後の世界選手権戦に入ると形勢が逆転した。第四戦、第五戦であるシルバーストーンとサンパウロの六時間レースで、JRMはそれぞれ七位と九位で完走したが、ストラッカ・レーシングはどちらのレースも五位で完走した。チームは第六戦バーレーン六時間レースで失地を回復しようと意気込んでいたが、このレースでJRMは電装系のトラブルで二〇一二年シーズン唯一のリタイヤを喫し、反対にストラッカ・レーシングはシーズン最高の総合三位でフィニッシュしたので、JRMはストラッカにポイントランキングを逆転され、この年ワークス・チーム以外でLMP1クラスにフル参戦していた三チームの中でランキング最下位に落ちてしまった。せめてもの慰めは、バーレーンに続く富士と上海の六時間レースでJRMの車がともに五位で完走したことであった。ストラッカ・レーシングは二戦とも六位だった。JRMは最終的にLMP1プライベート・チーム選手権で123ポイントを獲得し、ランキング三位を得た。二位のストラッカ・レーシングは148ポイント、一位のレベリオン・レーシングは205ポイントであった。何もかもがはじめての経験だったJRMにとって二〇一二年は学習の年となったが、翌年以降のパフォーマンスに期待が持たれた。   
   
09側面形状は取り立てて大きな特徴の無い、ごく平凡なオープン・トップのスポーツカーといった具合である。この頃からスパークモデルはレジン製完成品特有の個体差、特に部品の取り付け・接着精度のバラツキがかなり改善され、モデルカーというより「精密模型」に近い雰囲気を持つようになった。写真の個体にも特に大きな組み付けミスは見られず、わずかに左後輪が少々タイヤハウスからはみ出している程度である。ベースの黒色部分は塗装仕上げ、赤色と灰色はデカールにより再現されているが、黒色の艶具合がうつくしい。   
   
二〇一三年一月なかば、JRMは資金的な理由により同年の世界耐久選手権へのフル参戦をとりやめ、ル・マン二十四時間レースに集中することを発表した。一二年のJRMがほとんどスポンサーのいないまま一年間世界選手権を転戦していたことを知っていた人々は、この発表には特におどろかなかった。しかし二月になってから、JRMは同年のル・マン二十四時間レースにも参戦しないこと、今後スポーツカー・レースから撤退することを発表したのである。原因は人員的・資金的な負担と、この年から本格的に手がけはじめたニッサンGT-R GT3レースカーのヨーロッパにおけるレース活動および販売業務に集中するためとされた。イギリスからやってきた若く元気なレーシング・チームは、たった一年の間だけスポーツカー・レースの舞台に姿をあらわし、そのまま一陣の風のように去っていってしまったのである。   
   
HPD ARX-03は、LMP1クラス用のARX-03aが三台、LMP2クラス用のARX-03bが五台の、合計八台が製作され、シャシー・ナンバーはすべて「ARX03-XX」の連番であった。ARX-03bのうち一台は二〇一一年のARX-01eから改修されたもので、このシャシーはもともと二〇〇八年にハイクロフト・レーシングにデリバリーされたARX-01b、さらに元をたどればクラージュ製のCn.LC70-11の個体である。ARX-03aはこのうちCn.ARX03-01/-04/-07の三台であった。   
   
ARX03-01は二〇一二年一月にストラッカ・レーシングにデリバリーされ、同年セブリング十二時間レースおよびル・マン二十四時間レースを含む世界耐久選手権全戦に参戦し、最高位はバーレーン六時間レースでの三位であった。   
翌二〇一三年は改修を受けてARX-03cにアップデートされ、ポールリカール・サーキットで行われた公式テスト、開幕戦シルバーストーンからル・マン二十四時間レースまでの世界耐久選手権に参戦した。ストラッカ・レーシングは童夢の製作する新型スポーツカーをテストするため、ル・マン後は世界選手権への参戦を一時休止している。   
   
ARX03-04は同様に二〇一二年一月にグレッグ・ピケット率いるピケット・レーシングにデリバリーされ、同年セブリング十二時間レース (FIAの世界選手権とアメリカン・ル・マン・シリーズの併催あつかいだった) をはじめとするアメリカン・ル・マン・シリーズ全戦に参戦した。ピケット・レーシングは第二戦ロングビーチGPから第六戦ミッドオハイオ二時間四十五分レースまで破竹の五連勝を果たし、第七戦ロードアメリカ四時間レースでもトップから0.083秒という僅差の二位でフィニッシュした。最終的にピケット・レーシングは全十戦中それぞれ六回の優勝とポール・ポジションを獲得し、この年のアメリカン・ル・マン・シリーズ年間チャンピオンに輝いたのである。   
二〇一三年にはストラッカ・レーシング同様近代化改修を受けてARX-03cへとアップデートされ、この年もアメリカン・ル・マン・シリーズ全戦に参戦した。この年のピケット・レーシングは前年にも増して力強い走りを見せ、第二戦ロングビーチGPから第九戦ヴァージニア二時間四十五分レースまで、無傷の八連勝という圧倒的な戦績で連続チャンピオンとなった。この同一シャシーによる八連勝という記録は、一九八八年のIMSA-GTPレースでエレクトラモーティヴ・ニッサンがうちたてた不滅の大記録に並ぶものであった。アメリカン・ル・マン・シリーズがグランダム・シリーズと統合されてユナイテッド・スポーツカー選手権となったため、ピケット・レーシングはLMP1クラスでの参戦をこの年限りで休止した。ARX03-04はLMP1規格のARX-03aの中では、もっとも長くレースをしていた個体である。   
   
ARX03-07は本稿でとりあげた個体である。このシャシーは二〇一二年二月にJRMにデリバリーされ、同年の世界耐久選手権全戦に参戦し、最高位は富士と上海の各六時間レースにおける五位であった。JRMが一年限りでスポーツカー・レース活動を休止したため、このシャシーは二〇一二年の世界選手権最終戦・上海六時間レースを最後に引退しており、ARX-03aの中では実働期間のもっとも短かったシャシーである。   
   
*二〇〇七年から二〇〇九年までのHPDによるアキュラ・ブランドでのALMSシリーズ参戦、また二〇一〇年および二〇一一年のHPD製スポーツカーの活動状況については、「一梨乃みなぎ」氏によるこちらのブログ記事に詳しく記されているので、読者諸兄はそちらのエントリーもぜひ一読されたい。本稿で解説した内容の前日譚にあたる話であり、合わせて読むと当時のHPDの活動やスポーツカー・レースそのものを取り巻く環境について、より深い理解が得られるであろう。

2016年3月28日 (月)

BMW 3.0CSL Nr.21/一九七三年スパ二十四時間レース

一九七三年七月二十一日のベルギー・アルデンヌ地方は、真夏らしからぬどんよりした曇り空に覆われた、寒い土曜日であった。この日の午後にはヨーロッパ・ツーリングカー選手権の第五戦・スパ=フランコルシャン二十四時間レースがスタートすることになっており、山中のサーキットに集まった観客たちの熱気は空を覆う黒雲をも吹き飛ばさんばかりであった。スタート時刻が近づくと、三台の最新型BMW 3.0CSLを先頭に、じつに六十台のツーリング・カーが下り坂のストレートに整列し、競技長がスタートの合図であるベルギー国旗を振り下ろすのを今や遅しと待ち構えた。スパ=フランコルシャン二十四時間レースは一九二四年から開催され続けている伝統的なツーリングカーの耐久レース大会であったが、この年の大会がのちに大会史上最悪のレースとして知られるようになることを、すくなくとも第一列の真ん中からスタートした予選第二位のオーストラリア人ブライアン・ミュアーは、予期していなかった。   
   
   
00Fドイツのモデルカー・ショップである「Car.tima」が特注した、スパークモデル製1/43スケールモデル、「BMW 3.0CSL」である。一九七三年のスパ=フランコルシャン二十四時間レースにBMW・アルピナ・チームからエントリーした、ハンス・ペーター・ヨイステン/ブライアン・ミュアー組のNr.21を再現しており、品番はCar.tima社特注であることを示す「CA043 11004」がつけられているほか、特別デザインの紙製スリーブ・ケースに収められている。モデルとなった車やレースが日本では少々マイナーな部類に入ることと、四百台の限定生産であるため、現在ではほとんど日本の市場には出回っていないが、ドイツの酒造メーカーであるイェーガーマイスターのあざやかな橙色が特徴的で、人気の高いモデルである。   
   
ケルンに生まれたハンス・ペーター・ヨイステンがレース活動をはじめたのは一九六〇年代であった。彼は最初からツーリングカー・レースを志向しており、各種ローカル・ツーリング・レースに参戦していたと伝わるが、初期のキャリアは明らかになっていない。一九七二年、三十歳になったヨイステンはアルピナ・チームのBMW 2800CSでドイツ・レーシングカー選手権にフル参戦を開始し、年間ランキングで九位を得た。この年の選手権レースにおける最高位は四月のニュルブルグリンクのレースで得た三位表彰台であった。翌一九七三年、七月八日におこなわれたニュルブルグリンク二十四時間レースにて、ヨイステンはニキ・ラウダとともにアルピナのBMW 3.0CSLに搭乗し、独走で優勝をおさめた。このレースはヨイステンにとって初のビッグ・レースにおける勝利であり、またその走りがドイツ国内外のレース関係者の目にとまるきっかけにもなった。ヨイステンはすでに三十一歳と、これからレーシング・ドライバーとして本格的な活動をはじめるにはすこしばかり高齢であったが、その走りは可能性を感じさせるものであった。アルピナ・チームは、来たるスパ・フランコルシャン二十四時間レースに、同チームのエース車としてラウダ/ヨイステンを出場させることを決定した。当時F1グランプリにも参戦していたニキ・ラウダはその後スケジュールの折り合いがつかなかったのか直前で出場をキャンセルし、彼のポジションにはオーストラリア人のベテラン・ドライバーであるブライアン・ミュアーが代役としてすわった。   
   
   
10F2BMW 3.0CSLは、BMWが「ノイエ・クラッセ・シリーズ」として開発した一連の小型車につづいて発売された、「E9」シリーズとよばれる大型スポーツ・クーペの高性能モデルである。車名の「CSL」はそれぞれ「コンパクト」、「スポーツ」、「軽量」を意味していたが、名の通り大排気量の重い6気筒エンジンを搭載したことによる重量増を各部の軽量化により解決し、またエンジンや燃料噴射装置などに改造をほどこしてパワー・アップしたものであった。3.0CSLのレーシングカーには、コーナリング性能向上のため市販車にはない大型リヤ・ウィングが装備されていたが、この時代のツーリングカーにおいてウィングの装着はまだめずらしいものだった。このほかにもレース仕様車はレース用の太いタイヤをおさめるため前後フェンダーが拡大され、排気量を3.3Lないし3.5Lまで拡大したレース専用のエンジンが搭載されている。全長の長い6気筒エンジンを縦置きで搭載しているため、特にフロント部分が前に伸びた独特な外見を持っている。   
   
   
02F市販の3.0CSLは片側二灯・計四灯のヘッドライトが特徴であったが、このNr.21は内側の二灯の上から追加ライトを装備している。グリル類のパーツは実車同様縁がメッキ処理されており、BMW車の象徴であるキドニー・グリルもよく再現されているが、写真でわかる通りこのキドニー・グリルの接着がずれてしまっているのが残念である。横に大きく広がったフロント・フェンダーにより、市販モデルとは比べ物にならない迫力のある外観になっている。軽量化のためかドア・ミラーのたぐいは取り付けられていない。   
   
一九七三年のスパ=フランコルシャン二十四時間レースは、予選からBMW勢の優位をつよく印象づけるものとなった。予選でポール・ポジションを獲得したのはワークス・チームが送り込んだハンス・ヨアヒム・シュトゥック/クリス・エイモンのBMWであった。シュトゥック、エイモンの二名とも当時もっとも勢いがあると考えられていた有力ドライバーで、彼らの予選タイムである3分49秒100は、予選第二位に入ったアルピナ・チームのミュアー/ヨイステン組をじつに3秒も引き離す圧倒的なものであった。第三位には僅差でワークス・チームのセカンド・カーが入り、その後方第四位にはもう一台のアルピナ・BMWが付けた。BMWは予選で第一位から第四位を独占する快挙を達成したのである。BMW最大のライバルであったドイツ・フォードのエントリーするフォード・カプリは五位と六位に並んだが、もっとも速いフォード・カプリの予選タイムは予選四位のアルピナ・BMWよりさらに3秒近くも遅かった。   
   
四台のBMWはスタートと同時に飛び出し、予選の順位のまま快調に後続車を引き離しはじめた。スタート後にポール・ポジションのクリス・エイモンがフロント・ホイールのベアリングにトラブルを抱え、修理のためピットインを強いられて後退したため、かわって予選第二位からスタートしたアルピナ・チームのブライアン・ミュアーがトップに立った。すでに他車をリードしていたBMW勢はレース開始からしばらくするとあいついでペースをゆるめたが、ブライアン・ミュアーはそうしなかったので、トップを走るアルピナ・BMWと二位以下の差はどんどん広がっていった。   
   
03Fこの車の外見的特徴のひとつに、ステッカーで塞がれたリヤウィンドウがある。このスパ=フランコルシャン二十四時間レース仕様のみに見られるものだが、リヤウィンドウから強い日差しが入り込んで、バックミラーを確認するドライバーが眩惑されないようにするためのものであった。モデルではデカールで再現されているが、一分のゆがみも無く綺麗に貼り込まれている。スポンサーのイェーガーマイスターはドイツの薬草酒メーカーの大手だが、同メーカーは一九七〇年代から積極的にモータースポーツ活動を援助しており、イメージ・カラーとしてあざやかな橙色を使っていた。この色は今日にいたるまで「イェーガーマイスター・カラー」としてファンの間で親しまれている。   
   
   
05モデル右側面。6気筒エンジン搭載によってロングノーズ化された車体前方が特徴的である。ドア付近にある黒い帯はガムテープであり、助手席側である右側ドアおよびドアノブをテープで塞ぎ、走行中に不意に開いたりしないように対策している。この時期のツーリングカーはまだ部品精度なども良くなく、また軽量化と高剛性化を両立できる技術もなかったため、このような防護措置は一般的であった。フロントのボンネット両端に設けられた長いフィンは市販車にも装備されており、整流効果を狙っている。排気口は車体後部ではなく、右側面に設けられている。車体をぐるりと一周する銀色の細帯は塗装やデカールではなく、実車同様の金属製別パーツで再現されており、じつに精密に仕上げられているが、個体によってはこの部分の接着が甘く、帯が浮き上がってしまっているものがあるため注意を要する。一九七三年の時点でワークス車はより大きなブレーキを装備できる15インチ・ホイール (16インチという説もある) を装着していたが、プライベーターであるアルピナ・チームは小径の14インチ・ホイールを使い続けており、この違いもしっかり再現されている。   
   
深夜十一時ごろ、ブライアン・ミュアーから操縦を交代したハンス・ペーター・ヨイステンはトップの順位を保ったまま、百数周目 (このときの周回数は明らかになっていない) のマルメディ・カーブに入っていった。マルメディは全長14キロのスパ=フランコルシャンのコースのちょうど中間地点付近にある、右へまわる高速コーナーであった。ヨイステンの目の前には、ロジャー・デュボスとクロード・バロー=レナのアルファロメオ2000GTVが走っていたが、彼らはともに周回遅れの下位クラスであった。順位争いをしていた二台のアルファロメオを一気に追い抜こうと、ヨイステンは走行ラインをはずれたままマルメディへ入っていった。ヨイステンのBMWはそのままカーブを抜けていったが、立ち上がりで走行ラインの外側に積もっていたタイヤカスを拾って姿勢をくずし、半回転して横を向いたままコース上にストップしてしまった。マルメディは上り坂の途中にあったため、コーナー入り口にあるマーシャル・ポストからは坂の上にあるコーナー出口で何があったのか視認できず、したがって後続の車輌に注意をうながすようなシグナルは何一つ発せられなかった。   
ヨイステンが追い抜いた二台のアルファロメオが事故地点にさしかかったとき、大柄なBMWはまだ横を向いたままの姿勢で止まっていた。ハンス・ペーター・ヨイステンは不運にもスピンした際にエンジンをストールさせてしまっており、すぐにコースに戻ることができなかったものと思われる。彼がエンジンを再始動させ、コースへ復帰することは叶わなかった。このとき丘の上からレースを観戦していた観客のひとりは、この後起こった一連の出来事についてつぎのように証言している。   
「BMWは車体が大きいから、コース幅のほとんどを塞ぐようにして止まっていた。車の前と後ろにライトがあって、その真ん中はほとんど暗闇だ。下にいたマーシャルは何も見えないようだったが、われわれのいた場所からは何が起きているかはっきり見ることができた。五秒か十秒ぐらいしてから、グループ1のアルファロメオが二台、(バロー=レナ、デュボスの順で) テール・トゥ・ノーズでコーナーを立ち上がってきた。バロー=レナは寸前で気付いて避けたが、かわいそうなデュボスは避けきれずBMWに衝突した。まるで爆弾が爆発したような、おそろしい衝撃だった」   
   
クロード・バロー=レナは止まっていたBMWを避けようと急ハンドルを切ったためにスピンし、100メートルほど滑っていって止まった。幸運にも無傷で車から脱出できたバロー=レナは事故現場に急行し、ふたりのドライバーを救出しに向かった。あとで判明したことだが、ハンス・ペーター・ヨイステンとロジャー・デュボスの二名は、ともに衝突の衝撃で即死していた。事故直後に現場にさしかかった"プーキー"のアルファロメオ2000GTVと、ヒューブ・ヴァーミューレンのオペル・コモドアも、事故車の残骸を避けようとしてバリアに衝突したが、いずれもドライバーに怪我はなかった。ロジャー・デュボスの婚約者は、このレースで七位完走を果たしたオペル・コモドアのドライバーのひとり、クリスティーヌ・ベッカースであった。   
   
おそるべき死亡事故が発生してからわずか三十分後、マルメディの手前にあるル・コームとよばれるS字カーブで、マッシモ・ラリーニの操縦するアルファロメオ2000GT Amクーペがスロットルのトラブルからガードレールに激突し、フェンスを乗り越えてコース外へ転落した。頭部に重傷を負ったマッシモ・ラリーニはリエージュの病院に搬送されたが、容体は危機的であり、レースの七日後に治療の甲斐なく死亡した。事態にとどめの一撃をくわえるかのように、マッシモ・ラリーニのアルファロメオの残骸もまだ片付けられぬうちに、こんどはプライベートのBMW 2002に乗っていた地元ベルギーのレイモン・ラウスがまったく同じコーナーで大クラッシュし、重症を負った。   
   
立て続けに衝撃的な事故に見舞われたにもかかわらずレースは中断されなかったが、エース・ドライバーのひとりをうしなったアルピナ・チームはもはやレースをするどころの話ではなかった。ミュアー/ヨイステン組の脱落によって、二位を走っていたアルピナ・チームのもう一台のBMWがトップに立ったが、この車はヨイステンの事故を受けてレースから撤退し、アルファロメオのレース活動を担当していたアウトデルタ・チームもこの判断にしたがいワークス・カーをすべて引き上げた。日付が変わった深夜一時半ごろから雨が降り出し、このためスピンする車が続出した。重大事故の連続ですっかりまいっていた各チームは、この危険なコンディションの中でレースをすることをよしとせず、軒並みペースを落として競走を放棄しはじめた。もはやレースをしたがっているドライバーはほとんど残っていなかった。   
事故の後はアルピナにかわってワークスのBMWが1-2体制を形成した。シュトゥック/エイモン組のBMWはレース終盤にバルブのトラブルでリタイヤしたが、もう一台のヘゼマンス/クェスター組のBMWが優勝した。二位にはフォード・カプリが入ったが、三位から七位まではすべて下位クラスであるグループ1の車が入った。スタートした六十台のうち、完走できたのはその半分にも満たない二十七台だけであった。   
   
06車体後方。角張った無骨な印象のあるフロントとは対照的に、リヤまわりは丸みを帯びた簡素な印象を受ける。広げられたフェンダーの曲線がうまく元のデザインと融合しておりひじょうに美しい。リヤウィングの下にもう一段、ダック・テール状のエアダムが設けられているが、これは市販車にも取り付けられており、レースの規則によっては大型のリヤウィングを取り外して走っていたこともあった。台座後方には、このモデルが四百台中の六十台目であることが記されている。   
   
   
08F外見の迫力から「バットモービル」などと呼ばれたBMW 3.0CSLは、各モデル・メーカーから特注品を含め数多くのバリエーションが製作されており、この一九七三年スパ=フランコルシャン二十四時間レース出場車輌も複数モデル化されているが、このNr.21は現在のところこのスパーク製特注モデルのみが製作されているようである。いまわしい死亡事故の歴史をもつ車をことさらモデル化したくないという心境も理解できなくはないが、このような悲惨な過去を持つ車をもモデル化することによって、事故の記憶を人々の中にとどめておくことも、また重要なことだと思う。この一九七三年のレースにかんする資料は、少数の目撃者による証言、レースのもようを伝える当時のちいさな雑誌記事、そしてこのモデルカーがそのほとんどを占める。多くのレース・ファンにとって、ハンス・ペーター・ヨイステンとロジャー・デュボス、マッシモ・ラリーニ、そして一レースのなかで三人の死者を出すという前代未聞の惨状を呈した一九七三年スパ=フランコルシャン二十四時間レースは、いまだに遠い未知なる世界の出来事である。   
   
当時、レーサーという職業はいまよりもずっと死に近いところにあり、レース中の死亡事故それそのものは珍しい事象ではなく、したがって各新聞・雑誌の報道も、単に死亡事故が発生したという以上のことは報じなかった。イギリスの雑誌「モーター・スポーツ」一九七三年九月号にはヨーロッパ・ツーリングカー選手権第五戦および第六戦のようすを伝える記事が掲載されたが、その中で本稿に述べる事故を記載した部分は以下のような数行の文章だけであった。   
「深夜にヨイステンのBMWがマルメディでスピンし、ロジャー・デュボスのアウトデルタ・グループ1・アルファロメオGTVに衝突される事故によってバトルは中断された。両ドライバーはともにその場で死亡した。半時間後、マッシモ・ラリーニのアウトデルタ・アルファロメオGT Amがル・コームでバリアを飛び越えてクラッシュし、重傷を負ったラリーニはその後死亡した。アルピナは残っていたペルティエ/メンヅェル組の車をリタイヤさせ、アウトデルタはすべてのチームをレースから引き上げた」   
しかし事故は何も残さなかったわけではなかった。一九七三年のスパ=フランコルシャン二十四時間レースが巨大な喪失感を残して終ったことで、スパ=フランコルシャンの長く危険なコースを改修すべきだという機運が高まったのである。一周の全長が14キロあるスパのコースはそのほとんどが一般公道で構成されており、路面の舗装はわるく、コースそのものも山林の中を縫うようにして走るためきつい勾配が連続し、また多くの箇所でエスケープ・ロードがまったく存在しなかったため、コースアウトはそのまま大クラッシュを意味した。そしてそのようなコースを走るには、スパの全開区間の多いレイアウトではいかなる車でも平均速度が出すぎるようになっていたのである。一九七八年までにスパ=フランコルシャンは大改修を受け、現在のレイアウトに近い一周が7キロ前後のコースに姿を変えた。   
   
死亡したドライバーのひとりであるマッシモ・ラリーニには、ニコラという名の甥がいた。ニコラ少年は九歳のときに叔父の死を経験しながらも、叔父の夢であったレーシング・ドライバーの道を歩んだ。ニコラはF1グランプリに参戦したのち、一九九三年に当時ヨーロッパ最高峰のツーリングカー・レースであったドイツ・ツーリングカー選手権でチャンピオンとなったが、その車には二十年前と変わらぬアルファロメオのマークと、同社製レーシングカーにつけられる幸運の四つ葉のクローバーのマークが輝いていた。ニコラ・ラリーニは、叔父マッシモの果たせなかった宿願を二十年越しに果たしてみせたのである。

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