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2016年4月25日 (月)

トヨタC-Vシリーズ・終りのクロニクル 「輝ける闇」

世界中のスポーツカー・レースに関するレギュレーションが改訂され、スポーツカーの世界選手権がグループC規定の車によって争われるようになったのは一九八二年のことであったが、はやくもその年の十月には新生世界選手権が日本に上陸を果たした。世界耐久選手権の第六戦・富士六時間耐久レースが富士スピードウェイで開催されたのである。日本人がはじめてグループCのスポーツカーを目の当たりにしたこのレースには三十八台の車が出走したが、そのうちグループC規定の車はたった四台しかいなかった。ポルシェ・ワークスが持ち込んだ最新鋭戦闘機ポルシェ・956が二台、フランスのジャン・ロンドウが製作した小型スポーツカーであるM382が一台、そしていま一台は日本のシャシー・コンストラクターである童夢が中心となって製作したトヨタ・セリカ・ターボCであった。ポルシェ・956から10秒近く遅いラップ・タイムを刻みながら、おっかなびっくりといったふうで五位に滑り込んだこの車が、日本初のグループC・スポーツカーとなったのである。その後十年以上にわたって展開し、グループCというカテゴリそのものと命運を共にしたトヨタのグループCスポーツカー・レース活動のはじめの一歩は、販売促進効果をねらってトヨタ・セリカのヘッドライトを装着された、ブリキ細工のような車だった。   
   
一九八七年から、それまで林みのるが指揮する童夢で設計・製作し、舘信秀ひきいるプライベート・チームであったトムスが実戦部隊となってほそぼそと運営していたトヨタのスポーツカー・レース活動を、トヨタ・ワークスが包括的に運営することになった。トムスは大企業であるトヨタから拠出される潤沢な資金の恩恵を受けることができるようになり、あわせてチーム名も「トヨタ・チーム・トムス」とされた。体制の刷新にあわせて、トヨタは当時参戦していた全日本スポーツ・プロトタイプ選手権に完全な新型車と新型エンジンを投入する用意をすすめていた。それまで童夢やトムスが走らせていた車は基本的にポルシェ・956に対抗することを念頭に置いて設計されたものであり、エンジンは一貫して2Lクラスの4気筒エンジンを搭載していたが、排気量のちいさいエンジンでグループC規定の要求である燃費とスピードの両立性を満足することがむずかしくなってきていたのである。ポルシェは2.65Lから2.8Lの6気筒エンジンを使っていたが、八七年頃になってくるとメルセデス・ベンツの5L・8気筒エンジンやジャガーの7L・12気筒エンジンなどが登場してきて、ポルシェの優位性をおびやかしつつあった。またメルセデス・ベンツ・エンジンを使うサウバーや、ジャガー・エンジンを使うTWRは、車体の面でも旧態的なポルシェより性能のよいシャシーをすでに作っていた。特にTWR・ジャガーの車体はF1で使われているカーボン・モノコックを使っており、ポルシェのアルミ板金製モノコックとは比べものにならない剛性を持っていた。そうした情勢を鑑みると、アルミ板金製モノコックの車体に小排気量エンジンを積んで戦っているあいだは、とても勝ち目はなさそうだった。ほかの多くの自動車メーカーと同じく、トヨタの最終的な目標は、ル・マン二十四時間レースで優勝することであり、それには優秀な車体とエンジンが必要不可欠だったのである。    
   
完全新設計の新型車が投入されたのは、一九八八年の全日本選手権中盤戦であった。新車は空力設計を童夢、新型エンジンの開発をトヨタの開発部門であるTRDが行い、モノコックは当時スポーツカーではTWR・ジャガー以外に採用例がなかったカーボン・モノコックとされ、この製造は東レ社に任された。エンジンはそれまでの市販車用エンジンをチューニングした2L・直列4気筒から新開発の3.2L・V型8気筒とされ、燃費が大幅に改善された。それまでの直列型エンジン搭載車と区別するため、この新車には末尾にVをつけた「88C-V」の名前が与えられた。一九八八年全日本選手権の後半戦で熟成テストをおこなったトヨタは、当初の予定通り翌一九八九年に88C-Vの改良型である89C-Vを投入し、ル・マン二十四時間レースでの総合優勝へむけて進撃を開始した。トムスと童夢の連合軍がプライベート・チームとしてトヨタ製のグループCカーでル・マンの土を踏んでから、四年が経過していた。    
   
   
00Qモデル製1/43スケールモデル、トヨタ90C-Vである。一九九〇年全日本スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・富士500キロレースに出走し、同レースで優勝したシャシー・ナンバー002の個体を再現している。Qモデルからは一九九〇年ル・マン二十四時間レースに出走した90C-Vが通常品としてモデル化されているが、このモデルはトムスの特注品であり、通常品とは違う艶消し黒に塗られた紙製の外箱に収められている。現在でもこのモデルはトムスのオンライン・ストアで購入することができる。    
   
一九八九年にトヨタが満を持して投入した89C-Vは、全日本選手権では最後までチャンピオン争いに踏みとどまり、ほんのすこしの運の差によってポルシェにチャンピオンをさらわれたが、速さでは完全にポルシェと同等であった。しかし反対に、この年から参戦をはじめた世界スポーツ・プロトタイプ選手権ではまったくいいところがなかった。一九八九年から世界スポーツ・プロトタイプ選手権に全戦参戦義務が制定され、世界選手権レースの一戦であるル・マンに参加するためには、他のすべての世界選手権レースに参加しなければならなくなったのである。この年の世界選手権レースでは、トヨタは旧型の4気筒エンジン搭載車で参戦した第二戦・ディジョン480キロレースで得た四位が最高位で、トヨタがもっとも重視していたル・マンでは、レース開始から四時間も持たずにすべての車がリタイヤしてしまったのである。車に大規模な改良が必要であることは明らかだった。    
   
   
01モデルは精密模型で一般的に使われるレジン素材ではなく亜鉛合金のダイキャスト製であり、これにABS樹脂製の部品が組み合わされている。コスト面で有利だが細部の再現性には劣る方法で、このモデルでもたとえばリヤウィングの支柱パーツや翼端板パーツなど、本来金属製パーツで薄く成形されるべき部分が厚ぼったくなってしまい、見た目の実感を損ねている部分がある。現在のところ90C-Vの1/43スケール完成品はQモデル社製のものしか存在しないが、同社がすでに実質的な活動休止状態にあるいま、このモデルも希少になりつつある。    
   
トヨタ90C-Vは、名前の通り一九九〇年に投入された新型スポーツ・カーであり、この車の基本設計がその後のすべてのトヨタ製グループCスポーツ・カーの設計の基礎となっている。89C-Vが前年型シャシーの改良版であったこととは対照的に、90C-Vはほぼすべての部分が新設計されており、前年から流用されているのはR32V型3.2L・8気筒エンジンだけであった。車体の開発は鳩谷和春が、エンジンの開発は小林日出男が中心となって行った。この90C-Vの基本設計は、一九九〇年以降トヨタが投入したすべてのグループCスポーツ・カーの設計と相通ずるものであり、この車はある意味、グループCというカテゴリそのものと盛衰を共にした、この時期のトヨタのスポーツカー・レース活動の「終りのはじまり」と呼ぶにふさわしいのである。    
   
   
0289C-Vに比べると、あらゆる面で実戦的なシャシー設計に近づいたことが外見からわかる。89C-Vは全長6キロの直線を持つル・マンのコースに特化した低ドラッグ志向の空力特性をもっていたが、そのため操縦性がやや過敏であり、耐久レースの車としてはいささか不適当であった。具体的には、直線走行時の空気抵抗を減らすために全幅は規定最大値より60ミリ狭く作られ、またノーズ先端はノミのようにするどく尖った造形に仕上げられていた。90C-Vでは全幅が規定最大値である2000ミリまで広げられ、合わせて前輪のトレッド幅も拡大されたことで、コーナリング性能が向上した。89C-Vの鋭く尖ったノーズ先端は車体の姿勢変化に対して空力特性が極端に変化する欠点があったことから、90C-Vでは神経質な挙動をなくすべく、ノーズ前面に高さ30ミリの段差が設けられた。この改修により89C-Vの持っていた車体前面の流れるようなラインはうしなわれたが、挙動の改善には効果があったため、この年の世界選手権レース序盤戦で90C-Vと併用された89C-Vにも同様の改修がほどこされた。タイヤは前年に引き続き日本のブリヂストン・タイヤを使用している。    
   

 

10フロント部のアップ。前端部に設けられた段差のようすがわかる。ヘッドライトは前年までの「猫目」と呼ばれた独特な円形から、オーソドックスな角形に改められた。長距離耐久レースでは片側二灯だったが、モデルは500キロの短距離レース仕様であり、軽量化のため左右一灯ずつとされている。このほかにフロントのアンダーパネル面積が拡大され、カウル左右にダイヴ・プレーンが装着され、リヤウィング翼端板が大型化されるなど、短距離レース仕様では全体的にダウンフォースの獲得を優先したセットアップが施されている。また90C-Vのギヤボックスは通常マーチ製の五速ギヤボックスが搭載されていたが、ル・マン二十四時間レースでは駆動系への負担を減らすため専用設計の六速ギヤボックスが使用された。    
   
新型90C-Vの第一号車であるシャシー・ナンバー001の個体は一九九〇年一月に完成し、同年二月にはル・マンに向けての耐久テストが開始された。それまでのトヨタのスポーツカーは、性能を向上させるためのテスト走行は行っても、耐久性の向上を目的とした連続走行テストはほとんど行っていなかったのである。高速耐久試験はオーストラリアのフィリップ・アイランド・サーキットと、北海道の士別にあるトヨタのテスト施設でそれぞれ行われ、総走行距離は13,000キロにおよんだ。    
90C-Vのデビュー戦は一九九〇年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦、富士500キロレースであった。このレースでトヨタはトムスの新型90C-Vを一台、サードの前年型89C-Vを一台の二台体制でニッサンを迎え撃ったが、完全な新車であり熟成不足が懸念されていたにもかかわらず、小河等と関谷正徳のすぐれた操縦にも助けられて、90C-Vはデビュー戦でポール・トゥ・ウィンを達成する快挙を演じたのである。四月に行われた世界スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースでも、ジェフ・リースが1000分の16秒という僅差でサウバーを下して予選第一位を獲得し、レースでは最終的にガス欠を起こして四位にしかなれなかったが、序盤のうちは出遅れたサウバーやTWR・ジャガーをむこうにまわしてレースをリードしていた。誰もがトヨタの新型車の性能に舌を巻き、また期待をかけた。    
しかし調子がよかったのは最初のうちだけだった。ル・マン二十四時間レースまでに、世界選手権レースはモンヅァ、シルバーストーン、スパの各480キロレースが行われたが、そのいずれにおいてもトヨタはさんざんな結果に終ってしまったのである。トヨタは三戦とも新型車と旧型車を一台ずつ持ち込んでいたが、新型車が完走できたのはそのうちシルバーストーンのレースだけで、モンヅァでは二台揃ってリタイヤ、スパでは鈴木亜久里が予選中に新型車をクラッシュさせ、決勝レースへの参加をとりやめる始末であった。トヨタ90C-Vは、すくなくともこの時点では旧型車が抱えていた操縦性の持病を完全には解決できておらず、路面がスムーズな日本のサーキットではそれなりの速さを見せても、路面の舗装が荒いヨーロッパのサーキットでは、トヨタのドライバーは車を手懐けるのに苦労した。特に世界選手権のチームはジェフ・リースやジョン・ワトソン、鈴木亜久里といったフォーミュラーカー・レースの経験者が中心となっていたので、フォーミュラー・カーとは真逆のセンスを要求するトヨタの車とは相性が悪かったのである。全日本選手権でトヨタのワークス・ドライバーだった小河等や関谷正徳は、いずれもスポーツカー・レースの経験が長く、トヨタ90C-Vのような車をどう操縦すればいいかをよく理解していた。    
   
   
07車体後方を見る。円形のテールランプはおそらく89C-Vと共通の部品を使用しているものと思われる。ギヤボックスから伸びるブリーザーパイプまでしっかり再現してあるが、やはり低価格帯モデルの悲しさで、リヤウィングのマウント部や牽引フックなど、全般的に厚ぼったくシャープさに欠ける造形であると言わざるを得ない。    
   
   
09トヨタのグループCスポーツカーは、その開発が本格的にスタートした一九八三年から一貫してサイドラジエーター方式を採用していた。一九八八年に新エンジンを開発することになった際に、ラジエーターの搭載位置を見直すチャンスがあるにはあった。しかしトヨタのエンジニアたちにとって、ワークスのレーシングカーを開発するのは一九七〇年代のトヨタ7以来じつに十八年ぶりのことであり、彼らは新型車の基本コンセプトをフロントラジエーターともサイドラジエーターとも決めかねていたのである。最終的には、実際の製造を担当した童夢の林みのるが開発の遅れを見かねて、全体をコンパクトにまとめられるサイドラジエーター方式を続けることを主張し、これが受け入れられた。    
   
一九九〇年のル・マン二十四時間レースに、トヨタは五台の90C-Vを持ち込んだ。そのうち二台はスペア・カーであった。一九九〇年六月の時点で完成していた90C-Vがすべて動員されたのである。ドライバーも小河等や関谷正徳、ジェフ・リース、鈴木亜久里、ジョニー・ダムフリーズといった、トヨタ選りすぐりのワークス・ドライバーたちが集められ、万全の体制が敷かれた。    
予選ではトヨタはまったくタイム・アタックをせず、淡々と決勝レース用の燃費セッティングに専念した。前年一九八九年の予選で、トヨタがサウバーと激しいポール・ポジション争いを展開したことを記憶していた日本のファンは落胆したが、短時間のうちに三台の車がつぎつぎ倒れていった前年の決勝レースの苦い記憶が残っているトヨタ・チーム・トムスは、とにかく決勝レースでの完走を最優先としていたのである。    
レースではニッサンとブルン・ポルシェの車が真っ先に飛び出し、その後方からトヨタとジャガーが機をうかがう展開になった。スタートから四時間ほどが経過した午後八時ごろ、ジャンフランコ・ブランカテリのニッサンが鈴木亜久里のトヨタを周回遅れにしようとして、第一コーナーで無理なオーバーテイクを仕掛けてきた。二台はコーナーの真ん中で接触し、弾き飛ばされたトヨタはそのままサンド・トラップを突っ切ってコンクリート・ウォールにはげしく衝突した。このクラッシュで90C-Vのモノコックは修復が不可能なほどの損傷を受け、運転していた鈴木亜久里は病院に運ばれて精密検査を受けるはめになったが、幸い生命に関わるような怪我は無かった。夜が明けた日曜日の午前六時ごろに、もう一台のトヨタがエンジン・トラブルでリタイヤした。たった一台残ったトヨタは終盤まで七位を走っていたが、レースが残り三時間ほどというところになって、前を走るニッサンと同一周回に持ち込んだ。この時点で六位のニッサンはギヤボックスの調子が万全ではなく、これ以上のペース・アップはむずかしい状況だったが、トヨタはそれまでずっとコンスタントなペースで走っていたおかげで大きなトラブルはなく、追い上げ用の燃料にも余裕があった。ペースを上げればすぐにでも順位を逆転できたのである。しかしたった一台残った車をここへ来て失うことを恐れたトヨタ・チーム・トムスは、ドライバーにあくまでもペースを維持してフィニッシュするよう指示した。その後二位を走っていたポルシェがリタイヤしたため、トヨタは六位でフィニッシュした。勝ったのは鈴鹿のレースでトヨタとトップ争いをしたTWR・ジャガーだった。    
   
   
08タイヤのマーキングもしっかり再現されている。「ポテンザ」のロゴは文字が傾斜していない旧タイプのものだが、スパーク製モデルではこの時代のブリヂストン・タイヤ装着車でも新タイプのロゴを印刷してしまっており、考証面において若干見劣りがする。写真の36号車はメインスポンサーのカメラ・メーカーであるミノルタのカラーに合わせて、明るいブルーのホイールを装着している。    
   
ル・マン二十四時間レース後の七月に開催された世界選手権のディジョン480キロ・レースに、排気量を3.6Lに拡大した改良型のR36Vエンジンが投入されたが、状況は好転しなかった。ちょうどこの頃、あたらしいグループC規定に合わせた3.5L自然吸気エンジン搭載のスポーツカーを白紙から開発するプロジェクトがスタートし、90C-Vの開発リーダーだったTRDの鳩谷和春をはじめとする日本の開発チームの人手がほとんどそちらに取られてしまったのである。実戦部隊は実戦部隊で、全日本選手権ではニッサンを相手に戦いながら、世界ラリー選手権に参戦しているトヨタ・セリカの改良作業もやらなければならなかったため、トヨタのレース部門はどこをとってもひどい人手不足の状態だった。こんな状況で新エンジンの開発が思うように進むはずがなかった。ディジョンではジェフ・リースが予選で五位を獲得したが、レースではガス欠でリタイヤしてしまった。ル・マン後の世界選手権レースにおけるトヨタはずっとこのような調子で、燃費を気にせずにひたすらアクセルを踏む予選ではそれなりのタイムを出せても、決勝レースでは驚異的な燃費とスピードのバランスを実現していたサウバーの車についていこうとすると、どうしてもガソリンが足りなくなった。3.6Lの新エンジンは全開状態での燃費セッティングはほとんど出ていたが、耐久レースに不可欠な、アクセルをじわりと踏んでゆっくり加速していく過渡状態での燃費セッティングがぜんぜん決っていなかったのである。けっきょく一九九〇年のト世界スポーツ・プロトタイプ選手権でのトヨタ・チーム・トムスが獲得した選手権ポイントは、開幕戦の鈴鹿480キロ・レースで獲得した3ポイントだけで、あとのレースはすべてガス欠でリタイヤするか、はるか後方をのろのろ走ってただ完走するだけというレースだった。年間のチーム・ランキングは八位で、ポルシェを使うプライベーターのブルン・モータースポーツやクレマー・レーシングにも負けていた。この年のル・マン二十四時間レースは世界選手権からは外れていたので、せっかくの六位完走も世界選手権ランキングにはカウントされなかったのである。トヨタ90C-Vは、ル・マン二十四時間をはじめとする世界規模のレースで勝つための設計がなされ、大きな期待を寄せられたにもかかわらず、世界選手権レースでは、その期待に見合う結果を残したとは言い難かった。    
   

 

15全日本選手権では状況は多少良かった。七月から投入された新エンジンはここでも信頼性の問題を抱えていたが、ニッサンは世界選手権におけるサウバーほど速くはなかったため、トヨタにも優勝争いはできたのである。しかし結局、必要なタイミングで必要な開発リソースをじゅうぶんに割り当てることができなかった結果として、トヨタ・エンジンには熟成不足に起因するトラブルが多発し、ニッサンに優勝をさらわれる展開が続いた。最終戦で旧型車を持ち込んだサードが優勝し、この年トヨタ陣営の二勝目をようやく挙げたが、チャンピオンはニッサンのものとなった。トヨタはここでも、その速さをレース結果につなげることができなかったのである。なんとも歯がゆい状況だったが、レースは結果がすべてだった。一九九〇年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権で、トヨタは三回のポール・ポジションを獲得し、二勝を挙げた。ニッサンはポール・ポジションこそ二回とトヨタより少なかったが、トヨタより多い三回の勝利を挙げ、チャンピオンに輝いたのである。    
   
グループC規定の変更をめぐる混乱により、トヨタは一九九一年のル・マン二十四時間レースには参加しないことになった。そのため一九九一年のトヨタのスポーツカー・レース活動は全日本スポーツ・プロトタイプ選手権に限定されることになり、一九九〇年の後半に苦労した開発リソースの不足はある程度解消される目処がたった。全日本選手権のレースは500キロから1000キロの中距離レースのみで構成されていたため、車やエンジンはこれに特化した開発をすることが可能となった。トヨタは90C-Vの設計をベースに改修をほどこした新車91C-Vを用意し、全日本選手権でニッサンとのタイトル争いをふたたび展開することになる。    
   
トヨタ90C-Vは、一九九〇年一月から六月のあいだに合計五台が製作され、うち一台が事故により喪失、一台がリビルドを受けてあたらしいナンバーを与えられている。
      
シャシー・ナンバー001のトヨタ90C-Vは、一九九〇年一月に完成した第一号のシャシーであり、おもにテスト走行に使われた。一九九〇年世界スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースでは、三台目のレース・カーとしてサードに貸し出され実戦を走っている。その後はふたたびル・マンに向けた耐久試験に供され、ル・マン二十四時間レースではスペア・カーの一台として持ち込まれた。八月の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権第三戦・鈴鹿1000キロレースに向けてリビルドされ、新しく「006」のシャシー・ナンバーを与えられたうえでトムスにデリバリーされている。ナンバー001としての実戦は前述の鈴鹿480キロレースが唯一だが、このレースではガス欠によりリタイヤしている。    
シャシー・ナンバー006の個体としては、全日本選手権の鈴鹿1000キロレース、菅生500キロレース、富士1000キロレースに参戦しており、最高位は鈴鹿1000キロレースの三位であった。    
一九九一年の全日本選手権には、新型車91C-Vの投入がまに合わなかったため、開幕戦・富士500キロレースおよび第二戦・富士1000キロレースにトムスから参戦した。001はいちばん最初に製作された90C-V用モノコックであったが、結果的にいちばん長く走ったモノコックとなった。    
   
シャシー・ナンバー002のトヨタ90C-Vは、本稿で紹介した全日本選手権開幕戦・富士500キロレースで優勝し、その後は世界選手権レースの鈴鹿480キロレース、モンヅァ480キロレース、シルバーストーン480キロレース、スパ480キロレースの各レースおよびル・マン二十四時間レースに参戦した。ル・マン二十四時間レースでのクラッシュにより大破し、修復不能と判定され破棄されている。90C-Vの中で全損・破棄されたシャシーとしては、これが唯一のものである。    
   
シャシー・ナンバー003のトヨタ90C-Vは、一九九〇年ル・マン二十四時間レースでチーム・サードの車として運用され、その後は全日本選手権で引き続きサードの車として富士500マイルレースおよび鈴鹿1000キロレースに参戦した。菅生500キロレースと富士1000キロレースではサードは旧型の89C-Vを使用したため、一九九〇年中の実戦投入は以上に述べた分だけである。一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースではサードの車としてレースを走ったが、これがこのシャシーの最後のレースとなった。    
   
シャシー・ナンバー004のトヨタ90C-Vは、一九九〇年の世界選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースでトヨタ・チーム・トムスの二台目として実戦に投入され、その後はル・マン二十四時間レースに参加し六位で完走している。その後は全日本選手権の富士500マイルレース、鈴鹿1000キロレース、菅生500キロレースの各レースにトムスから参戦した。一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースではトムスの車としてレースを走った。前述の003同様、このレースがこのシャシーの最後のレースである。    
   
シャシー・ナンバー005のトヨタ90C-Vは、一九九〇年のル・マン二十四時間レースでトムスのスペアカーとして持ち込まれ、その後002の全損にともない世界選手権レースに参戦し、ディジョン480キロレース、ニュルブルグリンク480キロレース、ドニントン480キロレース、モントリオール480キロレース、メキシコシティ480キロレースの各レースで走った。このシャシーは一九九一年以降の運用歴は残っていない。

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