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2016年4月27日 (水)

トヨタC-Vシリーズ・終りのクロニクル 「夏の闇」

一九九一年のスポーツカー世界選手権は、ウェイト・ハンデを積むことを条件に一九九〇年以前の旧規定にのっとってつくられたグループCスポーツカーの出走を認めていたが、一九九二年からは新規定車のみを受け入れることとなったため、旧規定のスポーツカーは世界選手権から姿を消した。一九九二年シーズンの開幕時点では、日本の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権とアメリカのIMSA-GTP選手権のみが旧規定スポーツカーの出走を認めていた。トヨタは一九九一年をほぼまるごと費やして開発した新規定のスポーツカーをこの年の世界選手権に投入し、プジョーと真っ向から勝負するつもりでいた。トヨタ・ワークス・チームの活動の主軸はふたたび世界選手権とされ、全日本選手権ではあくまで参加するトヨタ系チームの物的支援に徹することとされた。

一九九二年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権は、もはや瓦解寸前であった。スポーツカー世界選手権を統括するFISAが一九九一年からグループC規定を刷新したのに対し、全日本選手権の統括団体である日本自動車連盟は九一年以降も従来どおりのグループC規定でレースをすることを決定した。しかし一九九〇年の時点で、ニッサン、トヨタ両ワークスの車体、エンジン双方におけるめざましい進歩により、プライベート・チームにとってほとんど唯一の選択肢であったポルシェの車では、両ワークスと競走して勝つことは不可能になりつつあったのである。一九九〇年の開幕戦から一九九一年の最終戦まで、世界選手権に参加していたジャガーがゲスト参戦し驚異的な速さで優勝した一九九一年最終戦を除けば、予選第一位も優勝もすべてトヨタかニッサンの車が記録していた。トヨタとの競り合いに勝ってポルシェの車が全日本チャンピオンになった一九八九年は、もはや遠い昔になりつつあった。一九九二年の全日本選手権開幕戦のグリッドには、ポルシェの姿はなかった。参加したのは四台のニッサン、三台のトヨタ、二台のマツダの九台だけだった。この年トヨタは二台体制から一台体制に縮小したトムスと、トヨタ系のプライベート・チームとしてトムスに並び立つ存在であったサードにくわえて、前年までポルシェを使用していたトラストを加えた三台体制の陣営でニッサンに対抗したが、世界選手権に参加しないニッサンはこの年も全日本選手権に全力を振り向けてくることが予想されたので、トヨタの苦戦は避けられなかった。

トヨタ・ワークスの活動がふたたび世界選手権を中心としたものになったあとも、トヨタ製旧規定スポーツカーの改修はほそぼそと続けられた。一九九二年型の92C-Vでは、拡大されたトレッド幅に合わせてサスペンションが改良され、90C-V以来の持病であったサスペンション特性が大幅に改善されている。しかし全体としてはマイナー・アップデート程度であり、ニッサン同様完全な新型車ではなかった。
ワークスによる開発が止まった92C-Vの全日本選手権における戦いは困難をきわめた。開幕戦の鈴鹿500キロレースではトラストの車が三位に入り、第二戦・富士1000キロレース、第三戦・富士500マイルではトムスの車がそれぞれ五位と二位に入ったが、いずれのレースもニッサンが優勝していた。開幕当初、トヨタは全日本選手権の前半戦のみ旧規定の車を使い、後半戦では世界選手権を戦っているのと同じ新規定の車を全日本選手権にも持ち込む予定でいたが、世界選手権のほうで予想外の苦戦が続いたため、日本の実戦チームは旧規定車を使い続けなければならなくなった。このままではニッサン・ワークスに勝つことはむずかしかった。
トヨタ陣営の第一チームであったトムスは、思い切って92C-Vの大改造を行うことにした。この改造を指揮したのは、トムスのチーフ・エンジニアであった今西豊だった。彼らはチームのスペア・カーを引っ張りだすと、まずモノコックを完全につくりかえた。剛性アップのため傾斜面や曲面のほとんどすべてが平面構成で置き換えられ、ありとあらゆる箇所にアルミ・ハニカム製の補強部材が仕込まれた。同時にモノコックの徹底した軽量化がほどこされ、リヤのエア・ジャッキまでもがとりはずされた。完成した車体は、従来型にくらべると20キロもの軽量化に成功していた。モノコックを改造したのに合わせてサスペンション・レイアウトも小変更を受けている。この車は「トムス・スペシャル」と呼ばれた。


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92CV-92-Sekiya-Raphanel-2トヨタ92C-V「トムス・スペシャル」(上) と、比較材料として従来型のトムス92C-V (下) である (写真は二枚ともイグニッションモデル公式ブログより)。トムス・スペシャルは当初モノコック以外にボディカウルの形状も変更される予定であったが、新型車の投入が焦眉の急となったためカウルは92C-Vのものが流用された。トムス・スペシャルの見た目上の識別点として、フロントカウル上にあるラジエーター排気口の形状があげられる。従来型では開口部周囲に低いフェンスが設けられているが、トムス・スペシャルではこの部分からの排気をより効果的に利用するため、フェンスの高さが従来型より大幅に高くなっている。上下の写真を比較すると、トムス・スペシャルの開口部フェンスはフロントガラス下端よりもせり上がっていることがわかる。
このトムス・スペシャルは当初七月の第三戦・富士500マイルレースまでに投入される予定であったが、開発の遅れにより九月の第四戦・菅生500キロレースでデビューした。デビュー時は従来型と同くエッソの赤いスポンサー・カラーに塗られていたため、フロントに設けられた巨大なフェンスからの連想で、同年七月公開のアニメ映画のタイトルから「紅の豚」という愛称で呼ばれた。軽量・高剛性モノコックの威力はすばらしく、トムス・スペシャルはデビュー戦の菅生で二位、つづく第五戦・富士1000キロレース (この年は富士の1000キロレースが二回開催された) では驚異的なタイムで予選第一位を記録した。この第五戦からトヨタはようやく新規定車を全日本選手権に投入したため、92C-Vはトヨタ陣営の主力戦闘機としての役目を終えた。
最終第六戦のインター・チャレンヂ美祢500キロレースは、すでにこの年をもって全日本スポーツ・プロトタイプ選手権の開催を中止することが決っていたため、実質的に同選手権最後のレースであった。このレースでトムスは、チームがはじめて全日本スポーツ・プロトタイプ選手権に参戦した一九八三年とまったくおなじカラーリングでレースに出走した (上写真の仕様)。全日本スポーツ・プロトタイプ選手権が発足した一九八三年から、シリーズが終焉を迎えた一九九二年まで、そのあいだのすべてのシーズンにわたって参戦を続けたのは、トムスとトラストの二チームだけである。


18スパークモデル製1/43スケールモデル、一九九二年ル・マン二十四時間レース仕様のトヨタ92C-Vである。この年トヨタの旧規定車は全日本選手権以外に、旧規定スポーツカーの参加を認めていたル・マンにもプライベート・チームの二台が遠征した。左のNr.34・シャシーナンバー92C-V 005がチーム・サードのエジェ・エルグ/ローランド・ラッツェンバーガー/エディー・アーヴァイン組、右のNr.35・シャシーナンバー92C-V 001がトラスト・レーシングのジョージ・フーシェ/スティーヴン・アンドスカー/ステファン・ヨハンソン組である。サードの車は途中ギヤ・トラブルで遅れ九位、トラストの車は旧規定クラスの最上位である五位で完走している。品番はそれぞれS2367/S2368。

一九九二年のル・マンには、トヨタとプジョーが三台ずつにくわえて、マツダも二台の新規定ワークス・カーを持ち込み、スターティング・グリッドの上位につけた。サードとトラストの旧規定車はいずれも無理なタイム・アタックを行わず、決勝レースを見据えたセッティング作業に専念したため、予選ではサードが十一位、トラストが十五位を得るにとどまった。新規定車は最低車重が軽く、燃料も使いたいだけ使えるので、あらゆる面で旧規定車より有利だったが、二十四時間のレースでは豊富な実戦データをもつ旧規定車にも、その信頼性をいかして上位に進出するチャンスはあった。サードのエジェ・エルグは、レースを前にしてつぎのようにコメントした。
「プジョーが二十四時間のあいだ何の問題もなく走りきれるとは思えない。クレマー・ポルシェやトラスト・トヨタは要注意だが、対等に戦えば入賞のチャンスは大いにあるだろう」


0804一九九二年のル・マンでは全日本選手権同様、サードの車がブリヂストン・タイヤ、トラストの車がダンロップ・タイヤを装着した。この年の海外レース用ブリヂストン・タイヤにはタイヤ側面に描かれているブランド名の文字が入っておらず (一九九二年デイトナ二十四時間レースに参戦したノバ・ニッサンR91CKも参照されたい)、モデルはこれを再現しているため、サード車のタイヤ部分にマーキングが見られないのはエラー品ではない。また実車写真を見ると、この年はサード車のみリヤウィング全体がかなり後方に傾けて装着されており、こちらはさすがに再現されていなかったが、リヤウィングの取り付けが若干歪んでいるのを修正する際に角度をつけた。おそらくロードラッグ化のためのセットアップと思われる。

一九九二年六月二十日・土曜日午後四時、雨が降る中でル・マン二十四時間レースがスタートした。トラスト・トヨタはリスクをとらず、スタートからフィニッシュまで事前に決められたペースを守ってフィニッシュすることに専念したが、サード・トヨタは序盤の雨に乗じてペースを上げ、スタートから一時間が経過する頃には、早くも新規定車の中に割って入る総合七位まで順位を上げた。サード・トヨタのスタート・ドライバーであるローランド・ラッツェンバーガーは雨を得意とするドライバーで、三時間目には旧規定車クラスのトップである総合六位に浮上した。



07ル・マン二十四時間レース参戦に合わせて、全日本選手権で使用されていた小型のヘッドライトのかわりに、耐久レース用の大型ライトが装備されたが、90C-Vのものとは形状が違っている。左のトラスト車は丸型のライトを左右二つづつ並べたものだが、右のサード車は片側に丸型一灯・矩形一灯の変則的な配置となっている。サード車のライトの配列はトヨタ・ワークスの新規定車「TS010」と同じもの。

土曜午後九時過ぎになって雨脚が強まり、視界が極端に悪化したため、各車ともクラッシュをおそれて大幅にペース・ダウンしたが、サード・トヨタ、トラスト・トヨタとも順位を落とすことなくこの雨を乗り切った。しかし真夜中すぎの百十二周目、ステファン・ヨハンソンの運転中に、まずトラストの車にトラブルが起きた。予定の時間をすぎても、ヨハンソンの運転するトラスト・トヨタがピット前のストレートに戻ってこなかったのである。メカニックたちの不安が募るなか、リヤカウルがなくなったトラスト・トヨタがよろよろとピットインしてきたのは、予定の時間を六分も過ぎてからだった。トラスト・トヨタは第一シケインの入り口付近でギヤのトラブルが発生し、ギヤ・チェンジできなくなってしまったのである。ヨハンソンはコース脇に車を止めると、ひとりでリヤカウルを外し、車載の工具で応急措置をおこなってピットまで戻ってきたのだった。このトラブルの修理に十二分かかったが、トラスト・トヨタは十位でコースに復帰することができた。ヨハンソンの機転と冷静な処置により、トラスト・トヨタはリタイヤを免れたのである。

快調に飛ばしていたサード・トヨタも、無傷というわけにはいかなかった。まずエディー・アーヴァインが日曜午前四時ごろにクラッチの不具合を訴えた。チームは二十分かけてクラッチを交換したため、サード・トヨタは九位に落ちた。そして夜が明けた日曜午前八時二十二分、こんどはエジェ・エルグの運転中に、ギヤボックス・トラブルが発生した。チームは修復をあきらめ、ギヤボックスをまるごと交換することにした。交換に三十分かかった。後続との差が開いていたので順位は変わらなかったが、サード・トヨタはこれでトップから二十三周遅れになってしまい、上位入賞はほとんどあきらめざるを得なくなった。


09リヤまわりは91C-Vからほとんど変わっていない。スパークモデルは一貫してモデルの素材にレジンを使用しているが、日本円にして八千円以下の価格帯でこれほどの精密な加工は他メーカーの追随をゆるさない、すばらしい出来栄えであると言えよう。翼端板やリヤウィング支柱などのパーツは金属製で薄く仕上げられ、モデルの実感を増している。エンジンは全日本選手権で使われているものと同様のR36V型3.6L・8気筒エンジン、ギヤボックスは90C-Vのル・マン仕様が専用の六速ギヤボックスを使っていたのに対し、92C-Vは五速ギヤボックスのままであった。

サード・トヨタがギヤボックス・トラブルに苦しんでいた午前八時ごろ、サードと入れかわるようにトラスト・トヨタがペースを上げ始めた。スタートから夜まで断続的に雨が降り続いたのでペースが上がらず、予定通りのペースでは燃料が余ってしまうことがわかったのである。ならばその分の燃料も使って追い上げ、ひとつでも上の順位でフィニッシュしようというのであった。トラスト・トヨタはそれまでずっと3分50秒台のラップ・タイムを守って周回を重ねていたが、これを一気にペース・アップして3分45秒台としたのである。折よく日の出とともに雨に濡れた路面が乾きだしたことにも助けられ、トラスト・トヨタは午前九時には七位まで順位を上げた。しかしそこまでだった。前を走る六位のクレマー・ポルシェとトラスト・トヨタのあいだにはこの時点で二周、時間にして約8分の差がついていたが、残り時間が七時間では、一周につき差を5秒縮めたとしても、ギリギリで届くかどうかといったところであった。しかもクレマーはこれまで何度もル・マン二十四時間レースに参戦してきた歴戦のチームであり、そんなチームを相手に七時間ものあいだ正確に5秒ずつ差を詰めていくのはほとんど不可能だった。

トラスト・トヨタのレースがふたたび動き出したのは、フィニッシュまで残り三時間弱となった午後一時すぎであった。クレマー・ポルシェのペースが急にガクッと落ちたのである。トラスト・トヨタはあいかわらず3分45秒のハイペースで追い上げを続けていたので、その差はみるみる縮まった。トラスト・トヨタは一周につきクレマー・ポルシェより10秒近くも速かった。トラスト・トヨタのステファン・ヨハンソンがドライバー交代のためピットインしてきた時には、すでにトラスト・トヨタはクレマー・ポルシェと同一周回まで追い上げていたのである。
ピットインしてきたヨハンソンは激しい追い上げにもかかわらず元気溌溂としており、ジョージ・フーシェに交代させるべくドアを跳ね上げたメカニックにむかって怒鳴った。
「もう一スティント乗せてくれ!」
トラスト・トヨタのピット作業は、クレマー・ポルシェより30秒以上速かった。ステファン・ヨハンソンはホイール・スピンさせながら猛然とピット・ロードへ飛び出して行くと、ふたたび一周あたり10秒近くを削り取る苛烈な追撃を開始した。その追い上げのペースは、一周ごとにサイン・ボードで前を行くクレマー・ポルシェとの差を知らせるトラストのメカニックが、毎周ガッツポーズをして車を見送るほどであった。クレマー・ポルシェが最後のピットインをおこなった午後三時には、二周あった差がたった17秒になっていた。
クレマー・ポルシェのピット作業は96秒かかった。その直後、トラスト・トヨタがドライバー交代のためにピットインしてきた。ステファン・ヨハンソンからジョージ・フーシェに交代したトラスト・トヨタは66秒でピットアウトしていった。ついにクレマー・ポルシェを抜いたのである。


14ル・マン仕様車はトラスト・トヨタとサード・トヨタで空力セッティングが異なり、トラスト・トヨタは小型のダイヴ・プレーンにみじかいフロントアンダーパネル、サード・トヨタは大型のダイヴ・プレーンに長めのフロントアンダーパネルを装備している。水色のサード・トヨタと赤色のトラスト・トヨタで、ちょうどカラーリングが対比色となっている。トラスト・トヨタはこのル・マン以降、建具などのレンタルを行う日綜産業のスポンサーを得て、それまでの白色から赤色のスポンサー・カラーに塗られた。サード・トヨタは九一年まで使っていた紅白の日本電装カラーを、北澤バルブのスポンサー・カラーである水色に塗りなおしており、チーム名も「キッツ・レーシング・チーム・ウィズ・サード」と改められた。

レースが残り一時間となった時点で六位を走っていたトラスト・トヨタは、ペースをまったくゆるめなかった。1分13秒前方に、五位のクーガー・ポルシェが走っていたのである。ジョージ・フーシェはトラストのファースト・ドライバーとしての意地を見せ、3分40秒408という最速ラップを記録しながらクーガー・ポルシェを追いかけた。このラップ・タイムは、トップを走っていたプジョーの平均タイムとたった3秒しか違わなかった。クーガー・ポルシェはペースを上げて逃げようとしたが、トラスト・トヨタのほうがはるかに速かった。勢いに乗ったジョージ・フーシェは、コーナーというコーナーで路面にブラック・マークを残し、シケインの出口では豪快なカウンター・ステアを当てながら加速していった。フーシェの耐久レースとはまるで思えぬタイム・アタックのような走りに、地元フランスのクーガー・ポルシェが追い詰められているにもかかわらず、観客は惜しみない声援を送った。
トラスト・トヨタがクーガー・ポルシェを完全にとらえ、ピット前のストレートで並ぶまもなく抜いていったのは、ゴールまで残り二十分となった三百三十周目であった。その六周後、二時間半ものあいだスプリント・レースを繰り広げたトラスト・トヨタは総合五位、旧規定車クラス首位でチェッカー・フラッグを受けた。トラスト・レーシングとしてル・マンに初参戦してから、たった三年目に達成された快挙であった。


06全日本選手権におけるトヨタ92C-Vは、主に全体的な開発不足の影響でニッサンの後塵を拝し、一勝もあげることができなかった。しかしニッサンの姿なきル・マンでは、接戦を制してプジョー、トヨタ、マツダの新規定車に次ぐ総合五位でフィニッシュするという輝かしい戦績を上げ、いくらかトヨタの溜飲を下げたのである。この翌年・一九九三年のル・マン二十四時間レースにも、「93C-V」と名付けられた二台のスポーツカーがサードとトラストから一台ずつ参戦したが、この車は九二年用の92C-Vを九三年のル・マン規定に対応させたもので、最大の違いは規則によりエンジンに35.7ミリ径のエア・リストリクターが装着され、出力が700馬力程度まで落ちていたことであった。九三年ル・マンでは一時トラストが旧規定車クラス首位である四位を走行したが、日曜午前五時に冷却水のリザーバー・タンクからの漏水を修理するために長時間のピットインを強いられ、六位に後退した。かわって旧規定車クラスのトップにサード・トヨタが立ち、そのまま五位でフィニッシュしている。この年サードの車は二十四時間のレース中一度もトラブルを起こさず、最初から最後まで完全にレース前の予定通りのラップ・タイムで走るという、耐久レースの手本のようなレースを見せた。トヨタ90C-Vの末裔は、当初の想定とは違う形ではあったが、90C-Vが目標としたル・マン二十四時間レースで、与えられた条件の中で最善の結果を残したのである。

トヨタ92C-Vは新造モノコックはなく、五台すべてが同ナンバーのトヨタ91C-Vから改修された。うち一台がクラッシュにより全損・破棄されている。各車の九一年シーズンの戦績については前記事を参照されたい。

シャシー・ナンバー001のトヨタ92C-Vは、92C-Vにリビルド後トラスト・レーシングに引き渡され、一九九二年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・鈴鹿500キロレースで実戦デビューした。このレースでトラストはシーズン最高位となる三位を獲得している。同年ル・マン二十四時間レースにトラスト・レーシングから出走し五位で完走している。十月の全日本選手権第六戦・富士1000キロレースのフリー走行でジョージ・フーシェが大クラッシュし、修復不能とされ廃棄された。

シャシー・ナンバー002のトヨタ92C-Vは、おそらくトムスのスペア・カーであったシャシーで、今西豊らによる近代化改修を受けたのち一九九二年の全日本選手権第四戦・菅生500キロレースからトムスのレース・カーとして最終戦まで投入された。デビュー戦の菅生で記録した二位が最高位である。
一九九三年にはル・マン二十四時間レースに向けてトラストに供給され、短距離レースに特化したモノコックをル・マン用に補強する改修を受けている。九三年ル・マンでは六位で完走した。

シャシー・ナンバー003のトヨタ92C-Vは、九一年シーズン以降テスト用シャシーとしてTRDが保管していたが (前記事も参照のこと)、第六戦でシャシーをうしなったトラスト・レーシングに貸し出され、九二年の全日本選手権最終戦・美祢500キロレースのみにトラストの車として出走した。このレースでは七位に入っている。

シャシー・ナンバー004のトヨタ92C-Vは、トムスのレース・カーとして九二年全日本選手権の開幕戦から第三戦までを走った。このうち第三戦・富士500マイルレースで三位に入ったのが最高位である。

シャシー・ナンバー005のトヨタ92C-Vは、チーム・サードのレース・カーとして九二年全日本選手権の全六戦、および同年ル・マン二十四時間レースに出走した。このうち全日本選手権第四戦・菅生500キロレースでシーズン最高位の三位を記録した。一九九二年の全日本選手権に、開幕戦から最終戦まで通して参加したシャシーはこの005のみである。
一九九三年には93C-Vとして引き続きサードからル・マン二十四時間レースに出走し、五位で完走している。

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