« ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル (草稿) | トップページ | 先週末 »

2016年10月31日 (月)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「青の一番星」~

二〇一五年の世界耐久選手権は、当初ポルシェ、アウディ、トヨタの三メーカーに、ニッサンをくわえた四つのメーカーで競われることになっていた。このうちニッサンは新車の準備が遅れ、第三戦のル・マン二十四時間レースが事実上新車のシェイクダウン・テストとなる、逆風の吹き荒れるデビューとなった。ニッサンは三台の車をル・マンに持ち込んだが、うち二台がニッサンのコーポレート・カラーである深紅に塗られていたのに対し、残る一台には白と蒼をベースに赤色のストライプが入るさわやかなカラーリングが施されていた。このトリコロール・カラーこそは、かつてニッサンが二〇一五年とおなじようにル・マン二十四時間レースでの優勝を至上命題とし、幾度も挫折を経験しながらも挑戦を重ねた日々を思い起こさせる、象徴的なカラーリングであった。   
   

 

01イグニッション・モデル製品番0291、「ニッサンR89C・1989アリゾナテスト」レジン製1/43スケールモデルカーである。シャシー・ナンバーはR89C-01、この車の第一号シャシーであり、ある意味テストカーらしいナンバーであると言える。イグニッション・モデルはHPI社がモデルカー製造事業から撤退したのち、同社のレジン製精密模型の製造設備をひきつぐ形で創設されたといわれている日本のモデルカー・メーカーで、日本製のスポーツカーを主に製作している。    
   
このトリコロール・カラーに塗られたニッサンの新型スポーツカーをはじめて目にしたのは、一九八九年四月十五日にアメリカ・アリゾナ州の沙漠にあるニッサンの試験場にあつまった、ごく限られた開発スタッフのみであった (カラーリングそのものは、四月九日におこなわれた世界スポーツカー選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースにおいて、旧型車に施された塗装として披露されていた)。新車のシェイクダウン・テストそのものは四月三日から同五日にかけて、イギリスのスネッタートン・サーキットですでにおこなわれていたが、このときはまだ塗装を施されておらず、車体の一面がカーボンの黒色で覆われた状態だったのである。開発スタッフの中には、試運転のドライバーをつとめたジュリアン・ベイリー、チップ・ロビンソン、ジェフ・ブラバムの姿もあった。この日、彼らは北米ニッサンが所有するこのテスト・コースで、ル・マン二十四時間レースでの優勝を目標として開発された新型スポーツカー、ローラ・ニッサンR89Cの四日間にわたる高速耐久試験をおこなうことになっていたのである。この試運転で、R89Cは時速386キロの最高速度を記録したと伝わる。    
   
00よく知られているとおり、一般に「ニッサン・R89C」として知られているこのグループC規格スポーツカーを製作したのは、イギリスの老舗レーシング・カー製造者であるローラ・カーズである。ローラ側が一九八七年から導入した命名規則によれば、この車は「T89/10」の名前をつけられるはずであり、じっさいにローラ側の文書にこの車輌を「T89/10」としている記述が見られる (本稿ではニッサン側の呼称である「R89C」を用いる)。ローラはそれまでにもグループC規格のスポーツカーを製作していたが、このR89Cは同社初のカーボン製モノコックを有する車輌であった。    
   
05台座には車名を記した金属製プレートが貼り付けられているが、向かって右側の接着が若干浮いてしまっている。台座はプラ製で、同社製レーシングカー・モデルに共通のカーボン風パターンが天面に貼り付けられている。モデルは定価14,904円とひじょうに高価で、おおむねそれに見合うだけの製造クオリティは維持されているが、たとえばライトカバーやリヤウィング翼端板の素材が厚ぼったく実感を損なうものであったり、各所に接着剤漏れのような痕跡が見られたりと、この分野におけるベンチマークであるスパークモデル製と比較すると「詰めが甘い」ように感じられる点が目立つ。    
   
一九八九年は、さまざまな面において、ニッサンのスポーツカー活動における大きな転換点となった年であった。まず、それまで旧型の市販車用4気筒エンジンや6気筒エンジンを改造して使っていたエンジンを、思い切って専用設計の新型で置きかえる決断がなされた。新エンジンは林義正により設計され、排気量3.5リッター、V型8気筒ツインターボ・エンジンとされた。グループC規定ではエンジンの排気量や気筒数などは自由であり、すべてのエンジンが燃費によって制約を受けるため、新型エンジンの開発の主眼は燃費と出力の両立におかれた。車体の面においては、それまでイギリスのマーチ・エンジニアリング製汎用シャシーを購入して使っていたのを、ローラ・カーズにニッサン専用の車体を発注し、汎用シャシーからの脱却をめざすことになった。マーチ・シャシーは製造が簡単なアルミ製モノコックで、さまざまなタイプのエンジンに対応できる汎用性と、異なるエンジンを搭載しても操縦性が変化しないというすぐれた特性をもっていたが、ル・マンをはじめとするレースでの勝利を狙うには、市販のシャシーでは不十分であることが明らかになったのである。また、この年から世界スポーツカー選手権の規則が改定され、ル・マン二十四時間レースに出場するためにはほかの世界選手権レース全戦に参加しなくてはならなくなったため、ニッサンは欧州方面につくられたばかりの前線部隊であるニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパを通して、世界選手権レースに参戦することを決定した。これに従来通り参戦する全日本スポーツ・プロトタイプ選手権 (JSPC) と、この年からニッサン直属部隊とされたニッサン・パフォーマンス・テクノロジーInc. (NPTI) によるIMSA GT選手権がくわわり、それまで各地域のプライベート・チーム主導でほそぼそと続けられていたスポーツカー・レース活動が、一気に世界規模の大物量作戦に拡大されたのである。これに合わせて、世界中にスポーツカー・レースにおけるニッサンの存在を印象づけるという動機であったのか、この年からニッサンのスポーツカーには蒼、白、赤を組み合わせた、あかるい印象のカラーリングが施されるようになった。このカラーは形を変えながらニッサン・ワークスがスポーツカー・レース活動を打ち切る一九九二年まで継承され、以来ニッサンのスポーツカーと関連付けられ、つよく記憶されるようになった。    
   
02後方よりR89Cを見る。それまでの大柄でどことなく野暮ったいマーチ製シャシーに比べると、ローラ製シャシーは各部がスリムに絞り込まれ、いかにもスマートで速そうな印象を受ける。この車は設計段階から長いストレートをもつル・マンのコースに特化した設計がなされ、たとえば空気抵抗を削るべく追加された、後輪を覆い隠すボディ一体型のカバーなどはその一例である。全体的なスタイルや、カーボン・モノコックの採用などは、当時ポルシェにかわってグループCスポーツカーの最適解と認識されつつあったTWR・ジャガーの車体からの影響が見られる。設計はローラ・カーズのエリック・ブロードレイとアンディ・スクリベンが手がけたが、フロントの造形にはニッサン側のデザイン・スタッフの意見も取り入れられている。林義正の要求により、エンジンは当時のスポーツカーではめずらしかったフル・ストレス・マウントとされた。    
   
ニッサン・R89Cの第一号車は四月上旬までに完成し、上記の通りイギリスのスネッタートンとアメリカのアリゾナ州試験センターで試運転が行われた。五月四日にフランスのディジョンで開催された世界スポーツカー選手権の公式テストには第二号車をくわえた二台が参加している。ニッサンは一台のR89Cを世界選手権にエントリーさせ、ル・マンには欧州部隊、日本部隊、北米部隊の一台ずつ、あわせて三台を投入するつもりであった。    
ニッサンの次世代スポーツカー・レース活動を担う主力戦闘機として期待されたR89Cの世界選手権戦デビューは、五月二十一日に開催された第二戦・ディジョン=プレノワ480キロレースであった。開幕戦の鈴鹿480キロレースまでには、開発がまに合わなかったのである。このレースで、ジュリアン・ベイリーとマーク・ブランデルの操縦するニッサンの車は、予選六位、決勝十五位の結果に終った。ル・マンを目して開発されたローダウンフォース仕様の車体に、応急的にハイダウンフォース用のパーツを取り付けて出走したことを考えると、まずまずの順位だった。    
   
06テスト仕様を再現したモデルであるため、テストカー特有の装備類もそのまま再現されている。大きな特徴がこの折れ曲がったアンテナで、おそらくは直線での空気抵抗を削減するための工夫と思われる。この特徴的なアンテナは実戦では使用されておらず、この仕様のみに見られる。発売時はこのアンテナが不良品でないことをしめす注意書きが各店舗にて掲示されていた。側面の白色と青色の塗り分け部分をデカール処理していることが写真からわかる (青色の下地が透けてしまっている部分がある)。    
   
ディジョン=プレノワのつぎのレースは、六月十日に開催されたル・マン二十四時間レースであった。この年のル・マン二十四時間レースは、世界選手権の主催者であるFISAとル・マン二十四時間レースの主催者であるACOの関係が悪化したため、世界選手権レースの開幕直前になって選手権シリーズからはずされてしまったが、世界選手権に参戦しているチームのほとんどが参加した。ニッサンは予定通り新型車を三台持ち込み、日本のニスモ、欧州のNME、北米のNPTIからそれぞれ一台ずつがエントリーした。この年のル・マンは前年優勝者であるTWR・ジャガーをはじめ、サウバー・メルセデス・ベンツ、トムス・トヨタ、マツダスピード、アストン・マーティンなどといったメーカー・ワークス・チームが数多く参戦し、優勝争いは激しい戦いになることが予想された。    
予選では、ニッサン・チームは欧州部隊が得た十二位が最高で、以下十五位に北米部隊、十九位に日本部隊が並んだ。しかし土曜日の午後四時にレースがはじまるがはやいが、欧州部隊の車に乗るジュリアン・ベイリーが猛然と飛び出していき、一周で五位にまでジャンプ・アップしたのである。ベイリーのすばらしい追撃はとどまるところを知らず、四周目には二台のジャガーのすぐ後方、三位にまで上がった。ニッサンのスタッフたちは予想外の快進撃によろこんだが、そのよろこびも長くは続かなかった。五周目のミュルサンヌ・コーナーで、前を行くジャガーの車を抜いて二位に上がろうと動いたベイリーが、そのジャガーと接触してスピンしたのである。このアクシデントでジャガーは修復のため長時間のピットインを余儀なくされ、優勝争いから脱落した。ジュリアン・ベイリーは損傷した車をなんとかピットまで持ってくることができたが、接触のダメージでサスペンションの取り付け部分が破損しているのが発見され、現場での修復は不可能と判断されたため、欧州部隊はたった五周でレースから姿を消してしまうことになった。    
ニッサン・R89Cの戦闘力は高く、欧州部隊の車がリタイヤしたのち、レースが五時間目を迎える午後九時ごろには、かわって日本部隊の車が四位に上がってきた。日本部隊の車は国内の耐久レースで豊富な実績を持ち、長年ニッサンのワークス・ドライバーとして活躍してきた星野一義、長谷見昌弘、鈴木利男の三人が操縦しており、派手な速さこそなかったが、堅調な走りで着実に順位を上げていたのである。この年のル・マンはメーカー・ワークス同士の全面戦争の様相を呈しており、各車ともスタートからハイペースでのバトルをつづけたため、アクシデントやトラブルで脱落する車が続出し、ただ走っているだけでもどんどん順位が上がっていったのであった。しかしこの車は一六七周目になって、エンジンとラジエーターをつなぐ冷却水のパイプが破損するトラブルが発生したのでリタイヤしてしまった。これでニッサン勢のうちコース上にとどまっているのは、北米ニッサン直属のレース部隊が走らせる一台のみとなった。この車も予選十五位から五位まで順位を上げていたが、夜が明けた日曜午前八時ごろ、レースが残り八時間ほどのところで、エンジン・オイルが漏れるトラブルを起こしてリタイヤした。けっきょく、ニッサンの新鋭戦闘機は一台たりとも完走できなかったのである。しかしエンジンも車体も完全な新型であることを考えると、むしろレース中にTWR・ジャガーやサウバー・メルセデス・ベンツに匹敵しうるペースを見せることができたことをよろこぶべきであった。    
   
08ラジエーターはフロントに置かれ、この部分から排出される空気の流れをダウンフォース獲得に利用するレイアウトとなっている。開口部の奥にあるラジエーターがしっかり再現されている。    
   
   
07側面を見る。排気口の上部に開いている穴は、モノコック左右に配置されたインタークーラーを通った冷却気を排出するための開口部である。この開口部はボディ上面に開けられることが多かったが、この車においてはリヤウィングへ向かう気流を乱すことをきらったためか、側面に向かって開口されている。前年のル・マンで優勝したTWR・ジャガー同様、前方投影面積を抑えるためタイヤは前後同径の17インチを採用し、また空気抵抗を極力減らすため後輪をカバーで覆っている。このカバーに関しては、当時は比較的一般的な手法ではあったが、ニッサンの林義正はタイヤやブレーキの過熱の原因になるとして懐疑的な目線をむけていた。リヤウィングも低ドラッグ化のため、大型の一枚翼 (塗り分けの関係で二枚翼にも見える) が車体と同じ高さにセットされている。    
   
ル・マン二十四時間レース後は、欧州のNMEが一台体制で参戦した世界選手権と、日本のニスモが二台体制で新車を投入した全日本選手権が、R89Cの主戦場となった。このうちヨーロッパでは、世界選手権レースの合間に参加したドイツ・スーパーカップ選手権第四戦・ADACディープホルツ飛行場レースでニッサンが優勝し、結果的にR89C唯一の勝利を記録した。世界選手権のほうでは、七月末に開催されたブランズハッチ480キロレースから大改造を施した改良型R89Cが投入された。この改良型は後輪を19インチまで大径化し、ウィングの取り付け位置を高くセットしてコーナリング速度を稼ぐ方向に設定されたもので、翌年に投入する予定の新型車の先行開発も兼ねていた。この改良が功を奏し、世界選手権後半戦のニッサンはドニントン・パークとスパ=フランコルシャンの各480キロレースで三位を獲得し、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは年間のチーム・ランキングで五位を得た。    
いっぽう日本では、状況はヨーロッパほど良くはなかった。ニッサン・R89Cはル・マン二十四時間レースの後、七月に開催された富士500マイルレースから二台体制で全日本選手権に投入されたが、参加した三レースすべてで、予選では良いタイムで走れても、決勝レースでは優勝はおろか表彰台にすら一度も登れなかったのである。予選ではデビュー・レースの富士500マイルレースで記録したポール・ポジションが、決勝レースでは第四戦・インターチャレンヂ富士1000キロレースの八位が最高位であった。エンジニアの林義正はこの状況の原因がローラ製シャシーの設計思想や製造品質にあると考え、シャシーの内製を模索するようになる。    
   
10ホイールはスピードライン製五本スポークの一体成型タイプを履いているが、この仕様のホイールはヨーロッパ方面でのみ使われていたもので、日本ではスピードスターホイール製のツーピース型・五本スポークのホイールが使われていた。前者は全面が黒く塗装されていたのに対し、後者はホイールリムの部分が銀メッキされていることが外観上の識別点であった。一般的に、R89Cのホイールというと後者が連想されることが多いようである。タイヤレターは「DUNLOP/DENLOC」となっているが、これは八八年用のものであり、八九年の実戦では「DUNLOP/SPORTS」に変更されていた (DENLOCはダンロップ製ランフラットタイヤの商品銘柄)。ホイールの奥に見えるディスク・ブレーキとそのキャリパーも精密に再現されている。    
   
03車輌後方から。車体中心部に見える銀色のチューブはエアジャッキである。リヤウィングの部品が全体的に厚ぼったいことや、ウィング本体と支柱の接着が若干甘いことなどが確認できる。支柱そのものは金属部品で薄く仕上げられている。現代のレーシングカーでは規則上装着できない、大容積のディフューザーが目を引く。「VRH35Z」と名付けられた新型エンジンは7600回転で約800馬力を発生するとされ、これにヒューランド製の五速ギヤボックスが組み合わされた。ターボ・チャージャーは石川島播磨重工業が製作したが、このターボ・チャージャーのルーツは八〇年代中頃にホンダのF1用エンジンのために設計された専用品にある。横長タイプのテール・ライトは初期型の特徴であり、ル・マン二十四時間レースではR89C-01シャシーは丸型のテール・ライトに交換されていた。    
   
09ニッサンは一九九〇年もローラ製シャシーでヨーロッパのレースをする方針が八九年中に決っていたが、ニッサンのエンジニアであった林義正や、八九年からニスモのチーム監督に着任した水野和敏らは、外部のコンストラクターに見切りをつけ、ニッサン側でシャシーを開発・製造する体制に移行することを水面下で決めていた。ローラがニッサンの注文を受けて製作した一連のグループCスポーツカーは、ニッサンのあらたな世界戦略の投影であったと同時に、同社のスポーツカー・レース活動が「中期」から「後期」、さらには「末期」へと歩みをすすめる過渡期の中で一瞬だけ見えた星のようでもあった。あるいは、前後長のみじかいキャビン・セクションやカバーで覆われた後輪、前後17インチ・タイヤの採用による低く構えたようなシルエットによって、この車を遠い未来から飛んできた宇宙船か何かであると見ることもできるかもしれない。ともあれ、一九八九年当時のスポーツカー・レースを追いかけていた人々にとっては、ニッサンは日本の自動車メーカー・ワークスの中でもっともおおきなリソースをつぎ込んでいる有力チームであり、そう遠からぬ未来にニッサンの車がル・マンで優勝するのは、きわめて現実的な予想であると考えられていた。おそらく林義正や水野和敏も、そう思っていたであろう。    
   
ニッサン・R89Cまたはローラ・T89/10は、一九八九年中に四台が製作された。    
シャシー・ナンバー01のニッサン・R89Cまたはローラ・T89/10は、一九八九年四月までに完成し、四月五日から八日にイギリス・スネッタートンで、同十五日から十八日にかけてアメリカ・アリゾナ州の試験施設で、五月四日にはフランスのディジョン=プレノワで、それぞれ試験走行をおこなったのち、一九八九年世界スポーツカー選手権第二戦・ディジョン=プレノワ480キロレースで実戦デビューし、十五位で完走した。ル・マン二十四時間レースでは予選十二位を獲得し、決勝レースでは五周でリタイヤしている。ル・マン後は世界選手権のブランズハッチ、ニュルブルグリンク、ドニントン・パークの各480キロレースにスペア・カーとして持ち込まれ、スパ=フランコルシャン480キロレースではレース・カーとして出走した。世界選手権レースの合間にドイツ・スーパーカップ選手権にも参戦し、こちらは第四戦ADACディープホルツ飛行場レースで優勝、第五戦ニュルブルグリンク・スーパースプリント・レースで三位に入っている。    
一九九〇年の世界スポーツカー選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースには、ニッサンで設計された新型車「R90CP」のサスペンション・パーツを移植され、比較試験のためR89C用のボディを架装した状態で出走した。その後同年のル・マン二十四時間レースでは、フランスのクラージュ・コンペティシオンに払い下げられ同チームから参戦しており、これが記録にある分としてはこの個体の最後のレースである。

« ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル (草稿) | トップページ | 先週末 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1322474/68197473

この記事へのトラックバック一覧です: ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「青の一番星」~:

« ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル (草稿) | トップページ | 先週末 »

フォト
無料ブログはココログ

リンクリスト

  • Kumaryoong's Paddock
    ソビエト時代の東側諸国におけるモータースポーツ活動について書かれているたいへん誰得なブログ (褒め言葉)。この辺の史料を日本語でまとめたサイトって史上初かもしれません。
  • 作った静止画一覧
    主にMMDで作った静止画を上げています。最近はこっちの頻度のほうが高いですね。
  • Racing Sports Cars
    ル・マンや旧WEC/WSPC/SWC、さらには旧WCMなど、スポーツカー・レースの参戦車両の膨大な資料写真を有するサイト。ドライバー別・車種別検索機能完備。F1もちょびっとだけあります(70年~82年)。
  • F1-Facts
    1950年イギリスGPより、F1に関する全記録を蒐集・公開しているサイト。各年度リザルトページからマシン一覧・写真ページに飛ぶことができます。あなたの知らない名車に出会えるかも。IEは右クリックでの画像保存が出来ないので、PCに保存する際はFireFoxなどを使用してください。
  • 誰得 (boulog)
    謎多きF1マニア(?)、bou_ckさんのブログ。「Wikipediaに載ってないような脳内資料置き場」を標榜するだけあって、その名に恥じぬディープ過ぎるF1マシン解説!Wikiどころか、ネット上にもそうそう無いようなマシンが目白押し。ちなみに「誰得」とは「誰が得するんだこんなもん」的意味合いのフレーズ。 2015.12.13追記: このほどYahooブログからfc2ブログに移転されました。
  • 作ったもの一覧。
    私の動画作品一覧です。気力の低下と更新頻度の低下はすべからく連動しています。
  • アカクテハヤイ フェラーリエフワン
    沖縄在住のフェラリスタ、Shigeoさんのブログ。1日1更新(原則)でフェラーリのさまざまな話題を取り扱います。レア物のフェラーリミニカー募集中だそうな。
  • METMANIA
    私の作るペーパークラフトの大半はここからきています。ヘルメットのぺパクラって多分ここにしかありません。