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2017年2月

2017年2月10日 (金)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「蒼い月」~

ニッサンが欧州における実働部隊であるニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパを通して、世界スポーツ・プロトタイプ選手権に参戦を開始したのは一九八九年のことであった。このときニッサンはそれまでのマーチ製シャシーにかえて、英国ローラ社に製作を委託した新型シャシーを使用していたが、翌一九九〇年も世界選手権レースならびにル・マン二十四時間レース (この年もル・マンは世界選手権から外されることが決定したため、メルセデスベンツの意向で世界選手権に専念したかったサウバーはル・マンを欠場した) では引き続きローラ・シャシーを使用することがニッサン全体の方針として決定していた。ローラ・ニッサンのシャシーはすでにデビュー年の一九八九年後半からさまざまな改造が施されており、一九九〇年用の新型車はこの改良された昨年型車をベースとして設計された。


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イグニッション・モデル製、品番0083「ニッサン・R90CK 1990 WSPC」レジン製1/43スケールモデルカーである。一九九〇年のどのレースの仕様であったかは明記されていないが、ヘッドライトカバーやフロントのエアロパーツの形状から一九九〇年シルバーストーン480キロレースに参戦した仕様と推測される。このレースのNr23はシャシー・ナンバーR90C-01の個体であり、シーズン開幕前の一九九〇年二月に豪州フィリップ・アイランド・サーキットでシェイクダウンをおこなった第一号シャシーである (このときのテストカー仕様もモデル化されている)。

一九九〇年にはローラ製車輌のほかに、ローラ・シャシーの品質管理や完成度に不満を持っていた林義正が前年型R89Cのモノコックをベースに独自開発した車輌が日本国内の選手権レースに投入されたため、ローラ製の世界選手権用車輌とそれをベースにした全日本選手権用車輌を区別する必要が生じた。前者はR90CK、後者はR90CPと呼ばれたが、ローラ側ではこの世界選手権用車輌を前年型の名称「R89C」からの連番である「R90C」と公的に呼称しており (R89C同様、ローラ社内の命名規則にしたがった「T90/10」という名称も記録には登場する)、そのため海外の文献ではこの車は単に「R90C」とされることも多い。R90CKのKは当時ローラの施設があった英国クランフィールド (Cranfield。英国モータースポーツ産業の首都ともいわれるミルトン・キーンズにほど近い地名。日本語版Wikipediaでは"クラウンフィールド"とされているが誤記ではないかと思われる) のCから音をとった、当時ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの本拠地があったミルトン・キーンズのKをとった、あるいは単に「改」の意味であるなどと言われており諸説あり*、一方でR90CPのPは日本のニスモが本拠地を置いている追浜 (Oppama) のPをとったとされている。ローラ側の認識としては、あくまでも世界選手権用の主力機「R90C」が本命であった。

R90C (以下、混乱を避けるためR90CKと表記する) の基本設計はR89C同様ローラ社のエリック・ブロードレイおよびアンディ・スクリヴェンによってなされ、ボディワークの設計は主にニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパが行った。R90CKはモノコックレベルではほとんどR89Cと差がなく、3.5リッター8気筒のVRH35Z型ターボ・エンジンや、ヒューランド社製五速ギヤボックスなどもR89Cからのキャリーオーバーである。エンジンは九〇年に向けてニッサン側でアップデートされ、出力は約40馬力ほどアップした840馬力前後を発生したと伝えられる。このエンジンは耐久性がきわめて高く、世界選手権レースのピットでニッサン・エンジンだけが特にオーバーホールされたようすもなく、うっすらとホコリを被っている様に外国人記者がおどろいたという口碑が残されているが、真偽のほどは定かではない。


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真横からR90CKを見る。フロントまわりからキャビン・セクションに至る造形はR89Cの影響が色濃く残されており、フロントウィンドウの傾斜角が強められた以外は、ほとんどR89C改のような設計となっている。一方リヤのデザインはロードラッグ一辺倒だったR89Cの流れを汲まず、タイヤカバーの装着を前提としないボディワークや高くマウントされたリヤウィングなど、比較的ダウンフォース重視のデザインであることがうかがえる。タイヤは前年に引き続きUKダンロップを使用。

前年後半にかけて、世界選手権でサウバー・メルセデスやヨースト・ポルシェと対等のパフォーマンスを発揮できるようになったニッサンは、翌一九九〇年を飛躍の年ととらえ、特にル・マン二十四時間レースにおける勝利を第一目標に据えた。この年のニッサンは世界選手権の短距離レースはあくまでもル・マンへ向けての予行演習と見ており、他チームのように積極的な予選順位争いや優勝争いを行わなかったことからも、ニッサンがル・マンをいかに重要視しているかが見て取れた。この年ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは前年までメルセデスベンツにいたデヴィッド・プライスやボブ・ベルを筆頭に、一年で世界選手権から撤退したアストンマーティンのワークス・チームなどから人材をかき集め、日本からは往年の名ドライバーである生沢徹がニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの総大将として派遣されて来るなど、人事面でも増強が図られ、ニッサン欧州部隊はF1チームなみの人的資源を入手することになった。特にサウバーと組んで前年の世界選手権を蹂躙したメルセデスベンツからプライスとベルを雇い入れたことで、耐久王サウバー・メルセデスの知見を学習できたことは、ニッサンにとってこのうえない利益であった。

一九九〇年の世界スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦は四月八日の鈴鹿480キロレースだったが、このレースまでには新車の開発・熟成がまに合わず、またヨーロッパから遠い日本までワークス・カーや人員を輸送するコストなどを勘案した結果、鈴鹿ではR90CPのみが走行した。ローラ製R90CKのデビュー戦は続く第二戦、四月二十九日のモンヅァ480キロレースで、このレースから欧州部隊は二台のレース・カーに一台のスペア・カーという三台体制を組んだ。モンヅァではジュリアン・ベイリー/ケニー・アチソンのNr23がなんとか七位で完走したが、ジャンフランコ・ブランカテリ/マーク・ブランデルのNr24はフィニッシュ間際に燃料切れでリタイヤしてしまった。続くシルバーストーンのレースではNr23がサスペンション・トラブル、Nr24がまたしてもフィニッシュ間際の燃料切れで二台ともリタイヤとなったが、ル・マン直前の第四戦スパ・フランコルシャンではNr23が三位表彰台を獲得し、ル・マン本番への期待を高めた。

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このモデルではいわゆる前期型のR90CKを再現しているが、判別点はいずれもフロント周りに集中している。まずヘッドライトがR89C後期型と同様のちいさな角型一灯であることからル・マン以前の仕様であると判別でき (ル・マン後の世界選手権レースではル・マン仕様と同じ丸型二灯のヘッドライトが装着されていた)、サイドミラーが赤色に塗装されていることからモンヅァを走った仕様ではないことが分る (モンヅァではサイドミラーが無塗装のままで黒かった) ため、シルバーストーンかスパ・フランコルシャンのいずれかの仕様となる。スパ・フランコルシャンのレースではニッサンは長いタイプのフロントアンダーパネルを使用していたため、フロントが短いモデルの仕様はシルバーストーン480キロレースの仕様であることが推理できた。フロントカウル上面のラジエーター排熱口やフロントウィンドウ両脇に設けられたインタークーラー用の吸気口など、多くの部分がR89Cと共通の設計であったことが分る。

一九九〇年のル・マン二十四時間レースは六月十六日の週末に行われた。すでに一九九〇年も世界チャンピオンは確実と見られていたサウバーは前述の通り欠場が決っており、ヨースト・ポルシェは他メーカーの新型車に太刀打ちできず次第に戦闘力を落としている状態で、日本のワークス・チームにとって敵は事実上TWR・ジャガーただ一チームのみという状況であったため、欧州部隊二台、北米部隊二台、日本のニスモが持ち込んだ一台の五台で挑むニッサンのル・マン初優勝に期待がかかった。
予選ではTWR・ジャガーとトムス・トヨタはレース重視の戦略として積極的なタイム・アタックをおこなわず、ヨースト・ポルシェは大改修をうけたコースで必要とされるダウンフォース量を見誤り、一台をクラッシュで全損させるなど苦戦した。新開発のパワフルな8気筒エンジンに助けられたニッサンは好タイムを連発したが、北米アンディアル社が特別にチューニングした3164ccのエンジンを搭載するブルン・モータースポーツのポルシェがその前に立ちはだかった。ニッサンは欧州部隊のスペアカーに予選アタック用のエンジンを一基積んでおり、マーク・ブランデルがブルンのタイムを逆転しようとコースインしていった。しかしタイム・アタックに入る直前になって、ターボの過給圧を制御するウェイストゲート・バルブがつっかえてしまい、過給圧が想定以上に上がっていることが判明した。これを知った日本人のエンジニアはすぐにブランデルをピットへ戻すよう指示を出させたが、デヴィッド・プライスはこの指令を出す際に「ついうっかり」無線のボタンを押し忘れたのである。何も知らないマーク・ブランデルはそのままタイム・アタックに飛び出して行った。ブランデルはパワーの怪物と化した車と格闘するように走り、ブルン・ポルシェを6秒も上回るタイムでポール・ポジションを奪還した。ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ最良のの時であった。
しかし予選後になって、このエンジンは思わぬトラブルを引き起こした。ニッサンの予選用エンジンはル・マンの一ヶ月ほど前に生沢徹の発案で製作されたが、時間がなかったため一基しか用意できなかった。ニッサン本社のモータースポーツ活動責任者であった町田収 (まちだ・おさむ) はニスモの水野和敏、北米部隊のキャス・カストナーにそれぞれ予選用エンジンの提供を打診したが、両チームの監督ともこれを断ったため、特別製エンジンの存在は予選が終るまで特に周知されていなかったのである。これを知った北米部隊のメカニックたちは激怒し、欧州部隊のメカニックとのあいだに暴力沙汰が発生するに至ったと伝わる。もともと組織内部での相互連携がとれていなかったニッサン艦隊の統率は、この一件で事実上崩壊した。


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R89Cと共に。デザインの継続性がなんとなく分る一枚である。ロードラッグ化を最重要目標とし、曲線的で優美なラインのR89Cに比べて、R90CKはよりダウンフォース重視の角ばったデザインをしているが、たとえば車体側面の処理などはほとんど変更されていない。ル・マン二十四時間レースが開催されるサルテ・サーキットが一九九〇年を前に改修され、長いストレートがシケインで分断されたことも影響していると思われる。赤・青・白の三色を配したワークス・カラーは、前年度から塗り分けが変更され、側面の白色が上面に移動している。

相互連絡に致命的な齟齬をかかえたまま、ニッサンは六月十六日・土曜日のル・マン決勝レースに臨んだ。午前のウォームアップ走行ではやくも欧州部隊のNr25が駆動系にトラブルを抱え込み、ギヤボックスが交換されたがフォーメーション・ラップ中にふたたびトラブルを起こして走行不能になってしまい、ニッサンはレースがスタートしないうちから一台をうしなってしまった。レースはスタート直後からポールポジションのNr24ニッサンと二位のブルン・ポルシェのトップ争いが繰り広げられたが、一時間ほどが経過した時点でまず北米部隊のNr84がホイールのトラブルから緊急ピットインを余儀なくされ、優勝争いからは一歩下がった。
スタートから四時間弱が経過した午後八時ごろ、ニッサン陣営にさらなる苦難がふりかかった。ジャンフランコ・ブランカテリの操縦するNr24ニッサンが、コントロールライン直後のゆるい右コーナーで周回遅れのトムス・トヨタと接触し、フロントカウルが大破したのである。この修復に時間を取られたNr24は優勝争いから完全に脱落し、かわって北米部隊のNr83がブルン・ポルシェやTWR・ジャガーを追う展開になった。Nr24はその後、深夜になってギヤボックス・ケーシングのトラブルでリタイヤし、この時点で欧州部隊が全滅したため、ニッサンの戦力は二台の北米部隊と一台の日本部隊に減った。そのうち北米部隊のNr84はさまざまなトラブルを抱え込んでペースが上げられず、日本のニスモが投入した独自設計のR90CPも熟成不足で期待されたパフォーマンスを発揮するに至らず、事実上Nr83が孤軍奮闘しているようなものだった。それでも北米部隊は持ち前の実戦勘と勝負強さでTWR・ジャガーに食らいつき、日曜日の日の出を迎えようとする午前五時すぎには、トップのジャガーと同一周回の二位を走っていた。日が昇ってから十分にペースアップできれば、TWR・ジャガーを逆転することも可能な位置であった。
そのNr83が突然ピットに飛び込んできたのは、サルテ・サーキットの空に夏至近くの太陽が昇りきった日曜日の朝のことであった。操縦していたチップ・ロビンソンが「コックピットに燃料の匂いが充満している」と訴えたのである。検査の結果、モノコック内部のゴム製燃料バッグが擦り切れて亀裂を生じ、そこから燃料が漏れていることが判明した。レース中にそんな大トラブルに対する処置が用意されているはずもなく、Nr83はまさにこれから追い上げにかかろうというところでリタイヤせざるを得なかった。もはやワークス・カーのうち生き残っているのは度重なるトラブルで挽回不可能なほど遅れてしまっている北米部隊のNr84と、こちらも万全ではない状態でトップテン圏内に踏みとどまる日本部隊のNr23だけであった。その後Nr23はレース終盤にギヤ・トラブルが発生しながらも、メカニックが十分強でギヤボックスを全交換するという離れ業を見せ、後方にいたトムス・トヨタが遅いペースで走り続けたことにも助けられ総合五位で完走した。もう一方のNr84は十七位だった。総合で五位というのは日本メーカーによるル・マン参戦の歴史の中では最高位の成績であったが、レース前の記者会見で総責任者の町田収が優勝を確約するほどの威勢の良さはどこにも見られなかった。ニッサンはふたたび敗れたのである。優勝したのは、四台中二台をトラブルでうしないながらも、残った二台で1-2フィニッシュを果たしたTWR・ジャガーだった。

ニッサンの命取りになったのは、レース前から問題となりつつもついに根本的な解決を見なかった、欧州部隊と北米部隊の反目だった。優勝争いをしていたニッサン車のうち、欧州部隊のNr24はギヤボックス・ケーシングの、北米部隊のNr83は燃料タンクのトラブルでそれぞれリタイヤした。しかし欧州部隊は改修されたサーキットの荒い路面が燃料タンクにダメージを与えることを、また北米部隊はヒューランド製のギヤボックス・ケーシングに構造上の欠陥があることをそれぞれ知っており、独自の対応策まで立てておきながら、この点を各ニッサン系チームに周知した形跡もなければ、活動の母体である日本のニスモに通達したようすもなかったのである (ニスモのR90CPはヒューランド製ではなく、ニッサン内製のギヤボックスを使用していた)。一九九〇年ル・マンにおけるニッサンは、連合軍の体裁は保っておきながら、実態としては三つの別々なチームの寄せ集めのようなものであった。この頃のニッサンは「同じ部署に天皇が三人いる」と言われたほどの異様な社内風紀で、何を発言するにも事前の根回しをやっておかなければならないという状況だったとの証言が存在するが、そんなニッサンの社風を鏡に写したような敗北だった。


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リヤ周りを見る。R89Cではリヤカウル後端に取り付けられていたテールライトは、R90CKではアンダーパネル側に移設されている。規則の変遷により現代では見られなくなった大容積のディフューザーがひときわ目を引く。このスケールにしては比較的細部まで再現されており、フロントの細かいエアロパーツなどは薄いエッチング・パーツで仕上げられているが、やはり14,904円という定価を考えると、再現性や工作精度などは手放しで値段相応と折り紙をつけることはできない。

ル・マン後の世界スポーツ・プロトタイプ選手権後半戦では、熟成の進んだR90CKは表彰台圏内に割り込むパフォーマンスを安定して見せられるようになっていった。サウバーの牙城は依然として崩し難かったが、それ以外のチームの中ではトップレベルの速さを維持できるまでに成長していたのである。後半戦に向けてニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパははNr23にベイリー/ブランデル、Nr24にブランカテリ/アチソンとドライバー登録を組み換えたが、第五戦ディジョン・プレノワではNr23が二台のサウバーに次ぐ三位、第六戦ニュルブルグリンクでは同じくNr23が五位、第七戦ドニントンではNr24が四位と、まずまずのリザルトを記録している。
第八戦モントリオールは、ニッサンが世界選手権レースでの優勝にもっとも近づいた一戦になった。レースが半分ほど経過した六十一周目に、ヘスス・パレハが操縦するブルン・ポルシェを、他車のグラウンド・エフェクトで巻き上げられて舞い上がったたマンホールの蓋が直撃するというめずらしいアクシデントが発生したのである。ポルシェはひとたまりもなくコース脇の壁にクラッシュし、車からは火の手が上がったが、ドライバーのパレハは幸運にも無傷で脱出した。この事故でコース上が危険な状態にあると判断されたため赤旗が出され、レースはそのまま終了となったが、この時点でNr23はトップのサウバーから6秒遅れの二位を走っており、それがそのまま最終順位になったのである。ニッサンはこの後の最終戦メキシコでもNr23が記録上二位でフィニッシュしているが、これは本来二位でフィニッシュしたサウバーの車が規定量以上の燃料を使ったために失格処分となり、三位だったニッサンが繰り上がったもので、優勝したもう一台のサウバーとは二周差があった。


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一九九〇年の世界選手権レースでは、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは一度も優勝できなかったが、後半戦に複数回の表彰台を獲得したので年間のチーム・ランキングでは前年の五位から躍進し三位を得た。二位のTWR・ジャガーとは4ポイント差だった。前年に比べて進歩が見られる内容だったが、ニッサンがもっとも重要視していたル・マン二十四時間レースで惨敗した事実は動かしようもなかった。一九九〇年は世界選手権レースが燃費競争として争われた最後の年だったが、ニッサンはこの年を最後にスポーツカーの世界選手権レースからは姿を消し、今日に至るまでル・マン二十四時間レース以外にその姿を見せていない。欧州と北米からそれぞれ最精鋭の部隊が出揃い、車体やエンジンが一線級の性能を有し、さらに有力なライバルチームが欠場していた一九九〇年のル・マンは、ニッサンにまわってきた千載一遇の、そして最後のチャンスであった。ニッサンはそれをものに出来なかったのである。

ニスモのチーフエンジニアとして、主に全日本選手権での戦いを指揮した水野和敏は、一九九〇年のル・マンについてつぎのような趣旨の回想をしている。
「(R90CPは) 一年目で熟成不足だったし、最初から勝てるとは思っていなかった」
「もし一九九一年のル・マンに出場していれば、優勝できたと思っている」
すこし穿った (ともすれば嫌味な) 見方をすれば、すでに一九九〇年の時点で日本側の林義正ひきいる実戦部隊にとって、欧州部隊はどうでもよい存在に成り下がっていたとも読み取れる。じっさい、ローラ社製のシャシーに不満を持ったニスモが独自に設計した、R90CPにはじまる日本製のニッサン・スポーツカーは、その後国内の選手権レースでトヨタを相手に優位に戦いを進め、特に車体やエンジンの性能では完全にトヨタを上回っていると考えられた。しかし一九九〇年以降のニッサンは、社内での勢力争いや内紛に明け暮れ、ニッサンの代表としてFISAや他メーカーの重鎮を相手に立ち回った町田収は本社を追い出され、翌年の世界選手権への参戦は不可能となった。一九九一年以降のニッサンは日本国内のスポーツカー・レースにのみ参戦し勝利を重ねたが、そこで得たものは「全日本チャンピオン」という、どこかむなしい響きの称号だけであった。かつてニッサンがあれほどがむしゃらに追い求めたル・マン制覇という目標は、ほかならぬニッサン自身の手によって打ち捨てられたのである。目指す理想郷の風景をみずから描いた絵を壁にかけておきながら、自分の手でその絵を破り捨ててしまったようなものであった。

ニッサン・R90Cまたはローラ・T90/10は、一九九〇年中に七台分のモノコックが製作され、うち六台が一九九〇年に実戦投入された。
シャシー・ナンバー01のニッサン・R90CKまたはローラ・T90/10は、一九九〇年二月までに完成し、オーストラリアのフィリップ・アイランド・サーキットや英国ドニントン・パーク・サーキットなどでシェイクダウン・テストを行ったと考えられる。一九九〇年四月二十九日の世界スポーツ・プロトタイプ選手権第二戦・モンヅァ480キロレースではNr23のスペア・カーとして持ち込まれ、続く第三戦・シルバーストーン480キロレースではNr23のレース・カーとして走行した。ル・マン二十四時間レースではNr24のスペア・カーとして予選用エンジンを搭載し、ポール・タイムを記録している。ル・マン後には世界選手権の第六戦ニュルブルグリンク、第七戦ドニントン・パークの各480キロレースに、それぞれNr24、Nr23のスペア・カーとして持ち込まれ、第八戦モントリオール、最終戦メキシコシティの各480キロレースではNr24のレース・カーとして、それぞれ五位、四位を記録した。最終戦の四位がこのシャシーの最高位であり、また記録にある分の最終レースでもある。

*: 「オートスポーツ」Nr.552 (1990.04.15号) において、Kは「改」の意味であるとする記述が見られる。日本では、ノバ・エンジニアリングが使用していたR90CベースのモノコックであるR91CKに限り「改」を意味するとの情報も敷衍しているが、どちらが正しいのかは不明である。

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