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2017年3月

2017年3月26日 (日)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「薄紅」~

一九九一年のスポーツカー・レース最高峰カテゴリは、それまでの「世界スポーツ・プロトタイプ選手権」(WSPC) から「スポーツカー世界選手権」 (SWC) へと名称が変更され、あわせてFISAが推しすすめていた3.5リッター自然吸気エンジン使用の新規定がとりいれられたが、さしあたって一九九一年度いっぱいは、旧規定にしたがってつくられた燃費レース対応の車も世界選手権に参加できることになった。ル・マン二十四時間レースを主目標とさだめていたポルシェ系のプライベート・チームや日本のマツダ・ワークスは旧規定車で選手権に参戦したが、そこには前年めざましい活躍を見せたニッサンの姿も、捲土重来を期するトヨタの姿もなかった。トヨタは新規定に対応した完全新設計の車を設計・開発するため、少なくともル・マンを含む一九九一年前半は世界選手権レースに参加しないことが決っていたが、開発が終りしだい、はやければ同年終盤にも選手権に復帰する意向があった。そしてじっさいに一九九一年のスポーツカー世界選手権最終戦・九州オートポリス430キロレースにおいて、トヨタの最新鋭戦闘機であるトヨタ・TS010が一台、翌年に向けてのテスト参戦として投入されたのである。しかしニッサンは戻ってこなかった。この年から世界選手権の一戦に復帰したル・マン二十四時間レースに参戦するには選手権全戦への参戦が規則上必須であり、ワークス・チームの参戦を確保したいFISAは世界選手権開幕戦・鈴鹿430キロレースの予選日までエントリー申請期限をのばすという異例の措置をとった。しかしニッサン側の使者はついにFISAと接触することはなく、この時点で一九九一年のル・マン二十四時間レースにニッサンはやって来ないことが決定したのである。前年のル・マンにおける蹉跌がニッサン側の態度を必要以上に慎重にさせたことと、ニッサン社内の不必要な政争にまみれた情勢が参戦を阻んだのであった。林義正、水野和敏が口をそろえて「参戦していれば絶対に勝てた」と断言するレースで勝ったのは、日本のマツダだった。二〇一七年三月現在、このときマツダが記録した優勝がル・マン二十四時間レースの歴史上唯一の日本車による優勝となっている。

こうして、一九九一年のニッサンは国際レースの舞台からしりぞき、日本国内のレースだけに参加することになった。当時日本ではスポーツカー・レースのローカル選手権である全日本スポーツ・プロトタイプカー耐久選手権 (JSPC) が開催されており、トヨタとニッサンの国内二大ワークスは、国内でのマーケティング効果に直結するこのカテゴリを世界選手権レースと同じくらい重要視していた。両ワークスとも選手権初期から自前のワークス・チーム以外に関係の深いプライベート・チームを複数抱えており、その関係はいわば大企業と提携会社のようなものであった。このうちニッサン系のプライベート・チームとして、JSPC末期まで参戦したほぼ唯一のチームが、花輪知夫 (はなわ・ともお) ひきいるルマン商会のレース部門、チーム・ル・マンであった。


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イグニッション・モデル製、品番0086「伊太利屋ニッサン・R91VP 1991 JSPC」レジン製1/43スケールモデルカーである。明記されてはいないが、おそらく和田孝夫/岡田秀樹/影山正彦の三人が操縦した一九九一年JSPC・鈴鹿1000キロレース仕様、シャシー・ナンバーR89C-03のニッサン・R90V (モデル名はR91VPとされているが、これはどうもエントリー書類上の登録名だったようである) を再現している。

チーム・ル・マンは一九七〇年代から富士グランチャンピオン・レースをはじめとする日本国内のさまざまなレースに参戦しており、全日本F2選手権では松本恵二を擁して活躍するなど、実力のあるプライベート・チームとして認識されていた。JSPCへの参戦開始は一九八四年のことで、社内の望月一男エンジニアが設計したオリジナル・シャシーに2リッターのニッサン・エンジンを搭載したちいさなスポーツカーを運用していたが、その後ニッサン製レーシング・エンジンがより大型・高出力の3リッター・エンジンになると、オリジナル・シャシーでは車体サイズや剛性が足りなくなったため、ニッサン・ワークスが使っていたマーチ製の汎用シャシーを払い下げてもらって運用していた。一九八九年後半からニッサンのワークス・チームが国内レースに最新型のローラ製シャシーを持ち込んだが、チーム・ル・マンはその翌年に型落ちとなったローラ・シャシーを一台購入し、ワークス・チームから一年遅れで長年使ってきたマーチ・シャシーと決別したのである。
チーム・ル・マンに払い下げられたのは、一九八九年に日本で走った二台のローラ・ニッサンのうち長谷見昌弘/アンダース・オロフソン組が使っていたシャシー・ナンバーR89C-03の車で、チームはこの車に一九九〇年の新型車用に設計されたサスペンション・パーツを組み込んでアップデートしたものを「R90V」という名称で走らせた。すでにニッサン系の国内プライベート・チームとしてはトップに近い地位を得ていたチーム・ル・マンは、翌一九九一年にニッサンから最新型のシャシーを一台供与されることになったが、同年開幕戦・富士500キロレースには新型車がまに合わなかったため、前年型R90Vのカラーリングを一九九一年仕様に塗り直して参戦した (このとき書類上の車輌名称も「R91V」に変更されている)。


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「R90V」という車名があたえられてはいるが、そのモノコックはまぎれもなくニッサン・ワークスが一九八九年に運用したローラ・R89Cのものである。チーム・ル・マンのスポーツカーは一九九〇年まで和田孝夫の個人スポンサーであったキャビン煙草の赤色に塗られていたが、一九九一年にあたらしいメイン・スポンサーとして婦人服ブランドの伊太利屋を獲得したため、この車も同社のイメージ・カラーであるピンクと白に塗られた。映り具合の関係で淡い色彩に見えるが、実物はかなり強烈なピンク色であり、レーシングカーとしてはめずらしい、派手で華やいだ印象を与える。

R90Vは一九九一年のJSPC開幕戦を走ったのちスペア・カーとなり、チーム・ル・マンの主力はニッサンから受領した最新型R91CPがひきついだ。R91CPはマーチやローラといった外部のコンストラクターではなく、ニッサン社内で白紙から設計されたものであり、その潜在能力はひじょうに高いと予想された。ほかのメーカー・ワークス同様に、ニッサンもまたプライベート・チームに対しては常に一年落ちの型落ちシャシーを供給していたが、一九九一年シーズンにむけて国内にセミ・ワークス待遇の直属部隊を設ける意図があった。ニッサンとのつながりが深かったプライベート・チームで、当時も参戦を続けていたのはチーム・ル・マンしかなかったため必然的にこのチームに白羽の矢が立てられたが、新型R91CPは優秀なシャシーらしいということをききつけたアメリカやヨーロッパのプライベート・チームもこの車を欲しがっており、それらをさしおいて国内のチームに新型車を供給するには何かしらの理由をつける必要があった。ニッサンがとった方法は、完全新設計であるR91CPを「一年落ちの旧型車であるR90CPの改造車」という名目でチーム・ル・マンに「払い下げる」ことであり、この車は対外的にはあくまで「R90CP・改」であると発表されていた。資金とデータのワークス・チームとの共有、および先行開発部品の耐久テストをおこなうことを条件に引き渡されたR91CPはチーム・ル・マンによって「R91VP」という車名を与えられ、リヤウィング周辺のパーツがチーム・ル・マン独自設計のものに交換された。
新型車「R91VP」は、JSPC第二戦・富士1000キロレースから投入された。しかし続く第三戦・富士500マイルレースにおいて、R91VPは和田孝夫の操縦中に第一コーナー手前でタイヤ・バーストに見舞われ、操縦不能となってスピンした。うしろを向いた車はそのまま宙に舞いあがり、つぎの瞬間木の葉落としのように地面に叩きつけられると、漏れた燃料に引火して炎に包まれながら横転し、ひっくり返った状態で第一コーナー先のエスケープ・ゾーンに停止した。和田孝夫が無傷で車から脱出できたのが信じられないくらいの大クラッシュだった。この事故で虎の子の新型車はたった二戦で廃車になってしまい、第四戦からチーム・ル・マンはスペアカーとしてしまってあった旧型のR90Vをふたたび引っ張り出さなければならなくなった。以後最終戦までチーム・ル・マンはR90Vでシーズンを戦ったが、この年を最後にチームがJSPCから撤退したため、JSPCを走ったチーム・ル・マンのスポーツカーとしては最後の車となった*。


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カウル形状などは、一九八九年最終盤に国内選手権で走った、ローラ・R89Cの改良型に準拠している。オリジナルの設計では前後17インチだったホイールは後輪が19インチに大径化され、リヤウィングは一枚式だったものが二枚式に変更されているが、いずれもオリジナルの設計ではル・マンのコースに合わせたロードラッグ志向だったものを、ダウンフォースが必要な中距離レース向けに最適化する改造であった。リヤウィングの支持部は、一九九〇年モデルではオリジナルの二本式マウントの外側に二枚の金属製補強部材をV字型に組み、独特な外観になっていたが、一九九一年になってこの補強部材は取り外されている。


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R90Vはチーム・ル・マンの手によって、改良型R89Cからさらに様々な改造が施されている。フロントまわりでは、ヘッドライトカバーの形状が変更されたことや、フロントフェンダー上に排熱用ルーバーが切られていること、フロントカウル中央部にある排熱用開口部のレイアウト変更 (スリットの数が増やされ、サイズも大型化されている)、前輪用ホイール・カバーの追加などがあげられるが、このうちフロントフェンダーのルーバー追加とカウル中央のスリット数追加は一九九一年用の改造である。タイヤはニッサン・ワークスが使っていたブリヂストンから横浜ゴムに変更されたが、これに合わせて一九九〇年シーズンの開幕前にアンダーステア軽減のための大径 (高扁平率) フロントタイヤを開発してもらい、このタイヤを収めるためにフロントフェンダーはオリジナルより若干膨らんでいる。カウルそのものは新造ではなく、オリジナルのローラ製カウルに手を加えて使っていたことが、一九九〇年一月のシェイクダウン・テストのようすを伝えるオートスポーツ誌の記事 (1990.03.01号/Nr.548) 掲載の写真より分る。また、細かい点ではあるが、実車の写真ではカウル本体と左右にとりつけられたダイヴプレーンの部品で、ピンク色の色調があきらかに違って見えるものが数葉残されている。おそらく材質の違いに起因するものと思われる。

一九九〇年のR90VはJSPC第二戦・富士1000キロレースでポール・ポジションを獲得するなど速さを見せたが、一九九一年は開幕戦・富士500キロレースでの四位と、第五戦・菅生500キロレースでの五位が唯一の完走記録で、ほかのレースではすべてリタイヤに終っている (第二戦・第三戦ではR91VPを運用)。この頃のJSPCは、優秀な市販シャシーであったポルシェ・962Cが老朽化により戦闘力を維持できなくなったことによって有力なプライベート・チームがあいついで撤退したり、ほかのカテゴリに転向していったせいで参戦台数の減少に歯止めがかからず、冒頭に述べたFISAのスポーツカー・レースに対する強権的な改革案とあいまって、メーカー・ワークス以外のチームにとっては参戦意義を見出すことがむずかしくなりつつあった。ニッサンのセミ・ワークス・チームという肩書を得たチーム・ル・マンであったが、この年限りでスポーツカー・レースの活動を一旦休止し、同時に参戦していた全日本F3000の活動に専念することになる。


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車体側面はほとんどR89Cのままだが、リヤカウル左右に排熱用ルーバーが追加されていることと、カウル側面の大型排熱口に仕切り板が設けられていることがR89Cとの主な差異である。カウル上のルーバーはモデルでは直接カウル上にスリットを開けているような表現がなされているが、実車ではスリットを開けた一枚板状のパーツをカウルにはめ込むような造形であったことが確認されている。アンテナはルーフ上から左右ドア前に移設されたが、これは一九九〇年序盤にR89C用カウルをとりつけて走ったワークス・チームのR90CPと共通する特徴である。


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スポーツカー世界選手権は一九九一年の一年間を旧規定車への猶予期間としたのち、一九九二年には予定通り新規定車のみを受け入れたが、全日本選手権はこの年も旧規定車による選手権レースを開催するという方針が決っていた。しかしプライベート・チームを引きとめることはできず、一九九二年にはチーム・ル・マンにかわってテイクワン・レーシングがニッサン系のプライベーターとして参戦したが、ワークス・カーを含めても毎レース十台前後のエントリーしか集まらないという惨状で、四十年続いたスポーツカーの世界選手権が消滅するのを見届けるように、全日本スポーツ・プロトタイプカー耐久選手権もこの年を最後に歴史書の一頁となった。ニッサンは本来目指していたはずの国際レース大会から逃避するように目をそむけ、日本国内のレースでトヨタのみと戦うことを選んだ結果、一九九〇年から三年連続でJSPCのメーカー部門におけるチャンピオンを獲得した。ふたつのワークス・チームのみが優勝をあらそう、まるで運動会か発表会のようなレースにも、「日本一」という称号が大好きな日本のファンは一定の支持をあたえた。かくのごとくどこか空虚な末期JSPCの中にあって、チーム・ル・マンのようなわずかに残ったプライベート・チームは、艶やかな造花の花束の中に人知れず紛れ込んだ名もない薄紅色の花のように、目を向ける者をひっそりと楽しませたのである。

シャシー・ナンバー03のニッサン・R89Cは、一九八九年のル・マン二十四時間で実戦デビューしたシャシーで、このとき星野/長谷見/鈴木の日本人ドライバーが操縦した。ル・マン後は全日本選手権に参戦し、インター・チャレンヂ富士1000キロレースの八位が最高位であった。
一九九〇年にはチーム・ル・マンに売却され、同チームによる改造を経て「R90V」と名付けられ、同年の全日本選手権全戦および世界選手権開幕戦・鈴鹿480キロレース、ル・マン二十四時間レースに参戦した。全日本選手権での最高位は富士500マイルレースの六位、WSPC鈴鹿とル・マン二十四時間レースではそれぞれアクシデントと点火系トラブルによりリタイヤしている。
一九九一年は全日本選手権の開幕戦および第四戦から第七戦まで参戦し、最高位は開幕戦・富士500キロレースの四位であった。同年最終戦・菅生500マイルレースが、この個体の最後のレースであった。
一九九二年のシーズン開幕前におこなわれた「モータースポーツ・コレクション '92」なるイベントにおいて、この個体がテイクワン・レーシングのカラーに塗装され展示されていたことが判明しているが、このときの車の所有権については判明していない。またイベントそのものに関しても、背後のパネルに東海テレビのロゴマークが見えることから中部地方でおこなわれたと推測されるが、それ以外の情報は開催時期に至るまでまったく不明である。

*: チーム・ル・マンのスポーツカー・レース活動そのものとしては、一九九三年の鈴鹿1000キロレースにおいてニスモと合同でニッサン・R92CPを出走させたのが最後であったが、このレースはJSPC消滅後の開催であり、したがって全日本選手権はかけられていない。

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