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2017年4月

2017年4月30日 (日)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「白い道」~

一九九一 (平3) 年から施行された改訂版のグループC規定は、それまで燃費競争を主軸とする耐久レースであったスポーツカー・レースを、純粋にコース上での速さのみを競う中距離レースへと変貌させた。これは当時のF1カーと共通の3.5リッター自然吸気エンジンの採用や、レース距離の430キロへの短縮、燃料使用量制限の撤廃によって実現されたが、その結果として旧グループC規定に合わせて製作されたスポーツカーは一夜にして戦闘力をうしない、また一年の猶予期間をへて一九九二年からは世界選手権レースへの参戦そのものが不可能となった。これにより多くのプライベート・チームがスポーツカー・レースから撤退したばかりか、新規定に合わせたF1規格のエンジンを開発する予算を拠出できないメーカー・ワークス・チームもあいついで姿を消し、もはやスポーツカーの世界選手権レースはその命運が決したも同然であった。一方日本国内においては、国内選手権のレースとして開催されていた全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権 (JSPC) が一九九二年以降も旧規定の車を受け入れることを決定しており、新旧規定の車はそれぞれ別のクラスに組み入れられ、各クラスごとにチャンピオン・タイトルが与えられることになっていた。これは主に新規定に対応した車輌の開発がまに合わないメーカー・ワークスに向けた措置であったが、同時に旧規定車を使うプライベート・チームが離れていくことを食い止める効果も期待されていた。しかし日本においても海外においても、そのようなプライベート・チームが使っていたのは基本的に市販されているポルシェのスポーツカーであり、日本においてはそのポルシェ車はすでにニッサン、トヨタ両メーカーが総力を挙げて開発したワークス・カーに太刀打ちできないことがはっきりしていた。そのようなチームがあいついで撤退したことで、JSPCも結果的には世界選手権と同様に、参戦台数の低下に歯止めがかからない状態におちいってしまったのである。   
   
   
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HPI製、品番8872「フロムA・R91CKニッサン 1992 Mine」レジン製1/43スケールモデルカーである。一九九二年JSPC最終戦・インターチャレンヂ美祢500キロレース仕様、マウロ・マルティニとハインツ・ハラルド・フレンツェンが操縦し三位で完走したノバ・ニッサンR91CKを再現している。シャシー・ナンバーはR90C-07であると思われる。   
   
名エンジニア・森脇基恭を擁するノバ・エンジニアリングは、一九九〇年までポルシェの車に独自の改造を施しながら全日本選手権に参戦していたが、すでに市販ポルシェの戦闘力がトヨタやニッサンにおよばないことを感じ取ると、ついに一九九〇年限りでポルシェ車に見切りをつけることを決意した。当時ノバはイギリスのシャシー・メーカーであるローラ社の日本代理店としても活動しており、F3000用のシャシーなどを輸入していた実績があったため、そのローラ社がニッサン用に設計した最新式のグループC規定シャシーを購入することができた。プライベーターであったノバはエンジンに関しても選択の自由があったが、ローラ社の車体はニッサン・エンジンに合わせて設計されており、エンジン供給の打診を受けたニッサン側もこれを快諾したため、ノバはローラ製シャシーにニッサン・エンジンという、ヨーロッパのニッサン・ワークス・チームと同じパッケージで全日本選手権を戦うことになった。   
   
ノバ・エンジニアリングは一九九〇年中にローラにシャシーを発注し、ローラは彼らのために一九九〇年仕様のニッサン・R90CK用モノコックを一台あたらしく製作した。これがシャシーナンバーR90C-07の個体であり、一九九〇年末にスペア・シャシーのR90C-06と共に日本へ輸送された。R90C-06は完成状態で発送されたが、新造シャシーであるR90C-07は分解状態で日本へ送られ、ノバ側で組み立てを行ったとされる。チームは一九九〇年十二月中からR90C-06でテスト走行を繰り返し、一九九一年シーズンの開幕にそなえた。これらの車体はニッサン・R90CKと共通であったものの、ノバ・エンジニアリングでの運用にあたって大径フロント・ブレーキ装着を目的とした前輪の18インチ化などの改造がほどこされたため、「R91CK」の車名が付与された。   
   
   
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前々回の記事で紹介したニッサン・R90CKと共通の車体をもつ本車輌だが、一見しただけではそれがまったく分らないほどに改造を重ねられている。前述の通り、一九九一年の全日本選手権開幕戦の時点ではほぼニッサン・R90CKに準拠した仕様で走ったが、その後チーム側で近代化改修を重ねたことにより、オリジナルのローラ・シャシーの面影は、わずかに操縦室周辺に見られるのみである。   
   
一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースでは、ノバ・ローラは優勝したニッサン・ワークスの車から遅れることわずか1秒の二位で完走し、ニッサン・エンジンの優位性とノバ・エンジニアリングの優秀さを証明してみせた。ノバ・ローラは第四戦・鈴鹿1000キロレース、第五戦・菅生500キロレースでも連続して二位に入賞し、これにより一時はドライバーズ・ランキングで首位から4ポイント差の二位につけ、最終的にはプライベート・チーム最上位である四位に食い込む活躍を見せるなど、その戦闘力は高かった。この競争力はノバ・エンジニアリングのすぐれた開発能力に裏打ちされたもので、その象徴が一九九一年第三戦・富士500マイルレースから投入された、新型の二段式リヤウィングであった。   
この独特な構造をしたリヤウィングは、もともとはTWR・ジャガーが一九九一年のスポーツカー世界選手権ではじめて実戦に投入したもので、下段のウィングを車体下部のディフューザー出口に近づけて配置することで車体下面からの空気の吸い出しを助け、より強いダウンフォースを発生させることを主目的としていた。従来の考え方では一枚のリヤウィングを車体後部の高い部分に固定し、これをある角度まで傾斜させることによりダウンフォースを発生していたが、この手法では発生するダウンフォースの量に比例して空気抵抗が増加するという弊害があった。しかし車体下面でより大きなダウンフォースを発生させることができれば、その分リヤウィングへの依存度は減少し、あまりウィング角を立てなくとも必要な量のダウンフォースを得ることができるのである。これにより、同じ量のダウンフォースを発生しながら空気抵抗は減少するため、直線での最高速度は従来にくらべて速くなり、スポーツカー・レースにおいて最重要とされる燃費性能も改善されることが予想された。そのうえリヤウィングを立てれば、従来の車と同じ量の空気抵抗に対してより大きなダウンフォースをかけられるため、コーナーが連続するサーキットでも有利になることが予想されたのである。このように多くのメリットを享受できるため、TWR・ジャガーがこのリヤウィングを投入したと見るや、世界選手権でのライバルであったプジョーは大急ぎでこれをコピーし、自分たちの車にも同じものを取り付けたほどであったが、一九九一年夏の時点では二段式リヤウィングを採用していたの車はこの二車種だけであり、むろん日本ではノバがはじめての採用例となった。ノバ・ローラの場合、二段式リヤウィングに交換したことにより、富士スピードウェイにおける最高速は時速18キロ分の改善が見られたとされる。   
   
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二段式リヤウィングを後方から見る。車体下部、ディフューザーの出口から吐き出された高速の気流が、下段ウィング下面の負圧によって加速され、車体からの吸い出し効果を高めることによって、床下で発生されるダウンフォース効果を高めている。一方上段のウィングは主に前後の空力荷重のバランスをとるために使用され、そのウィング角は従来のものに比べるとかなり寝た状態になっている。これにより少ない空気抵抗でより大きなダウンフォースを発生することが可能となる。実車ではウィング本体や翼端板はカーボン製、上下段ウィングの間に立っている二本の支柱は強度部材であるためか金属製であった。モデルでは樹脂様の材質で再現されているが、この個体では保管状態がまずかったのか製造時の個体差か、ウィングが若干だが弓なりにしなってしまっている。 

一九九一年シーズンを好調で終えたノバ・エンジニアリングがつぎに目を向けたのは、アメリカのデイトナ二十四時間レースであった。すでに前年から参戦を予定していた日本のニッサン・ワークス・チームと共に、ノバ・エンジニアリングも彼らのローラ・ニッサンを持ち込んだのである。事前のテスト走行では好タイムを記録したが、レースではワークス・チームが終始圧倒的な速さで戦場を支配したのとは裏腹に、ノバ・ローラはマイナー・トラブルの連続で順位を落とし、八位で完走するのがやっとだった。上位入賞は叶わなかったが、このレースはノバ・ローラの数少ない全日本選手権外での活動となった。 

全日本選手権では、一九九二年に入ってもノバ・ローラの勢いはそのままで、開幕戦・鈴鹿500キロレースで二位、第二戦・富士1000キロレースで三位、第三戦・富士500マイルレースでふたたび三位に入り、開幕戦から三戦連続で表彰台に登る活躍を見せた。またこの年の第三戦では、前年に続く二回目の大改修がほどこされ、それまで使われていたニッサン・R90CK後期型と同じ丸目四灯式ヘッドライトが取り外され、かわって操縦室前端部・フロントガラス内側に小型の二灯式ヘッドライトが設置された。これにより若干ながら車体が軽量化されたほか、重量物を車体中心付近に移動したことによる運動性の向上も見込まれた。以後ノバ・エンジニアリングは一九九二年最終戦までこの第二次改修後の姿でローラ・ニッサンを運用しており、本稿で取り上げているモデルもこの状態を再現している。 

 

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ヘッドライトが取り外されたことで全体の印象がおおきく変化し、二段式リヤウィングやハイダウンフォース・サーキットである美祢に合わせた二枚のフロントダイヴプレーンによって、ベース車輌よりも攻撃的なイメージを与えている。メインスポンサーにはアルバイト情報誌であるフロム・エーが付き、車体がイメージ・カラーである黄色一色で塗られているが、これも青色基調だったニッサン・ワークスとの鮮烈な対比を演出しており、いまなお全日本選手権末期のエントラントとして特に有名な一台である。フロントガラスの内側に、キャビン内部に設置された角型のヘッドライトが見える。リヤカウル形状はおおむねR90CKに準拠するが、後端部の造形に若干手が加えられている。   
   
全日本選手権の第三戦と第四戦の間に伝統の鈴鹿1000キロレースが開催されたが、この年の鈴鹿1000キロレースは世界スポーツカー選手権の一戦とされていたにもかかわらず、出走台数はわずか十一台というありさまで、それも鈴鹿のレースだけ賞典外の全日本選手権参戦車輌の出走を認めるという特例措置をうけてのもので、スポーツカー・レースの世界的な凋落を印象づける一戦になった。このとき全日本選手権のエントラントとして参戦した二台の車のうち一台がノバ・ローラで、旧規定車であったため燃費や給油速度、最低車重などに制約のある状態であったが、すぐれた車体やエンジン、信頼性を武器に新規定の車に割って入り、四位で完走している。   
ノバ・ローラは全日本選手権第四戦・菅生500キロレースで六位完走、第五戦・富士1000キロレースではスピンによりリタイヤに終った。つづく最終戦・インターチャレンヂ美祢500キロレースは、一九九二年のJSPC最終戦であると同時に、一九八三年に発足し十年間にわたって開催されてきた全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権の最後のレースでもあった。すでに世界的なスポーツカー・レースの衰退は隠すべくもなく、世界スポーツカー選手権はエントリー台数の不足から翌年以降の開催中止が決定しており、全日本選手権も一九九三年以降はインター・サーキット・リーグ (ICL) と名を変え、スポーツカーとGTカーの混走レースの体裁をとることで、なんとかその命脈を保とうとしていた。この最終戦でノバ・ローラは三位を獲得し、JSPC最後のレースを表彰台で締めくくった。   
   
   
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キャビンセクションを見る。フロントカウル中央にあるラジエーターの排熱口や、その両脇にあるインタークーラー用開口部などは、ベース車両であるニッサン・R90CKの面影をよくとどめていることが分る。タイヤは国内ワークス・チーム同様ブリヂストンを使用した。   
   
   
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ベースとなったニッサン・R90CKとの側面形の比較。ノバ・R91CKではリヤカウル後端が斜め下向きに切り落とされているが、これはディフューザー部からの空気の引き抜きを受け持つ下段ウィングへ効果的に空気を流すための処理である。リヤのブレーキダクトはオリジナルより大型化されている。   
   
全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権は一九九二年をもって終了したが、ノバ・ローラがさいごの戦いを終えるのはもうすこし先のことだった。一九九三年、全日本選手権のあとをついで発足するはずだったインター・サーキット・リーグは、折からの不況も重なってエントリー台数がまったく集まらず、予定されていたレースはことごとく中止の憂き目にあっていたが、長い伝統のある鈴鹿1000キロレースだけは、海外からも各クラスのエントラントをかき集めた結果、なんとか開催できる見通しが立っていた。このレースに、最後となる近代化改修をほどこされ、「ノバ・R93CK」と名付けられたノバ・ローラが、たった二台のグループCスポーツカーのうち一台として参戦していたのである。いま一台は、ニッサン・ワークスとルマン商会が合同でエントリーしたニッサン・R92CPで、一九九二年のJSPCで使われていたワークス・カーそのものであった。このときノバ・ローラは、空力性能の向上を目的としたボディ形状の改修や30キロにおよぶ車体の軽量化を中心としたアップデートを受けており、一連のローラ・ニッサン車の最終仕様というべき状態に仕上げられていた。特に目を引いたのは、左右ドアの開口部を窓部分から上だけにしたことで、これにより車体下半分には開口部が存在しなくなり、車体の剛性に寄与するというものであったが、このように左右の窓のみを開口させて乗降口とする手法も、一九九一年にTWR・ジャガーがはじめてスポーツカーに使った方法だった。   
予選で一秒差をつけてポール・ポジションを獲得したノバ・ローラは、レースがスタートするとすばらしいペースで先を急ぎ、チーム・ル・マンのニッサン・R92CPが一分前後の差であとを追う展開になった。ノバ・ローラは快調に飛ばし続け、一七一周のレースが半分をすぎる頃には二位との差は二周にまでひらいた。しかしその直後から、悠々と逃げ切るかと思われたノバ・ローラに、立て続けに苦難が降りかかったのである。まず一〇九周目に、助手席側の開口窓が外れかかっていることが判明したためピットインし、この部分をテープで固定してふたたびコースインしたが、ほどなくして一一七周目にまったく同じトラブルに見舞われた。この一連の緊急修理のため二周あったチーム・ル・マン・ニッサンとの差は一周にまで縮まったが、まだ戦況はノバ・ローラに有利であった。一三二周目にこんどは運転席側の窓ガラスが外れかかり、ふたたび予定外の修復作業を強いられた結果、二位との差はついに20秒にまで詰まったが、その直後、一四〇周目にこんどは追撃中のチーム・ル・マン・ニッサンが勢い余ってスピンし、差はふたたび一周ほどにひらいたため、ノバ・エンジニアリングのスタッフは一息つくことができた。このままピットインごとに左右の窓ガラスをテープで補強しながら走れば、まだ勝つチャンスはじゅうぶんあった。   
一四五周目、ノバ・ローラ最後のピットインでさらなる不運が襲った。左フロント・タイヤを固定するホイール・ナットが想定以上の熱膨張を起こして固着してしまい、取り外せなくなってしまったのである。だめになったナットをようやく外してタイヤを交換し、黄色いノバ・ローラが猛然とピットレーンを加速していく頃には、チーム・ル・マンのニッサン・R92CPはコース中ほどにさしかかっていた。スタートから一四五周にわたって首位を死守してきたノバ・ローラが、その座から陥落した瞬間であった。しかしチーム・ル・マン・ニッサンはまだ給油のためのピットストップを一回しなければならず、それまでにノバ・ローラが差をじゅうぶん縮めれば、再逆転の可能性はまだあった。ノバ・ローラのマウロ・マルティニは思い切りアクセルを踏み、一周につき一秒以上を詰める猛攻撃を開始した。チーム・ル・マン・ニッサンが逃げ切れるかどうかは微妙なところだった。   
この日最後の災厄がノバ・ローラを襲ったのは、すでにサーキットに西日が傾き始めた一五四周目だった。最後のピット作業で補強しておいたはずの運転席側ドアの固定が、またしてもゆるみ始めたのである。ピットクルーたちが最後の緊急修理を終えてマルティニを送り出したときには、ショッキング・ピンクに塗られたチーム・ル・マン・ニッサンは一周さきを走っていた。コースに復帰したノバ・ローラはまったくペースが上がらず、最終的にトップから二周遅れの二位で完走することしかできなかった。さいごの追撃を担当したマウロ・マルティニは、がっくり肩をうなだれてつぎのように言った。   
「勝てると思っていただけにとてもがっかりしている。残念で言葉もないよ」   
鈴鹿1000キロレースの恒例行事である大花火大会が闇につつまれたコースを照らすなかで、日本におけるグループCスポーツカーによるレースは幕を閉じた。くしくも、このレースに参加した二台のスポーツカーはともにニッサンの車であり、その前年に全日本選手権のレースで火花を散らし合った二台だった。   
   
   
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ノバ・エンジニアリングが三年間にわたって運用したローラ・ニッサンは、その戦歴のなかに一度のシリーズ・チャンピオンもなければ、一回の勝利すらも刻まれてはいない。しかしあざやかな黄色のボディカラーと、度重なる改修による異様なシルエットは、当時を知る人々の中にはいまなお鮮烈な印象を残しており、最末期の全日本選手権や、当時におけるスポーツカー・レースそのものの話題に無くてはならない存在になっている。使い古されたことばで表すなら、「記録よりも記憶に残る」ような役者であった。   
   
一九九三年を最後に、ニッサン・ワークスによるスポーツカー・レース活動はいったん途絶えた。ニッサンがふたたび国際レースにスポーツカーで参戦したのは一九九七年のことであり、かつてジャガーのスポーツカーを製作していたイギリスのTWRに開発を委託したシャシーで一九九八年までル・マン二十四時間レースに出走し、一九九九年にはアメリカ・Gフォース (現・パノス) 社製のシャシーにかえて参戦したが、この年限りでスポーツカー・レースからふたたび撤退し、以後は日本国内のGTレースなどに専念する状態がながく続いた。このときの最高位は一九九八年のル・マンで記録した三位であった。   
ニッサンが突如、LMP1-H規定の新型スポーツカーで世界耐久選手権と、その一戦であるル・マン二十四時間レースへの復帰を発表したのは二〇一四年のことであり、翌二〇一五年からの世界選手権へのフル参戦が予定されていた。ニッサンが最後に自社の名を冠したスポーツカーを走らせてから、十六年が経っていた。ニッサンが市販している高性能スポーツ・クーペの名をとって「GT-R LMニスモ」と名付けられた新型車は、エンジンを車体前半部に置くという独創的なレイアウトゆえ開発作業が遅れた結果、世界選手権の前半戦を欠場せざるを得なくなり、ル・マン二十四時間レースがデビュー・レースとなった。このレースでニッサンは二台が熟成不足に起因するトラブルでリタイヤし、残る一台はどうにか最後まで走り切ったが、周回数不足により順位は与えられなかった。当初ニッサンは新車の熟成テストを急ぎ、二〇一五年後半か二〇一六年にはレースに復帰する予定であった。しかし同年十二月中旬、北米のテストコースで翌年に向けた試験走行を行ったわずか数日後に、何の前触れもなくアメリカ・インディアナポリスにある本拠地が閉鎖され、すべてのスタッフは解雇通知もなしに施設から締め出された。こうして、ニッサンのル・マン・プロジェクトは唐突にその幕を閉じたのである。以後今日にいたるまで、ニッサンはル・マン二十四時間レースをふくめたいかなるスポーツカー・レースにも参戦しておらず、またそれらのレースに参戦する競技用のスポーツカーを作ってもいない。   
   
シャシー・ナンバーR90C-07のニッサン・R90CKは、一九九〇年十二月までに日本に輸送され、発注元であるノバ・エンジニアリングによって日本国内で組立作業がおこなわれた。ノバ・エンジニアリングは同時にワークス・チームで使用していたR90C-06も取得しており、このシャシーも実際のレースで走行した形跡がある (展示されていた同車を検分したところ、一九九一年鈴鹿1000キロレースの車検証と、一九九二年デイトナ二十四時間レース用と思しきデイトナ・スピードウェイのコース図が車内に存在したため、すくなくともこの二レースに関してはR90C-06を使用したと考えられる) が、正確な運用履歴はいまだ判明していない。

(了)

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