カテゴリー「ポルシェ962C」の記事

2015年12月28日 (月)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「終章・1994」

中国・晩唐の詩人李商隠の書き残した詩に、「登楽遊園」という作品がある。むすびの二句はつぎのように書かれている。   
「夕陽無限好/只是近黄昏」   
夕陽の落ちる景色はじつにみごとなものだが、日の入りが近いから長くは見ていられないのが口惜しい、という内容である。夕陽のうつくしさを歌った詩は多く書かれているが、思うに夕陽の風景というのは単純な景色のよさだけではなく、一日の終りに太陽が沈みゆくその瞬間に、空一面を橙色に染め上げる場面の壮大さ、そしてその場面がほんの一瞬しか見られないことの儚さが、人びとに感慨をあたえるのだろう。   
   
1993年シーズンをもって、グループCのスポーツカーが走るレースは地上から消滅した。かつて世界中のサーキットで覇を競ったポルシェ、ジャガー、ベンツ、ニッサンらワークス・カーのエンジン音は跡形もなく絶え、ヨーロッパにおいては市販車改造のGTカーが、北米大陸においては既存のスポーツカーをオープン・トップ化し、さまざまな改造によってコストを抑止した「ワールド・スポーツ・カー」規定の車が、それぞれ次の世代の主役を担うものと予想された。1993年にはル・マンをいろどる脇役の立場にすぎなかったGTカーは、翌1994年には早くもレースの主役となることが予想されていた。しかし、それまでプライベート・チームの走らせるスポーツカーが埋めていた枠をGTカーで埋め直すには時間がかかることが予想されたため、1994年の一年間は移行期間とされ、さだめられた改造を施せば、1990年時点におけるグループC規定に準拠したスポーツカーも出走することが可能となった。具体的な改造内容は燃料タンク容量の縮小、前後車軸間のフラットボトム化、直径33.4mmの吸気リストリクター装着 (1993年は直径35.7mmであった) によるエンジンのパワーダウンが中心であった。前年のル・マンで旧規定スポーツカーを走らせ、クラス優勝を果たしたサード・トヨタとトラスト・トヨタは、このクラスにあつかい慣れたスポーツカーを持ち込むことにした。目標は総合優勝だった。いっぽうのGTカー・クラスは、主にイタリアのフェラーリやフランスのヴェンチュリーが製作したスーパーカーにレース向けの改造を施した車が主役となり、このほかアメリカのIMSAレースから招待されたGTSクラスの車も少数ながら参加した。これらGTカーは、前述の規定に合致するよう改造されたスポーツカーにくらべても、なお総合優勝の可能性は低いと見られていた。   
   
1993年のフランクフルト・モーターショーで、ドイツのある自動車メーカーがエキゾチックなスーパー・カーを発表した。メーカーの名はダウアー・シュポルトヴァーゲンといったが、この組織はかつてヨッヘン・ダウアー・レーシングを名乗り、ポルシェ962Cでスポーツカー・レースに参加していたレーシング・チームそのものであった。服飾ビジネスで財を成したヨッヘン・ダウアーは、1991年にみずからのレーシング・チームの活動を終了した後、ポルシェ962Cをベースにしたロードゴーイング・スポーツカーの製作を計画し、実際にポルシェから962C用のモノコックや各種パーツを購入し、ドイツ国内の法規を満足する改造を施したものを「ダウアー962」として市販したのである。この市販第一号車が展示されたのであったが、ポルシェのモータースポーツ部門がこの車に注目した。もとがレーシング・カーとはいえ、ダウアー962は明らかに市販乗用車であり、したがってこの車の改造車はGTカーとしてさまざまなレースにエントリーすることができた。当時のGTカーの規則では、一台でも市販されている車であれば、その車を改造してGTカー・カテゴリに参戦させることが可能だったからである。ポルシェの目はル・マンに向いていた。ポルシェが最後にル・マンで優勝してから、すでに七年の歳月がすぎていた。ポルシェ製スポーツカーがその絶頂期にあった頃デビューし、以後ポルシェという大帝国の衰退、そしてスポーツカー・レースそのものの凋落と終焉までを見届けた962Cの、その長く苦しい冒険旅行を締めくくるのに、ル・マンにおける勝利は最高級の贈り物となるはずであった。こうして、962Cの最後のレースは、1994年のル・マン二十四時間レースに定められた。   
   
9401スパークモデル製1/43スケール、シャシー・ナンバー962-176→GT003のダウアー962GT LMである。Nr.36はヤニック・ダルマス/マウロ・バルディ/ハーレイ・ヘイウッドにステアリングを託された。同社のル・マン優勝車シリーズの一台として、特製のスリーブ・ケースに収められ販売されているもので、「43LM94」という特別な品番が与えられている。外見的には、かつてル・マンをはじめとする世界中のスポーツカー・レースを席巻したポルシェ956/962Cの面影を残してはいるものの、外装パーツのほとんどは市販化にあたって新造されたものであった。市販車をベースにヨースト・レーシングがレース向けの改造を施し、前後カウルやリヤウィングの配置などが市販車とはことなっている。豪奢な内装は軽量化のためとりはずされ、車体もレーシング・カラーに塗装されてはいるが、フロントフェンダー上に移設されたサイドミラーの形状などに、市販乗用車としての名残を見出すことができる。   

   
1994年のル・マン二十四時間レースは、早い段階から優勝争いはトヨタとポルシェの両者が主役になるだろうと予想された。トヨタ陣営は1990年中盤から投入した、排気量3576ccのV8ターボ・エンジン「R36V」を搭載する94C-Vを、サードとトラストが一台ずつ持ち込んだ。車のベースは1991年から投入された91C-Vでモノコックも同一のものであったが、このレースに合わせて各種の改造がなされ、約550馬力を発生した。いっぽうのポルシェは、ヨースト・レーシングを中心に組織された「ル・マン・ポルシェ・チーム」名義で、二台のダウアー962GTを投入した。エンジンは市販バージョンが搭載していたものと同じ、962C用エンジンがベースの2994ccの水平対向6気筒ターボ・エンジンで、GTカー・クラスとスポーツカー・クラスの規則の違いによりこちらは約600馬力を発生することができた。両者を比較すると、タイヤの耐久性とコーナリング速度においてはトヨタの旧規定スポーツカーがまさり、いっぽうのポルシェは直線でのスピード、燃料搭載量、連続周回可能な周回数にすぐれていた。   
   
   
9402フロントカウルを見ると、オリジナルの962Cと共通な要素は丸型四灯式のヘッドライト配置くらいのものであることがわかる。ノーズは空気抵抗低減のため、オリジナルの962Cよりも滑らかな曲線状の形状を持つ。ヘッドライトの下には横長型のターニング・インジケーター・ランプが取り付けられているが、これもダウアー962GTの市販車としてのルーツを想起させる。市販のダウアー962GTのモノコックはポルシェ962C用のアルミ板金製モノコックをそのまま流用しており、ル・マンに持ち込まれた二台のレーシング・カーと一台のスペア・カーは、いずれも純正962C用のモノコックからロードゴーイング・カーとして製作され、その後レーシングカーにふたたび改造された経緯を持つ。   

   
予選では、トヨタの二台が四位/八位、ポルシェの二台が五位/七位にそれぞれ入った。レースはこの四台がまっさきに飛び出し、はげしいトップ争いが繰り広げられた。コース上における速さはポルシェが上回り、トヨタはその差をタイヤ交換回数を減らすことによって詰めた。序盤はポルシェ優位のままレースが進行したが、その後二台のポルシェはあいついでトラブルに見舞われ、信頼性にすぐれるトヨタにリードを明け渡すことになった。日付が変わる頃には、トラスト、サードの順でトヨタが第一位・第二位を独占し、ポルシェを引き離しはじめた。ダウアー・ポルシェは、市販車を改造したGTカーとしてはまちがいなく無敵の存在だったが、規則によりスピードを抑止されているとはいえレース専用に製作されたスポーツカーの前では、明確な優位はなにひとつ持っていなかった。東の空が明るみはじめた午前四時すぎになって、トラスト車のギヤボックスに故障が発生し、ピットでギヤボックスを交換しなければならなくなったため、サード車がかわってトップに立った。このサード車を直接追撃できる位置にいたのはNr.36のポルシェだったが、レース中盤にドライブシャフトを破損したためトヨタに三周以上も差をつけられており、よほどの幸運がなければ挽回は不可能と思われた。   
   

9403ロードラッグ化のためリヤウィングはボディとほぼ同じ高さに取り付けられている。ウィング下面に向かってボディワークは急な下り坂を形成し、この部分に気流を導いてダウンフォース効率を向上させている。手前の黒色に塗られた部分がキャビンだが、中央部に「凹」字様のくぼみが設けられている。おそらく前方投影面積をちいさくすると同時に、リヤウィングに効率よく気流を流し込むための処理と思われる。   

   
9405リヤエンドを見る。この部分の造形もオリジナルの962Cとは似ても似つかないものとなっており、わずかに低くマウントされたリヤウィングと横長の端面に開けられた開口部だけが、オリジナルと共通する意匠となっている。矩形の大型テールライトは汎用品か市販車用パーツを流用している可能性があるが定かではない。   

   
レースが残り九十分を迎えても、トヨタのリードは崩れなかった。もはやポルシェは追撃をあきらめなければならないだろうと思われたそのとき、トップを走るサード・トヨタがピットロード出口で突如ストップした。シフトリンケージのトラブルであった。シフトレバーとギヤボックスをつなぐ棒状の部品が折損したのである。観客は総立ちになった。しかしサードはここまで来てリタイヤで終るつもりはまったくなかった。ドライバーのジェフ・クロスノフはそのままスロー走行でほぼ一周を走りきり、ふたたびピットにもどってきたのである。その場にいたカメラマンやジャーナリスト、レポーター、さらには他チームのメカニックまでもが遠巻きに見守る中、サードのピットでは決死の修理がはじめられた。サード・トヨタが修復作業とドライバー交代を完了し、万雷の拍手喝采に送り出されてふたたびコースに戻ったとき、トップを走っていたのはNr.36のポルシェであった。サード・トヨタは三位だった。クロスノフから車をひきついだエディ・アーバインはギヤボックスの状態が万全ではない車で猛烈なアタックをかけ、最後の最後でポルシェの1-2体制を崩すことに成功したが、レースはそこで終りだった。ポルシェ962Cは、かつてグループCの時代をともに戦い抜いたトヨタとの最後の決闘を、これ以上ないほどのドラマチックな展開のすえ制したのである。   
   

 

9406日の沈まぬはずの大帝国に生を受けたポルシェ962Cは、その後ライバルチームの猛攻や時流の劇的な変化により、大帝国が砂上の楼閣のごとく土台ごと崩れ落ちる中で、沈んでゆく太陽を追って長い長い旅を続けた。その旅のまさに終らんとする瞬間、太陽が西の山間に沈むとき、その夕陽は地上でもっともうつくしい景色であったに違いない。惜しむらくは、うつくしい夕陽と同じように、ポルシェ962Cが散り際に放ったまばゆい光もまた、長くは見られなかったことである。二台のダウアー・ポルシェは、同年八月に開催された鈴鹿1000キロ・レースに参戦し、サード・トヨタとふたたび相まみえる予定であったが、この来日はその後キャンセルされた。理由は明らかになっていない。1995年からGTカー・カテゴリの規則は書き換えられ、ダウアーのような極少数生産のエキゾチック・カーは事実上締め出された。このことにより、ダウアー962GT LMはたった一度のレースにのみ出走し、そのたった一度のレースで勝利をおさめるという、レーシングカーとしてはきわめて特異な生涯をおくることになった。   
   
「新たなヒカリに会いに行こう―」   
2015年に放映されたアニメ作品「アイドルマスター シンデレラガールズ」の主題歌「Shine!!」の歌い出しは、以上のようなフレーズである。劇中でさまざまな挑戦に直面しながら、ひとつひとつそれらを克服し乗り越え、それぞれのまっすぐな夢に向き合ってゆく登場人物たちのように、ポルシェもまたメーカーの原点であるサーキットに、新たなヒカリを求め続けた。1996年と1997年には、ヨースト・レーシングがポルシェ・エンジンを搭載するワールド・スポーツ・カー規定の車でル・マン二十四時間レース連覇を果たし、翌1998年にはポルシェ・ワークス・チームが新開発のポルシェ911 GT1でル・マンを制し、ポルシェ・エンジンの三連覇を完成させた。この1998年に優勝記録を十五に伸ばしたのち、ポルシェはながらくル・マンの総合優勝からは遠ざかっていた。しかし2014年、ポルシェは突如としてル・マン二十四時間レースをふくむ世界耐久選手権に復帰すると、2015年には早くも圧倒的な強さでル・マンの優勝トロフィーを奪還した。ポルシェ962Cがその一生涯をかけて歩んだ旅路が、今日のポルシェの礎を築いたことは、想像に難くない。 ポルシェ962/C用として製作されたモノコック・タブは、レーシング・オン第466号掲載の「特集・ポルシェ962C」内付表によると (重複、ナンバー変更などを除外すれば)、130台が製作されたとされる。現存するポルシェ962/Cの個体は、博物館に陳列されたり、個人のコレクターの管理下に置かれているもののほか、ヒストリックカー・レースに参加している個体も存在する。すでに初登場から三十年が経過したいま、世界各地に散逸した「彼女たち」は、いずれも苛烈な競争とは無縁の、しずかな余生を過ごしている。
   
シャシー・ナンバー962-176のポルシェ962Cは、1990年にヨッヘン・ダウアーによって発注され米・ファブカー社によって製作されたモノコックをもつシャシーで、当初市販のダウアー962GTに使用される予定であった。1994年のル・マン二十四時間レースに向けて、ほかの二台 (962-169および962-173) とともにGT1規定を満足するための改造を施され、同時に新シャシー・ナンバー「GT003」を与えられている。このレースに参加し、優勝したのが唯一の実戦経験であった。ちなみにル・マンにスペア・カーとして持ち込まれたシャシー・ナンバー962-169→GT001の個体は、ほかならぬダウアー962GTの量産第一号車である。   
   
(了)

2015年12月 9日 (水)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1992/1993」

エドワード・ブルワー・リットン男爵は、19世紀イギリスの政治家であると同時に劇作家としても名高く、有名な「ペンは剣より強し」のフレーズは、彼が1839年に執筆した戯曲「リシュリュー」が初出である。リットン男爵の著作のひとつに「ポンペイ最後の日」という小説がある。主人公である青年貴族グローカスと、悪役であるエジプトの僧正アーバセスがイタリアのポンペイで対決するが、物語のクライマックスでヴェスヴィオ火山が噴火しポンペイの街が灰に包まれる、というあらすじの物語で、当時の社会で人気を博しベストセラーになった作品である。登場人物らの設定や中心となるドラマはもちろん虚構だが、実際に西暦79年に発生したヴェスヴィオ火山の大噴火と、それによる古代都市ポンペイの壊滅に材を取っており、物語はおおむね当時の時代背景をよく描いている。作中ではポンペイはローマ帝国領内でも指折りの繁栄を謳歌する港湾都市・商業都市として描写され、人々は美食や美容、闘技鑑賞など、思い思いの娯楽に興じている。史実においては西暦79年8月25日に発生したと伝わる火砕流により、ポンペイの栄華はさながら舞台の大暗転のごとく一瞬にして封印され、都市はその原型を保ったまま長い眠りについた。住まう者を失った物言わぬ構造物の数々のみが、過ぎし日の活況を静かに語っている。   
   
1991年から全面的に再編されたスポーツカー世界選手権は、その初年度においてはつねに二十台弱の出走台数が確保されていた。新規定である3500cc自然吸気エンジンを搭載したスポーツカーはカテゴリ1に分類され、ジャガー、プジョー、メルセデスベンツの三つのメーカー・ワークスが覇を競い、ジャガーがチャンピオンに輝いた。グリッドの後方にはプライベートのスパイス・フォードやポルシェがおり、彼らのほとんどはスポーツカー世界選手権の一戦であったル・マン二十四時間レースへの参戦権を得るためだけにシリーズに参戦していたが、それでもグリッドの数を合わせる役には立った。旧規定のターボ・エンジンを搭載したスポーツカーはカテゴリ2に分類され、翌年からは参戦資格を失うことが決っていた。    
   
翌1992年のスポーツカー世界選手権は、かろうじて選手権レースの体裁をたもっていた前年とはうってかわって、悲惨きわまるものとなった。開幕戦のモンヅァ500kmレースにエントリーした二十五台のうち、実際にスタートしたのはたったの十一台だった。メーカー・ワークスの車は二台のプジョー、二台のトヨタ、一台のマツダだけであった。ジャガーは前年いっぱいでメインスポンサーだったシルクカット・タバコが支援を終了したためヨーロッパのレースには参戦せず、メルセデスベンツはF1に新天地を求めてスポーツカーから離れていた。グリッドを賑わしていた名門プライベート・チームのポルシェは、すでに規則によって締め出されていた。この年のル・マンでは、FIAの施策に反発する主催者のACOが台数を確保すべく特別に旧規定スポーツカーの出走を認めたが、例年通り五十五台分が用意されたグリッドに並んだのは、わずか二十八台だった。この数字は現在でもル・マン史上最少の出走台数として記録に残っている。すでにスポーツカー・レースを延命する術が残っていないことは、もはや誰の目にも明らかだった。史上最低となる出走八台で行われた最終戦・マニクール500kmレースをもって、四十年続いたスポーツカー世界選手権はその幕を閉じた。かつて隆盛を誇ったスポーツカー・レースの世界選手権にしては、あまりに呆気無い最期であった。    
   
962C-92RA-Larrauri-Winter1991年から主戦場をアメリカ・IMSA-GTPレースに移していたヨースト・レーシングは、その翌年ポルシェ962Cに最後の大規模な近代化改修を施した。1991年のスポーツカー世界選手権で圧倒的な速さを見せたジャガーXJR-14に倣い、車体後部のカウルは全面的に見直され、二段式のリヤウィングが取り付けられた。複葉機からの連想で「レッドバロン・ウィング」と呼ばれたこのリヤウィングは、上段のウィングがダウンフォースを発生し、ディフューザー出口とほぼ平行に取り付けられた下段のウィングが車体下部から空気を吸い出すというもので、床下で発生されるダウンフォースの高効率化により、上段のウィングを寝かせてマウントでき、すくない空気抵抗でより多くのダウンフォースを得ることができた。この年のIMSA-GTPは、ヨーロッパで大活躍したジャガーXJR-14が持ち込まれ、前年途中から新型車を投入したイーグル・トヨタや、連覇記録のかかるエレクトラモーティヴ・ニッサン、古豪ヨースト・ポルシェらと激しく覇を競ったが、車体下面のダウンフォースの効率化に着目し、床下の設計を徹底的に攻め抜いたイーグル・トヨタがジャガーの追撃をかわしてチャンピオンに輝いた。すでにヨーロッパのレースと同様に、IMSA-GTPも資金力のある有力チームが大金を投じて開発した車が勝つレースになっていた。1992年のヨースト・ポルシェは、ジャガーやトヨタ、ニッサンを相手に敢闘し、数度のシングル・フィニッシュを記録したが、優勝することはついになかった。   

   
1992年シーズンの閉幕をもって、グループCのスポーツカーが出走できるメジャー・レースは地上から消滅したかに見えた。スポーツカー世界選手権はすでに中止が決り、いまだ旧規定車で競われていた全日本スポーツプロトタイプ選手権も、まるで世界のスポーツカー・レースの趨勢と歩調を合わせるように、その前途には暗雲が低く立ち込めていた。1993年に向けて、全日本スポーツプロトタイプ選手権はGTカーとの混走レースを中心とした「インターサーキット・リーグ」として再編成が図られたが、組織された選手権レースには程遠い形態で、もはや消滅したも同然だった。アメリカのIMSA-GTPレースは健在だったが、このシリーズも宣伝効果の不足やメーカー・ワークスのあいつぐ撤退によってスポーツカー・クラスの出走台数が激減し、市販車改造のレーシングカーによって争われるGTO/GTUクラスが大勢を占めるようになっており、スポーツカー・クラスはもはや風前の灯だった。残された最後の砦はル・マンだった。前年同様、この年もACOは新旧規定のグループCスポーツカーを受け入れた。ACOは同時にスポーツカー・レースの衰退が不可避なものと見て取り、ル・マンの原点であるGTカー・レースへの回帰路線を打ち出し、市販車改造のGTクラスを新設した。これらの施策により1993年のル・マン二十四時間レースは前年に引き続きプジョーとトヨタの優勝争いが繰り広げられたほか、出走台数も四十七台を数えた。うち二十六台がGTカーだったが、旧規定スポーツカーも十五台が参戦した。ポルシェ962Cをはじめとする旧規定のスポーツカーにとっては、この1993年ル・マンが、最後の檜舞台となるはずであった。    
   
93091993年ル・マン24時間レースの公式テストに出走した、ヨースト・ポルシェ962C、シャシー・ナンバー962-013の個体である。マニュエル・ロイター、ジョン・ウィンター、フランク・イェリンスキが操縦した。基本的には1992年IMSA-GTP仕様のボディを翌年に向けて改良したもので、上の1992年仕様の写真と見比べると、リヤウィング形状が変更されていることがわかる。この仕様は1993年のIMSA-GTPにヨースト・レーシングが持ち込んだものと同一である。   

   
通常、公式テストに参加した仕様のモデルカーというのはよほどのことでない限り発売されないのだが、このモデルはフランスのスポーツカー・レース総合情報サイトである「Endurance-info.com」が、日本のポルシェ系GTチームとして活動していた「T2Mモータースポーツ」のマネージメントを行っていた金子オフィスなる企業と提携してリリースしたスパークモデル製特注品で、現在のところこの金型で作られたモデルは写真の仕様のみが存在すると思われる。特にモデルの型番のようなものは付与されていない。限定333台の販売で、すでに発売から数年が経過しているため希少価値は高い。現在T2Mモータースポーツはその活動を休止しており、金子オフィスのウェブサイトも十年近く更新が止まっているため、このモデルに関する情報すらも入手困難である。    
   
9310ヘッドライトにはカバーがかけられているが、これは短距離レースであるIMSA-GTPシリーズ戦用の装備である。従来フロントに設けられていた床下に空気を取り入れる開口部は埋められており、モデルでも銀色のインサートによって再現されている。驚くべきことに、この段階に至っても実車はほぼオリジナルのアルミ・モノコックを使っていた。  

9311   前輪直後に弧状のパネルラインが見えるが、この部分はもともと前輪のホイールハウス内から空気を排出するための開口部が設けられていた部分で、デイトナやル・マンなどの高速セッティングではこのように盲蓋で塞がれていた。ドア後部にはターボ・チャージャー用の潜望鏡型吸気口が見える。1992年の近代化改修で、吸気系・冷却系の配管レイアウトが見直され、合わせて冷却器のアウトレットが側面に移動している。アウトレット内部から見える銀色の蓋状のものは、ターボ用のポップ・オフ・バルブと思われる。   

   
9313二段式リヤウィングの構造がわかる。モデルは少々リヤウィングの高さがデフォルメされており、実車よりもだいぶ背が低くなってしまっている。下段ウィングとディフューザーの位置関係を見ることができるが、このタイプの二段式ウィングにおいて、メインとなるウィングは上段のダウンフォース発生用ウィングではなく、下段にある床下から空気を吸い出すほうのウィングである。このウィングに合わせてリヤタイヤ後方のボディカウルは全面的に改修され、下段のウィングに空気を流すべくリヤタイヤ直後から急な下り坂を描くように落とし込まれている。カウル中心に見える半円形の開口部は排熱口である。   

   
この年のル・マン公式テストに、ヨースト・レーシングはGTP仕様の最新式962Cを一台、ロングテール・カウル最終型の仕様を一台持ち込み、比較テストをおこなった。GTP仕様車はすばらしい速さを見せ、ロングテール・カウルの旧型車に対してラップ・タイムで実に七秒もの大差をつけた。しかし、ヨースト・ポルシェがル・マンの決勝レースをこのセットで走ることはなかった。1993年ル・マンの規則では旧規定スポーツカーは最低車重900kg、直径35.7ミリの吸気リストリクターの装着が義務付けられており、これにより最大出力は550馬力から600馬力ほどに制限された。ヨースト・レーシングは、パワーと燃費のバランスを勘案した結果低ドラッグのロングテール・カウルに利があると判断し、GTP仕様車の参戦を見送ったのである。    

93011993年のル・マン二十四時間レースにヨースト・レーシングから出走した、二台のポルシェ962Cである。右手のNr.17、シャシー・ナンバー962-013の個体はマニュエル・ロイター/ジョン・ウィンター/フランク・イェリンスキ、左手のNr.18、シャシー・ナンバー962-014の個体はボブ・ウォレック/アンリ・ペスカローロ/ロニー・マイスナーがドライブした。スパークモデル製品だが型番がNr.17はS2083、18号車はS1918とやや離れており、前者のほうがあとから製作されたモデルであると思われる。スポンサー以外では、Nr.18のみフロントカウルに小ぶりなエクステンション・パネルが取り付けられているのが外見上の相違点である。   

   
9302実車もそうだが、モデル的にも1988年から投入されたロングテール・タイプ最後期型のボディとまったく同じ仕様である。ロングテール・タイプのカウルはル・マンにおけるポルシェ製スポーツカーの共通の姿とでも言うべきものであり、数度にわたる大改造の果てに、細部の違いはあれどおおむね962Cの「原初の姿」を保った状態で最後のル・マンを走った事実は、どことなく数奇な運命を感じさせる。Nr.17は予選でトヨタ、プジョー両ワークス以外の最高位である七位につけたが、決勝レースではエンジン・トラブルによりリタイヤしている。僚艦であるNr.18は予選八位からスタートし、九位でフィニッシュしたが、旧規定スポーツカー・クラスで優勝したサード・トヨタからは十二周も差をつけられていた。サード・トヨタの予選順位は十位であり、その予選タイムもヨースト・ポルシェからは五秒近く遅かった。ヨースト・レーシングは、グループCスポーツカーが参加できる最後のル・マンで962Cに有終の美を飾らせるべく、クラス優勝を目指してペースを上げたが、車体やエンジンがそれについていけなかったのである。1993年ル・マンのヨースト・ポルシェは最新型の3164cc仕様エンジンではなく、古いタイプの2994ccエンジンを搭載していたが、おそらく吸気リストリクター装着状態での最適化がまに合わなかったのではないかと推測する。  

  

9304この年のル・マンには、ヨースト以外にもプライベート・チームの962Cが複数台参戦したが、写真のモデルはオベルマイア・レーシングが投入したシャシー・ナンバー962-155の個体である。以前の記事でご紹介した通り、1990年WSPC仕様に準ずるカウルを装着してある。四角いヘッドライトが特徴的だが、このタイプのカウルにおいても、床下に空気を取り込むフェンダー先端中央の開口部は埋められている。こちらもスパーク製で、モデルの型番はS1919と、この年のヨースト・ポルシェNr.18のモデルと連番になっている。同チームのレギュラー・ドライバーであったユルゲン・オッペルマン、オットー・アルテンバッハにくわえて、ロリス・ケッセルがドライブした。    
   

  

9307巨大なル・マン二十四時間レースの公式ロゴマークが目を引くが、じつはこのスポンサーシップは大会公認のものではない。長らくオベルマイア・レーシングのメインスポンサーを務めてきたフランスのガス会社であるプリマガスがル・マン前に離脱してしまい、おそらくスポンサーロゴのついていない真っ白なボディで走ることをきらったチーム側が、空いたスペースを埋めるためにル・マンのロゴマークを貼り付けたのである。これに対して主催者ACOは「カラーリングを変更しない限り出走を認めない」との声明文を発表し、チーム側と一触即発の空気が流れたが、最終的に (いかなる理由によるものか不明だが) 出走は認められた。ブレーキ性能を強化するため、ポルシェ勢の中で唯一カーボン・ブレーキを装備した甲斐あって、この車は予選でヨースト・ポルシェの二台に続く九位を獲得し、決勝レースではポルシェ勢最上位となる七位でフィニッシュした。   

   
9305ヘッドライトや前後カウル細部の形状以外、基本的には1991年仕様の962Cと同じスタイルをしている。リヤウィングが赤と黒に塗られているが、これはプリマガスのスポンサー・カラーの名残である。前述の経緯で「勝手に」貼り付けられたル・マンのロゴマーク以外にスポンサーロゴがほとんど見当たらないことから、運営資金には相当苦労したものと思われるが、そんな中での七位完走は大健闘と言ってよいだろう。ホイールは標準的なスピードライン製ではなく、BBS製のメッシュ・タイプを装着している。   

   
9308 一種独特なテールランプ形状をしているが、これは1990年WSPCに投入されたワークス仕様とは異なる形状である。ディフューザー後端が1989年仕様に比して延長され、容積が増している。   

   
9303

1993年ル・マン二十四時間レースをもって、「純然たる」ポルシェ962Cの同レースにおける長い長い旅はついに完結した。ル・マン後の七月におこなわれ、この年無敵を誇ったイーグル・トヨタが欠場したIMSA-GTP・ロードアメリカ500kmレースで、シャシー・ナンバー962-016の962Cを操縦するジョン・ウィンター/マニュエル・ロイターがポール・ポジションから優勝したが、これが純正スペックの962Cにとって最後の優勝となった。この年十月初旬におこなわれたフェニックス二時間レースをもってIMSA-GTP選手権は幕を閉じ、同時にポルシェ962Cは世界中のサーキットから姿を消したのである。スポーツカー・レースの世界にグループC規則が導入され、ポルシェ962Cのベースモデルとなったポルシェ956が登場してから、実に十一年の歳月が過ぎていた。ポルシェ962Cは、もっとも原初の、そしてもっとも鮮烈な戦績を残したグループCスポーツカーの末裔として、グループCというカテゴリ、さらにはスポーツカー・レースそのものの繁栄と衰退、そして死を見届け、自らもまた、静かに表舞台から去って行った。最後に優勝した962Cが、特にそのキャリア末期に数多く作られたカスタマー・チームによる改造車ではなく、ポルシェ・ワークスの血統をひきつぐヨースト・レーシングによるものであったことは、感慨深い事実である。
   
「ポンペイ最後の日」において、噴火による火山灰が街に降り注ぎ住民が逃げ惑う中、グローカスとアーバセスは最後の決闘を行い、悪役アーバセスは打ち倒される。わかりやすい勧善懲悪の物語で、使われている文章も比較的平易だが、火山の大噴火という破滅的な状況の中でおこなわれる死に物狂いの闘いという場面設定は、それ自体に一種独特の凄みがある。ポルシェ962Cの登場以降、その戦いの場であったスポーツカー・レースは大きな変動の時代を迎え、そして唐突に消滅へと収斂して行った。ポルシェはかつてスポーツカー・レースの世界で日の沈まぬ大帝国に喩えられたが、急激に悪化する状況の中で、まるで山間の向こうへ沈みゆく太陽を追いかけるように、ポルシェ962Cは走り続けた。彼らはその長い旅路のまさに終ろうとする瞬間に、もっとも美しい夕日を目に焼き付けることになるが、その話は次回に持ち越したい。    
   
以下、本記事で取り上げたシャシーの履歴を記す。例によって長いので格納した。    
   

  

続きを読む "ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1992/1993」" »

2015年10月20日 (火)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「断章・新大陸」

この一連の記事ではポルシェ・962Cの、主に欧州の世界選手権レースにおける戦いをとりあげてきたが、そもそもポルシェ・962という車は北米大陸におけるIMSA-GTP選手権レース向けに設計されたものであった。「962」の名をもつ車の実戦デビューが1984年1月のデイトナ24時間レースであり、この車が既存の956をベースに北米レースの規定に合致する改造を施されたモデルであったことは、ファンのあいだではよく知られた事実であることだろう。具体的には、「着座状態でドライバーの爪先が前車軸より前に突出してはならない」とする、いわゆる「フットボックス・レギュレーション」に対応するため、前車軸を120ミリ前進させたこと、それにともないノーズがみじかくなったこと、各車の性能を均一化させる規則にしたがってシングルターボ化されたことが主な変更点であった。ヨーロッパ同様、北米大陸においても、962は実戦デビューの翌年、すなわち1985年から一般のプライベート・チームに販売されることとなった。   
   
歴史書によると、現在北米大陸として知られている土地は、ヨーロッパ人であるコロンブスによって「発見」され、この大陸に入植したもっとも最初の「開拓者」たちは、同じくヨーロッパからやって来たひとびとであった、という。すなわちアメリカは、ヨーロッパ人によって「開拓」されていったのである。地理的、気候的、また歴史的な要因から、近代以降のアメリカはヨーロッパとは明らかに一線を画する社会的発展の道を歩んできたが、ともすればこのことによって、アメリカはヨーロッパより「格下」の世界であるという不正確な偏見が (特にヨーロッパにおいては) まかり通ることになった。モーター・スポーツひとつとってみても、そのことは明瞭である。一方にグランプリ・レースがあれば他方にはインディーカー・レースがあり、一方にツーリングカー・レースがあれば他方にはストックカー・レースがある、といった具合だ。そんな中で、二度の世界大戦の後に勃興した「スポーツカー・レース」は、ヨーロッパとアメリカという、ふたつの世界をまたいで存在する貴重なモーター・スポーツであった。しかしこのスポーツカー・レースすらも、二十世紀後半以降、ヨーロッパとアメリカで対照的な発展をとげることになる。一方の中心はグループC規定のスポーツカーによる世界耐久選手権であり、もう一方の中心はIMSAによるGTP選手権であった。この時代のスポーツカー・レースを論ずるうえで、西欧の世界選手権レース、アメリカのIMSA-GTPレース、極東のJSPCレースはいわば三本の柱であり、いずれの視点を欠いてもその興亡を俯瞰することはできなくなるのである。    
   
8929スパークモデル製・型番43DA89、1/43スケールのレジン製完成モデルで、1989年デイトナ24時間レースにジム・バスビーがエントリーし、みごと総合優勝を果たしたNr.67のポルシェ962 (シャシー・ナンバー962-108C/C03)* を再現している。もともと2010年以前に品番S0939として販売されていた絶版品を、2015年にデイトナ24時間レース優勝車シリーズとして、スリーブケースを専用デザインにあらため再販したモデルだ。旧モデルとの金型の差異は定かではないが、写真を見比べる限りでは、旧金型では厚ぼったく実感を損ねていたヘッドライトカバーの透明パーツが、薄いフィルム様の素材に置き換えられ、よりリアルに再現されているように見える。    
   
8938一見して、ヨーロッパの「962C」ではないとわかる独自のボディスタイルをしている。独特なロングテール・タイプのリヤウィングや、リヤカウル上面に大きく洞窟のように開いたダクト、ミラー・ビールのカラーである金色に塗られたボディなどが、グループC仕様の962Cを見慣れた目には新鮮に映る。モデルでも精密に再現されているBBS製のツーピース・メッシュ・ホイールは、スピードライン製と並んでこの時代のスポーツカーのデファクト・スタンダード・パーツであった。    
   
ジム・バスビーひきいるバスビー・レーシングは、アル・ホルバートと並んでアメリカでもっとも早くからポルシェ・962を購入して走らせたプライベート・チームのひとつであった。アメリカのレースにはポルシェ・ワークスは参加していなかったので、勝ち星を争うのはつねにプライベート・チームが購入したポルシェだった。しかしその中で、名レーサーであったアル・ホルバートのチームはポルシェから特別待遇を与えられ、北米におけるポルシェ・ワークスの名代として活動することをゆるされたのである。彼のポルシェには85年シーズンから、アンディアル社がチューニングした特別製のエンジンが与えられた。このエンジンはほかの962の2,994ccに対して3,164ccの排気量を持ち、排気量によって最低重量を規定するIMSAの規則ではほかのポルシェよりひとまわり重くならざるを得なかったが、パワーの優位がそれを帳消しにしてくれた。当然のことながら、ジム・バスビーはみずからのポルシェにも特別製のエンジンをまわしてくれるよう頼んだが、アメリカにおいてポルシェ・ワークスに伍する待遇を受けていたのはホルバートだけであり、バスビーにはそれがなかったため、このエンジンがすぐにバスビーの手元に渡ることはなかった。対策として、バスビーは名エンジニアであったエド・ピンクをチームに引き入れた。彼はボッシュ製の制御コンピューターをハックすることで80馬力分のアドバンテージを手に入れ、パワー面における不安はある程度解消されることとなった。    
   
エンジンの強化と並んで、バスビーはもともと強度が不足気味であった962の板金製モノコックの強化にとりくんだ。折しも1986年のデイトナ24時間レースで、バスビー・レーシングの962-108がクラッシュにより大破し、大規模な修理が必要とされていた。バスビー・レーシングはスペアのシャシーであった962-105でシーズンを戦うとともに、ポルシェ本社から指名されたファブリケーターであるジム・チャップマンに、アルミハニカム材製の高剛性モノコックの製作を依頼したのである。この新型シャシーは962-108B (C02) と名付けられた。CはチャップマンのCであり、02はチャップマン製モノコック・タブとしての通しナンバーである。初号機であるC01は、(意外なことに) 種種折衝のすえホルバート・レーシングに渡り、アメリカにおけるもうひとつの有力ファブリケーターであったファブカー社製モノコックである962-HR1のモノコック・タブ部分のみを置き換えるかたちで使用された。962-108Bは1987年開幕戦デイトナから実戦投入されたが、同年シアーズ・ポイント300キロレースでクラッシュにより大破した。このシャシーを修復するよりあたらしいモノコックを作ったほうが早いと判断したジム・バスビーは、チャップマンに二台目のハニカム・モノコックを発注し、完成したモノコックは1988年に引き渡された。このモノコックこそが、シャシー・ナンバー962-108C (C03) として1989年のデイトナ24時間レースに参戦し優勝した、今回とりあげる個体である。ほぼ同じ時期に、欧州のレースにおいてもリチャード・ロイド・レーシングが同様の手法をもちいてモノコックの強度不足に対処していた事実は興味深い。チャップマン製モノコックは素材をアルミ板金からアルミハニカム材に置き換えることでねじれ剛性を大幅に強化し、またフロント・バルクヘッドもアルミ板金にかえてビレット・アルミ素材を使うことで、剛性を高めるとともに足回りのセッティングの幅を広げた。    
   
8931すでに北米でのデビューから五年が経過した1989年の時点での姿であり、オリジナルの962/Cからは多くの変更が加えられている。ボディワークは完全な新設計であり、モノコックの剛性不足と並んでオリジナルの大きな弱点であったダウンフォース不足を解消するための努力が随所に見られる。写真は前輪後方に設けられた大きなえぐり込みで、ここからタイヤハウス内の高圧空気を掃き出し、ドラッグを削減する目的がある。同時期のGTPレースで無敵を誇っていたエレクトラモーティヴ・ニッサンGTP ZX-Tの処理をコピーしたもので、風洞設備を持たないバスビー・レーシングのような小規模プライベート・チームにとっては、「持てる者」の出した結論をそのまま踏襲することが往々にして最善手であったことを物語っている。89年式ではリヤビュー・ミラーがドア上からフェンダー上に移設されているが、これもやはり空力的な理由によるものである。    
   
8932リヤの形状もオリジナルから大きく手が加えられている。ディフューザーのエアトンネル部は上部が嵩上げされ、容積が増したことでより強いダウンフォースを生み出すようになっている。1989年モデルでリヤウィングのメイン・エレメントの取り付け位置が引き下げられ、エア・トンネル出口に近くなったことで、ディフューザー部からの空気の吸い出しを促進しダウンフォース獲得に貢献している。ボディワークは後輪のやや後方で切り落とされており、外側からはカウルの一部に見える車体後部の大きな平面が翼端板の一部であったことがわかる。この部分が空気を仕切るフェンスの役割を果たし、ディフューザーからの空気の吸い出しをより効率化させていたと思われるが、これもエレクトラモーティヴ車のコピーである。チャップマン製モノコックのリヤサスペンション・レイアウトはオリジナルの通りであったが、フロントサスペンションはピックアップポイントが変更されている。    
   

 

962-89Daytona-Wollek-Bell-Andretti-2画像サイズがちいさいが、1989年デイトナ24時間レースのプラクティス・セッションにおけるバスビー・ポルシェの姿。ノーズ・カウルが延長されているように見えるのは、じっさいに956用のノーズが装着されているためである。バスビー・レーシングは1988年頃から、ハイダウンフォース・セッティングとしてファクトリーから取り寄せたル・マン用セットの956用ノーズカウルを装着し、フロントが伸びた分だけリヤウィングの取り付け位置を前進させるというセットアップをこころみていた。こうすることで空力中心点を前へ寄せてフロントに荷重をかけ、アンダーステアを消すことができたのである。このハイダウンフォース仕様はけっきょく決勝レースでは投入されなかった。フロントに取り付けられた一組のダイブ・プレーンに注意されたい。画像はMulsanne's Cornerより。    
   
1988年のデイトナ24時間レースで、バスビー・ポルシェは予選第一位を獲得しながらわずか一周の差でジャガーに勝利を譲るという、苦いレースを経験していた。1989年のレースでは、すでにヨーロッパでもポルシェを下して新耐久王となったジャガーにくわえて、強力なオリジナル・シャシーを武器に戦うエレクトラモーティヴ・ニッサンが優勝争いにくわわった。エレクトラモーティヴ・ニッサンは前年のIMSA-GTPレースで前人未到の大記録であるシーズン八連勝という快挙を成し遂げており、大一番であるここデイトナでも勝って、全米チャンピオンの座をいっそう強固なものにしようとの意気込みでレースに臨んでいた。予選ポール・ポジションはニッサンが奪い、そのあとにジャガーともう一台のニッサンが続き、四位と五位にそれぞれプライベートのポルシェが入った。バスビー・ポルシェは十二位になるのがやっとで、前年とは打って変わって苦戦ムードが漂い始めていた。頼みの綱はデレック・ベル、ボブ・ウォレック、ジョン・アンドレッティという三人のドライバーであり、耐久レース経験の豊富な彼らの力こそが、バスビー・レーシングが優勝を狙える唯一の希望であった。    
   
レースがはじまると、予選第一列を占めたニッサンとジャガーがまっさきに飛び出し、予選五位のブルース・リーヴェン率いるハヴォリン・レーシング・ポルシェがこれに続いた。バスビー・レーシング・ポルシェは後方からじわじわと順位を上げていく耐久レースらしい戦い方で、後方から上位陣の脱落を狙い撃つ作戦で周回を重ねた。ベテラン・ドライバーの実戦勘こそがなせる技であった。レースが半分をすぎたところでコース上を霧が覆いはじめ、コンディションが危険であるとして四時間近い赤旗中断があったが、その時点でバスビー・ポルシェはすでにニッサンに次ぐ二位を走っていたのである。レース再開後三時間弱、残すところあと五時間というところで、トップを行くニッサンがエンジン・トラブルでリタイヤした。計算通り十九時間目にしてトップに浮上したバスビー・ポルシェを、こんどは二位のジャガーが猛追しはじめた。しかしジャガーはプライス・コブの操縦中にスピンし、またレース終盤になってエンジン温度が上昇しはじめたため、追撃を断念せざるを得なくなった。しかしそれでも、24時間の戦いに勝ったバスビー・ポルシェとやぶれたジャガーのあいだには、たった二分弱ほどしか差がなかったのである。前年のル・マン24時間レースにおいて、ポルシェ・ワークス・チームがついにジャガーに敗北し、耐久王の座をあけわたした半年後の出来事であり、アメリカにおいては依然ポルシェの力は健在であること、また創意工夫によって設計の旧態化した962でも最新のスポーツカーと戦って勝利をおさめる可能性があることを、ジム・バスビーは示してみせたのである。    
   
8933グループC規定の962Cと見比べてみると、リヤカウルにはダクトや開口部が乱立し、どことなく無骨な印象を受ける。カウル上部中央のNACAダクト (角度の関係でやや見えにくい) は空冷エンジンの強制冷却ファン、その背後の仕切りが設けられた大きな開口部はターボ用インタークーラー、右側に立つ大型のシュノーケル・ダクト (BOSCHのステッカーが貼られている) はターボ・チャージャー、その脇にあるやや小ぶりなシュノーケル・ダクトはブレーキに、それぞれ空気を供給するものである。IMSA-GTPレースでも、ジャガーやニッサンの台頭により相対的にポルシェの戦闘力は落ち込み、1988年なかばからグループC仕様の4バルブヘッド・水冷式ツインターボ・エンジンの使用が許可されるに至ったが、バスビー・レーシングは89年シーズンいっぱいまでIMSA規定の2バルブヘッド・空冷式シングルターボ・エンジンを使い続けた。    
   
8934カウル上にはエンジン・チューナーであるアンディアル社のロゴが輝く。1988年9月にアル・ホルバートが航空機事故で死亡すると、ホルバート・レーシングの解散によって宙に浮いたアンディアル社の独占契約がバスビー・レーシングにもたらされることになった。この契約を持ち込んだのはアンディアルのボスで、ポルシェの北米モータースポーツ活動を任されていたアルヴィン・スプリンガーであったが、彼は同時にミラー・ビールのスポンサー契約も持ち込んだため、車体はそれまでの白いBFグッドリッチ・タイヤのカラーリングから、金色の派手なカラーリングに塗り直された。白と緑のアクセントがほのかにアメリカらしさを感じさせる。アンディアル・チューンのエンジンは予選用セットアップで850馬力以上、決勝レース用のセットアップでも800馬力以上を発生したとされる。    
   
8937バスビー・レーシングが運用したチャップマン製モノコックのすばらしさを語るエピソードがある。1989年シーズン中盤になって、ジム・バスビーはセカンドカー用にグループC規定の962Cを一台購入し、比較のためのテスト走行をおこなった (このシャシーのナンバーについては伝わっていない。「ハンス・シュトゥックがドイツ・スーパーカップ選手権で乗っていた個体」という証言があり、ここから推察するに962-007、-008、-009のいずれかであることは確かである。962-009はスーパーカップ専用の軽量シャシーであり、可能性としてはこの個体がもっとも高い)。テストはライムロック・パークでおこなわれ、ボブ・ウォレックが操縦をうけもった。ヨーロッパから持ち込まれたワークス・スペックの962Cは、4バルブヘッド装備のツインターボ・エンジンというすぐれた心臓部を持っていたにもかかわらず、チャップマン製モノコックの962よりも一秒も遅かったのである。ウォレックはヨーロッパ仕様の962について「ブタのような機動性」であるとコメントし、アンダーステアがあまりにもひどいことを訴えた。バスビー・レーシングのテクニカル・ディレクターであったマイケル・コルッチは、962のオリジナル・モノコックについてつぎのように語っている。    
「いちばんの弱点がシャシーの剛性で、ねじれ剛性が5350lbs/deg (約2426kg/deg) しか無かった。ダウンフォースも、ニッサンやジャガー、トヨタといったライバルに比べて劣っていた」    
IMSA-GTPにおいて無敵を誇るようになったエレクトラモーティヴ・ニッサンが当初使用し、剛性面に不満を持っていたローラ製シャシーのアルミ・モノコックのねじれ剛性が約8000lbs/deg (約3629kg/deg)、その後トレヴァー・ハリスが設計しジム・チャップマンが製作したハニカム材製オリジナル・モノコックのねじれ剛性は12,000lbs/deg (約5443kg/deg) であった。すでに962Cのオリジナル・デザインは、運用者の側でなんらかの手を加えないかぎり、どうにもならないところまで来ていたのである。    
   
デイトナ24時間レース以後、セブリング12時間レースをふくめたIMSA-GTPレースは、たちまちのうちにエレクトラモーティヴ・ニッサン (この年からニッサンの直属部隊となった) の天下と化した。前年からローラ製シャシーを大改造したトレヴァー・ハリス設計のオリジナル・シャシーを投入し、このシャシーを実戦で磨いたエレクトラモーティヴは、ヨーロッパにおけるグループCレースを担当したニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの苦戦を尻目に、すっかりアメリカのスポーツカー・レースにおける無敵艦隊にまで成り上がったのである。ヨーロッパで王座についたジャガーすら太刀打ちできないほどの速さであった。エレクトラモーティヴがライバルというライバルをすべて蹴散らすなかで、ポートランド、タンパ、デル・マーの各レースで、ジャガーがかろうじて優勝をかすめとった。この二チーム以外での優勝は、バスビー・レーシングの962がウェスト・パーム・ビーチであげた一勝が唯一のものであった。    
   
89361989年シーズンの年間ランキングで、バスビー・レーシングはポルシェ・ユーザーの中では最上位の成績をおさめた。しかし翌1990年シーズンから、ジム・バスビーはポルシェにかえてエレクトラモーティヴ・ニッサンのシャシーを購入し、一台体制でレースに参加するようになった。ポルシェ962は前年ニッサン、ジャガーの二大メーカー・ワークスを相手に善戦敢闘を見せはしたが、すでにそのシャシーはあらかた開発しつくされ、これ以上進歩する余地はどこにもなかったのである。また、1989年からGTPクラスにステップアップして来たダン・ガーニーのオール・アメリカン・レーサーズ (AAR)・トヨタも力をつけはじめており、IMSA-GTPレースもメーカー・ワークスによる全面代理戦争の戦場となりつつあった。バスビー・ニッサンはこのシーズン中に二位を一度、三位を二度獲得したが、この年限りでジム・バスビーのチームはIMSA-GTP選手権から姿を消した。自身もまた長い経験をもつレーシング・ドライバーであったバスビーは、小規模プライベート・チームがまるで水雷戦隊のように、身ひとつで大メーカー・ワークスに立ち向かい、必殺の一撃でその死命を制することができる時代の終りを、感じ取っていたのかもしれない。    
   
シャシー・ナンバー962-108C (C03) のポルシェ962は、破損した962-108B (C02) の代替モノコックとしてジム・チャップマンにより製作され、1988年デイトナ24時間レースでデビューした個体である。このシャシーはバスビー・レーシングから同年IMSA-GTP選手権のデイトナ24時間レース、マイアミ3時間レース、ウェスト・パーム・ビーチ3時間レース、ミッドオハイオ500キロレース、ワトキンス・グレン500キロレース、ポートランド300キロレース、シアーズ・ポイント300キロレース、コロンバス300キロレース、デル・マー2時間レースの各戦に参戦した。最高位はデイトナ24時間レースの二位であった。    
1989年にはデイトナ24時間レースをはじめとするIMSA-GTP選手権レース全戦に参戦し、うちデイトナ24時間レース、ウェスト・パーム・ビーチ3時間レースで優勝している。このシーズンの後、このシャシーはグンナー・レーシングのケヴィン・ジャネットに売却され、2005年以来イギリスのコレクターであるヘンリー・ペアマンが所有している。    
*チャップマン製モノコックは一般に八台が製作され、一台がスペア・モノコックとして保管され、残る二台がボブ・エイキンに、二台がジム・バスビーに、三台がアル・ホルバートに渡ったとされる (ホルバートが取得した三台は彼の死後ポルシェ・アメリカの管理下におかれ、のちにカスタマー向けスペアとして販売されたという)。これらチャップマン製962用モノコックには本稿で述べたとおり通しナンバーが振られていたが、この通しナンバーのつけ方は資料によって異なり、たとえばRacing Sports Carsアーカイヴでは、本稿で紹介した962-108Cを「C02」としている。いっぽうヘンリー・ペアマン・コレクションの紹介ページ、またMulsanne's Corner主筆であるマイケル・フラーの著書「Inside IMSA's Legendary GTP Race Cars: The Prototype Experience」においては、このシャシーは「C03」と紹介されている。この差異は「C01」をホルバート・レーシングが取得し962-HR1に組み込んだ第一号モノコックの個体とするか、バスビー・レーシングが取得しそのまま運用した第二号モノコックの個体とするかによって生じているものと考えられる。本稿では「製作者による製作順を示す通しナンバー」としての整合性を重視し、この個体は「C03」であるとした。

2015年8月28日 (金)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1991」

1991年、スポーツカー・レースの世界規格であったグループCカテゴリは大規模なレギュレーション改訂を受け、それまでの「使用燃料総量を規制し、エンジン形式や排気量は無制限」から「使用できるエンジンは3.5リッター自然吸気エンジンのみ、使用燃料総量は無制限」という、これまでとはまったく違った規則のもと争われることになった。それまで市販の旧規定スポーツカー (主にポルシェ962Cであった) を購入してレースをしていたプライベート・チームに対する配慮として、1991年の一年間のみ、100kgのハンデ・ウェイトを積むことを条件に、旧規定車も世界選手権レースへの参戦を許されたが、新規定のスポーツカーはF1エンジンと同じ規格のエンジンを搭載することにくわえて、最低車重もそれまでより100kg以上軽い750kgまで引き下げられることが決まっており、旧規定車の戦闘力はないも同然であった。このような状況を鑑み、前年までポルシェ・ワークスに準ずる体制でル・マン24時間レースならびに世界選手権レースに参戦していたヨースト・レーシングは、1991年のスポーツカー世界選手権 (SWC) には参加しなかった。かわりに彼らは、毎年ごとにレギュレーションの調整によって戦力の均衡化を図っており、排気量や過給器の個数によって最低車重がこまかく決められていたアメリカのIMSA-GTPレースに新天地を求めた。この頃になると北米のレースでも豊富な資金力と開発能力をバックにしたニッサンやジャガーといったライバルが台頭してきていたが、欧州とちがって北米ではいまだポルシェにも勝つチャンスはあった。   
   
9106

 

1991年IMSA-GTP選手権開幕戦、伝統のデイトナ24時間レースに、ヨースト・レーシングは二台のポルシェ962C (カーナンバー6: シャシーナンバー962-145、カーナンバー7: シャシーナンバー962-129) を送り込んだ。このレースで、結果的にポルシェ962Cにとって最後の長距離耐久レースにおける勝利を飾ったのが、写真のヨースト・レーシングNr.7である。ジョン・ウィンター/フランク・イェリンスキ/アンリ・ペスカローロ/ハーレイ・ヘイウッドが操縦を受け持ったが、レース途中でリタイヤしたNr.6のドライバーであったボブ・ウォレックがその後一時的に乗り組んだため、最終的には五人のドライバーが操縦した。   
   
9107

 

スパークモデル製、型番S0950の1/43レジンモデルで、1991年デイトナ24時間レースに参戦し優勝したNr.7のポルシェ962Cを再現してある (同レースの僚艦、Nr.6を再現した完成品モデルはいまのところ存在しないと思われる)。スパーク製品の中でもかなり初期の金型であることが型番からわかる。そのため細部の仕上げはやや良くなく、この個体ではフロント部の緑色のデカールにシワが寄っていたこと、リヤウィングの接着不良のため微妙に右に傾いていたこと、ヘッドライトカバーが浮いていたことが目についた。ボディ形状としては、以前の記事で紹介した、WSPC仕様のセカンド・スペックに準拠している。この「ロングノーズ・独立リヤウィング」のスタイルは、WSPC末期~IMSA-GTP参戦期の962Cのスタンダードであった。ノーズを延長することで空力特性を改善するとともに、全長を規定値におさめるためにリヤウィングを前進させることで、車全体の空力中心点を前進させ、前輪に荷重をかけてアンダーステア症状を軽減するねらいがあったと思われる。   
   
9109

 

すでにオリジナルの962Cの流れるようなラインはうしなわれ、独立式リヤウィングによってより攻撃的な印象を与えている。リヤウィングは二枚エレメントのものが装着され、ヘッドライト横には小型ながらダイブ・プレーンが取り付けられるなど、比較的ダウンフォース量を意識したセットアップになっている。後輪のブレーキ・ダクトはNACAダクトに角型のシュノーケルを組み合わせた、1989年のワークス・カーに準拠する仕様となっている。後述のル・マン仕様と見比べられたい。   
   
9108翼端板はル・マン仕様とは違い、小型で矩形のものが装着されている。支持方式などは基本的に1989年の時点からほとんど変更されていない。ホイールはスピードライン社製の六本スポーク・タイプである。   
   
9110若干手ブレ写真で申し訳ない。正面から見るとわかるが、ドライバーからみて右側のライトレンズが黄色、左側が白色と、左右でヘッドライトの色が違っている。初夏におこなわれるル・マンと違い、二月のフロリダは気温が低く、雨や霧が発生しやすいため、雨中・霧中における視認性にすぐれる黄色のレンズを採用したものと思われる (白色の光線は遠くまで照射できるが、雨滴や霧の水分に反射して視認性が悪化するのに対し、黄色の光線は遠くまで届かない反面これらに反射されないため視認性を損なわないのである。自動車用の霧灯が黄色に着色されている理由である)。片側二灯あるのだから、片方を白色・片方を黄色にして左右のバランスをとったほうが良いように思えるが、このように片側ずつ色を分けた理由は定かではない。誰かはっきりした理由を知っている方はぜひご教示願いたい。   
   
1991年のデイトナ24時間レースは、ヨースト・レーシングのNr.6がポール・ポジションを獲得するという、ポルシェにとって幸先のよい戦況にはじまった。予選二位には長距離耐久レースにおける優勝争いの常連となったジャガーがつけ、四、五位にはGTPレースで三年連続チャンピオンを獲得しているニッサンがいた。ニッサンは前年ル・マンでポール・ポジションを獲得したR90CKを三台持ち込み、必勝の意気込みでこのレースに臨んでいた (本来なら日本から最新鋭のR91CPが渡米し、優勝争いの大本命となっているはずだったが、湾岸戦争の勃発によりキャンセルされたのである。この日本チームの渡米は一年後の1992年に実現した)。ジャガーはプラクティス中にジョン・ニールセンの運転するNr.3が雨に足元をすくわれてクラッシュし、決勝レースに出場できなくなったため一台体制でのレースとなり、何かトラブルが発生すればその時点で優勝はあきらめなければならない苦しい立場にあった。ニッサンはGTP規定に合致しないル・マン仕様の車をそのまま持ち込んだため、給油時間と燃料タンク容量のハンディを背負わなければならず、計算上はライバルより一周あたり二秒速く走らなければ優勝できなかった。しかしニッサンの車はそうすることが出来る最高の性能を実現しており、もし順調にレースがすすめば優勝はニッサンのものになる可能性がいちばん高かった。ヨースト・ポルシェと彼らの962Cは、耐久レースにおける経験と確立された信頼性は確かにあったが、すでに設計年次の古さは隠しようもなく、苦戦が予想された。   
   
レースはスタート直後からすさまじいハイペースでの戦いとなった。ポール・ポジションからスタートしたNr.6のポルシェが懸命に逃げ、それを一台だけのジャガーが追いかけるあとをニッサンがついてゆくという、三つ巴の接近戦が繰り広げられた。無理なペースで周回を重ねたツケは夜半になってまわってきた。まずNr.6ポルシェがオーバーヒートで午前一時半すぎにリタイヤし、午前三時にはジャガーが同じくオーバーヒートからウォーター・ポンプを壊して長時間の修理を強いられ、レースから脱落した。夜が明けた時点で、トップ争いはNr.7ポルシェ、Nr.83ニッサン、Nr.84ニッサンの三台に絞られた。このうちNr.84はレースが半分をすぎたあたりでトップ走行中にギヤボックス・トラブルによりリタイヤし、Nr.83も午前七時頃にクラッシュし修復に手間取ったために優勝の望みを絶たれた。こうしてヨースト・レーシングは、勝ち目はほとんどないと考えられていた1991年のデイトナ24時間レースを、二位のニッサンに十八周という大差をつけて優勝したのである。ライバルのリタイヤによって転がり込んできた勝利ではあったが、同時にライバルがつぎつぎ倒れる中で、最後まで堅実に走りきった結果の勝利という、じつに962Cらしい勝ち方であった。しかし前述した通り、この1991年デイトナ24時間レースが、962Cにとって最後の長距離耐久レースにおける勝利となってしまったのである。もはや962Cの登場から六年が経過しており、そのベースモデルである956の設計年次を考えると、すでに962Cは十年落ちのデザインになりつつあった。太陽は沈みかけていた。   
   
   
9101

 

デイトナでの好成績の余勢を駆って、ヨースト・レーシングは伝統の一戦ル・マン24時間レースに姿をあらわした。エントリー台数が減少することへの懸念を理由に、ル・マン24時間レースの主催団体であるフランス・西部自動車クラブ (ACO) は一貫してグループCの新規定に対して強硬な反対の立場をとっていた。またポルシェ本社が「ウェイトハンデによって車重が1000kgに達した状態では、設計上の限界を超えるため安全性が保証できない」と訴えたため、このレースに限りポルシェ962Cは車重950kgの状態でレースをすることが許された。すでに世界選手権のレースで3.5リッター・エンジンを搭載する新規定車をデビューさせていたジャガーとメルセデス・ベンツも、新型車の信頼性の確立がなされていないことを理由に決勝レースは旧規定車で戦うことを決めており、この年のル・マンにおける純粋な新規定スポーツカーは、「耐久性の問題から完走できる可能性は無いので、あくまでパフォーマンスのための走行に徹する」と割り切った二台のプジョーのみであった。旧規定スポーツカーとなら勝負になると踏んだヨースト・レーシングは、三台の962Cをこのレースに持ち込み、うち二台が決勝レースに出走している。写真手前のNr.57がベルンド・シュナイダー/アンリ・ペスカローロ/ジョン・ウィンター、奥のNr.58がハンス・シュトゥック/フランク・イェリンスキ/デレック・ベルに託された。それぞれシャシーナンバーは962-014および962-012であった。SWCには全戦参戦義務があり、この年のル・マンはSWCの一戦とされたため、ル・マンのみに参戦したいヨースト・レーシングは全戦参戦していたフランツ・コンラート率いるコンラート・レーシングのエントリー枠を借り受け、連名でエントリーを行っている。   
   
9102

 

いずれもスパーク製の1/43モデルカーである。型番はNr.58がS1915、Nr.57がS3411で、同レースの僚艦同士であるにもかかわらず発売時期がおおきくズレている。後発であるNr.57のほうは、ヘッドライト・レンズの部品がより精密に再現されていることと、車体側面にあったアクセス・パネルの盲蓋の部分が再現されている (上写真「BLAU」の文字の真下。古いほうの金型のNr.58ではこのパネルが再現されていない)。Nr.57のほうはレース開始時点ではヘッドライトに (おそらく汚損防止のための) ビニール製カバーがガムテープで接着されていたが、これもしっかり再現されている。Nr.58にもこのカバーが取り付けられている写真が残っているが、スタート時には付いていなかったためかモデルでは再現されていない (基本的に、「そのレースにおけるスターティング・グリッドに並んでいる時点の状態」を再現するのがスパークモデルのポリシー、とはきき及んだことがある)。上記のデイトナ仕様と見比べると、リヤウィングが二枚式から翼弦長の長い一枚式に変更されていること、ピット施設の相違のため給油口の形状が違っていること、翼端板が大型化されていること、フロントのダイブ・プレーンが付いていないこと、テールライトの取り付け位置が違うこと、リヤのブレーキダクトが半円形のシュノーケルになっていることが外見上の相違点である。このほか、ヨースト・レーシングはデイトナでは信頼性の確立された2994ccのエンジンを搭載していた (それでもトラブルによるリタイヤは頻発した) が、ル・マンではすでに世界選手権レースのほうで使われていた高出力仕様の3164cc全水冷エンジンを使用していた。この3164ccツインターボ・エンジンは962C用エンジンの最終進化形というべきエンジンで、排気量拡大と全水冷化によって決勝レースではライバルに伍する800馬力を発生することができたが、そのかわりにオリジナルの仕様では5000キロ以上あったエンジンの寿命が2000km近くまで落ちていたという。おそらくル・マンでは出力を落として信頼性を確保していたと思われる。   
   

 

9105ル・マン仕様車の車体後部。上述のとおりテールライトの取り付け位置が異なっているほか、車体後端部に金属製のガーニー・フラップが追加されている。ギヤボックス後端から伸びるリヤウィングの支柱も、デイトナ仕様とル・マン仕様では形状がやや異っている。   
   
   
1991年のル・マンは、前年の世界選手権レース同様サウバー/メルセデス・ベンツが優勝候補の筆頭と目されていた。旧規定のスポーツカーとして、もっとも完成された車を作り、その結果選手権を席巻したのがサウバーだったからである。ジャガーとポルシェは、サウバーの車がつぶれれば表彰台くらいはあるかも知れない、程度の評価だったが、この両者を比較すると、50kg分重いとはいえカーボン・ファイバー製シャシーを持ち、車体性能にすぐれるジャガーのほうが優位であった。レースは二台のプジョーのリードではじまった。プジョーは他を圧倒するハイペースで周回して母国の観衆を熱狂させたが、レース前のコメントの通り完走を前提にしての作戦は立てておらず、あくまでも地元の観客に向けたショーであった。日が暮れる前に二台のプジョーがあいついでトラブルを起こしてリタイヤすると、かわって下馬評通りサウバーの一台がトップに立った。三台のジャガーがそれに続き、その後方でポルシェ、サウバー、マツダが順位争いをしているという状況だった。日付が変わるころになると、サウバーは一台が接触事故でリタイヤし、もう一台がギヤボックス・トラブルで長時間のピットインを余儀なくされて脱落し、残る一台が孤立無援のままトップを守る状況になった。ジャガーは大排気量の12気筒エンジンを搭載するせいで燃費が苦しく、後方からはるばる追い上げてきたマツダに苦もなくかわされてしまっており、優勝はむずかしくなりつつあった。ヨースト・ポルシェは快走をつづけていたNr.57が夜明け前に持病のオーバーヒートからリタイヤしたが、Nr.58がトップ10圏内を堅実に走行し、チャンスをうかがっていた。   
   
日付の変わった日曜正午すぎ、サーキットに衝撃が走った。二位以下に大差をつけてトップを独走していたサウバーが、突如白煙を吹き上げながらピットインしてきたのである。ウォーター・ポンプ駆動部のブラケットが破損し、冷却水が回らなくなってしまったのであった。冷却の厳しいターボ・エンジンにとっては致命的なトラブルだった。深夜すぎにギヤボックス・トラブルでもう一台のサウバーがピットインしてきた際、同じような症状の兆候が見られたためこのパーツが交換されたが、「偶発的なトラブルである」と結論づけられたため、リード車のパーツを予防交換する必要は無いというあやまった判断が下されたための悲劇だった。これでマツダがトップに立ち、燃費のきびしいジャガーの追撃をやすやすと振り切って、日本車としてはじめてル・マンを制する栄誉に浴したのである。上位陣のあいつぐリタイヤによって、ただ一台生き残ったヨーストの962Cは、日曜日の午前中に電気系のトラブルから一時コース上にストップしながらも、総合七位に入った。これは962Cのなかでは最上位の成績であったが、一位から六位までを962Cと同カテゴリの旧規定スポーツカーが独占したことを考えると、完敗にちかい結果であった。もはや長年の経験で耐久レースに精通したポルシェとヨースト・レーシングの神通力をもってしても、ポルシェ962Cの劣勢をくつがえすことはできなかった。   
   
シャシーナンバー962-129のポルシェ962Cは、1986年にヨースト・レーシングが製作したモノコックであり、翌1987年3月のインターセリエ・ホッケンハイム戦で実戦デビューした。この年には世界選手権、インターセリエ、ドイツ・スーパーカップという三つのカテゴリを行き来する忙しいシーズンを送り、ル・マン24時間レースではヨースト・レーシングのNr.7として出走、ポルシェがこの年なかばに撤退を表明した世界スポーツカー選手権では、「準ワークス」としてヨースト・レーシングからモンヅァ1000キロレース、ル・マン24時間レース、ノリスリンク200マイルレース、ブランズハッチ1000キロレース、ニュルブルグリンク1000キロレース、富士1000キロレース、キャラミ500キロレースの各レースに参加した。世界選手権レースでの最高位はブランズハッチの四位であった。   
1988年には世界スポーツカー選手権の開幕戦・ヘレス800キロレース及び第二戦・ハラマ360キロレースを除く全戦、及びドイツ・スーパーカップ選手権に参戦したが、ル・マンには参戦しなかった。このうち世界選手権戦ではブランズハッチ1000キロレースで二位に入り、最終戦キャラミ500キロレースでは優勝している。この年のシルバーストーンから、その後長く使用されることになるハイダウンフォース・セッティング用の延長されたノーズ・カウルが投入された。   
1989年には活躍の場をIMSA-GTP選手権に移し、デイトナ24時間レース、マイアミ3時間レース、セブリング12時間レース、タンパ360キロレースに参加した。最高位はセブリング12時間レースでの五位であった。   
1990年には世界スポーツカー選手権に向けて大規模な近代化改修をうけ、本記事の写真とおおむね共通の外観に改造された。この年には世界選手権レースのうち鈴鹿、モンヅァ、スパの各480キロレースにのみ参戦し、このうちモンヅァで得た14位が最高位であった。   
1991年にはIMSA-GTP選手権開幕戦・デイトナ24時間レースに参加し、同レースで優勝を果たした。このレースを最後に、シャシーナンバー962-129は第一線を退いている。   
   
シャシーナンバー962-012のポルシェ962Cは、1990年にヨースト・レーシングがワークス仕様に準拠した仕様で製作したシャシーであり、シャシーナンバー962-149のモノコックをベースに新規ナンバーを付与された (ナンバーが-01x系のシャシーが、合計十台製作されたワークス純正シャシーと同一規格のものである)。1990年にヨースト・レーシングのエースカーとしてボブ・ウォレック/フランク・イェリンスキに託され世界スポーツカー選手権全戦を戦った。最高位はシルバーストーン480キロレースでの四位であった。   
1991年にはル・マン24時間レースに参戦し、このレースで七位を得た。その後欧州の草レース・シリーズであるインターセリエ・レースに散発的に参戦した。十月には同年の世界スポーツカー選手権・メキシコシティ480キロレースに、シリーズ・エントリーしていたチーム・サラミンの枠を借りて白地に青のブラウプンクト・カラーでスポット参戦し、三位表彰台を得ている。この唐突なスポット参戦の経緯はあきらかではない。   
1992年には、インターセリエのレースに一戦のみ参戦した記録が残っているが、これがこのシャシーの最後のレースであった。   
   
シャシーナンバー962-014のポルシェ962Cは、962-012と同じく、1990年に962-156のモノコックをベースに製作されたワークス・スペック・シャシーである。オリジナルの962-156のモノコックはドイツのシュティッケル社が製作したもので、オリジナルとは細部が異なっていたとされる。1990年の世界スポーツカー選手権にヨースト・レーシングのセカンドカーとしてエントリーされ、全戦に参加した。最高位は最終戦のメキシコシティ480キロレースでの五位であった。   
1991年には962-012同様ル・マン24時間レースおよびインターセリエ・レースに参戦したが、ル・マンではリタイヤに終っている。こちらも十月にSWC最終戦・メキシコシティ480キロレースにスポット参戦し、こちらは赤地に黄色いストライプのMOMOカラーを纏い五位で完走している。   
1993年には、最後の実戦レースを前に1990年ル・マン仕様に共通するロングテール・タイプのボディカウルに戻され、ル・マン公式テストおよびル・マン24時間レースに参加した。ル・マン24時間レースでは九位で完走している。962-012と962-014は参加したレースのほとんどで僚艦の関係にあり、いわば戦場を共にした姉妹艦に見立てられる。「彼女たち」はレギュレーション変更や時代の流れによって日増しに苦しくなっていった戦況の中を、翼を並べて駆け抜けていったのである。

2015年6月 2日 (火)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1990・下」

ポルシェ962Cは、その先代である956同様アルミの板材を組み合わせてつくった単純なモノコック構造を有する、ごく基本的なつくりのレーシングカーであった。この構造は956の開発がおこなわれた1981年末から1982年頃には一般的なものであったが、956のモノコックはすでにそのテスト段階から強度不足の兆候を示しはじめていた。1982年初頭までに複数回おこなわれた走行テストにおいて、はやくもアルミ・モノコックが走行中にひずみや歪みを生じることが確認されたのである。この現象は962Cでより深刻化した。もともと962Cは956にくらべてホイールベースが伸びており、エンジンがより後方に下がったため重量配分がリヤ寄りになって、前輪の接地荷重が不足気味だった。そのうえ時代が下るとともに、技術の進歩や開発努力によってエンジン・パワーが際限なく上昇し、またサスペンションやタイヤの性能向上によってより高い速度でコーナーをまわることが可能になった結果、モノコックにかかる負荷は想定を超えたものになっていった。その結果はコーナリング性能の悪化という形になってあらわれ、962Cはデビュー直後から悪性のアンダーステア症状に悩まされるようになった。応急的な対策として、1989年には短距離レース用の車を改造してオイル・クーラーを車体前部に移設し、フロント・タイヤに荷重をかけてコーナリング性能を改善する手段が取られた。この改造は一応効果を示したが、モノコックそのものを改造したわけではなかったため問題の根本的な解決にはならなかった。モノコック自体を作り直すには多大な時間と資金と人員が必要だったが、この頃ポルシェはそのいずれも持っていなかった。   
   
このような状況を打開すべく、80年代の終りごろから一部のプライベート・チームが962Cに独自の改造をほどこしはじめた。改造範囲は主にアキレス腱であったモノコック剛性にかかわる部分であったが、なかでもとりわけ大規模な改造がほどこされ、半ばオリジナル・カーのような様相を呈したものもあった。    
   
9011日本の服飾メーカーである伊太利屋のスポンサー・カラーが目を引くが、ポルシェのエンブレムがついていること以外に、この車をポルシェであると判断する外見的材料はまったく見当たらない。しかしこの車はれっきとした962Cである。いわゆる「962C改」として代表的な存在が、リチャード・ロイド・レーシング (RLR) が製作した通称「962GTi」とよばれる派生型であり、写真は1990年ル・マンに出場したシャシー・ナンバー962GTi-201の車である。マニュエル・ロイター/ジェームス・ウィーヴァー/JJレートが操縦し予選で十三位を獲得したが、レースでは深夜過ぎにピットで火災を起こしてリタイヤしている。    
   
この車は通常のアルミ材ではなく、二枚の板材のあいだに蜂の巣状に成形された強度部材を挟んだアルミ・ハニカムでモノコックをつくり直してあった。ハニカム材は通常の板材にくらべて強度にすぐれるため、これによってモノコック全体の剛性が改善されたのである。リチャード・ロイドが設立したGTiエンジニアリング (1985年にリチャード・ロイド・レーシングへ改名。当初リチャード・ロイドがVW・ゴルフGTiで英国サルーンカー選手権に出場していたことと、それに並行してVW/アウディ車の販売・改造を行っていたことからこの名がつけられた) は1983年に956が市販されはじめたときに、真っ先にこれを購入したプライベート・チームのうちのひとつであったが、彼らは956の弱点がモノコックにあることをはやくから見抜いていた。ハニカム材でモノコックをつくりかえる手法はこの時期に考案されたもので、1984年から投入されたハニカム・モノコックの改造車である「956GTi」はしばしばワークス・カーをもおびやかす速さを示したため注目された。RLRはちいさなチームであり、このハニカム製モノコックを生産・販売する能力はなく、またそのつもりもなかった。かわりにジョン・トンプソンひきいるイギリスのモノコック製造メーカーであるTCプロトタイプ社が、962C用にこのRLR製モノコックを簡略化した市販版を製作し、一部チームに供給した。    
   
RLRが956にかえて962Cを導入したのは1987年であったが、この車もやはりモノコックがハニカム製のものに置き換えられていた。956GTiは外見的には通常の956とほとんど変わらなかったが、962GTiは空力特性の改善のためカウルのデザインにも手が加えられ、オリジナルの962Cとはまったく違う曲線的なボディ・カウルをかぶせられ、リヤウィングもいち早く独立式のものを採用した。またアンダーステア対策のためフロント・サスペンションが全面的に作りなおされるなど、随所に先進的な設計が見られた意欲作であった。当初この改造は一定の効果を発揮し、962GTiはポルシェ勢の中ではつねに上位に位置していた。しかし1989年後半になってくると、メーカー・ワークスの豊富な資金にあかした大規模な開発についていけなくなり、1990年にはその頽勢は決定的なものとなった。リチャード・ロイド・レーシングはこの年を最後に、コストの高騰を理由にスポーツカー・レースから撤退した。    
   
9013ボディより一段高い位置にとりつけられたハイダウンフォース仕様のリヤウィングと、リヤタイヤを覆うボディ一体式のカバーが目を引く。このようなタイヤ・カバーは1989年以前のル・マン用スポーツカーで、主にタイヤの回転によって発生する空気抵抗を解消するために使用された。抵抗削減のほか、ボディ外側を流れる空気がホイールの開口部から床下へ巻き込むのを防ぐことにも効果があり、床下で発生するダウンフォース効果を向上させることができたが、タイヤやブレーキがつねに過熱気味になるという副作用があり、またタイヤ・バースト時の安全性への懸念、さらにサルテ・サーキットの長い直線区間がシケインによって分断され、最高速の伸びが以前ほど重視されなくなったことから、グループC以降はほぼ廃れた。実際、この43号車は夜明け前に後輪がバーストする事故を起こしたが、カバーのせいでタイヤの破片がボディの外側ではなく内側へ飛散し、その際に何かの配管を傷つけて車体後部から出火、そのままピットへ入ってきたためにピット施設に引火して大規模な火災を引き起こしている。    
   
8925

 

1989年ル・マン仕様の962GTi。このときは日本たばこのブランドであるキャビンが活動を支援し、車体が同ブランドのイメージカラーである赤に塗られた。上の写真と見比べると、長いストレートに対応してリヤウィングがボディとほぼ同じ高さにとりつけられたロードラッグ仕様であることがわかる。   
   
8926

 

同じ車をフロントから見た写真。ブレーキ冷却用ダクトが前端部に位置していること、ヘッドライト内部の配置が異なることから1990年仕様車と見分けられる。この14号車はシャシー・ナンバー962-200の個体だが、奇しくもこの車もレース中のエンジン火災によってリタイヤしている。   
   
RLRの製作したアルミ・ハニカム製モノコックは、たしかにアルミ板材製のモノコックにくらべて明らかに高い剛性をもっていたが、それはあくまで負荷がある一定の値におさまっている間だけだった。962Cの搭載する水平対向エンジンは構造上モノコックに直接とりつけることができず、車体後部にフレームを組んでその中にエンジンを収め、そのフレームをモノコックに結合するという方法をとらなければならなかった。車体にある程度以上の荷重がかかると、どんなにモノコックそのものの強度を上げても、モノコックとエンジンを結合するフレームの部分が負荷に耐えられずにゆがんでしまうのである。これを解決するにはモノコックの形状を見直すほかなかったが、一介のプライベート・チームであるRLRにはそこまでのことをする資金がなかった。基本設計の限界というほかなかった。    
   
RLRと並んで早くから改造版962Cを走らせていたチームが、ポルシェ系プライベーターの名門クレマー・レーシングであった。彼らは70年代のグループ5カー・レースに、ポルシェのGTカーを独自に改造した車で参戦し活躍した歴史があり、グループC規定施行初年度の1982年には、956導入までの場つなぎとして、グループ6カーである936ベースのオリジナル・カー「CK5」を製作するなど、大規模な改造を得意としていた。クレマーは1986年から前述のトンプソン製ハニカム・モノコックを導入していたが、1988年になると自製ハニカム・モノコックを持ったオリジナル・シャシーの投入に踏み切ったのである。当初製作は引き続きトンプソンに外注され、車名はCK5からの連番で「962CK6」とされた。大半が独自設計であったCK5とちがい、モノコックの設計そのものは962Cと変わらないため「962」の名称は残された。当初ル・マン仕様車はオリジナルのロードラッグ仕様とほぼ同じ外観であったが、1990年にストレートが分断されたことをきっかけに短距離レース/ル・マン兼用の新型ボディ・カウルが設計された。    
   

90071990年のル・マンに参戦した、シャシー・ナンバー962CK6/07-2のハニカム・モノコック車である。1986年からクレマー・レーシングのポルシェでル・マンに出走していた日本人ドライバーの高橋国光と岡田秀樹、南アフリカのサレル・ヴァン・デル・メーヴェの三人が操縦を受け持った。予選は前述のRLR・43号車のすぐ前である十二位だった。レースではスタート四時間後にバッテリーの故障で電圧がゼロになってしまい、一時コース上に立ち往生するトラブルに見舞われた。ヴァン・デル・メーヴェは手先を火傷しながらも破損した電極をコース脇でつなぎ直し、よろよろとピットに戻ってくることができたが、これで10号車は最後尾近い四十位まで後退してしまった。その後彼らはトップ・グループを猛追し、日曜午後までにはなんと十位近辺まで挽回したが、レースが残り三時間弱となったところでこんどはギヤボックス・トラブルが発生した。リスクをとることを避けたチームは車をピット・ガレージに押し込み、フィニッシュ間際になってコースインさせチェッカー・フラッグを受けることを選んだ。四速ギヤが使えない状態の10号車に火を入れ、ヴァン・デル・メーヴェがふたたびコース上の人となったのは、レースが残り二十分弱となった頃であった。10号車の最終結果は二十四位完走であった。
この車もボディカウルはオリジナルだが、曲線的な962GTiに対してこちらは直線基調のデザインが目立つ。独立式リヤウィングやリヤタイヤを覆うカバーなど、全体の設計思想は962GTiと共通点が多い。   

当初クレマーはアルミハニカム・モノコックを使用していたが、もはやハニカム材ですら強度的な優位がないと判断すると、1989年にはレイアウトはそのままに材質を置き換えた自社製のカーボン・ファイバー・モノコックを投入した。カーボン・ファイバー製モノコックはすでに80年代なかばからF1カーでは一般的になっていて、スポーツカーでは1986年のジャガーをかわきりに、この1989年だけでニッサン及びトヨタが、1990年にはサウバーとマツダが採用し、徐々に浸透しつつあった。カーボン・モノコックはすばらしい強度を持っていたが、素材であるカーボン・ファイバーが高価であり、成形にもノウハウが必要であったため、もとよりプライベート・チームが製作するモノコックにはあまり適さなかった。しかしほぼすべてのライバルが性能のすぐれるカーボン・モノコックを投入している以上、同じもので対抗しなければ勝負にならないのはあきらかだった。962CK6は最終的にグループC仕様車が十一台製作されたが、そのうちCK6-02、-03、-04、-05/2、-08の五台がカーボン・モノコック車であったとされる。写真の-07/2は1990年にデリバリーされたトンプソン製モノコックで、素材はアルミ・ハニカムであった。   

9008 オリジナルではほとんど工夫されていなかったボディ側面の空力にも手が加えられた。フロントタイヤハウスの後部は角型に拡げられているが、これはタイヤハウス内で発生した高圧の「空気溜まり」を効果的に排出し、この部分での空気抵抗を削減するためであると思われる。その直後に見える縦長のスリットも、おそらくタイヤハウス内の空気を引き出すためのものであろう。ノーズ前端部は薄く整形され、鳥の喙のように前方へ伸ばされている。

オリジナルのデザインはそのままに材質をカーボン化するアイデアはほかのコンストラクターも持っており、クレマー以外ではチーム・シュパンが1990年から翌1991年にかけて製作した三台のオリジナル・シャシーが、カーボン・ファイバー・モノコックとなっていた。このほか、ブルン・モータースポーツがトンプソン社に発注したアルミ・ハニカム製モノコック (識別のためシャシー・ナンバー末尾に「ブルン・モータースポーツ」を意味するBMが付けられた) はフロント部の構造材がカーボン・ファイバーの板材で補強されていたが、これは性能アップというよりはクラッシュ時にドライバーの脚部を保護するためのものであった。962Cのカーボン製モノコックは、コストの割にはあまり顕著な効果が見られなかったことから、プライベート・チームの間ではあまり採用されなかった。   

 

9017

 

外見上、前述の二台の改造962Cよりはだいぶオリジナルに近い見た目をしているが、こちらもオリジナル・モノコックの962Cで、1990年ル・マンに出走したシャシー・ナンバー962-001GS、MOMOゲバルト・レーシングの962Cである。自動車用のドレスアップ・パーツを製作するMOMO社の社長ジャンピエロ・モレッティ、モノコックを制作したゲバルト・モータースポーツの頭領であるギュンター・ゲバルト、そしてゲバルトからスポーツカー・レースにデビューしたニック・アダムスの三人が操縦した。カーナンバーが230と大きいのは、この車がC1クラスではなくGTPクラスでエントリーされていたためである (モデルの車検証ステッカーにはC1クラスと記されているが、おそらく考証ミスと思われる。あるいはレース前になってクラスを変更した可能性があるが、その経緯は明らかでない)。予選ではパワーで大きく劣るはずのマツダにすら六秒も水を開けられ三十五位にとどまり、レースでも中盤過ぎにギヤボックス・トラブルでリタイヤしている。   
   
IMSA-GTP選手権に長く参戦してきたジャンピエロ・モレッティが、みずからのチームであるMOMOコルセで962Cを走らせたのは1988年からであり、このときはブルン・モータースポーツがトンプソンに依頼して製作した、シャシー・ナンバー962-003BMの個体を借りてレースをしていた。翌1989年になると、モレッティはかつてC2クラスのスポーツカーを自作し、その独特な設計思想で注目されていたギュンター・ゲバルトをチームの事実上のテクニカル・ディレクターに据え、ゲバルトに962C用の自社製モノコックを製作させた。これが962-001GSであり、GSは「ゲバルト・スポーツ」の略であろう。残念ながらこのモノコックについての詳細な資料はほとんど見当たらないが、時期的におそらくアルミ板材製もしくはアルミ・ハニカム製であったものと考えられる。    
   

 

9014デザイン上の特徴としては、オリジナルの角型と異なる半円形状に整形されたドア上面の空気取り入れ口形状、クレマー車同様整流のため角型に切り欠かれたフロントタイヤハウス後端、みじかく矩形に裁ち落とされたリヤ・オーバーハングとその先に低くマウントされたロードラッグ仕様の独立式リヤウィング、カウル後端部の半円形の開口部 (オイル・クーラーの導風口か) などがあげられる。フロントはオリジナルの外見的特徴をよくとどめているが、ノーズ前端部がやはりオリジナルにくらべて若干伸ばされ、空力特性の改善を図っている。写真ではル・マン仕様のためリヤウィングが低い位置にとりつけられているが、ハイダウンフォース仕様のウィングの立て付けはブルン・モータースポーツ製962Cに瓜二つである。このことから、この-001GSのモノコックをブルン・モータースポーツ製 (トンプソン製) としている資料も存在する (レーシングオン466号・「ポルシェ962C」特集。書中ではこのシャシーを「-003BM」と混同しているがこれはあやまりで、962-003BMと962-001GSはまったくの別物である。おそらくモレッティが当初962-003BMでレースをしていたことから生じた混乱と思われる。脚注参照)。いずれにせよ-001GSの製作にあたって、チームがそれまで使っていたブルン・モータースポーツのシャシーがなんらかの参考にされた可能性は高い。    
   
1990年という年は、グループCの世界選手権スポーツカー・レースにおいて十年近く維持されてきた基本理念である「燃費耐久競走」の要素がのこっていた最後の年であった。この年以降スポーツカー・レースは政治的な思惑にまみれ、しだいにその原義をわすれ、誰が何のためにやっているのかわからないような、とても世界選手権とは思えないようなレースへと変貌していった。そこにはもはや、古い時代の遺物であったポルシェ962Cの安住の地は見当たらなかった。かつて飛ぶ鳥を落とす勢いで世界中のスポーツカー・レースを駆け抜けたポルシェ962Cの長い旅は、グループCというカテゴリそのものとともに、その夕暮れを迎えていた。    
   
以下、本記事でとりあげたシャシーのおおまかな履歴を記す。やや長いので格納してある。興味のある方は読んでみて欲しい。    

 

続きを読む "ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1990・下」" »

2015年5月25日 (月)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1990・中」

1990年、スポーツカー・レースは規定変更にかかわる紛糾によって混乱したが、その影響は伝統の一戦ル・マン24時間レースにもあらわれていた。3,5リッター規定の施行により参加台数がおおきく減少することを予想した主催者のフランス西部自動車クラブがこの規定に反発し、FISAと反目した結果ル・マンのレースが世界選手権戦から外されてしまったのである。このためあくまでも世界選手権タイトルにこだわったサウバー・メルセデスがレースを欠場することになったが、この年のWSPCでグッドイヤー・タイヤを獲得し、前年にも増して独走していたサウバー・メルセデスの欠場は、ほかのメーカー・ワークスをよろこばせた。この年はニッサンがル・マンに向けて特に力を入れてきており、前年取り逃がした勝利を今年こそ奪回したいジャガーや、耐久レースでの長い経験を武器にしたたかなレースを得意とするヨースト・レーシングとのあいだの激闘が予想された。   
   
また1990年という年は、ル・マン24時間レースにとって大きな変革の年でもあった。この年からコース中程にある全長6000mのストレート区間が、ふたつのシケインによって三本のみじかいストレートに分断されたのである。6000m、時間にして約一分ほどもアクセルを全開にしていたのでは安全上問題がある、というのが表向きの理由であったが、実際にはFISAのなかば嫌がらせめいた指示であった、ともささやかれた。ともかく、レースが行われるサルテ・サーキットはそれまでとはまったく違ったスタイルに変貌を遂げ、このコースを走るのは誰もがはじめて同然という状態になった。理論上は誰にでも勝つチャンスがあった。    
   
このレースにおいて、ポルシェ陣営は車輌の空力設定について判断が分かれた。ヨースト・レーシングはじめ多くのポルシェ・ユーザーは、シケインの設置が全体のスピードに与える影響は無視できる範囲と判断し、従来と同じくコーナリング・スピードを犠牲にしてでも空気抵抗を減らす、特製のロードラッグ・カウルを持ち込んだ。反対に、ブルン・モータースポーツ、リチャード・ロイド・レーシング、アルファ・レーシング、チーム・デイヴィーの各チームは、新レイアウトでは単純な直線スピード重視のセッティングよりも、ある程度ダウンフォースをつけてコーナリング・スピードを向上し、全体のバランスを重視したセッティングに分があると判断し、スプリント・レース用とおなじスペックのハイダウンフォース・カウルを持ってきていた。リチャード・ロイド・レーシングは、二台エントリーした車のうち一台をハイダウンフォース仕様、もう一台をロードラッグ仕様で走らせ、またアルファ・レーシングは、二種類のカウルを持ち込んで実際に比較テストを行い、そのうえで最終的な決定を下した。レースにおいて、両者の明暗はくっきりと分れることになる。    
   
9002

 

1990年ル・マン24時間レースにヨースト・レーシングから出走した、シャシーナンバー962-145のポルシェ962Cである。車体形状は1988年にワークス・チームが使用したものとほぼ同一であり、いわばワークス製962Cの最終仕様、「第一世代」の終りにあたる。初期型の962Cと見比べてみると、同じように見えても実際には各部で異なっていることがわかる。    
   
モデルはスパークのレジン製1/43スケール。品番はスパーク通常仕様の「Sいくつ」ではなく「KBS034」、国際貿易株式会社の特注モデルである。同社は一時期日本におけるスパークモデルの代理店を務めており、「日本の耐久レース」をテーマとした数々の特注製品を発売していた経歴があった。この時期のル・マン24時間レースはF1同様バブル景気の後押しを受けた日本企業のメイン・スポンサーが多く、それらのレース・カーを特注で製品化したり、あるいは日本で開催された世界選手権レースの仕様でスポーツカーをモデル化させたりといったラインナップであった。国際貿易はその後、記憶が確かなら2012年頃にスパークの取り扱いをやめてしまったため、残念ながらこのシリーズも打ち切られてしまっている。    
   
9005

 

初期型ともっとも異なるのはテールまわりである。1988年に車体寸法の規定が変更され、車体後端部の跳ね上げの最大地上高が若干低められた。そのため車体後部の厚みが増している。962Cは水平対向エンジンを搭載する関係上、どうしてもこの部分の跳ね上げを高く取れなかったため、この変更はポルシェ有利に働くはずであった。   
   
1990年のル・マンに、ヨースト・レーシングはワークス仕様シャシー二台 (8号車962-013、7号車962-015) とカスタマー仕様シャシー二台 (6号車962-144、9号車962-145) の計四台をそろえて臨んだ。しかしレース前のウォームアップ走行で、8号車のジョナサン・パーマーがさっそくふたつのシケインの間のストレートで大クラッシュし、短時間での修復が不可能とみられたためレースから撤退しなければならなくなってしまった。原因はサスペンション・トラブルではないかと推測された。サルテ・サーキットはその大部分を公道を封鎖した区間が占めており、シケインが追加されたストレートも公道区間であったが、シケインそのものはあとからつくられたものであった。そのためストレートとシケインのあいだに舗装の段差ができており、ダウンフォースをギリギリまで削ったロードラッグ仕様の車はこの段差での安定性を欠いていた。ヨースト・レーシングの判断は裏目に出てしまったのである。このときパーマーがクラッシュさせたシャシーのシャシー・ナンバーが13であり、それとアクシデントを関連付けて語る者もあった。実際にそのことが影響していたのかどうかはわからないが、ヨーストはこの年ル・マンでもまったくいいところなく終っている (ちなみにこの962-013シャシーはのちに修復され、1993年のル・マンにその姿を見せることになる。このあたりの物語は後日あらためて詳述したい)。    
シケインの餌食になったのはポルシェだけではなかった。レースが半分ほどをすぎたあたりでニッサンの車が燃料タンクの亀裂によってリタイヤしたが、この原因はシケインの段差を乗り越える際のショックに燃料タンクが耐えられなかったためであったといわれている。    
   
9003

 

この年のル・マンでは、ヨースト・レーシングのうちワークス仕様の二台は世界選手権戦とおなじくカーオーディオメーカーのブラウプンクト、6号車はフランスのジャン・ルイ・リッチが持ち込んだ不動産会社のDBグループとガス会社のプリマガス、そして9号車は日本のスポーツ用品メーカーであるミズノがメインスポンサーになった。9号車は世界選手権戦にもブラウプンクト・カラーで全レースに参戦したが、開幕戦の鈴鹿480kmとこのル・マン24時間レースのみミズノ・カラーであった。白地にブルーのツートーンが爽やかなカラーリングである。写真では明るく映っているが、実際のモデルは実車同様、もうすこし暗いブルーである。   
   
レースがはじまると、ヨースト・レーシングはじめ大多数のポルシェ・ユーザーの判断がまちがっていたことはいっそうあきらかなものとなった。予選ではニッサンがポール・ポジションを奪ったが、そのすぐあとにスイスのブルン・モータースポーツが用意した962Cがつけたのである。ブルンの車はハイダウンフォース・カウルでコーナリング・スピードを確保しつつ、アメリカのアンディアル社が耐久レース用に改造した3.2リッター仕様のエンジンを搭載して、ストレート・スピードの不利をエンジン・パワーで補っていた。レースでもこのブルン・ポルシェはスタート直後から首位のニッサンに食い下がり、途中ジャガーに抜かれる局面もあったが最終盤まで二位を堅持し、自身もまたドライバーであったウォルター・ブルンのすぐれた才覚を証明するかと思われたその矢先、二十四時間のレースが残り十分少々となったところで突如エンジンから白煙を吹き上げ、コース脇にストップしてしまったのである。ル・マン24時間レースの規則には「参加車は24時間終了時点でコース上にあり動いていなければならない」と明記されており、したがってブルンの車は最終的に二位に入ったジャガーと同じ三百五十五周を走りながら、完走扱いにすらならなかったのである。なんとも劇的な、そして後味のわるい幕切れであった。    
この突然のリタイヤによってジャガーは期せずして1-2フィニッシュを果たしたが、三位には日本のアルファ・レーシングがエントリーしたポルシェが入った。このアルファ・レーシングは同時期に全日本スポーツカー選手権に参戦していたチームで、ドライバーは三人ともイギリス人を起用したがチーム・スタッフは日本人中心に揃えられ、車のメンテナンスも日本の東名自動車のスタッフが行っていた。ヨースト・レーシングの車は、7号車のイェリンスキ/ベル/シュトゥック組が、ニッサン、トヨタの両ワークスを抑えて四位に入ったのが最高だった。    
   
9004

 

9号車のドライバーはスタンレー・ディケンズ、ボブ・ウォレック、ジョン・ウィンターの三人で、このほかウィル・ホイが補欠ドライバーとして当初予定されていた。予選は二位のブルン・ポルシェから6秒遅れの18位、決勝レースでは特におおきなトラブルもなく淡々と走りきり、13周遅れの8位で完走している。出走した三台のヨースト・レーシング車のなかでは二番目の成績で、もう一台の6号車は14位であった。レース内容としては特によくもわるくもなく、ただスタートして完走したというだけのことだった。チームが当初期待していたような、メーカー・ワークスの車と優勝争いをする場面はついに一度もなかったのである。そればかりか、ポルシェ962Cがル・マンにおいてトップ5圏内で完走すること自体、この年が最後であった。   
   
シャシーナンバー962-145のポルシェ962Cは、1989年のル・マン24時間レース用にヨースト・レーシングが発注し製作されたカスタマー・スペックのシャシーで、同レースで三位を得た。6月末にドイツ・スーパーカップ (DSM) ノリスリンク戦にスポット参戦し優勝している。その後改修が施されて962-011同様のフロント・オイルクーラー配置にアップデートされ、7月のWSPCブランズハッチ戦では7号車、ウォレック/イェリンスキ組のレース・カーとして使用された。続くWSPCニュルブルグリンク、ドニントンでは7号車のスペア・カーとして持ち込まれ、10月初頭のJSPCインターチャレンヂ富士1000kmレースへのスポット参戦を挟んで、WSPC最終戦メキシコにふたたびレース・カーとして参戦した (この年のヨースト・レーシングの歩みは以前の記事でも述べてある)。ル・マン以外では、WSPCブランズハッチ480kmレースで二位を得たのが最高位であった。    
1990年にはオイル・クーラーの位置を元に戻す改修を受けてカスタマー・スペック仕様に戻され (「1990・上」参照)、ヨースト・レーシングの9号車として開幕戦・鈴鹿480km (このとき9号車として持ち込まれたのは962-129) を除くWSPC全戦とル・マン24時間レース (本記事の仕様) に参加した。    
1991年のスポーツカー世界選手権にヨースト・レーシングは参加せず、かわりにデイトナ24時間レースをはじめとするIMSA-GTP選手権シリーズに、最終戦デル・マー2時間レースを除く全戦に参戦した。この間デイトナではポール・ポジションを獲得、セブリング12時間レースで三位、ロードアトランタ300kmレースで五位、マイアミ二時間レース・ポートランド300kmレースでそれぞれ六位でフィニッシュした。GTPレースの合間には実戦テストも兼ねてインターセリエ・シリーズにも参戦し、またこの年のル・マンにヨースト・レーシングの三台目として持ち込まれ、実際に予選を走ったが、決勝レースを前に出走を見合わせている。    
このシャシーは91年ル・マン後からジャンピエロ・モレッティのMOMOレーシングに貸し出され、1992年にはデイトナ24時間、セブリング12時間、ニューオーリンズ1時間45分の各レースにMOMOレーシングから出走し、セブリングでは三位を得た。その後インターセリエのレースに二戦出走したのち引退している。    
   
(つづく)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1990・上」

1989年にポルシェ・ワークス・チームがスポーツカー・レースから一旦撤退したことにより、ヨースト・レーシングはその活動を引き継ぐことになった。彼らはポルシェの支援を得て1989年の世界スポーツカー選手権に参戦し、また同年ル・マンではメルセデス・ベンツやジャガー、ニッサンといったワークス・チームと互角に戦い、最終的に三位を得た。ポルシェはこの間、すでに施行が時間の問題となっていたグループC規格の改定にむけて新車の開発を行っており、この年初めには同社CARTプロジェクト用のV8ターボ・エンジンをベースにしたエンジンを962Cに搭載してテスト走行を行っていた (このシャシーは962/8-001としてテスト専用に新造され、その使命を終えると通常の962Cの仕様に戻されたうえで962-141の新シャシー・ナンバーを与えられ、ヨッヘン・ダウアーに売却された。ダウアーはこのシャシーで1989年6月から翌1990年にかけてWSPCやインターセリエ、デイトナ24時間レースなどに散発的に参戦した。この962/8-001が通常仕様と具体的にどのように異なっていたかに関する資料は見つかっていない)。大方の予想ではポルシェ・ワークスは新型車が完成しだいサーキットに戻ってくるものと考えられており、したがってヨースト・レーシングがワークスのかわりの役目を果たすのもそれまでの間だけであるはずだった。   
   
しかし、年が明けて1990年を迎えると、雲行きはどんどんあやしくなっていった。1990年は世界中のほぼすべての自動車レースの世界選手権で政治紛争の嵐が吹き荒れたが、スポーツカー・レースにおいてはとりわけ事態が紛糾した。論争の焦点はグループC規格の改定にかんする問題で、エンジンの規格をそれまでの排気量・過給とも自由、ただし使用燃料総量を一意的に規制する、というものから、F1用エンジンとおなじ3.5リッター自然吸気のみに一本化し、燃費規制を撤廃、あわせてレース距離を短縮しレースそのものの高速化・短時間化をはかるものであった。これはF1エンジンと規格を同一化することで、F1に参戦しているメーカーや、F1参戦を考えているメーカーが同時にスポーツカー・レースに参戦してくることを促すねらいがあった。またレースの短時間化によって、テレビ放映や集客などの数字を改善することが (すくなくとも表向きには) 目的であるとされた。しかし自動車メーカーにとって、あたらしくレース専用のエンジンを設計するのはとてもコストのかかることだったので、賛成の立場を示した者はほとんどなかった。それにレース距離を短縮し、燃料使用量も無制限ということにしてしまうと、もはや耐久レースとしての競技の意義は無いにひとしくなってしまうのである。当初1989年から施行される予定だった改革案はこのため頓挫し、ひとまずは3.5リッター自然吸気エンジンの車を燃費規制なしで混走させることと、レース距離をそれまでの1000kmから480kmに短縮するのみにとどめられた。このため1989年以降も、引き続きレースの主役はさまざまな形態のエンジンを搭載したスポーツカーによる燃費レースになるはずであった。    
   
ところが最終的に、翌1991年からグループC規格は事実上前述の3.5リッター・エンジン車に一本化されることがほぼ決定してしまったのである。この背後にはプジョーの存在があった。かつて世界ラリー選手権がグループBで競われていた頃、プジョーはアウディの四輪駆動車やランチアのミッドエンジン車に対抗すべく、そのふたつを合体させたようなミッドエンジンの四輪駆動車をつくり、連戦連勝の快進撃をつづけた。しかしその直後、死亡事故の発生を契機としてFISAがグループB車輌の公認をすべて引き上げてしまい、プジョーの連勝劇は唐突に終りをつげたのである。これに激怒したプジョーは民事訴訟でFISAを告訴するまでに至ったが、最終的にプジョー側から和解することで平和裏に決着した。この譲歩の代償として、FISAはプジョーの提案をほぼそのまま受諾する形でスポーツカーのレギュレーションを改訂したのである。    
   
このことは、スポーツカー・レースに参戦するほとんどすべてのメーカー・ワークスの計画を大幅に狂わせた。ポルシェは規定に合致する3.5リッター自然吸気エンジンと、それを搭載するスポーツカーを白紙から開発することを選び、このため新車が間に合うまでヨースト・レーシングが引き続き最前線でポルシェの看板を背負って戦うことになった。1990年は旧規定のスポーツカーが走れる最後の年になるはずであったが、各メーカーとも例年にましてすさまじい開発競争をくりひろげ、潤沢な予算と人員を配して必勝の体制で挑みかかった。ポルシェはこの頃CARTレースにも参戦しており、また3.5リッター・エンジンの開発も同時に行っていたためスポーツカー・レースに全力を振り向けることができず、苦戦が予想された。    
   
9001

 

慢性的なリソース不足の中で、ヨースト・レーシングは962Cに大規模な近代化改修を行った。写真手前の車は、この1990年最終仕様と同一の仕様で1990年11月に製作されたシャシー・ナンバー962-155の個体であり、ドイツのオベルマイヤー・レーシングがこれを購入し1993年のル・マン24時間レースに出走した。写真奥の1989年仕様とはオイルクーラー位置以外基本的には同一の形状をしているが、ヘッドライト形状やフロントエンド/リヤエンドの処理が改められ、ホイールベースが若干延長されている。また写真では見えていないが、1989年仕様に比してディフューザー上端の張り出しが延長され、エアトンネルの容積が拡大されている。この個体については後日の記事で詳述したい。   
   
962C-90Mont-Wollek-Jelinski-2

 

参考までに、実車の写真を掲載する。1990年WSPCモントリオール、カーナンバー7のボブ・ウォレック/フランク・イェリンスキ車で、シャシーナンバー962-012の個体である (この仕様は現在のところモデル化されていない)。ターボ・チャージャー用のシュノーケル型吸気口が追加されているのが確認できる。この年からエンジンが3.2L (3164cc) に拡大され、まずWSPCラウンド用に投入された。ヨースト・レーシングがル・マン用にこのエンジンを投入するのは翌1991年のことである。   
   
小規模チームながら力強い戦いを続けた1989年WSPCとはうってかわって、1990年のレースはヨースト・レーシングにとって苦難の連続となった。おおきな原因はタイヤだった。皮肉にも前年ヨースト・レーシングが使用してその優秀さを証明したグッドイヤー・タイヤが各チームのあいだで争奪戦となり、最終的にミシュランから乗り換えたサウバー・メルセデスとダンロップから乗り換えたジャガーが獲得した。ヨースト・レーシングはサウバーと交換するかたちでミシュラン・タイヤを使わなければならなくなり、ごく低調な成績しか得られなかったのである。この年のヨーストの入賞記録は四位、五位が各一回ずつと六位が三回で、いずれもNr.7のウォレック/イェリンスキ組が記録したものであった。最終的なチーム・ランキングは五位で、C2クラスのシャシーにフォードのF1用エンジンを積んだにわか仕立てのC1カーを使うスパイス・エンジニアリングにも負けていたが、この年のポルシェ・ユーザーの中では最上位であり、また一年を通して大不振に終ったトヨタ・チーム・トムスよりは上位の成績であった。    
   
962C-89Donington-Ricci-Pescarolo962C-90Dijon-Pescarolo-Ricci

 

前述の1990年ワークス仕様は1990年を通して二台のみが投入され、ラウンドによって参戦した三台目以降の車は写真のような設定であった。リヤカウルの形状は1989年仕様とほぼ同一であり、フロントカウルも異なる形状をしている。一見すると通常の962Cと共通の形状に見えるが、フロントエンドが延長されており、ボディ全体の寸法は-011系のボディと共通化されている。これにより空力特性も多少改善されたと思われる。この仕様は前年から一台のみ投入された-011系シャシーのセカンドカーとして開発され、スプリント・レースに特化したワークス仕様カウルにかわって、その後も主にヨースト・レーシングから各種耐久レースに参戦した。上写真が1989年WSPCドニントンの962-104C (もとは85年投入の962-004。修理の際に新ナンバーを与えられ、89年まで最前線で活躍した長寿シャシー)、下写真が1990年WSPCディジョンの962-144である。

 

(つづく)

2014年12月 5日 (金)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「断章・WSPC」

1987年の世界スポーツ・プロトタイプ選手権シーズン途中に、ポルシェはある発表によって全世界のスポーツカー・レース関係者をあっと驚かせた。それは、ポルシェ・ワークスチームがこの年なかばをもって世界選手権戦からいったん撤退し、新型車の開発に集中するというものであった。当時ポルシェはアメリカ市場をにらんでインディカー・レースに参戦していたが、このエンジンをベースとした世界選手権用の新型エンジンを製作し、これを新型車に載せてふたたびカムバックしようという意図で、これはすでにポルシェ本社が962Cの将来性に見切りをつけていたことのあらわれでもあった。ワークス・ポルシェ復帰までのあいだ、962Cはそれぞれプライベート・チームの運用に任せられることになり、ポルシェ社は技術者を送り込んでこれをサポートする役割を担うこととなった。   
   
1988年、すでにワークス活動を休止していたポルシェ・チームがワークスとして参加したレースがたった二レースのみあった。ひとつは伝統の一戦ル・マンであり、もうひとつは十月に行われたWSPC最終戦・富士1000キロレースで、前者はポルシェにとって連勝記録のかかった大一番、後者は日本のプライベート・チームに向けてポルシェの優位性をアピールするためのものであった。しかしポルシェは、この二レースとも勝つことができなかった。ル・マンでは、クラウス・ルドウィグ、デレク・ベル、ハンス・シュトゥックというエースドライバー三人の車が最後の瞬間まで食い下がったがジャガーにやぶれて二位に終り、富士でもルドウィグとプライス・コブのポルシェはジャガーに優勝をゆずらなければならなかった。大メーカーのワークス・カーに対抗しうる新車の投入はまさに急務となった。    
   
ところが、1989年の世界選手権にポルシェの新車はあらわれなかった。そればかりか、前年までプライベート・チーム向けに細々と続けられてきた962Cのメーカー開発までが打ち切られてしまったのである。ポルシェ本社はこのころ経営状態が日毎に苦しくなっていくような状況で、期待されていたCARTのレースでも思うように結果が出ず、モータースポーツ活動全体が縮小傾向にあった。すでにスポーツカーのエンジンと車体をそれぞれ新規に開発している余裕はどこにもなかったのである。けっきょくポルシェは1990年をもってCARTシリーズからも撤退し、以後しばらくメーカー・ワークスを表に出した活動から遠ざかることになる。    
   
8901

 

一見するとポルシェ962Cにはとても見えない車だが、れっきとした962Cであり、キャビン周辺には962Cの面影がよく残っている。ポルシェは1988年をさいごにポルシェ・ワークスとしてスポーツカーを走らせることはなくなったが、この車の開発にかかわったレース・スタッフの多くが、当時プライベーターとしてポルシェ本社とのつながりが深かったヨースト (イェスト)・レーシングへ出向し、このチームが事実上のワークス・チームとなって、ポルシェ962Cを延命させることとなった。その手始めに、彼らがポルシェ962Cに対しておこなった大改造の結果が写真の車である。ポルシェ・ワークス・チーム向けの962Cは1984年から1988年までに-001から-010までの十台がつくられ、このほかプライベート・チーム用に量産スペックのシャシーが-101からの連番で製作された。このシャシーはシャシー・ナンバー962-142として製作されたもので、ヨースト・レーシングおよびポルシェによって大々的な改造をほどこされ、あらたに962-011のナンバーを刻まれた。ワークス・スペック・シャシーである0番台のシャシー・ナンバーこそは、この車がポルシェ直系の、いわば962Cの正統な末裔であることを物語っている。ポルシェは、長く戦ってきた962Cを見捨てるようなことはしなかったのであった。   
   
8903

 

それまでボディと一体型であったリヤウィングは、当時ほかのスポーツカーの多くがそうであったように、ボディカウルとは分離した形状にあらためられ、ギヤボックス後部に構造体を取り付けてそこにマウントする方式をとった。以後このスタイルが、世界選手権レースにおけるポルシェの標準系となっていく。この改造により後方への気流が改善されるとともに、セッティング作業を簡便化することができた。ディフューザーは後輪の最後端と同一面上まで伸ばされている。エンジンは引き続きワークス・スペックの3.0L (2994cc) 6気筒ターボ・エンジンを使用した。   
   
8918

 

大改造により、フロントの造形はオリジナルからはかなりかけ離れ、直線が強調された荒々しいスタイルに変貌している。962Cのモノコックは旧態的なアルミ板金によって構成されていて、年を追って高度化するエンジン・パワーやタイヤのグリップに対して剛性が不足するようになり、もともとの車両特性とあいまってコーナーでは常に悪性のアンダーステア傾向を示すようになっていた。この対策として、一部プライベート・チームではモノコックをカーボン材で補強したり、あるいはモノコック自体を強度にすぐれるアルミ・ハニカム材やカーボン・ファイバーでつくりなおしてしまうこともあったが、ヨースト・ポルシェの連合軍はかたくなにワークス時代の教えを守り、最後までアルミ材のモノコックを使い続けた。アンダーステア対策として、まずフロントに荷重をもっていく方法が考案され、そのため従来は車の中央付近に置かれていたエンジン・オイル・クーラーを、フロント・エンドに移設している。写真のヘッドライト下の四角い穴がそれで、この開口部は従来フロント・ブレーキの冷却口として開けてあったものだが、この奥にオイル・クーラーを二つに分けて設置し、ブレーキ冷却用にはあらたにフロントカウル上に三角形のNACAダクトが開口された。このレイアウトは実際に効果を発揮したが、アクシデントの際のリスクなどを考慮した結果、この一年限りで元に戻された。   
   
8902

 

ヘッドライトも従来の丸型にかえて、角型のものが使用された。ライトカバー形状もそれまでのものとは一線を画するデザインで、前述の改装とあわせて、フロントの印象がだいぶ異なって見える。オイル・クーラーの移設でフロントエンドが延伸され、横から見た印象は956に近づいている。フロント荷重を増やすため、左右に一枚ずつ小型のダイブ・プレーンが装着されている。   
   
ヨースト・レーシングは、1989年開幕戦の鈴鹿480キロレースには旧型車二台を持ち込んで戦い、7号車のボブ・ウォレック/フランク・イェリンスキが二台のサウバーにつぐ三位に入った。ジャガーは前年までの十二気筒ノーマル・エンジンの車に見切りをつけ、この年から新型のターボ・エンジン車を世界選手権用に投入するつもりでいたのだが、エンジン開発の遅れから序盤戦を旧型のノーマル・エンジン車で戦わざるを得なくなり、あまり大きな脅威とはならなかった。反対にメルセデス・ベンツ・エンジンを使うスイスのサウバー・チームは、メーカー本社からの資金・技術の援助が年ごとに潤沢になり、この年からは車のカラーリングをそれまでのスポンサー・カラーから一転、メルセデス・ベンツのシンボルカラーである銀色一色に塗り、世界唯一のメルセデス・ワークスであることを内外に誇示していた。当然その速さは相当なもので、鈴鹿のレースでは二台のサウバーを脅かすことができた車は一台たりとも存在しなかったのである。    
   
1989年世界スポーツ・プロトタイプ選手権第二戦の舞台は、フランスのディジョン・プレノアというちいさなサーキットであった。この年のディジョン・プレノアは五月にもかかわらず猛烈な暑さに見まわれ、中にはピットインのたびに車の冷却器にバケツいっぱいの氷水をかけて冷やしているチームまで出てくるありさまだった。このレースで、待望の新型962Cが投入された。準備が間に合わなかったため、もう一台の962Cは旧型車を使うことになり、新型車はエースドライバーのウォレック/イェリンスキに与えられた。予選は五位で、ポルシェのなかではトップの順位だったが、ポール・ポジションは前戦につづいてサウバーが手中におさめていた。ところがレースになると、暑さで熱せられた路面がタイヤを焼き、サウバーの二台はまったく思うようにペースを上げられないことが判明した。サウバーが使っていたのはミシュラン・タイヤで、ポルシェ車のほとんどはグッドイヤー・タイヤを使っていた。ミシュラン製のタイヤはグリップはよかったが熱によわく、その分サウバーの車は頻繁なタイヤ交換をしいられて、せっかくのハイペースを活かしきれなかったのである。反対に、飛び抜けて速くはなかったものの、終始安定したペースで走ることができたウォレック/イェリンスキのポルシェはそういったトラブルにまったく悩まされることなく、480キロのレースを走りきって、三十八秒差で優勝してしまったのである。サウバーは二位と三位で、もう一台のヨースト・ポルシェは七位であった。    
   
しかしそれ以外のレースでは、ヨースト・ポルシェは一度も勝利することはできなかった。ディジョンでの優勝は、悪コンディションに阻まれたサウバーの隙に乗じて勝ちをかすめ取ったようなもので、通常の条件下でおこなわれたほかのレースでは、やはり総合力で劣っているポルシェは、エンジンの良さを活かして旧式の車ながら信じられないほどの燃費を実現していたサウバー・メルセデスには勝てなかったのである。メルセデス・ベンツにはモータースポーツ活動に投入できる豊富な資金があり、ポルシェにはそれがなかった。この1989年のディジョン・プレノアでの勝利は、ポルシェ962Cが記録した世界選手権レースにおける最後の勝利となったのである。これ以外のレースでは、7号車のウォレック/イェリンスキがブランズハッチとスパのレースでそれぞれ二位になったのが最高位であった。ヨースト・ポルシェはシーズンを通して八十四点を獲得し、世界スポーツ・プロトタイプ選手権のチーム部門では総合二位を得た。サウバー以外のエントリーとしては最上位であり、ジャガーやニッサン、トヨタなどのメーカー・ワークスよりも上であった。    
   
8904

 

フランク・イェリンスキは西ドイツ、ボブ・ウォレックはフランスのドライバーで、いずれもF3のレースを経てスポーツカーに転向してきたドライバーであった。以後このふたりは次第に苦戦の度合いを深めていくヨースト・ポルシェにあって、その牽引役として活躍することになる。   
   
8910

 

モデル自体ははスパークモデル製だが、ドイツのモデルカーショップであるCar.timaが特注生産させたもので、五百台の限定生産であったため探すのに難儀した。手持ちの個体は中古品として入手したもので、紙製スリーブケースが欠品している状態ではあったが、ほかに異常は見当たらない。台座は基本的に通常のスパークモデルと同じつくりだが、車名以外にこの車が1989年ディジョンの世界スポーツカー選手権レースで優勝したことが誇らしげに記されている。   
   
8919

 

オイル・クーラーをフロントに移設した、1989年世界選手権仕様の962Cはこのモデルカーのシャシーである962-011と962-145の二台が製作され、いずれも7号車のウォレック/イェリンスキ組が使用した。このほか、ワークス用962-004が962-104Cの新ナンバーに更新され、シーズン途中にリヤ側のみこの仕様に準じた近代化改修をほどこされ、独立式のリヤ・ウィングを与えられた。この仕様は結果的に一年のみの短命に終ったが、ポルシェ962Cとして最後の世界選手権レース優勝をとげたこと、またその独特な外見から、962Cのなかでもひときわ象徴的な一台である。ポルシェ962Cという「種」の寿命は、ゆるやかにその限界を迎えようとしていた。   
   
1989年世界スポーツ・プロトタイプ選手権、ディジョン・プレノア480キロレースで優勝したポルシェ・962-011は、1989年に962-142としてヴァイザッハのポルシェ・ファクトリーで製作されたモノコックをベースに、新たに011のシャシー・ナンバーを与えられたものである。この年はドイツ・スーパーカップ選手権全戦に参戦し、それと並行して世界スポーツカー選手権の鈴鹿480km、ハラマ480km、ブランズハッチ480kmの各レースを除く全戦に参戦した。このうちブランズハッチのレースでは962-011はスペア・カーとして持ち込まれ、962-145がレース・カーとして使用されている。10月にはJSPCの一戦であったインターチャレンヂ富士1000kmレースに962-145とともに参戦した。この年の世界選手権ではディジョン480kmレースで優勝し、スパ480kmレースで二位を得た (ブランズハッチ480kmレースでは962-145が二位に入っている) ほか、ドイツ・スーパーカップ選手権でボブ・ウォレックがチャンピオンとなった。   
1990年にはオイル・クーラー位置を元に戻され、IMSA-GTPシリーズのデイトナ24時間レースおよびセブリング12時間レースに参戦した後、WSPCニュルブルグリンク480km、ドニントン480km、メキシコシティ480kmの各レースでスペア・カーとして持ち込まれた。メキシコではレース・カーとして使用され、六位を得ている。   
1991年にはIMSA-GTPシリーズのウェストパームビーチ2時間、マイアミ2時間、ワトキンス・グレン500km、ラグナ・セカ300kmの各レースにスポット参戦し、並行して欧州のローカル選手権であったインターセリエ・レースにも二戦にスポット参戦した。ワトキンス・グレンのレースでは予選ポール・ポジションを、ラグナ・セカのレースでは六位を獲得している。   
1992年にはリヤウィングを大幅に改造された上でジャンピエロ・モレッティのMOMOレーシングにレンタルされ、同年IMSA-GTPシリーズのデイトナ24時間、セブリング12時間、ニューオーリンズ1時間45分、ラグナ・セカ2時間、デル・マー2時間の各レースを除く全戦と、インターセリエ・シリーズの四戦に参戦した。IMSA-GTPシリーズではロード・アトランタ・グランプリ、IMSAワトキンス・グレン、ロード・アメリカ300kmの各レースで六位を獲得した。   
1993年に962-011はヨースト・レーシングの管理下に戻り、IMSA-GTPシリーズのデイトナ24時間、ロード・アトランタ1時間45分、ワトキンス・グレン500km、ロード・アトランタ500km、フェニックス2時間の各レースと、インターセリエ最終戦ツェルトウェグに参戦したほか、IMSA-GTPシリーズ・セブリング12時間レースにスペア・カーとして持ち込まれ、このうちロード・アトランタで三位、ロード・アメリカで二位を記録している。このシャシーが参加した最後のレースであるインターセリエ・ツェルトウェグは1993年10月17日の開催であり、このシャシーは1989年シーズンから1993年シーズンという、まさにグループCスポーツカーの栄華と凋落の季節をつねに最前線にあって走り抜けた、いわば功労シャシーであった。

2014年11月17日 (月)

ポルシェ962C・終りのクロニクル 「1987」

始発があれば終電があるし、命あるものはいずれ死ぬし、形のあるものはいつか壊れる。はじまりがあれば終りがある。1982年、いわゆる「グループC」規定の施行とともにモータースポーツ・シーンに一挙に到来したポルシェの時代も、そういった意味ではいずれは終る性質のものであった。ただ長く続くか、みじかく続くかの違いだけである。ポルシェは新規定の時代が明けるや、時をおかず最新鋭兵器956 (のち962C) で世界中のスポーツカー競技の覇者となり、まさに一夜にして世界の頂点に立ち、ほかの車はすべてポルシェの足元に傅かなければならなかった。そしてその王朝の終りは、はじまり同様唐突なものではなく、自らのすわる玉座を押し流そうとする時代の流れのなかでひじょうにゆっくりと訪れた。それは例えば地面に立てた棒が倒れるごとく一瞬のものではなく、むしろ川べりの盛り土が水の流れに蝕まれてすこしづつ削れてゆくようなものであった。この長い物語は、さまざまの逆境のなかでポルシェ・ワークスや各チームのクルーたちが見せた、じつに尊敬すべき敢闘精神によって書かれたものである。以下このシリーズでは、いわゆる「末期戦」のポルシェ・962Cの残した航跡を、モデルカーとともに再確認していきたい。テーマ上、「962C」という車の成り立ちや基本的なつくりについては割愛し、あくまである特定の時点における特定の車に絞って解説したく思う。   
(この物語をより深く理解するには、グループC規定の発足やポルシェ・956という車、またその歴史的背景などをある程度知っていることが望ましい。しかしさしあたっては、「ポルシェがつくった962Cというレーシングカー」が一世を風靡し、かつて世界中のサーキットで無敵を誇っていたという事実をわかっていればじゅうぶんであろう。)      
      
8701

 

スパークモデル・S0943、ポルシェ962C n.18 LM 1987。1987年ル・マン24時間レースにて、ポール・ポジションを得ながらも約一時間でエンジン・トラブルによりリタイヤした、シャシーナンバー962-008の個体である。ドライバーはヨッヘン・マス、ボブ・ウォレック、ヴァーン・シュパンであった。   
   
1987年のル・マンは、いわゆる「グループC時代」が中興期をむかえ、爛熟の域に達した頃であった。1985年大会からトヨタが、翌86年大会からニッサン、ジャガーが参戦し、さらにこの年からサウバーの車にメルセデス・ベンツの5リッターエンジンが積まれることとなり、それまでポルシェ以外には小規模なプライベート・チームしかいなかったスポーツカー・レースに、一気にメーカー色が添えられた頃だったのである。当然彼らはル・マンで勝つことを目標としており、特にイギリス人トム・ウォーキンショウが頭領となって「三カ年でル・マンに優勝する」ことを目標とし、一年ごとに熟成の度合いを増してきたジャガーはポルシェにとっておおきな脅威となった。ポルシェの962Cは、車体構造を見るとおおむね956に準拠したものであり、その基本的な設計思想は956の構想が練られた1981年の時点からいくばくも進歩していなかった。彼らが武器としたのは設計の真新しさではなく、すでに1970年代から築いてきた耐久レースにおける豊富な経験、特にターボ・チャージャー付きエンジンという複雑でむずかしい機械を取り扱ってきた経験と、その経験によって設計された車の懐の深さであった。すでにほかの車で、部分的に見ればあきらかにポルシェよりすぐれた設計を持つものが何台かあらわれていたが、二十四時間のレースを走りきっての総合力、持久戦に持ち込まれた場合の打たれ強さは、いぜんとしてポルシェにわずかの分があったのである。このような芸当は、まさに長い経験からくる設計の巧妙さがなくては実現できぬものであった。    
   
8710

 

タバコ会社のロスマンズのマークが描かれた、白と青の平べったいシルエットこそは、グループC発足いらいポルシェのワークス活動を象徴する記号であった。1989年大会までル・マンのコースにはその全長が六キロにもおよぶ長い直線区間が存在し、ここでのスピードの伸びがそのままラップ・タイムとなってあらわれ、勝敗を決した。そこでル・マンに出場するスポーツカーは、みなコーナーをうまく曲がるのにはかかせないダウンフォース効果をある程度削ってでも、空気抵抗を減らし直線区間でのスピードを最重要視するような設計になっていたのである。当然のことながらコーナーでのスピードは悪化したが、全開率のひじょうに高いル・マンのような特殊なコースに限っては、あまり問題にはならなかった。   
   
1982年にグループC規定が発足してから、ル・マンで優勝した車にはすべてポルシェのバッジが輝いていた。そのうち1982年、1983年、1986年の大会における勝利がポルシェ・ワークス・チームのもので、あとのものはポルシェの車を使ったプライベート・チームによって達成されたものであった。    
ワークス・ポルシェ四勝目、単にポルシェ車としては六連勝という大記録がかかった1987年大会は、ポルシェにとってじつに苦しくはじまり、そしてじつにたのしく終った。まず、レース前におこなわれた練習走行において、ワークス・チームの19号車がクラッシュ・炎上し、修復不能と判断されて出走を取りやめてしまった。これでポルシェはレースを一周も走らぬうちに一台が脱落してしまったのである。しかしレースがはじまると、もっとひどいことになった。はやくも四周目にプライベートのポルシェがエンジン・トラブルでリタイヤし、これに触発されたかのように、一時間もしないうちにポルシェの車はつぎつぎとエンジンがおかしくなって、リタイヤに追い込まれていった。レース開始から一時間過ぎの時点で、ついにワークス・ポルシェの18号車がリタイヤした。これでポルシェ・ワークスの手駒は17号車ただ一台となってしまい、ポルシェは絶体絶命の状況におちいった。ほかのプライベート・ポルシェはみなリタイヤするか、トラブルをおそれてペースを下げたまま走らざるを得なくなっており、総合優勝が狙えるのはワークス・ポルシェだけという状況であった。残り二十三時間をたった一台だけで、三台が三台とも健在のジャガーを相手に戦うのは、あまりにも心もとなかった。    
もろもろの状況の原因は、エンジンをコントロールするコンピュータにあった。ターボ・エンジンはエンジン本体での燃焼が良くないとその性能を発揮できず、したがって供給される燃料の質に合わせて燃料の噴射を制御するプログラムを変え、つねに最適の状態で燃料が燃えているようにしなければならなかったが、この年の大会では各チームに支給された燃料の質がわるかったため、それに合わせてエンジンを制御するコンピュータのプログラムに変更が加えられていた。そのプログラムがまちがっていたのである。    
ワークス・チームはすぐに次の手を打った。彼らはワークス・カーに積まれていたコンピュータのチップを抜き取り、問題の部分を確認すると、その場でエンジン制御のプログラムを書き換えはじめたのである。プログラムを書き換えて燃焼をコントロールすること自体は、歴戦のポルシェ・チームのスタッフにとってはなんでもないことだった。点火タイミングを一・五度遅角させるようにプログラムが書き換えられたチップをあらためて積み込まれたワークス・カーは、まるで最初の一時間の地獄絵図が幻であったかのように快調に飛ばしはじめた。そしてそのまま、三台のジャガーがコース上のアクシデントやエンジン・トラブルなどで脱落してゆくのを尻目に、独走で勝ってしまったのである。優勝したハンス・シュトゥック、デレク・ベル、アル・ホルバートは、二位の車にじつに二十周という大差をつけていた。まさに完全な勝利であったが、結果的にこれがポルシェ・962Cとしては最後のル・マン優勝となってしまったのである。    
   
   
87058707

 

モデルは標準的な1/43スケール、レジン・キャスト製の完成品で、ワイパーなど一部金属製部品が使用されている。ほかのどの車にも似ていない、ひと目でポルシェとわかる風貌をしている。この四角いケースに納められた丸型四灯式のヘッドライトは、こまかい形状の違いはあれど、ポルシェ956の登場からポルシェ962Cの終焉まで、ワークスのル・マン仕様車にはかならず見られた意匠上の特徴であった。このモデルのモチーフである1987年仕様車は、つごう十年近くにわたって連綿と進化を重ねたポルシェ962Cという車の、いわばもっとも原初の姿をとどめている。962Cがはじめてル・マンに実戦投入された1985年大会からこの1987年大会まで、各部の形状や寸法にほとんど違いは見られない。リヤウィングは抵抗削減のためボディーとほぼ同一面上に装着され、必要最低限のダウンフォースしか発生しないようになっている。車体下部に吸い込まれた空気を効率よく放出するため、リヤデッキ下面は大角度で上方へ向かい、ディフューザーを形成している。これに合わせ、リヤエンドはひじょうに上下幅が狭く、細長い。その上下幅ギリギリに、矩形のシンプルなテールライトが装着されている。車両規則上必要な部品でもある。   
   
8708

 

リヤエンド付近を側面から見る。ホイールには白色の円盤状カバーが装着され、空気抵抗の削減に一役買っている。ホイール本体はドイツBBS社のマグネシウム製六本スポークのもの。大角度で跳ね上げるディフューザーの造形の一部に、リヤエンドのボディカウルがうまく同化している。横幅の広い水平対向エンジンを積む関係上ポルシェ車はスペースの制約がきびしく、この部分の開発ではつねに他の車に一歩劣っている状態であった。   
   
8709

 

全体を望見する。全高は低く抑えられながらも、真横から見るとボディラインがうねっていて、まるで深海を泳ぐ魚のようにも見える。本来このモデルの「ロスマンズ」ロゴは別添付の転写マークとして付属し、購入者が自分で貼り付けるものであったが、中古で購入したモデルのためすでに貼付済であった。   
   
ポルシェとしても、せっかく手に入れた名誉と地位をみすみす明け渡すつもりはなく、この962Cはその後1990年代に入るまでル・マンを走り続けることになる。しかし962Cは、この劇的な1987年大会を最後に、二度とル・マンで勝利の祝杯をあげることはかなわなかった。この車が「スポーツカー・レースでは敵なしの962C」としてル・マン1987年大会に勝利した瞬間、一転「かつて常勝を誇った962C」としての長く苦しい戦いの第二幕は開いたのである。    
   
1987年ル・マン24時間レースに参加した962-008は、同年三月の世界スポーツカー選手権開幕戦より投入され、同年世界スポーツカー選手権のハラマ360km、ヘレス1000km、モンヅァ1000km、シルバーストーン1000km、ル・マン24時間の各レースに参戦し、ハラマとモンヅァで三位、ヘレスとシルバーストーンで二位に入ったほか、ヘレスからシルバーストーンまで三戦連続でポール・ポジションを獲得している。この車のこの年の戦歴はル・マンまでのみであった。   
翌1988年、この車はル・マンの19号車としてふたたび持ちだされ、その後ドイツ・スーパーカップ選手権のディープホルツおよびニュルブルグリンクのレースに参戦した。特筆すべきはこのスーパーカップ仕様車で、200km強の超短距離レース用にモノコックの剛性を削って軽量化し、ポルシェが開発中であったダブルクラッチ式ギヤボックスであるPDKを搭載していた。その後10月にはWSPC最終戦・富士1000kmレースに参戦したが、これがポルシェ・ワークスとしての最後のWSPCレースとなった。このレースで二位に入っている。   
1989年にこのシャシーはオーストラリア人の元ポルシェ・ドライバーであるヴァーン・シュパンのチームに売却され、オムロン・ポルシェとして全日本スポーツカー選手権 (JSPC) 全戦、およびWSPC開幕戦鈴鹿480kmとル・マン24時間の各レースに参戦した。JSPC開幕戦富士500kmレースで二位を獲得、また初夏の富士1000kmレースでは優勝を果たしている。

フォト
無料ブログはココログ

リンクリスト

  • Kumaryoong's Paddock
    ソビエト時代の東側諸国におけるモータースポーツ活動について書かれているたいへん誰得なブログ (褒め言葉)。この辺の史料を日本語でまとめたサイトって史上初かもしれません。
  • 作った静止画一覧
    主にMMDで作った静止画を上げています。最近はこっちの頻度のほうが高いですね。
  • Racing Sports Cars
    ル・マンや旧WEC/WSPC/SWC、さらには旧WCMなど、スポーツカー・レースの参戦車両の膨大な資料写真を有するサイト。ドライバー別・車種別検索機能完備。F1もちょびっとだけあります(70年~82年)。
  • F1-Facts
    1950年イギリスGPより、F1に関する全記録を蒐集・公開しているサイト。各年度リザルトページからマシン一覧・写真ページに飛ぶことができます。あなたの知らない名車に出会えるかも。IEは右クリックでの画像保存が出来ないので、PCに保存する際はFireFoxなどを使用してください。
  • 誰得 (boulog)
    謎多きF1マニア(?)、bou_ckさんのブログ。「Wikipediaに載ってないような脳内資料置き場」を標榜するだけあって、その名に恥じぬディープ過ぎるF1マシン解説!Wikiどころか、ネット上にもそうそう無いようなマシンが目白押し。ちなみに「誰得」とは「誰が得するんだこんなもん」的意味合いのフレーズ。 2015.12.13追記: このほどYahooブログからfc2ブログに移転されました。
  • 作ったもの一覧。
    私の動画作品一覧です。気力の低下と更新頻度の低下はすべからく連動しています。
  • アカクテハヤイ フェラーリエフワン
    沖縄在住のフェラリスタ、Shigeoさんのブログ。1日1更新(原則)でフェラーリのさまざまな話題を取り扱います。レア物のフェラーリミニカー募集中だそうな。
  • METMANIA
    私の作るペーパークラフトの大半はここからきています。ヘルメットのぺパクラって多分ここにしかありません。