カテゴリー「モデルカー」の記事

2020年9月 4日 (金)

茫洋 ~リジェ・ニッサンDPi~

二〇一四年、アメリカのスポーツカー・レース界はおおきな変革を迎えた。それまでドン・パノスにより運営され、ヨーロッパ式の本格的なスポーツカー・レースをアメリカで行っていたALMS (アメリカン・ル・マン・シリーズ) と、独自のレギュレーション運用でプライベーター中心に広く門戸を開いていたロレックス・スポーツカー・シリーズ (いわゆるGrand-Amシリーズ) が合併し、かつてキャメルGTシリーズ (いわゆるIMSA GTP) を運営していたIMSAのもと、新たにUSCC (ユナイテッド・スポーツカー・チャンピオンシップ) としてシリーズ開催されることになったのである。ALMSはセブリング十二時間レースとプチ・ル・マンを、Grand-Amはデイトナ二十四時間レースとワトキンス・グレン六時間レースを、それぞれシリーズの花形レースとして持っており、二者が合併したUSCCはまさにアメリカを代表するスポーツカー・レース・シリーズとして今日まで続いている。

USCCのレギュレーションは、当初トップクラスはひとくくりに「P (プロトタイプ)」クラスとされ、Grand-AmのDP (デイトナ・プロトタイプ) 車とALMSのFIA/ACO LMP2車が混走していた。二〇一七年に、レギュレーションが旧式化してきたDPにかわり、IMSAがPクラス用に導入したのがDPi (DP・インターナショナル) という全く新しい車両規則であった。DPi車は二〇一七年に規則が大改訂されたFIA/ACO LMP2車をベースとし、約600馬力に調整された自動車メーカー製のオリジナル・エンジンを搭載し、また外観も自動車メーカーごとの意匠に合わせて改造をくわえるというもので、従来のLMP2車とも性能調整を行い混走するというものであった。二〇一七年のLMP2規則ではLMP2車を製作するのはオレカ (仏)、リジェ (仏)、ダラーラ (伊)、ライリー/マルチマチック (加) の四社ときめられていたため、DPiのベース車輌も自動的にこの四社のうちいずれかということになった。二〇一七年開幕前の時点で、キャデラックがダラーラ・シャシーを、マツダがライリー/MM・シャシーをそれぞれ選択していたが、いずれもエンジン、シャシー意匠ともにメーカーが直接関与しての製作であり、この点はIMSAの思惑通りとなった。

一方で、前年・二〇一六年までPクラスでLMP2車のリジェ・JS P2/ホンダを運用していたスコット・シャープ率いるESM (エクストリーム・スピード・モータースポーツ) は、メーカーの支援を受けないプライベート・ベンチャーとしてDPi車を製作することを決めた。ベースとされたのはリジェ・JS P217 LMP2で、エンジンはニッサン製のGT3カー用のものが選択された。ここで重要なのは、ニッサンはあくまでも北米法人が社名の使用権とエンジンの提供を行っただけであり、ESMのレース活動に本質的には関わっていなかったということである。またニッサンはそうするつもりもなかった。ニッサンはすでに二〇一五年のル・マンに参戦したニスモGT-R LMプロジェクトで甚大な痛手を被っており、ふたたびスポーツカー・レースにメーカーとして復帰する意図はさらさら無かったのである。このことは、当初ニッサン側がIMSAに提出したDPi車の意匠スケッチがあまりにもベースとなるLMP2車と似ており、見かねたIMSAが改善案として出したデザイン (ニッサン・GT-Rの多角形グリルをイメージしていた) がそのまま採用されたというエピソードによく現れている。


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スパークモデル製1:43スケールモデル、二〇一八年セブリング十二時間レースで優勝した、シャシーナンバー0R05-03のESM・リジェ・ニッサンDPiである。品番は43SE18。二〇一六年から、スパークモデルが製品化するセブリング十二時間レースの優勝車輌は特別デザインの紙箱が奢られるようになった。

ESMは二〇一〇年にハイクロフト・レーシングから独立した元インディーカー・ドライバーのスコット・シャープが立ち上げたチームで、創設以来一貫してエド・ブラウンのテキーラ・パトロン社のスポンサードを受けていた。結果的にESMがリジェ・ニッサンDPiを運用した最後の年となった二〇一八年の車も、テキーラ・パトロンのイメージカラーである緑と黒に塗られ、同社製品の瓶が車体に描かれている。

二〇一七年開幕時点で三社が出揃った (翌二〇一八年にアキュラ・オレカが参入し四社になった) DPiの中で、唯一メーカーのバックアップを受けていなかったESMのプロジェクトは、はじまりから多大な苦難に見舞われた。主な問題はエンジンで、前述の通り彼らはニッサン・GT-R GT3用のVR38DETT型3.8L・V6ターボ・エンジンを搭載することを選んだが、このエンジンはスポーツカー用ではなかったため重心が高く、LMP2のシャシーに載せると運動性能を著しく損なうことが判明した。DPi車の中では他にキャデラックが市販車用エンジンを搭載していたが、彼らはエンジンに改造を施し、スポーツカーへの搭載に最適化された仕様でレースをしていた。マツダに至っては、イギリスのエンジン・メーカーであるAER社が高度な改造を施した2L・直列4気筒エンジンを搭載しており、ほとんどレーシング・エンジンのようなものだった。さらにESMは、ノンターボ・エンジンを前提に設計されたリジェ・JS P217のタイトなシャシーに、3.8Lという大型のターボ・エンジンに必要な冷却器をいかに配置し、また冷却するかということにも悩まされた。彼らの唯一の慰めは、ニッサン・エンジンが性能調整を受けてもなお他よりすぐれたパワーを発生し、6.2L自然吸気エンジンのキャデラック・DPiとも互角に渡り合えるとされたことくらいだった。


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側面から見た造形はおおむねベース車輌のリジェ・JS P217に準じる。リジェ・JS P217は二〇一八年にアップデートを受け、フロントフェンダー前端部の形状が傾斜したものから垂直に近いものに変わっているが、DPi車でもこの変更は反映されている。この車はプライベーターによる製作であったためか正式な名称というものは定まっておらず、一般的には「リジェ・ニッサンDPi」と呼ばれるが、リジェ・ブランドを保有しているオンローク・オートモーティヴの名をとって「オンローク・ニッサンDPi」とも呼ばれ、製品の台座にもそう表記されている。

二〇一七年のIMSAシーズンはキャデラックDPiが蹂躙し、開幕戦・デイトナ二十四時間レースを含め七連勝を記録しシーズンを圧倒するかと思われたが、その連勝を止めたのは、意外なことにプライベーターであるESM・リジェであった。第九戦・ロードアメリカ二時間四十分レース (第八、十戦はGTカーのクラスのみでの開催) で、ピポ・デラーニ/ヨハネス・ヴァン・オーヴァーベークの22号車が優勝したのである。その後第十一戦・ラグナセカ二時間四十分レースではスピリット・オブ・デイトナ・レーシングのリジェ・JS P217がこの年LMP2車唯一の勝利を挙げたのち、シリーズ最終戦・プチ・ル・マン/ロードアトランタ十時間レースでは、二台体制のもう一方である2号車がスコット・シャープ、ライアン・ディエル、ブレンドン・ハートレイの操縦で二勝目を挙げた。この年はほかに2号車の予選第一位が一回、二位が一回、三位が二回あり、プライベート・ベンチャーの一年目としては、二勝・二位一回という結果はじゅうぶん喜ぶべきものであった。

明けて二〇一八年、ESM・リジェは開幕戦・デイトナでは良いところがなかったが、第二戦・セブリング十二時間レースでデラーニ、オーヴァーベーク、ニコラ・ラピエールの22号車が逆転優勝を果たし、リジェ・ニッサンの三勝目を挙げた。ESMは車の相性が良かった同年ラグナセカでも22号車が勝利し、勝利数を四に伸ばしたが、それ以外のレースではかろうじて完走するか、よい時でも入賞圏内外をうろうろするばかりであった。この年はアメリカの名門チームであるペンスキーがホンダの北米ブランドであるアキュラと組んでDPi車を製作し、フル・ワークス体制でPクラスに参戦してきたため競争が激化し、またオレカ・シャシーを使用するLMP2勢も力をつけてきたため、前年のようにDPi車がシーズンを壟断できる状況ではなくなりつつあった。そんな中で、基本的な性能で劣るリジェ・ニッサンDPiは苦戦を強いられたのである。

さらにシーズン中盤から、ESMには不穏な噂がつきまとうようになった。チーム創設時からメイン・スポンサーを務めていたテキーラ・パトロン社が、経営に専念するためスポンサーを降りるというものであり、じっさい同社社長のエド・ブラウンはこれを理由に二〇一七年いっぱいでドライバーをやめていた。果たして噂は現実のものとなり、スコット・シャープはシーズン終了後も後継のスポンサー探しに奔走したが、ついにメイン・スポンサーは見つからず、ESMはこの年をもって解散してしまったのである。ESMが所有していたリジェ・ニッサンDPiのシャシーやエンジン、機材一式は売りに出されたが、これを取得し二〇一九年にリジェ・ニッサンDPiを走らせることになったのは、二〇一八年にオレカ07・LMP2でシリーズ・チャンピオンを争ったCOREオートスポーツであった。


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フロントノーズ上面に取り付けられた、大型の整流パネルが目を引くフロント部分。三枚の平面で構成されたパネルと、その下の空気取入口を模したグリルによって、ニッサン・GT-R風のフロントマスクを再現している。ヘッドライトはベース車輌のリジェ・JS P217が円形のLEDを用いたのに対し、リジェ・ニッサンDPiでは矩形のLEDパネルを使用している。


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ベース車輌であるリジェ・JS P217と。外観以外での主な相違点は車両後半部に集中している。たとえばリジェ・ニッサンDPiはターボチャージャー用の中間冷却器を設置するため、側面 (車体の黒色の部分) にそのための空気取入口を開けており、LMP2車でこの位置にあったリヤブレーキ冷却用ダクトはリヤフェンダーの前端に移設された。このほか、(写真では見えないが) リヤデッキ天面に中間冷却器からの排熱用にルーバー状の排熱口が切ってある。内部の写真を見るとリジェ・ニッサンDPiはエンジン用ラジエーターとターボチャージャー用の中間冷却器が前後に重ねて配置されており、冷却・排熱の面ではかなり苦労したであろうことが推測できる。


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ESMの手を離れ、COREオートスポーツに渡ったリジェ・ニッサンDPiは、二〇一九年の開幕戦・デイトナ二十四時間レースで四位に入った。このレースは終盤の豪雨で二時間近い赤旗中断が入り、レース残り十分と少々というところで中断状態のままレース成立が宣言されるという大荒れのレースだったが、結果的にこの四位がCOREオートスポーツのシーズン最高位となった。続くセブリング十二時間レースでは五位だったが、これがこのシーズンの最大瞬間風速で、それ以降は第七戦・モスポートパーク二時間四十分レースで予選第一位のタイムを記録した以外、まったく精彩を欠くレースしかできなかったのである。この年はDPiが独立クラスとしてLMP2と区別され、DPi車のみがトップ・クラスとなるよう規則改編があったが、DPiクラスでの競争は前年にも増して激しいものになり、ESMよりも小規模なプライベート・チームであったCOREオートスポーツにとっては、もはやチャンピオン争いどころかレースごとの優勝争いすらおぼつかなくなっていた。そしてCOREオートスポーツは二〇一九年シーズンをもってIMSAから撤退し、それと同時にリジェ・ニッサンDPiもサーキットから静かに消えていった。

リジェ・ニッサンDPiは少なくとも二台が製作されたが、正確な製作台数については不明である。おそらく二台であると推測される。

シャシーナンバー0R05-02のリジェ・ニッサンDPiは、ESMから二〇一七年のデイトナ二十四時間レースで実戦デビューし、同年IMSAシリーズにフル参戦した。ロングビーチ一〇〇分レースで二位、モスポート/ロードアメリカの各二時間四十分レースで三位、最終戦プチ・ル・マンでは優勝を果たしている。二〇一八年も引き続きESMの手によりIMSAにフル参戦し、同年ロングビーチ一〇〇分レースで二位に入っている。
二〇一九年の動向は不明だが、おそらくESMの資産が売却された際、COREオートスポーツにスペア・シャシーとして渡ったのではないかと考えられる。

シャシーナンバー0R05-03のリジェ・ニッサンDPiは、同じくESMから二〇一七年のIMSAにフル参戦し、ロードアメリカ二時間四十分レースで優勝している。二〇一八年にはセブリング十二時間レース、ラグナセカ二時間四十分レースでそれぞれ優勝を果たした。
二〇一九年にはCOREオートスポーツのレースカーとして使用され、同年開幕戦・デイトナ二十四時間レースで四位に入ったのが同年の最高位であった。

最後に、アメリカのレース・ジャーナリストであるマーシャル・プルエットと、リジェ・ニッサンDPiの最終年にこの車を運用したCOREオートスポーツのエンジニアによる、シーズン終了後の対談を収録する。非常に長いため格納するが、この車がいかにして戦い、いかなる理由で勝利から遠ざかったのかを知るにはよい一次資料であるため訳出した。細かな部分できき逃しや誤訳が存在するかもしれないが、大まかな意味合いは通じるはずである。


 

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2019年5月23日 (木)

トヨタ・チーム・トムス スープラLM GTテストカー

グループC (GpC) 規定によるスポーツカー・レースが世界経済の後退やワークス間競争の激化によって没落したのち、サーキットの主役となったのは市販のスポーツ・クーペを改造したレーシングカーたちであった。「GTカー」と呼称されたこれら車輌の頂点は、当初GT1と呼ばれる一群の車たちであり、この「GT1」の定義はル・マン24時間レースの主催団体であるACOによって規定されていた。自動車メーカーのレース部門や、レースをするのが仕事のレーシング・チームにとっても、スポーツカー・レースがなくなってしまって手持ち無沙汰だったところにやってきたGTカー・レースは歓迎され、ル・マン24時間レースには市販スポーツ・クーペを改造した車輌が大挙エントリーし、前述のGT1カー、及びその下位カテゴリであるGT2カーによって争われた世界選手権であるBPR-GT選手権も一定の支持をあつめた。

GpCレースに積極的に関与していた日本の自動車メーカーも、世界的なGTカー・レースの潮流に乗り遅れることはなかった。折しも日本においても、GpCカーによって競われていた全日本スポーツプロトタイプカー選手権 (JSPC) の消滅後、これらにかわってGTカー主体のレースを開催する機運が高まっており、その結果一九九四年から全日本GT選手権 (JGTC) が開催されるに至ったのである。このJGTCには当初からニッサン、トヨタという、JSPC時代に日本一の座をを競った二大メーカーが参戦し、またフェラーリやポルシェなど外国製GTカーの参加もあり、日本国内で大きな盛り上がりを見せていた。

こうした流れの中で、日本製GTカーでル・マンに参戦し、外国製のGTカーと肩を並べて戦う、という機運が芽生えたのは必然であった。JGTCの登場によって和製GTカーがすでにあるのだから、それまでのスポーツカー・レース時代と同じように、日本製のレーシングカーでル・マンに挑戦したいと思うのは、自然な思考の流れであろう。この結果として、トヨタ・スープラ、ホンダ・NSX、ニッサン・スカイラインGT-Rという、いわば「日本のビッグスリー」は、すべてこのGTカー時代のル・マンに参戦することになる。


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タミヤ製1/24プラモデル、「カストロール・トヨタ・トムス スープラGT」。一九九五年のJGTCに、トヨタの実質的なワークス・チームであるトヨタ・チーム・トムスから参戦した車輌をモデルキット化したものである。上の話とつながるようでつながらないではないか、といった風だが…。


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ここで記事の表題につながるのである。史実においてはトヨタ系のプライベーターであるチーム・サードが一九九五、九六年にかけてスープラでル・マンに参戦しているが、もし九五年のル・マンにおけるスープラがトムスとの二台体制であったら、もしくはテスト段階ではそのように予定されていたら… という妄想の産物である。白く塗装された、スポンサーロゴの一切入っていないスープラGTのテストカーは実際にチーム・サードが九五年三月の鈴鹿サーキットにおけるテストに持ち込んでおり (HPI社が1/43でモデル化している)、今回の仕上げはそれをイメージしている。当キットの成形色が白色であり、わざわざ難しい艶出し塗装や大量のデカール貼り付けをしなくても再現できる仕様ということで、今回製作に踏み切った。当ブログ初のプラモデル記事である。
史実では、この一九九五年からチーム・トムスはカストロールのスポンサーを得て、WRCなどで有名なカストロール・カラーでJGTCに参戦しはじめるのだが、カストロールがル・マン参戦計画にまで予算を出してくれるかはわからないので、カストロール・ロゴは一切入れていない。ドライバーは付属デカールの関谷/クルム組のままだが、ご存知の通りこの年ル・マンで関谷正徳はマクラーレンF1-GTRに乗って総合優勝している。もしトムスなんぞからル・マンに出ていたら、日本人初のル・マン・ウィナーは荒聖治だっただろう。

チーム・サードがル・マンに持ち込んだスープラGTは、基本的にJGTCに参戦していた車輌とまったく同じ仕様であった。唯一、JGTCではスピード抑制のためにリストリクターで520馬力前後までパワーを落としていたのを、ル・マンではそのリストリクターを取り払って、約700馬力を発生していたが、それ以外のボディ形状はすべてJGTC仕様と同一である。当時トヨタはまだJGTCに本腰を入れて予算を出せる状況ではなく、車輌の開発・熟成をある程度チーム任せにしていたため、エアロパーツやフェンダーの処理はサードとこのトムスの車で各部が異なっている。


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95年型の時点では、まだ市販スープラの形状が色濃く残っている。車高が下げられ、幅の広いタイヤを入れるためにリベット留めのオーバーフェンダーが取り付けられ、後輪にトラクションをかけるために大型のリヤウィングが装着されているが、車体のラインそのものは紛れもなくスープラである。オーバーフェンダーなど各所のリベット部分は、アクセントとして墨入れ用ガンダムマーカーで着色した。ホイール色が黒なのは製作者の性癖であり、実際のトムスは銀メッキのリムに白いディスク部のレイズ製2ピース・ホイールを使っていたことは有名である。

JGTC用トヨタ・スープラの心臓部は、一九九三年までアメリカのIMSA GT選手権に参戦していたイーグル・トヨタが搭載していた、3S-GTEベースの「503E」型直列四気筒2,140ccターボ・エンジンを使っていた。このエンジンはタービンの過給圧設定によっては1,000馬力級のパワーを発生できたが、リストリクターで出力を絞られるJGTCではエンジンが本来想定したパワー域を使えず、燃費が悪化するという問題があった。またこのエンジンを搭載したスープラの持病として熱害の問題があり、各チームともボンネットに大量の開口部を設けて排熱に追われたほか、エンジンの熱が操縦室床面まで伝播して、その熱がペダルを焼き、レーシングシューズの薄い靴底が溶けてしまうというトラブルまで発生した。一九九五年ル・マンにおいては、チーム・サードが整流のため車体にフラットボトムを取り付けて走ったが (当時のJGTC車にはその程度の空力パーツも無かった)、あまりの熱でドライバーの集中に支障をきたすに至ったため、仕方なくレース中に取り外した、という逸話がある。


 
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タミヤ製のキットなので組み立てはスムーズに進む。パーツが多く、また前述の通りフラットボトムではないため車体底面に露出したパーツ類の組み立て・塗り分けがやや煩雑だが、狙った位置にパーツが収まらないということはなく、サスペンション周りのパーツなどもパチっとはまる。ヘッドライト内部は指定色がX-11クロームシルバーのところを、別のキットのために買ってあったX-32チタンシルバーを試しに使ってみたが、通常のシルバーよりかなり暗い。個人的にはこれはこれで好みではある。デカール類の配置はチーム・サードのテストカーを参考にした。チーム・サードのテストカーにはタイヤレターが入っていないようだったので、本作例でもレターを省略している。
テールライトのレンズはGクリヤーか何かで接着したが、最終的に左右とも曇らせてしまったのが残念である。トムス車にはリヤに控えめなディフューザー (というかフラットボトムがないのでただの板だが) がついているが、サード車にはこれがない。この部分は比較的市販車の曲面が残っている部分なので、ない方が見た目が綺麗かとも思ったが、結局接着した。車輌パフォーマンス的には、おそらく無いよりはあったほうが何らかの効果はあるはずである。


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ホイール。キットのホイールはメッキパーツだが、メッキを剥がすのも面倒だったので、XF-1フラットブラックで下地を作ってX-18セミグロスブラックで塗った。ブレーキなどかなり気合を入れて塗り分けたが、結局タイヤをはめ込んでしまうとほとんど見えない。初期のJGTCスープラが多くのパーツをGpCカーのトヨタ・TS010から流用していたのは有名な話だが、ブレーキ・キャリパーもその一つである (サスアームは新作したらしい。一時はリヤウィングのメインエレメントも流用が検討されていた)。メッシュ部分の上の黒いエリアはキルスイッチのレセスで、ここにEマーク・キルスイッチマークが無いのもサードのテストカー準拠である。この年トムスはJGTCでフェンダーミラーを使っていたが、正直フェンダーミラーのままでル・マンに出るのはあまりおすすめしない…と言いたくなる。


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フロント部は物理的にかなりスカスカで、三分割されたエアダクトの左右の開口部からはフロントサスアームが見える。中央のラジエーター/インタークーラーに通じる部分はメッシュを貼ることになっているが、無いほうが見た目がスッキリすると感じたのでオミットしている (チーム・サードの車はメッシュがなく、そもそも開口部の分割自体が微妙に違う)。


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車体底面。前述の通りこの時期のJGTCカーはフラットボトムすらなく、503Eエンジンやギヤボックス、プロペラシャフトや排気管のレイアウトまで丸見えである。排気管とエンジン/トランスミッションはXF-84履帯色を使用した (この色、自動車の機械系パーツから飛行機の排気管まで使える万能選手である。グンゼの黒鉄色と焼鉄色の二役を兼ねる感じ)。プロペラシャフトが黄色いのは塗装指示の通り (厳密にはレモンイエロー指定のところをただのイエローでごまかしたが) だが、実車がそうなのかは流石に確認できていない。足周り全般の塗り分けをかなり雑にやったのがバレるショットである。フロアにある銀色の突起物はエアジャッキ。


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窓の小さいスポーツカーとは違い、基本は市販車なので内装はかなりよく見える。そのためサボると覿面にバレる。ステアリングコラムなど泣きながら塗り分けたが、実車がホワイトボディから組み上げた白一色の内装で、内装色にまで手を出さなくてよかったのは助かった。ドアの内張りはセミグロスブラック指定だが、気まぐれでXF-63ジャーマングレー (に黒を混ぜて暗くしたもの) に変更している。ロールケージは接着強度を出すのが大変な上に、車体への組付け時に無理な力をかける必要があり、少々難儀した。リヤオーバーハングの黒い物体は燃料タンク。
今回面倒くさかったので特に追加工作などはせず、ひたすら愚直に説明書通り塗り分けたが、唯一シートベルトだけは青色の色紙を使ってロールケージのパイプまで延伸した (実車通りの引っ掛け方かは未確認)。個人的に、これがないとかなりマヌケに見えるのである。
今更だが、内装・外装とも白い部分は基本無塗装で、プラの成型色のままである。究極のものぐさモデリングだが、懸念された「プラっぽさ」はあまりなく、思ったより見栄えは良い。


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以前作った1/48のVWタイプ82E (キューベルワーゲンのシャシーにTyp.1のボディを被せた軍用車。タミヤMMシリーズで出ている)、そして今回の1/24妄想スープラテストカー。
普段は塗装・完成済みの小スケール精密模型でレーシングカー欲を満足している筆者だが、「手を動かしてモノを作る」行為のすばらしさも捨てがたいのである。プラモデルの場合、往々にしてレーシングカーは最狂難易度の部類に属するのでハードルが高いのだが、今回のような (ヒネクレた) アイディア勝負でも、「モノをつくる」ことはできるのである。作っている最中は細かい塗り分け・組み立て・組付けで発狂寸前だったが、完成したスープラGTを前にしての感動を思えば、それもまたよい経験であったと言える。

最後になるが、このヒネクレまくったアイディアの根本的な動機は、例のHPI社製のテストカーがまったく手に入らないから (十年近く前のモデルな上に生産数が少なく、中古市場にも滅多に流通しない) というヨコシマなものであったことを書き添えておく。何をするにしても、動機というのはいつだって単純なものである。

2018年2月25日 (日)

新大陸より ~SCG 003Cプロジェクト~

ドイツ・アイフェル山中で毎年五月末頃に開催されるニュルブルグリンク二十四時間レースは、現在世界各国で開催されているプロフェッショナル~セミ・プロレベルの二十四時間レース大会のなかでは、ベルギーのスパ=フランコルシャン二十四時間レースと並んで、最も早い時期からFIA GT3規格の車輌を受け入れてきたことで知られている。いわゆるGT3カーが初めてニュルブルグリンク二十四時間レースに参戦したのは二〇〇九年のことであったが、GT3規格の「ある程度高性能な市販車ベースのレーシングカーを、低価格で広く提供する」という方針にニュルブルグリンク二十四時間レースの方向性が合致し、二〇一〇年代初頭までには総合優勝をあらそうチームはすべてGT3カーで参戦するようになっていった。同レースにおける最後の非GT3車による優勝は二〇一一年のマンタイ・レーシング・ポルシェ911GT3 RSR (当時のGT2規格。現在ではGTEに分類されるカテゴリ) によるものであり、この年以降は総合優勝争いにGT3規格以外の車輌が絡む光景は見られなくなった。

投資家・B級映画監督・番組プロデューサーの肩書を持つアメリカ人ジェームス・グリッケンハウスは、自身のファミリー・ビジネスである株式投資で財を成し、その財産を趣味の自動車コレクションに注ぎ込んでいた。無類のフェラーリ好きであった彼は、クラシック・フェラーリのさまざまな名車を購入するだけでは飽き足らず、フェラーリのスーパーカーであるエンヅォ・フェラーリをベースとしたオリジナル・デザインの車輌を、デザイン工房であるピニンファリーナ社に発注するに至った。この車は「フェラーリ・P4/5」と名付けられ、グリッケンハウスはそのレース仕様車である「P4/5コンペティツィオーネ」を二〇一一年のニュルブルグリンク二十四時間レースに参戦させたのである。P4/5Cはエンヅォよりひと回りちいさいフェラーリ・F430スクーデリアをベースとしており、車体設計は当時のFIA GT2 (現GTE) 規定に準拠して製作されていた。この車は翌二〇一二年には「P4/5C M」(Mは伊語「改造」を意味するModificataと思われる) へとアップグレードされ、総合一二位で完走するに至ったが、非公式のレース活動に関与することを避けたがったフェラーリ側が部品類の供給を停止したため、ジェームス・グリッケンハウスのレース活動はこの年限りでいったん途絶えることになった。

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スパークモデル製・品番SG334、「トラウム・モータースポーツ・SCG003C」1/43スケールモデル。二〇一七年のニュルブルグリンク二十四時間レースに参戦した二台のSCG 003Cのうち一台、シャシー・ナンバー4の個体を再現している。カーナンバー704の当該個体はジェフ・ウェストファル/フランク・マイユー/アンドレアス・シモンセン/フェリペ・F・ラザーの四名が操縦した。SCGは「スクーデリア・キャメロン・グリッケンハウス」の略 (キャメロンは母方の姓) で、このオリジナル・カーを製作するために立ち上げられたメーカーの名称である。

フェラーリからの援助が見込めないと知ったグリッケンハウスは、しかしレースをあきらめようとはしなかった。フェラーリ車が使えないのであれば、自身の名を冠したオリジナルの車でニュルブルグリンク二十四時間レースに参戦しようと考えたジェームス・グリッケンハウスは、元ピニンファリーナ社の技師パオロ・ガレッラを頼り、ガレッラが立ち上げた「トリノ自動車製作所 (Manifattura Automobili Torino)」に、彼のための新型車の設計を一任した。ガレッラはピニンファリーナ時代にグリッケンハウスの依頼でP4/5を設計した人物であり、二〇一一年にM.A.T.を立ち上げた後もP4/5コンペティツィオーネの製作に携わるなど、グリッケンハウスとは縁が深かったのである。二〇一三年に開発が発表された新型車は当初「P33」として公表されたが、二〇一五年のジュネーヴ・ショーで公開された際には「SCG 003」という名称が与えられていた。このうち最初に公開されたレース仕様車は「SCG 003C」(CはCompetizione=競技用の意) とよばれ、心臓部には当時LMP2規格のスポーツカー用に安価で販売されていたHPD HR35TT型 (ホンダ製J型エンジンをベースとしている) 3.5リッター・V型6気筒ターボエンジンが選ばれた。実戦ではこのエンジンをベースに、MAT側でさらにチューニングを施したものを使用しているとされている。ギヤボックスはこのクラスのレーシングカーに多用されるヒューランド製六速セミオートを積む。


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スパークモデルは毎年ル・マン、ニュルブルグリンク、スパ=フランコルシャンの各二十四時間レースに参戦した車輌を多くモデル化しているが、二〇一七年からはル・マンに続きニュルブルグリンク二十四時間レース参戦車にも専用デザインの紙製スリーブ・ケースが奢られるようになった。この年から刷新された大会公式ロゴマークをあしらった清潔感のあるデザインで、目に清々しく映る。


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車体全体を俯瞰する。オリジナル・デザインのレーシングカーでありベースとなる市販車はもとより存在しない (二〇一七年以降、この車をもとに再設計した市販車バージョンが生産を開始するとされており、すでに先行試作型が数台完成している) が、まるでGTカーとプロトタイプ・スポーツカーの折衷のような外見をしている。並列複座式の幅広なキャビンや低いサイドステップ部などは市販車ベースのGTカーを強く想起させる一方で、ボディから半独立式に配された前後フェンダーや細く絞り込まれたノーズ、車体後端に向かって急激に傾斜するボディ後部などは、現代のプロトタイプ・スポーツカーの文法に則って設計されていることが分る。ほとんどワンオフ設計なのだから当たり前といえば当たり前だが、世界中どこを探しても似たようなデザインが存在しない、じつに強烈な車である。

二〇一五年にお披露目されたSCG 003Cは、早速この年のニュルブルグリンク二十四時間レースに二台が参戦した。GT3カーではないため、同規格のために改編されたSP9 GT3クラスではなく、もとは自動車メーカーの先行試作車などのためのクラスであるSP Xクラスからの参戦だったが、エンジン出力などのチューニングはGT3カーと同等に合わせられ、総合優勝を競うGT3カーたちと同じ土俵で戦うことになった。レースでは一台が予選中にクラッシュし、修復がまに合わず決勝レースを欠場することを余儀なくされたが、残った第一号車が予選二十四位から二十四時間の過酷なレースを走りきり、一五一台中三十五位で完走を果たした。この第一号車は途中オルタネーター・ベルトなどのトラブルで長時間の修復作業を余儀なくされたものの、一時は総合十一位まで追い上げ、並み居る強豪チームのGT3カー相手に一歩も引かぬ戦いを演じてみせたのである。

翌二〇一六年、開発・熟成期間を終えたSCG 003Cはいよいよ本格的な攻勢に乗り出した。マッキナ・ウーノ (伊語「一号機」) と名付けられたシャシー・ナンバー1の車輌がNr701、マッキナ・ドゥーエ (同「二号機」) と名付けられたシャシー・ナンバー2の車輌がNr702を背負い、前年と同じく二台体制でニュルブルグリンク二十四時間レースに参戦したが、ドライバーにニュルブルグリンクのコースをよく知るフェリペ・ラザーやGTレースの大ベテランであるイェロン・ブレーケモルンを加え入れ、主に人材面での強化を図ったのである。この年はNr702が予選二十一位、Nr701が二十三位からのスタートであったが、Nr702は好調に周回を重ね、日付が変わる前には総合四位にまで順位を上げるほどであった。もう一台のNr701もトップテンに食い込むなど勇戦敢闘したが、夜明け前に二台とも過給器のトラブルに見舞われ、修復に時間を取られた結果、またしてもせっかくの勝機を逸することになった。Nr702はその後挽回して一五八台中二十六位で完走したが、Nr701はフィニッシュまであと九十分というところで周回遅れの車と接触しリタイヤに終った。二〇一六年にはニュルブルグリンクでのレース以外に、三月にイタリアのムジェロ・サーキットで開催されたアマチュア向けの十二時間レースにも参戦するなど走行距離を重ねたが、過給器やギヤボックスなどにトラブルが相次ぎ、その対応に追われる結果となった。九月に開催されたニュルブルグリンクのレースで四位に入ったのが、この年のSCG 003Cの最高位だった。


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側面形を見る。鋭く尖ったノーズ先端部やドア直前で裁ち落とされたフロントフェンダー、そこから長い支柱を介して取り付けられるサイドミラー、リヤカウル上の垂直安定板など、おおよそ市販車がベースであるGT3カーとは似ても似つかないスタイルをしている。黄・白・黒のカラーリングは二〇一五年のジュネーヴ・ショー以来使われているSCGのオフィシャル・カラーで、ノーズ先端に戦闘機のようなシャークティースが描かれているのが特徴。タイヤは二〇一五年以来一貫してダンロップ製を使用している。


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リヤウィングはGTカーでも徐々に普及しはじめている吊り下げ式。傾斜したリヤデッキ後端にはガーニーリップが取り付けられているが、左右端部のエア・アウトレットに合わせて高さが変化しており、繊細な処理が施されていることが分る。ディフューザーの高さは現代のGT3カーに比べると若干低いが、ボディ全体で十分な量のダウンフォースを獲得できているという。リヤフェンダーの後端部にかけて、かつてアメリカで流行したテール・フィン様の処理がなされている点にも注目したい。この部分がフェンスとなって、リヤウィングに向かう気流を多少なりとも整流していると思われる。

二〇一七年は、SCG 003Cにとって三年目のシーズンだった。前年からスクーデリア・キャメロン・グリッケンハウスはSCG 003Cをカスタマー・チーム向けに貸し出す計画を実行に移そうとしており、SCG社のレース活動を統括する組織としてあらたにトラウム・モータースポーツSAが立ち上げられた。ドイツ語で「夢」を意味するチーム名を持つトラウム・モータースポーツが本格的に活動しはじめたこの年、SCG 003Cはその活動期間を通してもっとも優勝に近いところに立っていた。四月下旬におこなわれたニュルブルグリンク二十四時間レースに向けての予選レースで、SCG 003Cがポール・ポジションからトップを快走したのである。自動車メーカーが大金を注ぎ込んで開発したGT3カーの軍勢を、ひとりのアメリカ人の情熱によって作られた一台のレーシングカーが圧倒するかと思われたが、その後SCG 003Cはブレーキ・トラブルでリタイヤしてしまい、初優勝の夢はレース本番に持ち越しとなった。しかしこのレースでSCG 003Cはレース中の最速ラップを記録しており、並み居るGT3カーと互角の勝負をして優勝戦線に斬り込めるだろうという期待は高まった。ドライバーのひとりであるフランク・マイユーは、予選レースを終えた段階でつぎのように語った。
「今年は勝てるチャンスが十分あると思う。過去二年間にわたって、いろいろな信頼性の問題を見つけては解決してきたが、今年は特によい状態でレース本番に臨めると感じている。壊れさえしなければ、勝負はできるだろう」

ニュルブルグリンク二十四時間レースの予選日に、SCG関係者の期待と興奮は最高潮に達した。トップ三十台によるスーパーラップ形式の予選アタックで、Nr704を操縦するジェフ・ウェストファルが8分15秒427のタイムを記録し、ポール・ポジションを奪ったのである。二位のランド・モータースポーツ・アウディとは0.675秒差だった。これには世界中が仰天した。たったひとりの「夢」に突き動かされるようにして製作された、世界のどこにも同規格車の存在しないレーシングカーが、莫大な資金や人員や時間をかけて製作され熟成された市販GT3カーの壁を、ついに突き崩した瞬間だったのである。一九七〇年から四十五回開催されているニュルブルグリンク二十四時間レースの歴史において、ドイツ車以外の車がポール・ポジションを奪ったのは、この年がじつに二度目だった (一度目は二〇一一年大会のフェラーリ・458GTC)。タイム・アタックを受け持ったジェフ・ウェストファルは、つぎのように喜びを表現した。
「(この) 車の開発は、二歩すすんで一歩さがるようなことのくりかえしだったけど、ついにこうして世界でもトップレベルのレーシングカーを倒して頂点に立つことができた。ぼくにとっては大戦果だ」
プロジェクトの推進者であるジェームス・グリッケンハウスも、つぎのようなコメントを残した。
「世界中の情熱ある人間を集めたちいさなチームが、四十台のワークス・カーを相手にまわして対等に戦えるなんて驚きだ。信じられない」
一秒未満の差で予選二位に終ったランド・モータースポーツ・アウディのコナー・デ・フィリッピも、グリッケンハウスの健闘をたたえてこう言った。
「モータースポーツ全体にとってすばらしい日になった。ちいさなチームがトップを奪ったというのはクールだよね、しかもアメリカのチームというのがまた格好良いんだ」


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フロントまわり。半独立式のフロントフェンダーとモノコックの間を複数層のデッキでつなぐ構成も、二〇〇〇年代後半以降のプロトタイプ・スポーツカーの設計を彷彿とさせる。ヘッドライトは縦型のものがフェンダー先端に装備されており、上下四段の並列三灯式LEDクラスタが埋め込まれている (二〇一五年登場の初期型では、LED二段+円形ランプの構成であった)。ライトカバー上部にあるオレンジ色の三角形は、ヘッドライト用ティアオフ (複数枚重ねられたビニールシートで、汚れなどを拭き取るかわりにこのシートを一枚ずつ剥がして透明度を保つ) の持ち手部分である。モノコック先端下部には何かの冷却器が置かれているが、これが過給器用の中間冷却器なのか、はたまたオイル・クーラーなのかは判然としない。この位置に冷却器を持ってくると、空気抵抗や慣性モーメントの増加といった悪影響があるのだが、おそらくこの車の場合、ほかに持って行きようがなかったのだろう。フロントノーズから伸びる下段デッキ (黄色) と、前端にLEDライトが仕込まれた上段デッキ (カーボン) の間の空間には、ブレーキ冷却用のダクトなどが設置されている。

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黒いカーボン地なので見えづらいが、L字型のサイドミラー支柱がフロントフェンダー後方の開口部から生えているのが分る。この部分にはミラー支柱とは別に、縦方向の整流板が一枚入っている。ドア開口部直下に水平のデッキが設けられ、擬似的なツインフロアのような構成になっている。下段フロアは現在のDTMや全日本GT・GT500クラス車輌のラテラルダクト部に近い役割を持っているものと思われ、側面の開口部には低いフェンスが立っている (ジャッキアップ・ポイントを示す黄線の折れ曲がりで分る)。
ミラー面の隅にちいさな円が見られるが、これは後方視認用カメラで、左右ミラー隅のカメラの映像をコックピット内・メーターパネル左右のモニターに表示するためのものである。GTカーにおいて後方カメラはめずらしい装備ではないが、カーナビのような一画面式ではなく左右別々に映像を表示するタイプのものは、おそらくこの車が唯一と思われる。

レースがスタートすると、黄色く塗装されたSCG 003Cは一六一台の大艦隊を率いて予選第一位から飛び出し、後続のアウディ二台の猛攻をしのぎながら走り続けた。もう一台のNr702も予選十三位から好スタートを決め、一周目を終える頃にはトップテン圏内に食い込むと、メルセデスベンツやアウディのGT3カーを激しく追い立て始めた。しかしレース開始から二時間半後には、早くもNr704が周回遅れの車と接触したためピットガレージでの修理を強いられ、トップ争いから脱落することになった。かわってNr702が猛然とスパートしはじめたが、この車も土曜日の日没後にエンジン関係のトラブルを起こし、修復のためピットインしたことにより大きく遅れを取ってしまった。すべてが新設計であるSCG 003Cは、二年が経過しても信頼性がまだ完全ではなかったのである。Nr704はその後マイナー・トラブルを抱えながらも、日曜午前には総合十一位まで挽回を果たしたが、レースが残り五時間というところになって、コース後半の高速セクションでフェリペ・ラザーの操縦中に単独クラッシュし、修復不能と判断されリタイヤした。一方のNr702は、日曜日の朝に燃料系のトラブルが発生し、ふたたび長いピットインを強いられたものの、その後は粘り強く走り続け、総合十九位で完走を果たした。勝ったのは予選二位からスタートしたランド・モータースポーツのアウディ・R8 LMS GT3だった。


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リヤウィングの支柱は比較的単純な形状で、一枚タイプのリヤウィングが吊り下げ式に取り付けられている。リヤフェンダー後方のテールフィン部分を避けて、翼端板には切り欠きが設けられている。現代のスポーツカーへのオマージュと思われる垂直安定板の右舷側にはカーナンバーが書かれている。二〇一七年のニュルブルグリンク二十四時間レースにジェームス・グリッケンハウスは二台のSCG 003Cを持ち込んだが、Nr702がマッキナ・ドゥーエ (二号シャシー)、Nr704がマッキナ・クアトロ (四号シャシー) であったことが、レース映像や写真から確認できる (ドアを開けた際の内装サイドシル部分に表記がある)。マッキナ・クアトロはこれまでのレースでは確認されていない個体であり、二〇一七年になってから新造されたものと推測される。


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先述の通り、マッキナ・クアトロことNr704は予選でポール・ポジションを獲得はしたもののレースではリタイヤに終っているため、本来この個体のレース・リザルトとして特記に値する戦果は存在しない。スパークモデルの製品群においても、通常は「レース順位」または「クラス順位」が上位である場合のみ、台座の車名表記にその数字が併記されることになっている。しかしこの製品においては、写真でも分る通り、「二〇一七年ニュルブルグリンク二十四時間レース・ポールポジション」の文字が台座に刻まれている。スパークモデルの製品において、予選ポール・ポジションを獲得した車輌の台座にその旨が表記されるのはなかなかに異例のことであり (筆者はほかに例を知らない)、この車のなし得た偉業に対するスパークモデルからのささやかな祝福のようにも思える。

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現在SCGとトラウム・モータースポーツは、SCG 003Cのカスタマー・チーム向けプログラムを始動させており、すでにこの車はニュルブルグリンク二十四時間レースやその系列戦以外のレースに散発的に参戦を開始している。今やすっかり世界中のGTレースカーの主流となったGT3規格車ではなく、予算規模・開発期間とも大メーカー製のGT3カーとは比べるべくもないこの車が、つぎなるジャイアント・キリングを見せてくれるのは、そう遠くない未来のように思える。

スクーデリア・キャメロン・グリッケンハウス・SCG 003Cは、公式によるナンバリングを信用するなら四台が製作されたと思われる。
SCG 003Cの第四号シャシー、公式名称「マッキナ・クアトロ」は、おそらく二〇一七年三月までに製作され、同年四月のVLN (ニュルブルグリンク耐久選手権シリーズ) 第二戦で実戦デビューを果たした。このレースでは十二位で完走している。その後同月末のニュルブルグリンク二十四時間レースの予選レースに参戦したのち、五月末のニュルブルグリンク二十四時間レースに参戦しポール・ポジションを獲得したのが、二〇一八年二月現在この個体最後の戦歴である。

2017年12月21日 (木)

もうひとつのハイブリッド物語 ~ホンダCR-Z GT (2014)~

ハイブリッドカーは、石油資源の枯渇や環境問題などの議論に対する解決策のうちのひとつとして、並行して研究されていた電気自動車や燃料電池自動車などにさきがけて一般向けに実用化され、今日では日本や米国を中心に大きなシェアを誇るに至ったが、同時にこの技術は、二十世紀を通して一般的であった「サーキットを走るレーシングカーによって先行開発・研究を行う」スタイルによらないものであった。市販乗用車において一般的なモノコック・ボディやディスク・ブレーキ、あるいはエンジンの高回転・高出力・省燃費化といった技術は、いずれも二十世紀を通して「走る実験室」たるレーシングカーにまず投入され、技術的知見を蓄積したのち市販乗用車に搭載されるのが常であったが、ハイブリッド動力はまず机上研究からスタートし、サーキットを経ずに市販乗用車として実用化されたという点において独特であった。

かつてサーキットがあらゆる乗用車関連技術の揺籠であった時代において、レーシングカーはそのまま未来の乗用車を体現すると考えられた存在であった (現在でもレース用スポーツカーのことを「プロトタイプ」=先行試作品と呼ぶことに、この考えの名残が見られる)。しかしハイブリッドカーの時代においては、ハイブリッド技術はまず市販車によって開発され、その成果がレーシングカーによってサーキットに持ち込まれるという、前世紀には見られなかった逆行が起きた。その嚆矢はトヨタで、二〇〇六年にGTカーに試験的なレース用ハイブリッド・システムを搭載したのを皮切りに、二〇一二年にはハイブリッド動力のスポーツカーでル・マン二十四時間レースを含む世界耐久選手権への参戦を開始し、アウディやポルシェといった強力なライバルを相手に、二〇一四年には世界選手権のチャンピオンとなるに至った。また同じ二〇一二年にトヨタは、国内のコンストラクターであるaprに開発を委託したトヨタ・プリウスのレース用モデルで、全日本GT選手権 (現在Super GTと呼称される)・GT300クラスへの参戦を開始している。このプリウスGTに搭載されたハイブリッド・システムは、世界耐久選手権用のレース専用品と違って市販乗用車用のものをそのまま使っており、より市販車とのつながりを重視した活動であった。このトヨタ・プリウスに対する対抗馬としてホンダが同年後半に送り込んだのが、ホンダ・CR-Z GTである。


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エブロ製・品番45075、「無限 CR-Z GT 2014年スーパーGT」ダイキャスト製1/43スケールモデルカーである。二〇一四年のスーパーGTに、チーム・無限からGT300クラスに参戦したCR-Z GTを再現している。吊り下げ式に改められたリヤウィングや、前面吸気口の形状などから、第四戦・菅生で投入された後期型をモデルにしていることがわかる。

ホンダ・CR-Zは、二〇一〇年にホンダが発売した小型クーペ・タイプのハイブリッドカーで、名称からも分る通り、かつて販売されていた小型クーペ「CR-X」の実質的な後継車として開発されたものである。ホンダは傘下のチューニングパーツ・メーカー兼レース部隊である無限にこの車のGT300仕様を作らせ、実戦テストとして二〇一二年後半からスーパーGTに参戦を開始した。スーパーGTでは同一メーカー製ならエンジンの載せ替えは自由であったため、CR-Z GTではアメリカ・カリフォルニア州サンタクラリタに本拠を置くHPD (Honda Performance Development) がスポーツカー向けに開発したHR28TT型・2.8L V型6気筒エンジン (チーム無限はベースとなった市販車用エンジンである「J35A」と呼んでいる) が車体中央部に搭載され、これに英国ザイテック社製のレース用ハイブリッド・システムが組み合わされた。もともとコンパクトカー程度のサイズであったCR-Zに大型の6気筒エンジンを縦置きで搭載したため、エンジン・ブロックは一部が車室内に食い込むような配置になっており、ドライバーの着座位置は市販車よりも若干前進している。

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横からCR-Z GTを眺める。レーシングカー化するにあたって全幅は拡大され、大径・幅広のレース用タイヤが装着され、後部には一枚式の大型ウィングが装備されているが、ホイールベースは市販車とほとんど変わっていない。そのためこの車はGT300クラスの中でも最もコンパクトな部類に入る。

CR-Z GTは二〇一三年からスーパーGTへのフル参戦を開始し、同時に鈴木亜久里のARTAからも一台がエントリーしたため、この年から二台のCR-Z GTがスーパーGTで走ることになった。チーム無限は、同年の選手権では一度もクラス優勝を挙げることがなかったにもかかわらず、二位を四回獲得したほか全レースで入賞するなど抜群の安定感を誇り、二勝したゲイナーのメルセデスベンツを振り切ってGT300クラスの年間チャンピオンに輝いた。これは全日本GT選手権の歴史において初めて、ハイブリッドカーがチャンピオンを獲得した事例であった。これに伴い、無限は翌二〇一四年の選手権でGT300クラスのチャンピオン・ナンバーである「0」を付ける権利が与えられ、二〇〇五年以来九年ぶりに同チームに「0番」が復活することになった。 一方ARTAは、シーズンを通して入賞に届かないレースが続いたものの、第三戦・セパンと第四戦・菅生で連勝し、ドライバーランキング七位を確保した。

二〇一四年シーズンに向けて、無限は中山友貴と野尻智紀の若手ドライバーを起用し、ARTAは引き続き高木真一と小林崇志のペアで参戦した。無限はこの年から車のカラーリングを変更し、それまでのソリッドな赤色からメタリック調のおちついた深紅を前面に大きく配したほか、同社のコーポレート・カラーである「赤・金・黒」を流線状に描いた新カラーリングが用いられた。車体そのものは当初二〇一三年用と共通で、パワーステアリングの容量を増やすなど小改良にとどまったが、前年の好成績を受けて吸気リストリクターが小型化された結果としてパワー不足が予想され、GT300クラスで存在感を強めていたFIA GT3規格の車輌に対して苦戦が予想された。

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ベース車の車体寸法がちいさく、車体側にリヤウィングを装備できないCR-Z GTは、かわりにディフューザー部となる床下部分を後方へ延長し、その上にリヤウィング支柱を取り付けるという大胆な手法をとっている。二本の支柱の間は横方向の肋材で補強され、まるで高層ビルの足場のようにも見える独特な景観を生み出している。テールランプの位置は市販車と同様であるから、横方向へのフェンダーの張り出しがいかに大きいものかを察することができる。リヤフェンダー後部は途中で裁ち落とされ、タイヤ後方は外部に露出しているが、シーズン途中のアップデートによって、この部分に整流用のボートテール状構造物が配された。

無限 CR-Z GTは開幕戦・岡山で九位に入ると、続く第二戦・富士ではレース展開にも助けられ三位表彰台を獲得した。続く第三戦・オートポリスでも五位入賞を果たしたが、ライバルチームの急追や特定チームの独走を避けるための性能調整などに苦しみ、なかなかトップ集団に加わることができずにいた。しかしこの第三戦では姉妹艦ともいえるARTAの車が優勝を記録するなど、依然としてCR-Z GTの戦闘力は衰えていないことも示された。

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戦闘力を取り戻すべく、無限およびARTAは第四戦・菅生に大改修をほどこした後期型CR-Z GTを持ち込んだ。夏場に向けての冷却対策でフロントのエアインテークが大型化され、三つに分かれていた吸気口が大型の一体式にあらためられたのである。リヤウィングの支柱も改修を受け、形状が変更されると共に、それまでのオーソドックスな下面支持タイプから効率にすぐれる吊り下げ式に改造された。モデルはこの後期型を再現しているが、残念ながら中央グリル部の取り回しが実車と違うものになっている (実車では下部インテークの大型化・一体化に合わせて、グリルが途中で切り取られている。実車写真も合わせて参照されたい)。

第四戦・菅生と第五戦・富士の無限 CR-Z GTは、いずれもアップデートの成果で予選では好タイムを記録できても、雨が降った決勝レースではライバルのペースについていけず、ポイントを獲得することすらできなかった。トラクション・コントローラーやABSといった電子デバイスが搭載されているFIA GT3カーに比べると、CR-Z GTのようなJAF GTカーはそのような電子機器を装備できない分、雨天時の操縦性には際立った差があった。またCR-Z GT固有の特性として、コンディションの変化に対する車輌の許容幅が思ったより狭く、特にドライ路面とウェット路面の遷移状態において操縦性が思わしくないという悪癖を抱えていることも苦戦の一因とされた。二〇一三年は雨のレースがなかったため、この特性があまり顕在化しなかったのである。

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エブロ製のダイキャスト製品ではあるが、このモデルに関しては内装なども比較的よく再現されており、正方形に近いステアリングやその背面のシフトパドル、スタビライザー調整用と思われる赤と青に色分けされた二本のレバー、さらにはハイブリッド・システム冷却用の白い通風パイプまで作り込まれている。サイドウィンドウはなぜか黄色がかった色で成形されているが、手持ちの写真を見る限りチーム無限の実車においてこのような特徴は見られない。写真では写っていないが、助手席スペースに置かれたハイブリッド・システム一式の外観もしっかり再現されている。実車ではこのハイブリッド・システムを構成するモーター、バッテリー、インバーターのために、それぞれ別系統の冷却システムが用意されるなど熱対策に注力したが、車体そのものの小ささからくるパッケージングの問題もあって、当初は熱害の問題に悩まされた。

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もともと通常の支持方式だったリヤウィングを、支柱そのものの形状を変えずに吊り下げ式に作り変えたことが分る。ウィングは下面の高流速部分がダウンフォース発生において重要であり、吊り下げウィングはその下面にある障害物を取り払うことでウィングの効率を上げるためのデバイスだが、このような戦時急造型めいた改修は他車種ではほとんど見られない。そのような意味でも、この車は独特な一台であると言える。 CR-Z GTは前期型・後期型を通して、ウィング部品はホンダがGT500クラスに投入していたHSV-010 GTからの流用であったが、この後期型では吊り下げウィングの支点部分も同車から流用されている (HSV-010 GTはCR-Z GTよりひと足早く、二〇一三年後半にこのタイプのウィングを投入していた)。

第六戦・鈴鹿1,000キロレースで、チーム無限は第三ドライバーに道上龍を加えた三人体制を敷いた (道上は決勝レースには出走していない)。CR-Z GTが得意とするテクニカルコースの鈴鹿とあって、練習走行ではGT300クラスのコースレコードを更新する好走を見せ、予選でも二位に入るなど健闘したが、レースではペナルティや終盤のトラブルなどに苦しみ八位に終った。続く第七戦・ブリラムでは九位、最終戦・もてぎでは十三位で、年間のチームランキングは十位だった。前年に比べるとなんとも寂しい戦績だったが、同時に前年のチャンピオン・マシンが一年で中団に転落するという、レースにおける物事の進歩の速さの象徴でもあった。二〇一四年においてもホンダ・CR-Z GTは十分な戦闘力を有してはいたが、それに見合うだけの安定性やスピード、あるいはほんのすこしの運が、二〇一四年のチーム・無限にはなかったのである。

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ヘッドライトはまるで書き割りのような様相だが、実車もこのような構成で、実際にライトとして機能するのは中央の四角い部分のみである。実車においてはこの赤色は光沢のあるメタリックカラーだが、モデルではコストの問題か十分には再現されていない。こちらもコストの問題と思われるが、実車ではヘッドライト脇・フロントフェンダー前端部の段差にスリットが空いており、これは二〇一二年のアキュラ/HPD製スポーツカーや、二〇一五年に登場したアウディ・R8 LMSなどに見られる手法と共通である。グリル上部に空いている小さい穴はエアジャッキの差込口。

二〇一五年は無限がスーパーGTへの参戦を休止したため、CR-Z GTの参戦はARTAの一台のみとなった。この年ARTAは開幕戦・岡山で二位、第四戦・富士で優勝し、チーム・ランキング六位を獲得するなど健闘したが、GT300クラスにおけるCR-Z GTの参戦はこの年で終了し、CR-Z GTもその使命を終えた。スーパーGTにおけるホンダのレーシング・ハイブリッド開発は二〇一四年からGT500クラスに参戦を開始したホンダ・NSX GTがその主流を引き継いだが、レギュレーション上の不利や熱害、重量の問題を最後まで解決できず、二〇一五年を最後にホンダのハイブリッドカーがスーパーGTで走ることはなくなった。ホンダは二〇一七年に、ハイブリッド・システム非搭載を前提とした新型のNSX GTを開発し、レクサスが席巻したシーズンにおいて二勝を記録した。現在のホンダにおけるレース用ハイブリッド・システムの開発は、二〇一五年にはじまったF1用エンジンの開発がその主軸を担っている。他方aprのトヨタ・プリウスは、二〇一七年現在もトヨタからの支援を得て、スーパーGT・GT300クラスへの参戦を継続している。

ホンダ・CR-Z GTは、少なくとも二台が無限により開発・製作されたと思われるが、そのシャシー・ナンバーは明らかではない。このうちARTAが二〇一五年まで運用した一台は現存し、現在も各種イベントで時折展示されている。

2017年4月30日 (日)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「白い道」~

一九九一 (平3) 年から施行された改訂版のグループC規定は、それまで燃費競争を主軸とする耐久レースであったスポーツカー・レースを、純粋にコース上での速さのみを競う中距離レースへと変貌させた。これは当時のF1カーと共通の3.5リッター自然吸気エンジンの採用や、レース距離の430キロへの短縮、燃料使用量制限の撤廃によって実現されたが、その結果として旧グループC規定に合わせて製作されたスポーツカーは一夜にして戦闘力をうしない、また一年の猶予期間をへて一九九二年からは世界選手権レースへの参戦そのものが不可能となった。これにより多くのプライベート・チームがスポーツカー・レースから撤退したばかりか、新規定に合わせたF1規格のエンジンを開発する予算を拠出できないメーカー・ワークス・チームもあいついで姿を消し、もはやスポーツカーの世界選手権レースはその命運が決したも同然であった。一方日本国内においては、国内選手権のレースとして開催されていた全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権 (JSPC) が一九九二年以降も旧規定の車を受け入れることを決定しており、新旧規定の車はそれぞれ別のクラスに組み入れられ、各クラスごとにチャンピオン・タイトルが与えられることになっていた。これは主に新規定に対応した車輌の開発がまに合わないメーカー・ワークスに向けた措置であったが、同時に旧規定車を使うプライベート・チームが離れていくことを食い止める効果も期待されていた。しかし日本においても海外においても、そのようなプライベート・チームが使っていたのは基本的に市販されているポルシェのスポーツカーであり、日本においてはそのポルシェ車はすでにニッサン、トヨタ両メーカーが総力を挙げて開発したワークス・カーに太刀打ちできないことがはっきりしていた。そのようなチームがあいついで撤退したことで、JSPCも結果的には世界選手権と同様に、参戦台数の低下に歯止めがかからない状態におちいってしまったのである。   
   
   
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HPI製、品番8872「フロムA・R91CKニッサン 1992 Mine」レジン製1/43スケールモデルカーである。一九九二年JSPC最終戦・インターチャレンヂ美祢500キロレース仕様、マウロ・マルティニとハインツ・ハラルド・フレンツェンが操縦し三位で完走したノバ・ニッサンR91CKを再現している。シャシー・ナンバーはR90C-07であると思われる。   
   
名エンジニア・森脇基恭を擁するノバ・エンジニアリングは、一九九〇年までポルシェの車に独自の改造を施しながら全日本選手権に参戦していたが、すでに市販ポルシェの戦闘力がトヨタやニッサンにおよばないことを感じ取ると、ついに一九九〇年限りでポルシェ車に見切りをつけることを決意した。当時ノバはイギリスのシャシー・メーカーであるローラ社の日本代理店としても活動しており、F3000用のシャシーなどを輸入していた実績があったため、そのローラ社がニッサン用に設計した最新式のグループC規定シャシーを購入することができた。プライベーターであったノバはエンジンに関しても選択の自由があったが、ローラ社の車体はニッサン・エンジンに合わせて設計されており、エンジン供給の打診を受けたニッサン側もこれを快諾したため、ノバはローラ製シャシーにニッサン・エンジンという、ヨーロッパのニッサン・ワークス・チームと同じパッケージで全日本選手権を戦うことになった。   
   
ノバ・エンジニアリングは一九九〇年中にローラにシャシーを発注し、ローラは彼らのために一九九〇年仕様のニッサン・R90CK用モノコックを一台あたらしく製作した。これがシャシーナンバーR90C-07の個体であり、一九九〇年末にスペア・シャシーのR90C-06と共に日本へ輸送された。R90C-06は完成状態で発送されたが、新造シャシーであるR90C-07は分解状態で日本へ送られ、ノバ側で組み立てを行ったとされる。チームは一九九〇年十二月中からR90C-06でテスト走行を繰り返し、一九九一年シーズンの開幕にそなえた。これらの車体はニッサン・R90CKと共通であったものの、ノバ・エンジニアリングでの運用にあたって大径フロント・ブレーキ装着を目的とした前輪の18インチ化などの改造がほどこされたため、「R91CK」の車名が付与された。   
   
   
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前々回の記事で紹介したニッサン・R90CKと共通の車体をもつ本車輌だが、一見しただけではそれがまったく分らないほどに改造を重ねられている。前述の通り、一九九一年の全日本選手権開幕戦の時点ではほぼニッサン・R90CKに準拠した仕様で走ったが、その後チーム側で近代化改修を重ねたことにより、オリジナルのローラ・シャシーの面影は、わずかに操縦室周辺に見られるのみである。   
   
一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースでは、ノバ・ローラは優勝したニッサン・ワークスの車から遅れることわずか1秒の二位で完走し、ニッサン・エンジンの優位性とノバ・エンジニアリングの優秀さを証明してみせた。ノバ・ローラは第四戦・鈴鹿1000キロレース、第五戦・菅生500キロレースでも連続して二位に入賞し、これにより一時はドライバーズ・ランキングで首位から4ポイント差の二位につけ、最終的にはプライベート・チーム最上位である四位に食い込む活躍を見せるなど、その戦闘力は高かった。この競争力はノバ・エンジニアリングのすぐれた開発能力に裏打ちされたもので、その象徴が一九九一年第三戦・富士500マイルレースから投入された、新型の二段式リヤウィングであった。   
この独特な構造をしたリヤウィングは、もともとはTWR・ジャガーが一九九一年のスポーツカー世界選手権ではじめて実戦に投入したもので、下段のウィングを車体下部のディフューザー出口に近づけて配置することで車体下面からの空気の吸い出しを助け、より強いダウンフォースを発生させることを主目的としていた。従来の考え方では一枚のリヤウィングを車体後部の高い部分に固定し、これをある角度まで傾斜させることによりダウンフォースを発生していたが、この手法では発生するダウンフォースの量に比例して空気抵抗が増加するという弊害があった。しかし車体下面でより大きなダウンフォースを発生させることができれば、その分リヤウィングへの依存度は減少し、あまりウィング角を立てなくとも必要な量のダウンフォースを得ることができるのである。これにより、同じ量のダウンフォースを発生しながら空気抵抗は減少するため、直線での最高速度は従来にくらべて速くなり、スポーツカー・レースにおいて最重要とされる燃費性能も改善されることが予想された。そのうえリヤウィングを立てれば、従来の車と同じ量の空気抵抗に対してより大きなダウンフォースをかけられるため、コーナーが連続するサーキットでも有利になることが予想されたのである。このように多くのメリットを享受できるため、TWR・ジャガーがこのリヤウィングを投入したと見るや、世界選手権でのライバルであったプジョーは大急ぎでこれをコピーし、自分たちの車にも同じものを取り付けたほどであったが、一九九一年夏の時点では二段式リヤウィングを採用していたの車はこの二車種だけであり、むろん日本ではノバがはじめての採用例となった。ノバ・ローラの場合、二段式リヤウィングに交換したことにより、富士スピードウェイにおける最高速は時速18キロ分の改善が見られたとされる。   
   
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二段式リヤウィングを後方から見る。車体下部、ディフューザーの出口から吐き出された高速の気流が、下段ウィング下面の負圧によって加速され、車体からの吸い出し効果を高めることによって、床下で発生されるダウンフォース効果を高めている。一方上段のウィングは主に前後の空力荷重のバランスをとるために使用され、そのウィング角は従来のものに比べるとかなり寝た状態になっている。これにより少ない空気抵抗でより大きなダウンフォースを発生することが可能となる。実車ではウィング本体や翼端板はカーボン製、上下段ウィングの間に立っている二本の支柱は強度部材であるためか金属製であった。モデルでは樹脂様の材質で再現されているが、この個体では保管状態がまずかったのか製造時の個体差か、ウィングが若干だが弓なりにしなってしまっている。 

一九九一年シーズンを好調で終えたノバ・エンジニアリングがつぎに目を向けたのは、アメリカのデイトナ二十四時間レースであった。すでに前年から参戦を予定していた日本のニッサン・ワークス・チームと共に、ノバ・エンジニアリングも彼らのローラ・ニッサンを持ち込んだのである。事前のテスト走行では好タイムを記録したが、レースではワークス・チームが終始圧倒的な速さで戦場を支配したのとは裏腹に、ノバ・ローラはマイナー・トラブルの連続で順位を落とし、八位で完走するのがやっとだった。上位入賞は叶わなかったが、このレースはノバ・ローラの数少ない全日本選手権外での活動となった。 

全日本選手権では、一九九二年に入ってもノバ・ローラの勢いはそのままで、開幕戦・鈴鹿500キロレースで二位、第二戦・富士1000キロレースで三位、第三戦・富士500マイルレースでふたたび三位に入り、開幕戦から三戦連続で表彰台に登る活躍を見せた。またこの年の第三戦では、前年に続く二回目の大改修がほどこされ、それまで使われていたニッサン・R90CK後期型と同じ丸目四灯式ヘッドライトが取り外され、かわって操縦室前端部・フロントガラス内側に小型の二灯式ヘッドライトが設置された。これにより若干ながら車体が軽量化されたほか、重量物を車体中心付近に移動したことによる運動性の向上も見込まれた。以後ノバ・エンジニアリングは一九九二年最終戦までこの第二次改修後の姿でローラ・ニッサンを運用しており、本稿で取り上げているモデルもこの状態を再現している。 

 

03 

ヘッドライトが取り外されたことで全体の印象がおおきく変化し、二段式リヤウィングやハイダウンフォース・サーキットである美祢に合わせた二枚のフロントダイヴプレーンによって、ベース車輌よりも攻撃的なイメージを与えている。メインスポンサーにはアルバイト情報誌であるフロム・エーが付き、車体がイメージ・カラーである黄色一色で塗られているが、これも青色基調だったニッサン・ワークスとの鮮烈な対比を演出しており、いまなお全日本選手権末期のエントラントとして特に有名な一台である。フロントガラスの内側に、キャビン内部に設置された角型のヘッドライトが見える。リヤカウル形状はおおむねR90CKに準拠するが、後端部の造形に若干手が加えられている。   
   
全日本選手権の第三戦と第四戦の間に伝統の鈴鹿1000キロレースが開催されたが、この年の鈴鹿1000キロレースは世界スポーツカー選手権の一戦とされていたにもかかわらず、出走台数はわずか十一台というありさまで、それも鈴鹿のレースだけ賞典外の全日本選手権参戦車輌の出走を認めるという特例措置をうけてのもので、スポーツカー・レースの世界的な凋落を印象づける一戦になった。このとき全日本選手権のエントラントとして参戦した二台の車のうち一台がノバ・ローラで、旧規定車であったため燃費や給油速度、最低車重などに制約のある状態であったが、すぐれた車体やエンジン、信頼性を武器に新規定の車に割って入り、四位で完走している。   
ノバ・ローラは全日本選手権第四戦・菅生500キロレースで六位完走、第五戦・富士1000キロレースではスピンによりリタイヤに終った。つづく最終戦・インターチャレンヂ美祢500キロレースは、一九九二年のJSPC最終戦であると同時に、一九八三年に発足し十年間にわたって開催されてきた全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権の最後のレースでもあった。すでに世界的なスポーツカー・レースの衰退は隠すべくもなく、世界スポーツカー選手権はエントリー台数の不足から翌年以降の開催中止が決定しており、全日本選手権も一九九三年以降はインター・サーキット・リーグ (ICL) と名を変え、スポーツカーとGTカーの混走レースの体裁をとることで、なんとかその命脈を保とうとしていた。この最終戦でノバ・ローラは三位を獲得し、JSPC最後のレースを表彰台で締めくくった。   
   
   
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キャビンセクションを見る。フロントカウル中央にあるラジエーターの排熱口や、その両脇にあるインタークーラー用開口部などは、ベース車両であるニッサン・R90CKの面影をよくとどめていることが分る。タイヤは国内ワークス・チーム同様ブリヂストンを使用した。   
   
   
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ベースとなったニッサン・R90CKとの側面形の比較。ノバ・R91CKではリヤカウル後端が斜め下向きに切り落とされているが、これはディフューザー部からの空気の引き抜きを受け持つ下段ウィングへ効果的に空気を流すための処理である。リヤのブレーキダクトはオリジナルより大型化されている。   
   
全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権は一九九二年をもって終了したが、ノバ・ローラがさいごの戦いを終えるのはもうすこし先のことだった。一九九三年、全日本選手権のあとをついで発足するはずだったインター・サーキット・リーグは、折からの不況も重なってエントリー台数がまったく集まらず、予定されていたレースはことごとく中止の憂き目にあっていたが、長い伝統のある鈴鹿1000キロレースだけは、海外からも各クラスのエントラントをかき集めた結果、なんとか開催できる見通しが立っていた。このレースに、最後となる近代化改修をほどこされ、「ノバ・R93CK」と名付けられたノバ・ローラが、たった二台のグループCスポーツカーのうち一台として参戦していたのである。いま一台は、ニッサン・ワークスとルマン商会が合同でエントリーしたニッサン・R92CPで、一九九二年のJSPCで使われていたワークス・カーそのものであった。このときノバ・ローラは、空力性能の向上を目的としたボディ形状の改修や30キロにおよぶ車体の軽量化を中心としたアップデートを受けており、一連のローラ・ニッサン車の最終仕様というべき状態に仕上げられていた。特に目を引いたのは、左右ドアの開口部を窓部分から上だけにしたことで、これにより車体下半分には開口部が存在しなくなり、車体の剛性に寄与するというものであったが、このように左右の窓のみを開口させて乗降口とする手法も、一九九一年にTWR・ジャガーがはじめてスポーツカーに使った方法だった。   
予選で一秒差をつけてポール・ポジションを獲得したノバ・ローラは、レースがスタートするとすばらしいペースで先を急ぎ、チーム・ル・マンのニッサン・R92CPが一分前後の差であとを追う展開になった。ノバ・ローラは快調に飛ばし続け、一七一周のレースが半分をすぎる頃には二位との差は二周にまでひらいた。しかしその直後から、悠々と逃げ切るかと思われたノバ・ローラに、立て続けに苦難が降りかかったのである。まず一〇九周目に、助手席側の開口窓が外れかかっていることが判明したためピットインし、この部分をテープで固定してふたたびコースインしたが、ほどなくして一一七周目にまったく同じトラブルに見舞われた。この一連の緊急修理のため二周あったチーム・ル・マン・ニッサンとの差は一周にまで縮まったが、まだ戦況はノバ・ローラに有利であった。一三二周目にこんどは運転席側の窓ガラスが外れかかり、ふたたび予定外の修復作業を強いられた結果、二位との差はついに20秒にまで詰まったが、その直後、一四〇周目にこんどは追撃中のチーム・ル・マン・ニッサンが勢い余ってスピンし、差はふたたび一周ほどにひらいたため、ノバ・エンジニアリングのスタッフは一息つくことができた。このままピットインごとに左右の窓ガラスをテープで補強しながら走れば、まだ勝つチャンスはじゅうぶんあった。   
一四五周目、ノバ・ローラ最後のピットインでさらなる不運が襲った。左フロント・タイヤを固定するホイール・ナットが想定以上の熱膨張を起こして固着してしまい、取り外せなくなってしまったのである。だめになったナットをようやく外してタイヤを交換し、黄色いノバ・ローラが猛然とピットレーンを加速していく頃には、チーム・ル・マンのニッサン・R92CPはコース中ほどにさしかかっていた。スタートから一四五周にわたって首位を死守してきたノバ・ローラが、その座から陥落した瞬間であった。しかしチーム・ル・マン・ニッサンはまだ給油のためのピットストップを一回しなければならず、それまでにノバ・ローラが差をじゅうぶん縮めれば、再逆転の可能性はまだあった。ノバ・ローラのマウロ・マルティニは思い切りアクセルを踏み、一周につき一秒以上を詰める猛攻撃を開始した。チーム・ル・マン・ニッサンが逃げ切れるかどうかは微妙なところだった。   
この日最後の災厄がノバ・ローラを襲ったのは、すでにサーキットに西日が傾き始めた一五四周目だった。最後のピット作業で補強しておいたはずの運転席側ドアの固定が、またしてもゆるみ始めたのである。ピットクルーたちが最後の緊急修理を終えてマルティニを送り出したときには、ショッキング・ピンクに塗られたチーム・ル・マン・ニッサンは一周さきを走っていた。コースに復帰したノバ・ローラはまったくペースが上がらず、最終的にトップから二周遅れの二位で完走することしかできなかった。さいごの追撃を担当したマウロ・マルティニは、がっくり肩をうなだれてつぎのように言った。   
「勝てると思っていただけにとてもがっかりしている。残念で言葉もないよ」   
鈴鹿1000キロレースの恒例行事である大花火大会が闇につつまれたコースを照らすなかで、日本におけるグループCスポーツカーによるレースは幕を閉じた。くしくも、このレースに参加した二台のスポーツカーはともにニッサンの車であり、その前年に全日本選手権のレースで火花を散らし合った二台だった。   
   
   
12

 

ノバ・エンジニアリングが三年間にわたって運用したローラ・ニッサンは、その戦歴のなかに一度のシリーズ・チャンピオンもなければ、一回の勝利すらも刻まれてはいない。しかしあざやかな黄色のボディカラーと、度重なる改修による異様なシルエットは、当時を知る人々の中にはいまなお鮮烈な印象を残しており、最末期の全日本選手権や、当時におけるスポーツカー・レースそのものの話題に無くてはならない存在になっている。使い古されたことばで表すなら、「記録よりも記憶に残る」ような役者であった。   
   
一九九三年を最後に、ニッサン・ワークスによるスポーツカー・レース活動はいったん途絶えた。ニッサンがふたたび国際レースにスポーツカーで参戦したのは一九九七年のことであり、かつてジャガーのスポーツカーを製作していたイギリスのTWRに開発を委託したシャシーで一九九八年までル・マン二十四時間レースに出走し、一九九九年にはアメリカ・Gフォース (現・パノス) 社製のシャシーにかえて参戦したが、この年限りでスポーツカー・レースからふたたび撤退し、以後は日本国内のGTレースなどに専念する状態がながく続いた。このときの最高位は一九九八年のル・マンで記録した三位であった。   
ニッサンが突如、LMP1-H規定の新型スポーツカーで世界耐久選手権と、その一戦であるル・マン二十四時間レースへの復帰を発表したのは二〇一四年のことであり、翌二〇一五年からの世界選手権へのフル参戦が予定されていた。ニッサンが最後に自社の名を冠したスポーツカーを走らせてから、十六年が経っていた。ニッサンが市販している高性能スポーツ・クーペの名をとって「GT-R LMニスモ」と名付けられた新型車は、エンジンを車体前半部に置くという独創的なレイアウトゆえ開発作業が遅れた結果、世界選手権の前半戦を欠場せざるを得なくなり、ル・マン二十四時間レースがデビュー・レースとなった。このレースでニッサンは二台が熟成不足に起因するトラブルでリタイヤし、残る一台はどうにか最後まで走り切ったが、周回数不足により順位は与えられなかった。当初ニッサンは新車の熟成テストを急ぎ、二〇一五年後半か二〇一六年にはレースに復帰する予定であった。しかし同年十二月中旬、北米のテストコースで翌年に向けた試験走行を行ったわずか数日後に、何の前触れもなくアメリカ・インディアナポリスにある本拠地が閉鎖され、すべてのスタッフは解雇通知もなしに施設から締め出された。こうして、ニッサンのル・マン・プロジェクトは唐突にその幕を閉じたのである。以後今日にいたるまで、ニッサンはル・マン二十四時間レースをふくめたいかなるスポーツカー・レースにも参戦しておらず、またそれらのレースに参戦する競技用のスポーツカーを作ってもいない。   
   
シャシー・ナンバーR90C-07のニッサン・R90CKは、一九九〇年十二月までに日本に輸送され、発注元であるノバ・エンジニアリングによって日本国内で組立作業がおこなわれた。ノバ・エンジニアリングは同時にワークス・チームで使用していたR90C-06も取得しており、このシャシーも実際のレースで走行した形跡がある (展示されていた同車を検分したところ、一九九一年鈴鹿1000キロレースの車検証と、一九九二年デイトナ二十四時間レース用と思しきデイトナ・スピードウェイのコース図が車内に存在したため、すくなくともこの二レースに関してはR90C-06を使用したと考えられる) が、正確な運用履歴はいまだ判明していない。

(了)

2017年3月26日 (日)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「薄紅」~

一九九一年のスポーツカー・レース最高峰カテゴリは、それまでの「世界スポーツ・プロトタイプ選手権」(WSPC) から「スポーツカー世界選手権」 (SWC) へと名称が変更され、あわせてFISAが推しすすめていた3.5リッター自然吸気エンジン使用の新規定がとりいれられたが、さしあたって一九九一年度いっぱいは、旧規定にしたがってつくられた燃費レース対応の車も世界選手権に参加できることになった。ル・マン二十四時間レースを主目標とさだめていたポルシェ系のプライベート・チームや日本のマツダ・ワークスは旧規定車で選手権に参戦したが、そこには前年めざましい活躍を見せたニッサンの姿も、捲土重来を期するトヨタの姿もなかった。トヨタは新規定に対応した完全新設計の車を設計・開発するため、少なくともル・マンを含む一九九一年前半は世界選手権レースに参加しないことが決っていたが、開発が終りしだい、はやければ同年終盤にも選手権に復帰する意向があった。そしてじっさいに一九九一年のスポーツカー世界選手権最終戦・九州オートポリス430キロレースにおいて、トヨタの最新鋭戦闘機であるトヨタ・TS010が一台、翌年に向けてのテスト参戦として投入されたのである。しかしニッサンは戻ってこなかった。この年から世界選手権の一戦に復帰したル・マン二十四時間レースに参戦するには選手権全戦への参戦が規則上必須であり、ワークス・チームの参戦を確保したいFISAは世界選手権開幕戦・鈴鹿430キロレースの予選日までエントリー申請期限をのばすという異例の措置をとった。しかしニッサン側の使者はついにFISAと接触することはなく、この時点で一九九一年のル・マン二十四時間レースにニッサンはやって来ないことが決定したのである。前年のル・マンにおける蹉跌がニッサン側の態度を必要以上に慎重にさせたことと、ニッサン社内の不必要な政争にまみれた情勢が参戦を阻んだのであった。林義正、水野和敏が口をそろえて「参戦していれば絶対に勝てた」と断言するレースで勝ったのは、日本のマツダだった。二〇一七年三月現在、このときマツダが記録した優勝がル・マン二十四時間レースの歴史上唯一の日本車による優勝となっている。

こうして、一九九一年のニッサンは国際レースの舞台からしりぞき、日本国内のレースだけに参加することになった。当時日本ではスポーツカー・レースのローカル選手権である全日本スポーツ・プロトタイプカー耐久選手権 (JSPC) が開催されており、トヨタとニッサンの国内二大ワークスは、国内でのマーケティング効果に直結するこのカテゴリを世界選手権レースと同じくらい重要視していた。両ワークスとも選手権初期から自前のワークス・チーム以外に関係の深いプライベート・チームを複数抱えており、その関係はいわば大企業と提携会社のようなものであった。このうちニッサン系のプライベート・チームとして、JSPC末期まで参戦したほぼ唯一のチームが、花輪知夫 (はなわ・ともお) ひきいるルマン商会のレース部門、チーム・ル・マンであった。


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イグニッション・モデル製、品番0086「伊太利屋ニッサン・R91VP 1991 JSPC」レジン製1/43スケールモデルカーである。明記されてはいないが、おそらく和田孝夫/岡田秀樹/影山正彦の三人が操縦した一九九一年JSPC・鈴鹿1000キロレース仕様、シャシー・ナンバーR89C-03のニッサン・R90V (モデル名はR91VPとされているが、これはどうもエントリー書類上の登録名だったようである) を再現している。

チーム・ル・マンは一九七〇年代から富士グランチャンピオン・レースをはじめとする日本国内のさまざまなレースに参戦しており、全日本F2選手権では松本恵二を擁して活躍するなど、実力のあるプライベート・チームとして認識されていた。JSPCへの参戦開始は一九八四年のことで、社内の望月一男エンジニアが設計したオリジナル・シャシーに2リッターのニッサン・エンジンを搭載したちいさなスポーツカーを運用していたが、その後ニッサン製レーシング・エンジンがより大型・高出力の3リッター・エンジンになると、オリジナル・シャシーでは車体サイズや剛性が足りなくなったため、ニッサン・ワークスが使っていたマーチ製の汎用シャシーを払い下げてもらって運用していた。一九八九年後半からニッサンのワークス・チームが国内レースに最新型のローラ製シャシーを持ち込んだが、チーム・ル・マンはその翌年に型落ちとなったローラ・シャシーを一台購入し、ワークス・チームから一年遅れで長年使ってきたマーチ・シャシーと決別したのである。
チーム・ル・マンに払い下げられたのは、一九八九年に日本で走った二台のローラ・ニッサンのうち長谷見昌弘/アンダース・オロフソン組が使っていたシャシー・ナンバーR89C-03の車で、チームはこの車に一九九〇年の新型車用に設計されたサスペンション・パーツを組み込んでアップデートしたものを「R90V」という名称で走らせた。すでにニッサン系の国内プライベート・チームとしてはトップに近い地位を得ていたチーム・ル・マンは、翌一九九一年にニッサンから最新型のシャシーを一台供与されることになったが、同年開幕戦・富士500キロレースには新型車がまに合わなかったため、前年型R90Vのカラーリングを一九九一年仕様に塗り直して参戦した (このとき書類上の車輌名称も「R91V」に変更されている)。


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「R90V」という車名があたえられてはいるが、そのモノコックはまぎれもなくニッサン・ワークスが一九八九年に運用したローラ・R89Cのものである。チーム・ル・マンのスポーツカーは一九九〇年まで和田孝夫の個人スポンサーであったキャビン煙草の赤色に塗られていたが、一九九一年にあたらしいメイン・スポンサーとして婦人服ブランドの伊太利屋を獲得したため、この車も同社のイメージ・カラーであるピンクと白に塗られた。映り具合の関係で淡い色彩に見えるが、実物はかなり強烈なピンク色であり、レーシングカーとしてはめずらしい、派手で華やいだ印象を与える。

R90Vは一九九一年のJSPC開幕戦を走ったのちスペア・カーとなり、チーム・ル・マンの主力はニッサンから受領した最新型R91CPがひきついだ。R91CPはマーチやローラといった外部のコンストラクターではなく、ニッサン社内で白紙から設計されたものであり、その潜在能力はひじょうに高いと予想された。ほかのメーカー・ワークス同様に、ニッサンもまたプライベート・チームに対しては常に一年落ちの型落ちシャシーを供給していたが、一九九一年シーズンにむけて国内にセミ・ワークス待遇の直属部隊を設ける意図があった。ニッサンとのつながりが深かったプライベート・チームで、当時も参戦を続けていたのはチーム・ル・マンしかなかったため必然的にこのチームに白羽の矢が立てられたが、新型R91CPは優秀なシャシーらしいということをききつけたアメリカやヨーロッパのプライベート・チームもこの車を欲しがっており、それらをさしおいて国内のチームに新型車を供給するには何かしらの理由をつける必要があった。ニッサンがとった方法は、完全新設計であるR91CPを「一年落ちの旧型車であるR90CPの改造車」という名目でチーム・ル・マンに「払い下げる」ことであり、この車は対外的にはあくまで「R90CP・改」であると発表されていた。資金とデータのワークス・チームとの共有、および先行開発部品の耐久テストをおこなうことを条件に引き渡されたR91CPはチーム・ル・マンによって「R91VP」という車名を与えられ、リヤウィング周辺のパーツがチーム・ル・マン独自設計のものに交換された。
新型車「R91VP」は、JSPC第二戦・富士1000キロレースから投入された。しかし続く第三戦・富士500マイルレースにおいて、R91VPは和田孝夫の操縦中に第一コーナー手前でタイヤ・バーストに見舞われ、操縦不能となってスピンした。うしろを向いた車はそのまま宙に舞いあがり、つぎの瞬間木の葉落としのように地面に叩きつけられると、漏れた燃料に引火して炎に包まれながら横転し、ひっくり返った状態で第一コーナー先のエスケープ・ゾーンに停止した。和田孝夫が無傷で車から脱出できたのが信じられないくらいの大クラッシュだった。この事故で虎の子の新型車はたった二戦で廃車になってしまい、第四戦からチーム・ル・マンはスペアカーとしてしまってあった旧型のR90Vをふたたび引っ張り出さなければならなくなった。以後最終戦までチーム・ル・マンはR90Vでシーズンを戦ったが、この年を最後にチームがJSPCから撤退したため、JSPCを走ったチーム・ル・マンのスポーツカーとしては最後の車となった*。


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カウル形状などは、一九八九年最終盤に国内選手権で走った、ローラ・R89Cの改良型に準拠している。オリジナルの設計では前後17インチだったホイールは後輪が19インチに大径化され、リヤウィングは一枚式だったものが二枚式に変更されているが、いずれもオリジナルの設計ではル・マンのコースに合わせたロードラッグ志向だったものを、ダウンフォースが必要な中距離レース向けに最適化する改造であった。リヤウィングの支持部は、一九九〇年モデルではオリジナルの二本式マウントの外側に二枚の金属製補強部材をV字型に組み、独特な外観になっていたが、一九九一年になってこの補強部材は取り外されている。


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R90Vはチーム・ル・マンの手によって、改良型R89Cからさらに様々な改造が施されている。フロントまわりでは、ヘッドライトカバーの形状が変更されたことや、フロントフェンダー上に排熱用ルーバーが切られていること、フロントカウル中央部にある排熱用開口部のレイアウト変更 (スリットの数が増やされ、サイズも大型化されている)、前輪用ホイール・カバーの追加などがあげられるが、このうちフロントフェンダーのルーバー追加とカウル中央のスリット数追加は一九九一年用の改造である。タイヤはニッサン・ワークスが使っていたブリヂストンから横浜ゴムに変更されたが、これに合わせて一九九〇年シーズンの開幕前にアンダーステア軽減のための大径 (高扁平率) フロントタイヤを開発してもらい、このタイヤを収めるためにフロントフェンダーはオリジナルより若干膨らんでいる。カウルそのものは新造ではなく、オリジナルのローラ製カウルに手を加えて使っていたことが、一九九〇年一月のシェイクダウン・テストのようすを伝えるオートスポーツ誌の記事 (1990.03.01号/Nr.548) 掲載の写真より分る。また、細かい点ではあるが、実車の写真ではカウル本体と左右にとりつけられたダイヴプレーンの部品で、ピンク色の色調があきらかに違って見えるものが数葉残されている。おそらく材質の違いに起因するものと思われる。

一九九〇年のR90VはJSPC第二戦・富士1000キロレースでポール・ポジションを獲得するなど速さを見せたが、一九九一年は開幕戦・富士500キロレースでの四位と、第五戦・菅生500キロレースでの五位が唯一の完走記録で、ほかのレースではすべてリタイヤに終っている (第二戦・第三戦ではR91VPを運用)。この頃のJSPCは、優秀な市販シャシーであったポルシェ・962Cが老朽化により戦闘力を維持できなくなったことによって有力なプライベート・チームがあいついで撤退したり、ほかのカテゴリに転向していったせいで参戦台数の減少に歯止めがかからず、冒頭に述べたFISAのスポーツカー・レースに対する強権的な改革案とあいまって、メーカー・ワークス以外のチームにとっては参戦意義を見出すことがむずかしくなりつつあった。ニッサンのセミ・ワークス・チームという肩書を得たチーム・ル・マンであったが、この年限りでスポーツカー・レースの活動を一旦休止し、同時に参戦していた全日本F3000の活動に専念することになる。


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車体側面はほとんどR89Cのままだが、リヤカウル左右に排熱用ルーバーが追加されていることと、カウル側面の大型排熱口に仕切り板が設けられていることがR89Cとの主な差異である。カウル上のルーバーはモデルでは直接カウル上にスリットを開けているような表現がなされているが、実車ではスリットを開けた一枚板状のパーツをカウルにはめ込むような造形であったことが確認されている。アンテナはルーフ上から左右ドア前に移設されたが、これは一九九〇年序盤にR89C用カウルをとりつけて走ったワークス・チームのR90CPと共通する特徴である。


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スポーツカー世界選手権は一九九一年の一年間を旧規定車への猶予期間としたのち、一九九二年には予定通り新規定車のみを受け入れたが、全日本選手権はこの年も旧規定車による選手権レースを開催するという方針が決っていた。しかしプライベート・チームを引きとめることはできず、一九九二年にはチーム・ル・マンにかわってテイクワン・レーシングがニッサン系のプライベーターとして参戦したが、ワークス・カーを含めても毎レース十台前後のエントリーしか集まらないという惨状で、四十年続いたスポーツカーの世界選手権が消滅するのを見届けるように、全日本スポーツ・プロトタイプカー耐久選手権もこの年を最後に歴史書の一頁となった。ニッサンは本来目指していたはずの国際レース大会から逃避するように目をそむけ、日本国内のレースでトヨタのみと戦うことを選んだ結果、一九九〇年から三年連続でJSPCのメーカー部門におけるチャンピオンを獲得した。ふたつのワークス・チームのみが優勝をあらそう、まるで運動会か発表会のようなレースにも、「日本一」という称号が大好きな日本のファンは一定の支持をあたえた。かくのごとくどこか空虚な末期JSPCの中にあって、チーム・ル・マンのようなわずかに残ったプライベート・チームは、艶やかな造花の花束の中に人知れず紛れ込んだ名もない薄紅色の花のように、目を向ける者をひっそりと楽しませたのである。

シャシー・ナンバー03のニッサン・R89Cは、一九八九年のル・マン二十四時間で実戦デビューしたシャシーで、このとき星野/長谷見/鈴木の日本人ドライバーが操縦した。ル・マン後は全日本選手権に参戦し、インター・チャレンヂ富士1000キロレースの八位が最高位であった。
一九九〇年にはチーム・ル・マンに売却され、同チームによる改造を経て「R90V」と名付けられ、同年の全日本選手権全戦および世界選手権開幕戦・鈴鹿480キロレース、ル・マン二十四時間レースに参戦した。全日本選手権での最高位は富士500マイルレースの六位、WSPC鈴鹿とル・マン二十四時間レースではそれぞれアクシデントと点火系トラブルによりリタイヤしている。
一九九一年は全日本選手権の開幕戦および第四戦から第七戦まで参戦し、最高位は開幕戦・富士500キロレースの四位であった。同年最終戦・菅生500マイルレースが、この個体の最後のレースであった。
一九九二年のシーズン開幕前におこなわれた「モータースポーツ・コレクション '92」なるイベントにおいて、この個体がテイクワン・レーシングのカラーに塗装され展示されていたことが判明しているが、このときの車の所有権については判明していない。またイベントそのものに関しても、背後のパネルに東海テレビのロゴマークが見えることから中部地方でおこなわれたと推測されるが、それ以外の情報は開催時期に至るまでまったく不明である。

*: チーム・ル・マンのスポーツカー・レース活動そのものとしては、一九九三年の鈴鹿1000キロレースにおいてニスモと合同でニッサン・R92CPを出走させたのが最後であったが、このレースはJSPC消滅後の開催であり、したがって全日本選手権はかけられていない。

2017年2月10日 (金)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「蒼い月」~

ニッサンが欧州における実働部隊であるニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパを通して、世界スポーツ・プロトタイプ選手権に参戦を開始したのは一九八九年のことであった。このときニッサンはそれまでのマーチ製シャシーにかえて、英国ローラ社に製作を委託した新型シャシーを使用していたが、翌一九九〇年も世界選手権レースならびにル・マン二十四時間レース (この年もル・マンは世界選手権から外されることが決定したため、メルセデスベンツの意向で世界選手権に専念したかったサウバーはル・マンを欠場した) では引き続きローラ・シャシーを使用することがニッサン全体の方針として決定していた。ローラ・ニッサンのシャシーはすでにデビュー年の一九八九年後半からさまざまな改造が施されており、一九九〇年用の新型車はこの改良された昨年型車をベースとして設計された。


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イグニッション・モデル製、品番0083「ニッサン・R90CK 1990 WSPC」レジン製1/43スケールモデルカーである。一九九〇年のどのレースの仕様であったかは明記されていないが、ヘッドライトカバーやフロントのエアロパーツの形状から一九九〇年シルバーストーン480キロレースに参戦した仕様と推測される。このレースのNr23はシャシー・ナンバーR90C-01の個体であり、シーズン開幕前の一九九〇年二月に豪州フィリップ・アイランド・サーキットでシェイクダウンをおこなった第一号シャシーである (このときのテストカー仕様もモデル化されている)。

一九九〇年にはローラ製車輌のほかに、ローラ・シャシーの品質管理や完成度に不満を持っていた林義正が前年型R89Cのモノコックをベースに独自開発した車輌が日本国内の選手権レースに投入されたため、ローラ製の世界選手権用車輌とそれをベースにした全日本選手権用車輌を区別する必要が生じた。前者はR90CK、後者はR90CPと呼ばれたが、ローラ側ではこの世界選手権用車輌を前年型の名称「R89C」からの連番である「R90C」と公的に呼称しており (R89C同様、ローラ社内の命名規則にしたがった「T90/10」という名称も記録には登場する)、そのため海外の文献ではこの車は単に「R90C」とされることも多い。R90CKのKは当時ローラの施設があった英国クランフィールド (Cranfield。英国モータースポーツ産業の首都ともいわれるミルトン・キーンズにほど近い地名。日本語版Wikipediaでは"クラウンフィールド"とされているが誤記ではないかと思われる) のCから音をとった、当時ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの本拠地があったミルトン・キーンズのKをとった、あるいは単に「改」の意味であるなどと言われており諸説あり*、一方でR90CPのPは日本のニスモが本拠地を置いている追浜 (Oppama) のPをとったとされている。ローラ側の認識としては、あくまでも世界選手権用の主力機「R90C」が本命であった。

R90C (以下、混乱を避けるためR90CKと表記する) の基本設計はR89C同様ローラ社のエリック・ブロードレイおよびアンディ・スクリヴェンによってなされ、ボディワークの設計は主にニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパが行った。R90CKはモノコックレベルではほとんどR89Cと差がなく、3.5リッター8気筒のVRH35Z型ターボ・エンジンや、ヒューランド社製五速ギヤボックスなどもR89Cからのキャリーオーバーである。エンジンは九〇年に向けてニッサン側でアップデートされ、出力は約40馬力ほどアップした840馬力前後を発生したと伝えられる。このエンジンは耐久性がきわめて高く、世界選手権レースのピットでニッサン・エンジンだけが特にオーバーホールされたようすもなく、うっすらとホコリを被っている様に外国人記者がおどろいたという口碑が残されているが、真偽のほどは定かではない。


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真横からR90CKを見る。フロントまわりからキャビン・セクションに至る造形はR89Cの影響が色濃く残されており、フロントウィンドウの傾斜角が強められた以外は、ほとんどR89C改のような設計となっている。一方リヤのデザインはロードラッグ一辺倒だったR89Cの流れを汲まず、タイヤカバーの装着を前提としないボディワークや高くマウントされたリヤウィングなど、比較的ダウンフォース重視のデザインであることがうかがえる。タイヤは前年に引き続きUKダンロップを使用。

前年後半にかけて、世界選手権でサウバー・メルセデスやヨースト・ポルシェと対等のパフォーマンスを発揮できるようになったニッサンは、翌一九九〇年を飛躍の年ととらえ、特にル・マン二十四時間レースにおける勝利を第一目標に据えた。この年のニッサンは世界選手権の短距離レースはあくまでもル・マンへ向けての予行演習と見ており、他チームのように積極的な予選順位争いや優勝争いを行わなかったことからも、ニッサンがル・マンをいかに重要視しているかが見て取れた。この年ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは前年までメルセデスベンツにいたデヴィッド・プライスやボブ・ベルを筆頭に、一年で世界選手権から撤退したアストンマーティンのワークス・チームなどから人材をかき集め、日本からは往年の名ドライバーである生沢徹がニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの総大将として派遣されて来るなど、人事面でも増強が図られ、ニッサン欧州部隊はF1チームなみの人的資源を入手することになった。特にサウバーと組んで前年の世界選手権を蹂躙したメルセデスベンツからプライスとベルを雇い入れたことで、耐久王サウバー・メルセデスの知見を学習できたことは、ニッサンにとってこのうえない利益であった。

一九九〇年の世界スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦は四月八日の鈴鹿480キロレースだったが、このレースまでには新車の開発・熟成がまに合わず、またヨーロッパから遠い日本までワークス・カーや人員を輸送するコストなどを勘案した結果、鈴鹿ではR90CPのみが走行した。ローラ製R90CKのデビュー戦は続く第二戦、四月二十九日のモンヅァ480キロレースで、このレースから欧州部隊は二台のレース・カーに一台のスペア・カーという三台体制を組んだ。モンヅァではジュリアン・ベイリー/ケニー・アチソンのNr23がなんとか七位で完走したが、ジャンフランコ・ブランカテリ/マーク・ブランデルのNr24はフィニッシュ間際に燃料切れでリタイヤしてしまった。続くシルバーストーンのレースではNr23がサスペンション・トラブル、Nr24がまたしてもフィニッシュ間際の燃料切れで二台ともリタイヤとなったが、ル・マン直前の第四戦スパ・フランコルシャンではNr23が三位表彰台を獲得し、ル・マン本番への期待を高めた。

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このモデルではいわゆる前期型のR90CKを再現しているが、判別点はいずれもフロント周りに集中している。まずヘッドライトがR89C後期型と同様のちいさな角型一灯であることからル・マン以前の仕様であると判別でき (ル・マン後の世界選手権レースではル・マン仕様と同じ丸型二灯のヘッドライトが装着されていた)、サイドミラーが赤色に塗装されていることからモンヅァを走った仕様ではないことが分る (モンヅァではサイドミラーが無塗装のままで黒かった) ため、シルバーストーンかスパ・フランコルシャンのいずれかの仕様となる。スパ・フランコルシャンのレースではニッサンは長いタイプのフロントアンダーパネルを使用していたため、フロントが短いモデルの仕様はシルバーストーン480キロレースの仕様であることが推理できた。フロントカウル上面のラジエーター排熱口やフロントウィンドウ両脇に設けられたインタークーラー用の吸気口など、多くの部分がR89Cと共通の設計であったことが分る。

一九九〇年のル・マン二十四時間レースは六月十六日の週末に行われた。すでに一九九〇年も世界チャンピオンは確実と見られていたサウバーは前述の通り欠場が決っており、ヨースト・ポルシェは他メーカーの新型車に太刀打ちできず次第に戦闘力を落としている状態で、日本のワークス・チームにとって敵は事実上TWR・ジャガーただ一チームのみという状況であったため、欧州部隊二台、北米部隊二台、日本のニスモが持ち込んだ一台の五台で挑むニッサンのル・マン初優勝に期待がかかった。
予選ではTWR・ジャガーとトムス・トヨタはレース重視の戦略として積極的なタイム・アタックをおこなわず、ヨースト・ポルシェは大改修をうけたコースで必要とされるダウンフォース量を見誤り、一台をクラッシュで全損させるなど苦戦した。新開発のパワフルな8気筒エンジンに助けられたニッサンは好タイムを連発したが、北米アンディアル社が特別にチューニングした3164ccのエンジンを搭載するブルン・モータースポーツのポルシェがその前に立ちはだかった。ニッサンは欧州部隊のスペアカーに予選アタック用のエンジンを一基積んでおり、マーク・ブランデルがブルンのタイムを逆転しようとコースインしていった。しかしタイム・アタックに入る直前になって、ターボの過給圧を制御するウェイストゲート・バルブがつっかえてしまい、過給圧が想定以上に上がっていることが判明した。これを知った日本人のエンジニアはすぐにブランデルをピットへ戻すよう指示を出させたが、デヴィッド・プライスはこの指令を出す際に「ついうっかり」無線のボタンを押し忘れたのである。何も知らないマーク・ブランデルはそのままタイム・アタックに飛び出して行った。ブランデルはパワーの怪物と化した車と格闘するように走り、ブルン・ポルシェを6秒も上回るタイムでポール・ポジションを奪還した。ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ最良のの時であった。
しかし予選後になって、このエンジンは思わぬトラブルを引き起こした。ニッサンの予選用エンジンはル・マンの一ヶ月ほど前に生沢徹の発案で製作されたが、時間がなかったため一基しか用意できなかった。ニッサン本社のモータースポーツ活動責任者であった町田収 (まちだ・おさむ) はニスモの水野和敏、北米部隊のキャス・カストナーにそれぞれ予選用エンジンの提供を打診したが、両チームの監督ともこれを断ったため、特別製エンジンの存在は予選が終るまで特に周知されていなかったのである。これを知った北米部隊のメカニックたちは激怒し、欧州部隊のメカニックとのあいだに暴力沙汰が発生するに至ったと伝わる。もともと組織内部での相互連携がとれていなかったニッサン艦隊の統率は、この一件で事実上崩壊した。


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R89Cと共に。デザインの継続性がなんとなく分る一枚である。ロードラッグ化を最重要目標とし、曲線的で優美なラインのR89Cに比べて、R90CKはよりダウンフォース重視の角ばったデザインをしているが、たとえば車体側面の処理などはほとんど変更されていない。ル・マン二十四時間レースが開催されるサルテ・サーキットが一九九〇年を前に改修され、長いストレートがシケインで分断されたことも影響していると思われる。赤・青・白の三色を配したワークス・カラーは、前年度から塗り分けが変更され、側面の白色が上面に移動している。

相互連絡に致命的な齟齬をかかえたまま、ニッサンは六月十六日・土曜日のル・マン決勝レースに臨んだ。午前のウォームアップ走行ではやくも欧州部隊のNr25が駆動系にトラブルを抱え込み、ギヤボックスが交換されたがフォーメーション・ラップ中にふたたびトラブルを起こして走行不能になってしまい、ニッサンはレースがスタートしないうちから一台をうしなってしまった。レースはスタート直後からポールポジションのNr24ニッサンと二位のブルン・ポルシェのトップ争いが繰り広げられたが、一時間ほどが経過した時点でまず北米部隊のNr84がホイールのトラブルから緊急ピットインを余儀なくされ、優勝争いからは一歩下がった。
スタートから四時間弱が経過した午後八時ごろ、ニッサン陣営にさらなる苦難がふりかかった。ジャンフランコ・ブランカテリの操縦するNr24ニッサンが、コントロールライン直後のゆるい右コーナーで周回遅れのトムス・トヨタと接触し、フロントカウルが大破したのである。この修復に時間を取られたNr24は優勝争いから完全に脱落し、かわって北米部隊のNr83がブルン・ポルシェやTWR・ジャガーを追う展開になった。Nr24はその後、深夜になってギヤボックス・ケーシングのトラブルでリタイヤし、この時点で欧州部隊が全滅したため、ニッサンの戦力は二台の北米部隊と一台の日本部隊に減った。そのうち北米部隊のNr84はさまざまなトラブルを抱え込んでペースが上げられず、日本のニスモが投入した独自設計のR90CPも熟成不足で期待されたパフォーマンスを発揮するに至らず、事実上Nr83が孤軍奮闘しているようなものだった。それでも北米部隊は持ち前の実戦勘と勝負強さでTWR・ジャガーに食らいつき、日曜日の日の出を迎えようとする午前五時すぎには、トップのジャガーと同一周回の二位を走っていた。日が昇ってから十分にペースアップできれば、TWR・ジャガーを逆転することも可能な位置であった。
そのNr83が突然ピットに飛び込んできたのは、サルテ・サーキットの空に夏至近くの太陽が昇りきった日曜日の朝のことであった。操縦していたチップ・ロビンソンが「コックピットに燃料の匂いが充満している」と訴えたのである。検査の結果、モノコック内部のゴム製燃料バッグが擦り切れて亀裂を生じ、そこから燃料が漏れていることが判明した。レース中にそんな大トラブルに対する処置が用意されているはずもなく、Nr83はまさにこれから追い上げにかかろうというところでリタイヤせざるを得なかった。もはやワークス・カーのうち生き残っているのは度重なるトラブルで挽回不可能なほど遅れてしまっている北米部隊のNr84と、こちらも万全ではない状態でトップテン圏内に踏みとどまる日本部隊のNr23だけであった。その後Nr23はレース終盤にギヤ・トラブルが発生しながらも、メカニックが十分強でギヤボックスを全交換するという離れ業を見せ、後方にいたトムス・トヨタが遅いペースで走り続けたことにも助けられ総合五位で完走した。もう一方のNr84は十七位だった。総合で五位というのは日本メーカーによるル・マン参戦の歴史の中では最高位の成績であったが、レース前の記者会見で総責任者の町田収が優勝を確約するほどの威勢の良さはどこにも見られなかった。ニッサンはふたたび敗れたのである。優勝したのは、四台中二台をトラブルでうしないながらも、残った二台で1-2フィニッシュを果たしたTWR・ジャガーだった。

ニッサンの命取りになったのは、レース前から問題となりつつもついに根本的な解決を見なかった、欧州部隊と北米部隊の反目だった。優勝争いをしていたニッサン車のうち、欧州部隊のNr24はギヤボックス・ケーシングの、北米部隊のNr83は燃料タンクのトラブルでそれぞれリタイヤした。しかし欧州部隊は改修されたサーキットの荒い路面が燃料タンクにダメージを与えることを、また北米部隊はヒューランド製のギヤボックス・ケーシングに構造上の欠陥があることをそれぞれ知っており、独自の対応策まで立てておきながら、この点を各ニッサン系チームに周知した形跡もなければ、活動の母体である日本のニスモに通達したようすもなかったのである (ニスモのR90CPはヒューランド製ではなく、ニッサン内製のギヤボックスを使用していた)。一九九〇年ル・マンにおけるニッサンは、連合軍の体裁は保っておきながら、実態としては三つの別々なチームの寄せ集めのようなものであった。この頃のニッサンは「同じ部署に天皇が三人いる」と言われたほどの異様な社内風紀で、何を発言するにも事前の根回しをやっておかなければならないという状況だったとの証言が存在するが、そんなニッサンの社風を鏡に写したような敗北だった。


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リヤ周りを見る。R89Cではリヤカウル後端に取り付けられていたテールライトは、R90CKではアンダーパネル側に移設されている。規則の変遷により現代では見られなくなった大容積のディフューザーがひときわ目を引く。このスケールにしては比較的細部まで再現されており、フロントの細かいエアロパーツなどは薄いエッチング・パーツで仕上げられているが、やはり14,904円という定価を考えると、再現性や工作精度などは手放しで値段相応と折り紙をつけることはできない。

ル・マン後の世界スポーツ・プロトタイプ選手権後半戦では、熟成の進んだR90CKは表彰台圏内に割り込むパフォーマンスを安定して見せられるようになっていった。サウバーの牙城は依然として崩し難かったが、それ以外のチームの中ではトップレベルの速さを維持できるまでに成長していたのである。後半戦に向けてニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパははNr23にベイリー/ブランデル、Nr24にブランカテリ/アチソンとドライバー登録を組み換えたが、第五戦ディジョン・プレノワではNr23が二台のサウバーに次ぐ三位、第六戦ニュルブルグリンクでは同じくNr23が五位、第七戦ドニントンではNr24が四位と、まずまずのリザルトを記録している。
第八戦モントリオールは、ニッサンが世界選手権レースでの優勝にもっとも近づいた一戦になった。レースが半分ほど経過した六十一周目に、ヘスス・パレハが操縦するブルン・ポルシェを、他車のグラウンド・エフェクトで巻き上げられて舞い上がったたマンホールの蓋が直撃するというめずらしいアクシデントが発生したのである。ポルシェはひとたまりもなくコース脇の壁にクラッシュし、車からは火の手が上がったが、ドライバーのパレハは幸運にも無傷で脱出した。この事故でコース上が危険な状態にあると判断されたため赤旗が出され、レースはそのまま終了となったが、この時点でNr23はトップのサウバーから6秒遅れの二位を走っており、それがそのまま最終順位になったのである。ニッサンはこの後の最終戦メキシコでもNr23が記録上二位でフィニッシュしているが、これは本来二位でフィニッシュしたサウバーの車が規定量以上の燃料を使ったために失格処分となり、三位だったニッサンが繰り上がったもので、優勝したもう一台のサウバーとは二周差があった。


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一九九〇年の世界選手権レースでは、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは一度も優勝できなかったが、後半戦に複数回の表彰台を獲得したので年間のチーム・ランキングでは前年の五位から躍進し三位を得た。二位のTWR・ジャガーとは4ポイント差だった。前年に比べて進歩が見られる内容だったが、ニッサンがもっとも重要視していたル・マン二十四時間レースで惨敗した事実は動かしようもなかった。一九九〇年は世界選手権レースが燃費競争として争われた最後の年だったが、ニッサンはこの年を最後にスポーツカーの世界選手権レースからは姿を消し、今日に至るまでル・マン二十四時間レース以外にその姿を見せていない。欧州と北米からそれぞれ最精鋭の部隊が出揃い、車体やエンジンが一線級の性能を有し、さらに有力なライバルチームが欠場していた一九九〇年のル・マンは、ニッサンにまわってきた千載一遇の、そして最後のチャンスであった。ニッサンはそれをものに出来なかったのである。

ニスモのチーフエンジニアとして、主に全日本選手権での戦いを指揮した水野和敏は、一九九〇年のル・マンについてつぎのような趣旨の回想をしている。
「(R90CPは) 一年目で熟成不足だったし、最初から勝てるとは思っていなかった」
「もし一九九一年のル・マンに出場していれば、優勝できたと思っている」
すこし穿った (ともすれば嫌味な) 見方をすれば、すでに一九九〇年の時点で日本側の林義正ひきいる実戦部隊にとって、欧州部隊はどうでもよい存在に成り下がっていたとも読み取れる。じっさい、ローラ社製のシャシーに不満を持ったニスモが独自に設計した、R90CPにはじまる日本製のニッサン・スポーツカーは、その後国内の選手権レースでトヨタを相手に優位に戦いを進め、特に車体やエンジンの性能では完全にトヨタを上回っていると考えられた。しかし一九九〇年以降のニッサンは、社内での勢力争いや内紛に明け暮れ、ニッサンの代表としてFISAや他メーカーの重鎮を相手に立ち回った町田収は本社を追い出され、翌年の世界選手権への参戦は不可能となった。一九九一年以降のニッサンは日本国内のスポーツカー・レースにのみ参戦し勝利を重ねたが、そこで得たものは「全日本チャンピオン」という、どこかむなしい響きの称号だけであった。かつてニッサンがあれほどがむしゃらに追い求めたル・マン制覇という目標は、ほかならぬニッサン自身の手によって打ち捨てられたのである。目指す理想郷の風景をみずから描いた絵を壁にかけておきながら、自分の手でその絵を破り捨ててしまったようなものであった。

ニッサン・R90Cまたはローラ・T90/10は、一九九〇年中に七台分のモノコックが製作され、うち六台が一九九〇年に実戦投入された。
シャシー・ナンバー01のニッサン・R90CKまたはローラ・T90/10は、一九九〇年二月までに完成し、オーストラリアのフィリップ・アイランド・サーキットや英国ドニントン・パーク・サーキットなどでシェイクダウン・テストを行ったと考えられる。一九九〇年四月二十九日の世界スポーツ・プロトタイプ選手権第二戦・モンヅァ480キロレースではNr23のスペア・カーとして持ち込まれ、続く第三戦・シルバーストーン480キロレースではNr23のレース・カーとして走行した。ル・マン二十四時間レースではNr24のスペア・カーとして予選用エンジンを搭載し、ポール・タイムを記録している。ル・マン後には世界選手権の第六戦ニュルブルグリンク、第七戦ドニントン・パークの各480キロレースに、それぞれNr24、Nr23のスペア・カーとして持ち込まれ、第八戦モントリオール、最終戦メキシコシティの各480キロレースではNr24のレース・カーとして、それぞれ五位、四位を記録した。最終戦の四位がこのシャシーの最高位であり、また記録にある分の最終レースでもある。

*: 「オートスポーツ」Nr.552 (1990.04.15号) において、Kは「改」の意味であるとする記述が見られる。日本では、ノバ・エンジニアリングが使用していたR90CベースのモノコックであるR91CKに限り「改」を意味するとの情報も敷衍しているが、どちらが正しいのかは不明である。

2016年10月31日 (月)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「青の一番星」~

二〇一五年の世界耐久選手権は、当初ポルシェ、アウディ、トヨタの三メーカーに、ニッサンをくわえた四つのメーカーで競われることになっていた。このうちニッサンは新車の準備が遅れ、第三戦のル・マン二十四時間レースが事実上新車のシェイクダウン・テストとなる、逆風の吹き荒れるデビューとなった。ニッサンは三台の車をル・マンに持ち込んだが、うち二台がニッサンのコーポレート・カラーである深紅に塗られていたのに対し、残る一台には白と蒼をベースに赤色のストライプが入るさわやかなカラーリングが施されていた。このトリコロール・カラーこそは、かつてニッサンが二〇一五年とおなじようにル・マン二十四時間レースでの優勝を至上命題とし、幾度も挫折を経験しながらも挑戦を重ねた日々を思い起こさせる、象徴的なカラーリングであった。   
   

 

01イグニッション・モデル製品番0291、「ニッサンR89C・1989アリゾナテスト」レジン製1/43スケールモデルカーである。シャシー・ナンバーはR89C-01、この車の第一号シャシーであり、ある意味テストカーらしいナンバーであると言える。イグニッション・モデルはHPI社がモデルカー製造事業から撤退したのち、同社のレジン製精密模型の製造設備をひきつぐ形で創設されたといわれている日本のモデルカー・メーカーで、日本製のスポーツカーを主に製作している。    
   
このトリコロール・カラーに塗られたニッサンの新型スポーツカーをはじめて目にしたのは、一九八九年四月十五日にアメリカ・アリゾナ州の沙漠にあるニッサンの試験場にあつまった、ごく限られた開発スタッフのみであった (カラーリングそのものは、四月九日におこなわれた世界スポーツカー選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースにおいて、旧型車に施された塗装として披露されていた)。新車のシェイクダウン・テストそのものは四月三日から同五日にかけて、イギリスのスネッタートン・サーキットですでにおこなわれていたが、このときはまだ塗装を施されておらず、車体の一面がカーボンの黒色で覆われた状態だったのである。開発スタッフの中には、試運転のドライバーをつとめたジュリアン・ベイリー、チップ・ロビンソン、ジェフ・ブラバムの姿もあった。この日、彼らは北米ニッサンが所有するこのテスト・コースで、ル・マン二十四時間レースでの優勝を目標として開発された新型スポーツカー、ローラ・ニッサンR89Cの四日間にわたる高速耐久試験をおこなうことになっていたのである。この試運転で、R89Cは時速386キロの最高速度を記録したと伝わる。    
   
00よく知られているとおり、一般に「ニッサン・R89C」として知られているこのグループC規格スポーツカーを製作したのは、イギリスの老舗レーシング・カー製造者であるローラ・カーズである。ローラ側が一九八七年から導入した命名規則によれば、この車は「T89/10」の名前をつけられるはずであり、じっさいにローラ側の文書にこの車輌を「T89/10」としている記述が見られる (本稿ではニッサン側の呼称である「R89C」を用いる)。ローラはそれまでにもグループC規格のスポーツカーを製作していたが、このR89Cは同社初のカーボン製モノコックを有する車輌であった。    
   
05台座には車名を記した金属製プレートが貼り付けられているが、向かって右側の接着が若干浮いてしまっている。台座はプラ製で、同社製レーシングカー・モデルに共通のカーボン風パターンが天面に貼り付けられている。モデルは定価14,904円とひじょうに高価で、おおむねそれに見合うだけの製造クオリティは維持されているが、たとえばライトカバーやリヤウィング翼端板の素材が厚ぼったく実感を損なうものであったり、各所に接着剤漏れのような痕跡が見られたりと、この分野におけるベンチマークであるスパークモデル製と比較すると「詰めが甘い」ように感じられる点が目立つ。    
   
一九八九年は、さまざまな面において、ニッサンのスポーツカー活動における大きな転換点となった年であった。まず、それまで旧型の市販車用4気筒エンジンや6気筒エンジンを改造して使っていたエンジンを、思い切って専用設計の新型で置きかえる決断がなされた。新エンジンは林義正により設計され、排気量3.5リッター、V型8気筒ツインターボ・エンジンとされた。グループC規定ではエンジンの排気量や気筒数などは自由であり、すべてのエンジンが燃費によって制約を受けるため、新型エンジンの開発の主眼は燃費と出力の両立におかれた。車体の面においては、それまでイギリスのマーチ・エンジニアリング製汎用シャシーを購入して使っていたのを、ローラ・カーズにニッサン専用の車体を発注し、汎用シャシーからの脱却をめざすことになった。マーチ・シャシーは製造が簡単なアルミ製モノコックで、さまざまなタイプのエンジンに対応できる汎用性と、異なるエンジンを搭載しても操縦性が変化しないというすぐれた特性をもっていたが、ル・マンをはじめとするレースでの勝利を狙うには、市販のシャシーでは不十分であることが明らかになったのである。また、この年から世界スポーツカー選手権の規則が改定され、ル・マン二十四時間レースに出場するためにはほかの世界選手権レース全戦に参加しなくてはならなくなったため、ニッサンは欧州方面につくられたばかりの前線部隊であるニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパを通して、世界選手権レースに参戦することを決定した。これに従来通り参戦する全日本スポーツ・プロトタイプ選手権 (JSPC) と、この年からニッサン直属部隊とされたニッサン・パフォーマンス・テクノロジーInc. (NPTI) によるIMSA GT選手権がくわわり、それまで各地域のプライベート・チーム主導でほそぼそと続けられていたスポーツカー・レース活動が、一気に世界規模の大物量作戦に拡大されたのである。これに合わせて、世界中にスポーツカー・レースにおけるニッサンの存在を印象づけるという動機であったのか、この年からニッサンのスポーツカーには蒼、白、赤を組み合わせた、あかるい印象のカラーリングが施されるようになった。このカラーは形を変えながらニッサン・ワークスがスポーツカー・レース活動を打ち切る一九九二年まで継承され、以来ニッサンのスポーツカーと関連付けられ、つよく記憶されるようになった。    
   
02後方よりR89Cを見る。それまでの大柄でどことなく野暮ったいマーチ製シャシーに比べると、ローラ製シャシーは各部がスリムに絞り込まれ、いかにもスマートで速そうな印象を受ける。この車は設計段階から長いストレートをもつル・マンのコースに特化した設計がなされ、たとえば空気抵抗を削るべく追加された、後輪を覆い隠すボディ一体型のカバーなどはその一例である。全体的なスタイルや、カーボン・モノコックの採用などは、当時ポルシェにかわってグループCスポーツカーの最適解と認識されつつあったTWR・ジャガーの車体からの影響が見られる。設計はローラ・カーズのエリック・ブロードレイとアンディ・スクリベンが手がけたが、フロントの造形にはニッサン側のデザイン・スタッフの意見も取り入れられている。林義正の要求により、エンジンは当時のスポーツカーではめずらしかったフル・ストレス・マウントとされた。    
   
ニッサン・R89Cの第一号車は四月上旬までに完成し、上記の通りイギリスのスネッタートンとアメリカのアリゾナ州試験センターで試運転が行われた。五月四日にフランスのディジョンで開催された世界スポーツカー選手権の公式テストには第二号車をくわえた二台が参加している。ニッサンは一台のR89Cを世界選手権にエントリーさせ、ル・マンには欧州部隊、日本部隊、北米部隊の一台ずつ、あわせて三台を投入するつもりであった。    
ニッサンの次世代スポーツカー・レース活動を担う主力戦闘機として期待されたR89Cの世界選手権戦デビューは、五月二十一日に開催された第二戦・ディジョン=プレノワ480キロレースであった。開幕戦の鈴鹿480キロレースまでには、開発がまに合わなかったのである。このレースで、ジュリアン・ベイリーとマーク・ブランデルの操縦するニッサンの車は、予選六位、決勝十五位の結果に終った。ル・マンを目して開発されたローダウンフォース仕様の車体に、応急的にハイダウンフォース用のパーツを取り付けて出走したことを考えると、まずまずの順位だった。    
   
06テスト仕様を再現したモデルであるため、テストカー特有の装備類もそのまま再現されている。大きな特徴がこの折れ曲がったアンテナで、おそらくは直線での空気抵抗を削減するための工夫と思われる。この特徴的なアンテナは実戦では使用されておらず、この仕様のみに見られる。発売時はこのアンテナが不良品でないことをしめす注意書きが各店舗にて掲示されていた。側面の白色と青色の塗り分け部分をデカール処理していることが写真からわかる (青色の下地が透けてしまっている部分がある)。    
   
ディジョン=プレノワのつぎのレースは、六月十日に開催されたル・マン二十四時間レースであった。この年のル・マン二十四時間レースは、世界選手権の主催者であるFISAとル・マン二十四時間レースの主催者であるACOの関係が悪化したため、世界選手権レースの開幕直前になって選手権シリーズからはずされてしまったが、世界選手権に参戦しているチームのほとんどが参加した。ニッサンは予定通り新型車を三台持ち込み、日本のニスモ、欧州のNME、北米のNPTIからそれぞれ一台ずつがエントリーした。この年のル・マンは前年優勝者であるTWR・ジャガーをはじめ、サウバー・メルセデス・ベンツ、トムス・トヨタ、マツダスピード、アストン・マーティンなどといったメーカー・ワークス・チームが数多く参戦し、優勝争いは激しい戦いになることが予想された。    
予選では、ニッサン・チームは欧州部隊が得た十二位が最高で、以下十五位に北米部隊、十九位に日本部隊が並んだ。しかし土曜日の午後四時にレースがはじまるがはやいが、欧州部隊の車に乗るジュリアン・ベイリーが猛然と飛び出していき、一周で五位にまでジャンプ・アップしたのである。ベイリーのすばらしい追撃はとどまるところを知らず、四周目には二台のジャガーのすぐ後方、三位にまで上がった。ニッサンのスタッフたちは予想外の快進撃によろこんだが、そのよろこびも長くは続かなかった。五周目のミュルサンヌ・コーナーで、前を行くジャガーの車を抜いて二位に上がろうと動いたベイリーが、そのジャガーと接触してスピンしたのである。このアクシデントでジャガーは修復のため長時間のピットインを余儀なくされ、優勝争いから脱落した。ジュリアン・ベイリーは損傷した車をなんとかピットまで持ってくることができたが、接触のダメージでサスペンションの取り付け部分が破損しているのが発見され、現場での修復は不可能と判断されたため、欧州部隊はたった五周でレースから姿を消してしまうことになった。    
ニッサン・R89Cの戦闘力は高く、欧州部隊の車がリタイヤしたのち、レースが五時間目を迎える午後九時ごろには、かわって日本部隊の車が四位に上がってきた。日本部隊の車は国内の耐久レースで豊富な実績を持ち、長年ニッサンのワークス・ドライバーとして活躍してきた星野一義、長谷見昌弘、鈴木利男の三人が操縦しており、派手な速さこそなかったが、堅調な走りで着実に順位を上げていたのである。この年のル・マンはメーカー・ワークス同士の全面戦争の様相を呈しており、各車ともスタートからハイペースでのバトルをつづけたため、アクシデントやトラブルで脱落する車が続出し、ただ走っているだけでもどんどん順位が上がっていったのであった。しかしこの車は一六七周目になって、エンジンとラジエーターをつなぐ冷却水のパイプが破損するトラブルが発生したのでリタイヤしてしまった。これでニッサン勢のうちコース上にとどまっているのは、北米ニッサン直属のレース部隊が走らせる一台のみとなった。この車も予選十五位から五位まで順位を上げていたが、夜が明けた日曜午前八時ごろ、レースが残り八時間ほどのところで、エンジン・オイルが漏れるトラブルを起こしてリタイヤした。けっきょく、ニッサンの新鋭戦闘機は一台たりとも完走できなかったのである。しかしエンジンも車体も完全な新型であることを考えると、むしろレース中にTWR・ジャガーやサウバー・メルセデス・ベンツに匹敵しうるペースを見せることができたことをよろこぶべきであった。    
   
08ラジエーターはフロントに置かれ、この部分から排出される空気の流れをダウンフォース獲得に利用するレイアウトとなっている。開口部の奥にあるラジエーターがしっかり再現されている。    
   
   
07側面を見る。排気口の上部に開いている穴は、モノコック左右に配置されたインタークーラーを通った冷却気を排出するための開口部である。この開口部はボディ上面に開けられることが多かったが、この車においてはリヤウィングへ向かう気流を乱すことをきらったためか、側面に向かって開口されている。前年のル・マンで優勝したTWR・ジャガー同様、前方投影面積を抑えるためタイヤは前後同径の17インチを採用し、また空気抵抗を極力減らすため後輪をカバーで覆っている。このカバーに関しては、当時は比較的一般的な手法ではあったが、ニッサンの林義正はタイヤやブレーキの過熱の原因になるとして懐疑的な目線をむけていた。リヤウィングも低ドラッグ化のため、大型の一枚翼 (塗り分けの関係で二枚翼にも見える) が車体と同じ高さにセットされている。    
   
ル・マン二十四時間レース後は、欧州のNMEが一台体制で参戦した世界選手権と、日本のニスモが二台体制で新車を投入した全日本選手権が、R89Cの主戦場となった。このうちヨーロッパでは、世界選手権レースの合間に参加したドイツ・スーパーカップ選手権第四戦・ADACディープホルツ飛行場レースでニッサンが優勝し、結果的にR89C唯一の勝利を記録した。世界選手権のほうでは、七月末に開催されたブランズハッチ480キロレースから大改造を施した改良型R89Cが投入された。この改良型は後輪を19インチまで大径化し、ウィングの取り付け位置を高くセットしてコーナリング速度を稼ぐ方向に設定されたもので、翌年に投入する予定の新型車の先行開発も兼ねていた。この改良が功を奏し、世界選手権後半戦のニッサンはドニントン・パークとスパ=フランコルシャンの各480キロレースで三位を獲得し、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは年間のチーム・ランキングで五位を得た。    
いっぽう日本では、状況はヨーロッパほど良くはなかった。ニッサン・R89Cはル・マン二十四時間レースの後、七月に開催された富士500マイルレースから二台体制で全日本選手権に投入されたが、参加した三レースすべてで、予選では良いタイムで走れても、決勝レースでは優勝はおろか表彰台にすら一度も登れなかったのである。予選ではデビュー・レースの富士500マイルレースで記録したポール・ポジションが、決勝レースでは第四戦・インターチャレンヂ富士1000キロレースの八位が最高位であった。エンジニアの林義正はこの状況の原因がローラ製シャシーの設計思想や製造品質にあると考え、シャシーの内製を模索するようになる。    
   
10ホイールはスピードライン製五本スポークの一体成型タイプを履いているが、この仕様のホイールはヨーロッパ方面でのみ使われていたもので、日本ではスピードスターホイール製のツーピース型・五本スポークのホイールが使われていた。前者は全面が黒く塗装されていたのに対し、後者はホイールリムの部分が銀メッキされていることが外観上の識別点であった。一般的に、R89Cのホイールというと後者が連想されることが多いようである。タイヤレターは「DUNLOP/DENLOC」となっているが、これは八八年用のものであり、八九年の実戦では「DUNLOP/SPORTS」に変更されていた (DENLOCはダンロップ製ランフラットタイヤの商品銘柄)。ホイールの奥に見えるディスク・ブレーキとそのキャリパーも精密に再現されている。    
   
03車輌後方から。車体中心部に見える銀色のチューブはエアジャッキである。リヤウィングの部品が全体的に厚ぼったいことや、ウィング本体と支柱の接着が若干甘いことなどが確認できる。支柱そのものは金属部品で薄く仕上げられている。現代のレーシングカーでは規則上装着できない、大容積のディフューザーが目を引く。「VRH35Z」と名付けられた新型エンジンは7600回転で約800馬力を発生するとされ、これにヒューランド製の五速ギヤボックスが組み合わされた。ターボ・チャージャーは石川島播磨重工業が製作したが、このターボ・チャージャーのルーツは八〇年代中頃にホンダのF1用エンジンのために設計された専用品にある。横長タイプのテール・ライトは初期型の特徴であり、ル・マン二十四時間レースではR89C-01シャシーは丸型のテール・ライトに交換されていた。    
   
09ニッサンは一九九〇年もローラ製シャシーでヨーロッパのレースをする方針が八九年中に決っていたが、ニッサンのエンジニアであった林義正や、八九年からニスモのチーム監督に着任した水野和敏らは、外部のコンストラクターに見切りをつけ、ニッサン側でシャシーを開発・製造する体制に移行することを水面下で決めていた。ローラがニッサンの注文を受けて製作した一連のグループCスポーツカーは、ニッサンのあらたな世界戦略の投影であったと同時に、同社のスポーツカー・レース活動が「中期」から「後期」、さらには「末期」へと歩みをすすめる過渡期の中で一瞬だけ見えた星のようでもあった。あるいは、前後長のみじかいキャビン・セクションやカバーで覆われた後輪、前後17インチ・タイヤの採用による低く構えたようなシルエットによって、この車を遠い未来から飛んできた宇宙船か何かであると見ることもできるかもしれない。ともあれ、一九八九年当時のスポーツカー・レースを追いかけていた人々にとっては、ニッサンは日本の自動車メーカー・ワークスの中でもっともおおきなリソースをつぎ込んでいる有力チームであり、そう遠からぬ未来にニッサンの車がル・マンで優勝するのは、きわめて現実的な予想であると考えられていた。おそらく林義正や水野和敏も、そう思っていたであろう。    
   
ニッサン・R89Cまたはローラ・T89/10は、一九八九年中に四台が製作された。    
シャシー・ナンバー01のニッサン・R89Cまたはローラ・T89/10は、一九八九年四月までに完成し、四月五日から八日にイギリス・スネッタートンで、同十五日から十八日にかけてアメリカ・アリゾナ州の試験施設で、五月四日にはフランスのディジョン=プレノワで、それぞれ試験走行をおこなったのち、一九八九年世界スポーツカー選手権第二戦・ディジョン=プレノワ480キロレースで実戦デビューし、十五位で完走した。ル・マン二十四時間レースでは予選十二位を獲得し、決勝レースでは五周でリタイヤしている。ル・マン後は世界選手権のブランズハッチ、ニュルブルグリンク、ドニントン・パークの各480キロレースにスペア・カーとして持ち込まれ、スパ=フランコルシャン480キロレースではレース・カーとして出走した。世界選手権レースの合間にドイツ・スーパーカップ選手権にも参戦し、こちらは第四戦ADACディープホルツ飛行場レースで優勝、第五戦ニュルブルグリンク・スーパースプリント・レースで三位に入っている。    
一九九〇年の世界スポーツカー選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースには、ニッサンで設計された新型車「R90CP」のサスペンション・パーツを移植され、比較試験のためR89C用のボディを架装した状態で出走した。その後同年のル・マン二十四時間レースでは、フランスのクラージュ・コンペティシオンに払い下げられ同チームから参戦しており、これが記録にある分としてはこの個体の最後のレースである。

2016年8月24日 (水)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル (草稿)

つぎの連載企画にむけてネタを暖めつつ資料をあたっていたら、Twitterの方でちょっとした新資料発見の騒ぎになっていたので、とりあえず本式の記事を執筆する前にまとめることにしておきます。これはいわば絵のラフスケッチみたいなもので、精読を前提としないメモ書きのようなものであることをご了承ください (連載がはじまったらこの記事は消すかも?)。例によって、自分が所有しているモデルカーの分だけの記事を書く予定ですが (現在の予定だとR89C・R90CK・R91V・R91CKの四台)、現在筆者が実家に帰省中で写真を用意できないため、連載開始は早くても九月末ごろになるでしょう。いつものことですが遅筆で申し訳ありません。


   

以下のシャシーはすべて英国ローラ社で製作された、GpC規格スポーツカー用カーボン・モノコックである。R89C、R90Cはそれぞれ社内呼称T89/10、T90/10とも呼ばれたが、これはニッサンではなくローラ社の命名規則にしたがった呼び方である。R89Cは四台、R90Cは七台が製作された。なお、各車の現在保存されている仕様に関しては調査が難航しているため、必ずしも正確ではないことをご了承願いたい。

R89C-01:    
1989 (平成1).04完成、04.03~04.05スネッタートンにてジュリアン・ベイリーがシェイクダウン (このときは無塗装)、04.15~04.18にかけて米アリゾナ州のニッサン試運転施設にて連続高速耐久試験 (ドライバーはベイリー、ロビンソン、ブラバム?) を実施、このとき計測最高速度時速386キロを記録。05.04までに (04.末?) -02完成。05.04WSPCディジョン公式テスト (開幕戦・鈴鹿の後)、ドネリー車。WSPCディジョンでレースカー、ル・マンではNr24 (ベイリー/ブランデル/ドネリー)、続くブランズハッチ、ニュルブルグリンク、ドニントンでTカー (レースカー: -04。B.H.ではTカーながらレースで使用)、スパでふたたびレースカー (このレースにスペアカー持ち込み無)。B.H.とニュルブルグリンクの間にSAT1スーパーカップ・ディープホルツ戦にてレースカー (ドネリー優勝)、スパ後に同選手権ニュルブルグリンク・スーパースプリント戦にてふたたびレースカー。以上89年分。   
1990 (平成2) 年WSPC開幕戦・鈴鹿にてNr24 (長谷見/オロフソン) として参戦? 外見R89C後期型、中身はR90CP準拠 (サスペンションレイアウト等)。この車もR90CPと呼称されることがある。実質R90CPだが記録上の扱いはあくまでR89C。   
1990年ル・マン、クラージュ・コンペティションからNr82 (ルゴー/ロス/クディーニ) としてレース出走。アンテナ位置により少なくとも90年WSPC鈴鹿と同じシャシーであることは確実。これが記録に残っている中では最後のレース。足回りなどの仕様 (R89C? R90CP?) 不明。   

R89C-02:    
おそらくもっともドラマチックな人生を歩んだシャシー? 1989.04.末日完成 (日付失念)、05.04WSPCディジョンテスト、星野/鈴木/長谷見 (国内専業だった長谷見をフランスに送り出す意味はあったのか…?) 車。このときは無塗装。ル・マン、Nr25 (北米チーム) として参戦。07.23JSPC第三戦・富士500マイルにて日本デビュー。以後第四戦・鈴鹿1000km (雨天順延)、最終戦・富士1000kmまでNr23 (星野/鈴木)。以上89年分。   
1990年、モノコックはR89CのままにR90CPへ改造を受ける*。JSPC開幕戦・富士500km (03.11) にて引き続きNr23 (ドライバー同じ)、このときR89Cルックであったが登記上R90CP。同第二戦・富士1000km (04.03) より二台ともR90CPルック? レースは雨で中止。04.08WSPC開幕戦・鈴鹿、R90CPとして参戦 (R90CPルック)。ル・マン、R90CP・Nr23 (日本人チーム) として参戦、五位。以降JSPCのNr23として富士、鈴鹿、菅生、富士。以上90年分、記録ここまで。 
現在この個体はR90CP Nr24のカラーリングで保存されている。
【*: シャシーナンバーの打刻は1990年以降もR89C-02のままであった。このことは近年撮影された写真より判明している。もう一台のR90CPがどのようなナンバーを付与されていたのか、現在のところ確認は取れていないが、とりあえずこの個体を便宜的にR90CP-01とし、新造されたほうのR90CPをR90CP-02としておく。この記法は裏が取れているわけではないので格段の注意を要する。】  

R89C-03:    
完成時期不明。1989年ル・マン、R89C Nr23 (日本人) として参戦。以降JSPC第三戦から第五戦までNr24 (長谷見/オロフソン) として参戦。以上1989年分。   
1990年、ルマン商会 (チーム・ル・マン) に払い下げ。R90CP用サスペンションを移植 (実質R90CP?)、キャビンカラー「R90V」として参戦。Vは「V型エンジン」? R90VとR90CPが厳密にどう違うのか未確認。ボディワークは基本R89C、リヤウィング支柱にブサイクな補強材、ライト形状変更 (角形)。JSPC全戦にNr85 (和田/中子+サラ) として、またWSPC開幕戦・鈴鹿にNr25 (和田/アチソン) として、ル・マンにはティノラスカラーNr85 (和田/オロフソン/サラ) として参戦。以上90年分。   
1991 (平3) 年、R91VとしてJSPC開幕戦・富士500kmに参戦 (伊太利屋カラー、Nr25、和田/岡田)。第二戦以降R91VP (この車については後述) 使用のためスペアカー。第三戦・富士500マイルにてR91VP全損・破棄のため第四戦・鈴鹿1000kmより最終戦まで再度レースカー (和田負傷離脱、岡田/影山+サラ)。以上91年分、記録にある分はここまで。   

R89C-04:    
完成時期不明。ニッサン・ヨーロッパのWSPC用スペアシャシー。1989年WSPCハラマ、ブランズハッチ、ニュルブルグリンク、メキシコにてレースカー。以上89年分、記録があるのはここまで。おそらく四台のR89Cシャシーの中でもっとも走行距離が少い?   

R90C-01:    
ヨーロッパ用。完成時期不明 (1990.02までには?)、豪州フィリップアイランド等でシェイクダウンテスト (このときボディワーク仕様違い)。1990年WSPC開幕戦モンヅァにてTカー、続くシルバーストーンではレースカー (Nr23、ベイリー/アチソン)。ル・マンではNr24のTカーとして予選PP。以後WSPCニュルブルグリンクでNr23T、ドニントンでNr24T、モントリオール、メキシコでレースカー (いずれもNr24、アチソン/ブランカテリ)。以上90年分、記録ここまで。   
[現存する車輌に関しては、シャシー・ナンバーは「R90-C-00x」と記述されている (-002で確認)。このプレートはローラ社ではなくニッサン社のものであるため、ローラ側でどのような記法をもちいていたかは判然としない。]

R90C-02:    
北米用。1990年ル・マン、Nr84 (アール/ロー/ミレン) として参戦。90年はこの一戦のみ。   
1991年デイトナ24h、NPTIよりNr83 (アール/デイリー/ロビンソン/ブラバム) として公式テスト含め参戦、二位。以上91年分。
1992 (平4) 年デイトナ24h、NPTIが持ち込んだ三台 (レース2+スペア1) のR90CKのうち一台として参戦。この年は排気量と最低重量のバランスをとる関係で、全車がNPTIの用意した3リッター・6気筒エンジンに換装されての出走であった (オリジナルのグループC仕様は3.5リッター・8気筒エンジン)。このとき、どの車がどのシャシーであったかは判明していない。この年のデイトナに参加したNPTIのR90CKはNr83が (ジェフ・) ブラバム/ロビンソン/ルイェンダイク、Nr83がスタート前に燃料漏れを起こしたためレースで使われたNr83Tが (ジェフ・) ブラバム/ロビンソン/ルイェンダイク/アール、Nr84がデイリー/ミレン/(ゲイリー・) ブラバム組であったが、このうちのいずれか一台であったはずである。記録分ここまで。
現在はこの車を含めた三台のR90CKが座間記念庫にて保管と思われる。現存するR90CKの中で、ニッサン本社などで時折展示されているのはこのシャシー。現在はカーナンバー84の仕様で保存されている。エアロはおおむね北米仕様に準拠するが、実戦仕様と異なっているディテールが多く、あまり考証の参考にはならないと思われる。   

R90C-03:    
ヨーロッパ用。1990年WSPC開幕戦モンヅァでNr23 (ベイリー/アチソン)、シルバーストーンでNr23T、スパで再度Nr23 (ドライバー同じ)。ル・マンではNr24 (ベイリー/ブランカテリ/ブランデル。「三人のB」) レースカー。以後WSPCニュルブルグリンク、ドニントンでレースカー (Nr24、アチソン/ブランカテリ)。以上90年分。   
1991年渡米。デイトナテスト及びデイトナ24hにNPTIよりNr1 (ベイリー/ルイェンダイク/デイリー) として参戦。本戦ではいわゆるランニング・スペアカーであった。以上91年分。
1992年、引き続きデイトナ24h参戦。 おそらく前年同様Tカーであり、この車がスタート前に燃料漏れを起こしたNr83にかわってレースに出走したNr83Tであったと考えられる (Nr84に関しては応急修理を施して出走したとされる)。この説を裏付けるものとして、某巨大掲示板における2004年5月17日の書き込みで「デイトナではローラモノコック特有の燃料タンクのトラブルで燃料漏れが発生したが、NMEはこれを独自に対策し、協力していたニスモもこれに対処していたが、NPTIのモノコックはこの改修がなされていなかった」という旨の記述が見られる。よく知られている通り、1990年ル・マンでNPTIの車が同様のトラブルで優勝戦線から脱落している事実があるためこの説の信憑性はある程度確保されていると思われる。1992年はこの一戦のみ、記録ここまで。蛇足ながら、上記の掲示板でも書き込まれていたが、1990年ル・マンで設計に起因するタンクまわりのトラブルが露見した後も、日本のニッサン本社側はこの所見を北米NPTI側と共有した形跡がなく、ニッサン社内における各組織の連携には疑問符をつけざるを得ない。
1992年デイトナでの当該部分のトラブルに関しては、この問題そのものは1990年ル・マンにてNPTI側の知るところとなった (黒井尚志の著書に、NPTI代表であったキャス・カストナーが、当該部分への対策があらかじめ施されたNMEのローラ・シャシーを見て激怒する場面が描写されており、すくなくともカストナーら上層部は1991年シーズンへ入る時点でこのことを知っていたはずである) ため、それ以降のシャシーに関してはNPTIが対策を怠ったか、または時間や予算の制約により必要十分な対策を施すことができなかったものと思われる。コメント欄の議論も併せて参照されたい。

R90C-04:    
ヨーロッパ用。1990年WSPC開幕戦モンヅァでNr24 (ブランカテリ/ブランデル)。以後シルバーストーン、スパも引き続きNr24のレースカー。ル・マンではNr25 (アチソン/グルイヤール/ドネリー)、レースカーだが決勝は1ミリたりとも走れず。WSPCディジョンにてNr24 (ブランカテリ/アチソン)。以上90年分、記録ここまで。   

R90C-05:    
北米用。1990年ル・マン、Nr83 (ブラバム/ロビンソン/デイリー) としてNPTIより参戦。90年はこの一戦のみ。   
1991年、デイトナテスト・デイトナ24hにNPTIよりNr84 (ベイリー/ミレン/ルイェンダイク/デール) として参戦。91年はこの一戦のみ。以上91年分。 
1992年、デイトナ24h参戦。Nr83またはNr84のいずれかであったと考えられる。92年はこのレースのみ、記録ここまで。  

R90C-06:    
ヨーロッパ用。1990年WSPC後半戦のディジョン、ニュルブルグリンク、ドニントン、モントリオール、メキシコにNr23 (ベイリー/ブランデル) のレースカーとして参戦。以上90年分、記録はここまで。   
1991年、下記のノバ・ローラのスペア・カーとして渡日。少なくとも1991年JSPC開幕戦において、実際にスペア・カーとして持ち込まれていたことが確認されている。このときノバは二台のR90Cシャシーに独自のナンバーを振っており、スペア・カーが「065」、レース・カーが「075」であったと記録されている。「065」に関しては「オートスポーツ」誌の1991.5.1号 (Nr.580) に「(WSPC) モントリオール、メキシコで実際に走った」シャシーとされており、後者のシャシーは英国からバラ部品のまま日本へ輸送されノバ側で組み立てられたとの記述があり、おそらく「075」があらたに発注した07、コンプリート・カーとして持ち込まれたスペア・カーが01または06 (番号の振り方を見ると06であった可能性が高いと思われる) であろう。 現在このシャシーはノバ・R91CKの最初期型の姿で、ニッサンの座間記念庫に保管されている。

R90C-07:    
日本用。ノバ・エンジニアリングがJSPCにおけるポルシェの使用を終了したため1990年中にローラに発注 (当時ノバはF3000でローラの代理店だった)。ワークス仕様ニッサン・エンジン搭載。1991年JSPC開幕戦・富士500kmにて、「ノバ・R91CK」としてデビュー (Nr27、中谷/ヴァイドラー+ダニエルソン)。当初はR89C後期型のような見た目だったが、同年第三戦・富士500マイルより特徴的な二段式リヤウィング装備。JSPC最終戦まで参戦。以上91年分。   
1992年、1月~2月にデイトナテスト・同24hレース参戦。事前テストでは星野/鈴木/アチソン、24hレースではマルティニ、ヴァイドラー、クロスノフが操縦 (いずれもNr27)。1992.04より、Nr27 (ヴァイドラー/マルティニ+金石) としてJSPC参戦。07.26、第三戦・富士500マイルよりヘッドライト移設 (フロント→コックピット内部)。このレースを最後にヴァイドラー引退。08.30、SWC鈴鹿1000kmにNr44 (マルティニ/金石/クロスノフ) としてスポット参戦。JSPC第四戦・菅生500km以降はマルティニ/金石/フレンツェン体制で最終戦・美祢まで参戦。以上92年分。   
1993 (平5) 年、大改造を受けR93CKに (ドアがいわゆる「開口窓」に、リヤウィング変更、ボディワーク大変更、軽量化)。同年ICL鈴鹿1000kmに参戦、二位。以上93年分、記録ここまで。   

           


   

また、以下のシャシーはニッサン・宇宙航空事業部 (20世紀末の業績不振のおり清算、石川島播磨に吸収) にて内製された、GpC規格スポーツカー用カーボン・モノコックである。本連載の趣旨からは外れるため連載ではあつかわない予定だが、同時期のニッサン・スポーツカー活動と深い関連を持つためあえてここに記す。R90CPは新車1+改造1の二台、R91CPはすべて新造の五台が存在する (した) と思われる。1992年用R92CPは、モノコックがR91CPと共通であり、そのシャシー・ナンバーはR91CPからの連番であることが判明している。しかしそれ以上のことはわかっておらず、特に1991年中のワークス・チームのシャシー運用に関して不明な点が多い。
R90CPはローラ製モノコックの影響を色濃く残す設計であったが、R91CPは水野和敏や林義正らニッサン側の人員によって (ローラ製がベースとなったかもしれないが) 基本的にはゼロから設計されたものであり、モノコック形状はまったく異なる。R91CPにおいてはサスペンションのピックアップ・ポイントやジオメトリが全面的に変更され、レーシングカーの常識に逆らってロールセンターを高めにとるようなセットが施されていた。車室は若干広げられ、また各種操作パネルの配置には人間工学が応用されるなど、競技用スポーツカーとしては一種異例の「味付け」がなされていた車である。後述するが、ニッサンはこの車をプライベート・チームに大々的に供与することを考えており、ワークス・ドライバーではない、技量・熟練度ともに劣る操縦者が操縦することを想定した結果であるとされる。
R92CPはR91CPのモノコックを使用して製作されたが、前年型のサスペンションは操縦性を改善するかわりにタイヤに過大な負荷をかけることが判明したため改良され、また後輪のサイズが19インチから18インチへ縮小されている。
   
R90CP-02:    
完成時期不明。R90CP-01についてはR89C-02参照。内製モノコック。1990年JSPC全戦にNr24 (長谷見/オロフソン) として参戦。1990年はこれ以外の戦歴無し? 以上90年分。 
1991年開幕戦、新車R91CPの準備がまに合わなかったNr1 (長谷見/オロフソン) 用のレースカーとして、R90CP仕様のまま投入された。第三戦・富士500マイルにて当該カーナンバー組のR91CP-02がクラッシュで全損したのち、第四戦・鈴鹿1000kmレースにて当初スペアカーとして持ち込まれ、レースで使用されたR90CPのシャシーもこの個体であったと推測される。91年分はこの二戦のみと思われる。記録分ここまで。

R91CP-01:
1991年JSPC、全戦にNr23 (星野/鈴木)として参戦。以上91年分。全日本のみ。   
1992年1月~2月、北米。デイトナテスト・デイトナ24h本戦参加、優勝 (Nr23、日本人+オロフソン)。この後おそらく一度オーバーホールしたうえでチーム・テイクワンに払い下げ。R91CP改としてJSPC鈴鹿、富士、富士、菅生、富士、美祢の全戦に参加 (Nr61、岡田/ダニエルソン)。以上92年分。記録に残っている分はここまで。   
シャシーは現存しており、一時期 (00年代のどこかまで?) 1992年JSPCに参戦したテイクワン・ニッサンR91CP改の仕様で保存されていた個体がこれにあたると推測される。R91CP-03の項も参照されたいが、もともとデイトナ24h仕様で保存されていたものが、のちにモノコック・タブのみを交換されたものと考えられている。

R91CP-02:    
完成時期不明。1991年JSPC第二戦・富士1000kmより、Nr1 (長谷見/オロフソン) 用R91CPとして投入された (と推測)。続く第三戦・富士500マイルにおけるクラッシュで損傷し、以後この年にレースをすることはなかったと思われる。以上91年分。 
1992年シーズンに使用されたR92CPのうち一台が、修復を経たこのシャシーだったのではないかとされている。現在、このシャシーはR92CP Nr.24の仕様で保存されていることがシャシー・プレートの撮影により確認されたことがその根拠であり、1991年のクラッシュ後どこかの時点で修理されたと考えられる。もし現在の仕様が当時と同じものであれば (そうである保証はないのだが)、この車は1992年のJSPC (おそらく開幕戦~最終戦まで) に参戦したNr24 (長谷見/影山+クロスノフ) ということになるが、この情報は未確定である。
1993年、インター・サーキット・リーグの一戦として開催された鈴鹿1000kmレースで、ルマン商会のチーム・ル・マンから出走した (実際の整備や運営はニスモが担当) 伊太利屋カラーのR92CP Nr25 (和田/鈴木) は、この個体であったとされている。93年はこの一戦のみ、記録分はここまで。

R91CP-03:    
上述のクラッシュを受けて、1991年JSPC第四戦以降のNr1用シャシーとして投入されたと推測される。そうであれば、第五戦・菅生500kmから最終戦・菅生500マイルまでNr1として使用されたと考えられる (R90CPが使用された第四戦にも、一応Tカーとして待機はしていた事実が当時の雑誌に記述されている。すなわち第三戦・鈴鹿1000kmで旧型のR90CPが引っ張りだされたのは、新モノコックの製造の遅れによるものではないと考えられる。このシャシーはおそらく開幕当初からスペアカーとして待機していたと思われる)。以上91年分。 
92年2月のデイトナ24時間レースに参戦し優勝したのはこの個体であったとする考察が存在する。
現在R91CP-03は1992年デイトナ24時間レース参戦車の仕様で保存されている。この個体はもともと1992年JSPCに参戦したテイクワンR91CP改の仕様であった (後からそのようにパーツを合わせて改造された) と思われるが、おそらく2008.11から2009.01のあいだにモノコック・タブを交換され、現在の仕様となったと思われる。

R91CP-04: 
1991年JSPC第二戦・富士1000kmから、ルマン商会が「R91VP」という名のオリジナルシャシーとして、Nr25 (和田/岡田) で参戦。翌第三戦・富士500マイルにて和田がクラッシュし全損したため、R91VPとしてレースを走ったのはこの二戦だけであった。その後修復などはなされず、破棄されたのではないかと推測される。ルマン商会は以後のレースでは旧型 (R89C-03) のR90Vを「R91V」として使用した。記録分ここまで。
ニッサンはほかのマニュファクチャラー・チーム同様、伝統的にカスタマー・チームには一年落ちのシャシーを供給してきたが、1991年に向けてセミ・ワークス待遇のチームを設ける意向があったため (当時すでにポルシェの凋落で存続そのものが危うくなっていたJSPCのエントラントを確保する意図もあったと推測する)、ニッサンがスポーツカー・レース活動を再開した当初からのカスタマー・チームであったルマン商会 (チーム・ル・マン) に新型を一台供給することとなった。しかし関係者の弁によると (下記脚注も参照)、当時R91CPは北米のIMSA-GTPレースやヨーロッパの世界選手権レースに参戦するエントラントからも引き合いがあったためそのまま供給するわけにはいかず、当該関係者によると「ルマン商会に資金とデータ共有、先行開発部品の耐久チェックを条件にR90CP改名目でR91CPの4号車を出した」という。三栄書房刊「日本の名レース100選・057 '91 富士1000km」において、この車が「R90CP改」であるとされているのは、この「対外的な身分」の関係であると思われる。R91VPにはR90CP系で使われていたテール・ランプの部品が取り付けられていたり、リヤウィング部分がワークス・カーと異なる設計となっていたが、これにはおそらく対外的にこの車が最新型シャシーであることを隠蔽する目的もあったのではないかと推測したくなる。

R91CP-05:    
1992年用R92CP。おそらく1991年シーズン終了後に製作されたと思われる。2012年時点で確認された情報 (http://mr11herono.blog.fc2.com/blog-entry-326.html) では、R91CP-05がNr1 (星野/鈴木、最終戦のみ星野/和田) の塗装で保存されていることがわかる (しかし現役当時もそうであった保証は無い)。
1993年、インター・サーキット・リーグの一戦として開催された鈴鹿1000kmレースで、ルマン商会のチーム・ル・マンから出走した (実際の整備や運営はニスモが担当) 伊太利屋カラーのR92CP Nr25 (和田/鈴木) は、この個体であったとされている。93年はこの一戦のみ、記録分はここまで。

以上、考察のかなりの部分でBou_CK氏及びdefD11氏のツイートを参考にさせていただいた。ここに謝意を表するものである。

<脚注>: もしR89C/R90CP (ローラ製) およびR91CP (ニッサン製) のモノコックがバスタブ・タイプのものであれば、前者を後者に改造することはわけない作業である。しかしそうではなく、こんにちのスポーツカーにおいて一般的な、ルーフまで一体成型のモノコックであった場合、そうすることはむずかしいのではないかという指摘をTwitterで受けた。前者と後者の外見上の相違点は、主にフロントウィンドウ周辺の曲率 (形状) の違い、側面窓後端から給油口までの距離、また燃料タンク周辺のボディワークの分割ラインの違いだからである。このあたりを改造するにはモノコックの構造からメスを入れなければならなくなる。こと記事中で言及したR91CKに関しては、現存する写真を観察すると、あとから工作をおこなって給油口周辺にパネルを追加し、外見上この部分がR91CP準拠の仕様に見えるように加工されている、とも見える。R91VPに関しては、フロントウィンドウまわりの造形 (下端の曲率がゆるやか)・側面窓と給油口の位置関係 (距離が狭い)・燃料タンク付近のボディワーク分割ラインのすべての要素が、R91CP準拠モノコックのように見える。しかし一方で、三栄書房の「名レース100選」内において、この文献がどこまで信用できるのか定かでないにしろ、はっきりと「(R91VPは) R90CP改」と明示されている以上、これをないがしろにすることは難しいと思われる (単なる誤記・誤植であることが分ればそれはそれとして解決できるが…)。本稿ではまず三栄書房の記述があることと、ニッサン系カスタマー・チームであった1990年のルマン商会や1992年のテイクワン・レーシングがいずれも一年落ちのシャシーを供給されていた事実を鑑み、これらをもってR91VPはR90CP改であったという説の根拠とした。より有力な反証をお持ちの方はぜひご教示いただきたい。
[2016.09.06追記: Bou_CK氏のブログにおいて、当時の関係者を名乗る人物からこの部分の不確実さをかなりまで払拭するコメントが投稿されたため、このコメントの記述にしたがい、当ブログでもR91VPはR91CP-04であったとする説を採用した。コメントを寄せてくださった人物に対し、ここに最大限の謝意を表明するものである。情報提供まことにありがとうございました。]

[2016.10.31 改稿]
[2020.09.04 改稿]

2016年4月30日 (土)

トヨタC-Vシリーズ・終りのクロニクル 「花終る闇」

今回の記事の内容は、二〇一四年に執筆したトヨタ・94C-Vに関する記事をベースに加筆・再構成したものであり、部分的に内容が重複していることを了承されたい。    
この記事をローランド・ラッツェンバーガーの思い出に捧げる。      
      
チーム・サードの加藤眞代表が、主戦ドライバーのローランド・ラッツェンバーガーから「F1のシートを獲得できたので、来季は国内の選手権には参戦できない」と伝えられたのは一九九三年の晩夏であった。何の前触れもなかったという。加藤は全日本スポーツ・プロトタイプ選手権時代から長く一緒にやってきて気心も知れたドライバーを手放すつもりはなく、「F1も二流チームまでならいいが、三流のチームなら行く価値は無いからやめたほうがいい」と諭したが、ラッツェンバーガーの意志は堅かった。彼がオファーを受けたのはシムテックというちいさなチームで、ラッツェンバーガー同様F1は初経験であり、ニック・ワースという腕利きのエンジニアがいるにはいたが、とても二流チームどころではなかった。しかしラッツェンバーガーはヨーロッパでレースをはじめたころからF1を最終目標としていて、このチャンスを逃すつもりはまったくなかった。彼はもう三十三歳で、F1ドライバーとして新しくやっていくにはそろそろギリギリの年齢に差し掛かっていたのである。加藤眞は仕方なく彼に、三月にル・マン用スポーツカーのテストがあることと、その日程を伝えておいた。しかしラッツェンバーガーはテストに現れなかった。彼は三月に開幕するF1の一九九四年シーズンに向けて、すでにシムテック・チームに合流して準備にあたっていたのである。 
   
世界スポーツカー選手権および全日本スポーツ・プロトタイプ選手権が一九九二年をもって崩壊し、アメリカのIMSA選手権も翌一九九三年にスポーツカー・クラスを再編してグループC規定のスポーツカーによるレースを打ち切ると、グループCの車を受け入れるレースはル・マン二十四時間レースただ一戦だけとなった。そのル・マンも世界的なスポーツカー・レースの衰退を見て、レースの主役をスポーツカーから市販GTカーに切り換えるつもりでいたが、一九九四年までは旧規定グループCの車にも出走が認められた。加藤眞は、一九九四年のレースはサードが長年の目標であったル・マンにおける勝利を実現する最大のチャンスだと考えていた。規則変更にともない新規定の3.5L自然吸気エンジンを積んだトヨタ、プジョーの両ワークス・カーはすでにサーキットになく、そうなればレースはプライベート・チーム同士の戦いになるだろうと踏んだのである。プライベート・チーム同士の戦いなら、加藤はどのチームにも負けるつもりはなかった。   
   
市販GTカーとの性能的な均衡をとるため、一九九四年のル・マンに出走する旧規定グループCカーには規則によりさまざまな制約が課せられた。エンジンには前年よりさらに径のちいさい33.4ミリのリストリクターを装着することが義務付けられ、これによりエンジン出力は500馬力から550馬力程度まで落ちた。燃料タンクの容量はGTカー・クラスの120Lに対し80Lとされ、ダウンフォースを減らすために前後車軸の間は完全なフラット・ボトムとすることが要求された。後車軸の手前から立ち上がる大型のディフューザーによるグラウンド・エフェクトでダウンフォースを稼いでいたグループCのスポーツカーにとっては、まるで足枷をはめたまま競走をさせられるような規則であった。すでにレースの主役はスポーツカーからGTカーに切り換えることが決っていた以上、時代遅れのスポーツカーにGTカーよりはるかに速いペースで走られてはまずい、というのがその理由だった。   
   

  

94CV-94T-94Mar一九九四年二月の「レーシング・オン」誌に掲載された、風洞実験中のチーム・サードの車。この車は外見的にも内部的にも、トヨタ92C-V/93C-Vの改修型であったが、年式に合わせて「トヨタ94C-V」の名が付けられた。この時点ではチーム・サードのイメージ・カラーであるブルーに塗られている。リヤまわりを写した写真がちいさく掲載されているが、この時点ではまだリヤ・セクションはほとんど92C-Vと共通であることや、規則変更に合わせてディフューザーの高さが低くなっていること、リヤウィング翼端板が小型化されていることが確認できる。リストリクター装着により出力が落ちたため、R36Vエンジンは低速・中速回転域でのパワーを重視する方向にチューニングされた。   
当初トヨタでは3.6LのR36Vエンジンを3.0L化する案も検討された。排気量を3.0Lまで下げるとリストリクター径が一段階大きくでき、結果として出力を向上できるのである。しかしシミュレーション・テストを行ったところ所期の性能を得られる見込みがなかったため、この新エンジンの開発はキャンセルされた。   
タイヤは九二年までのブリヂストンにかえて、九三年から引き続きダンロップ・タイヤを装着した。ダウンフォースが減ったことによりタイヤにかかる負担が増大すると予想されたことから、サード、トラストとダンロップが共同で一九九四年に向けた専用タイヤの開発を行っている。   
   
F1ドライバーとなったローランド・ラッツェンバーガーは一九九四年開幕戦のブラジル・グランプリを予選落ちで終えたが、第二戦のパシフィック・グランプリでは二十六位で予選を通過すると、そのまま十一位で完走を果たし、日本のファンの前で健在をアピールした。第三戦はサンマリノ・グランプリだった。レースにそなえて四月末にイモラ・サーキットへやってきたラッツェンバーガーは、そこでたまたまマツダスピードの大橋孝至監督に出会い、昼食を共にした。大橋は、彼の姿を認めた最後の日本人となった。    
一九九四年四月三十日はサンマリノ・グランプリの予選二日目だった。ラッツェンバーガーはいまだ完成度の低いシムテック・フォードの車で、予選を通過しようと懸命にアタックした。ラッツェンバーガーの車が突然コントロールを失い、コース中ほどにある右回りの高速コーナーでコンクリート・ウォールに激突したのは、彼が二周連続のタイム・アタックに入っていった直後のことだった。前の周回で縁石に当てて破損したフロント・ウィングが脱落したのが原因であった。   
この日、休暇をとって個人的にグランプリ見物にやってきていたチーム・サードのスタッフがあった。彼は観客席から一部始終を見届けると、すぐにチーム監督に連絡を入れた。    
「ローランドがクラッシュして、病院に運ばれました」   
加藤眞はこの連絡を受けた瞬間、「たぶんもうダメだろう」とだけ返事をした。彼らのローランドは助からなかった。加藤眞が「F1に行く」といったラッツェンバーガーの瞳に見ていたという死の影は、まぼろしではなかったのである。   
   
   
00スパークモデル製1/43スケールモデル、一九九四年ル・マン二十四時間レースに参戦した二台のトヨタ94C-Vである。右のNr.1・シャシーナンバー94C-V 005がチーム・サードのマウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ/エディー・アーヴァイン組、左のNr.4・シャシーナンバー94C-V 002がトラスト・レーシングのジョージ・フーシェ/スティーヴン・アンドスカー/ボブ・ウォレック組である。品番はそれぞれS1378/S1379。チーム・サードの車には当初ローランド・ラッツェンバーガーが乗り込む予定であったが、代役としてサードから九二年のル・マンを走ったエディー・アーヴァインが招聘された。   
   
   
16この年からサードの車はふたたび日本電装のスポンサー・カラーに塗られるようになった。九二年と同じく、サードの車は大型のダイヴ・プレーン、トラストの車はやや小ぶりなダイヴ・プレーンを装着しており、細部の設定が二チームで異なる。   
   
   
0693C-Vまでの車と94C-Vの外見上の違いとして、このロング・テール化されたボディを上げることができる。前述の規則によりダウンフォース量が減ったため、最適なボディ形状を検討すべく風洞実験がくりかえされた。これにより車全体の印象がそれまでのトヨタ製スポーツカーとはだいぶ違って見える。   
   
予選ではサード・トヨタが四位、トラスト・トヨタが八位につけた。サード・トヨタのタイムは3分53秒010で、九二年のタイムとくらべると13秒も遅かった。九四年のル・マンでも、サードはそれまでどおり積極的なタイム・アタックはまったく行わず、決勝レースに向けてのセッティング作業に専念したが、それでもサード・トヨタの予選タイムは予選第一位のタイムと2秒ほどしか違わなかった。このレースで優勝を争うことになるだろうと目されていたダウアー・ポルシェの二台はそれぞれ予選五位と予選七位で、ラップ・タイムもほとんど同じくらいだった。レースは激しい戦いになりそうだった。   
   
   
05リヤカウルの処理もサードとトラストで違っており、特に後端面の形状は二台で大きく異なっている。同じ白と赤のカラーリングだが、トラストの赤色はややくすんだ色合い、サードの赤色はそれに比べると彩度の高い赤色になっている。モデルの品質はさすがスパーク製といったところである。二〇一二年発売のやや古い金型であるため、細部に若干の組み付け不良が見られるが、よほど注意して観察しなければわからない、というレベルだろう。   
   
   
10サード車の大型ダイヴ・プレーンはエッチングパーツで再現されている。実車同様、92C-V (二〇一五年発売) と基本的な部分は共通と思われるが、やはり後発だけあって92C-Vのほうが細部に至るまで仕上げが綺麗であるように感じる。原型の問題と思われるが、フロントオーバーハングがやや長いように見えることと、正面から見たときのキャビン・セクションのラインが少々実車と違っていることがすこし残念である。   
   
   
11トラスト車のフロント周り。前記事にも書いた通り、トラストが九二年に使用した92C-V 001の個体は同年クラッシュにより大破しており、九三年・九四年のル・マンではスプリント専用車「トムス・スペシャル」の92C-V 002モノコックに補強を加えて使用した。トムス・スペシャルの面影はフロントカウル上部のラジエーター排気口フェンスに見て取ることができる。モデルでは高さが実車より低くなっているが、フロントガラス付近のフェンスに左右一箇所ずつちいさな切り欠きが設けられている。これはトムス・スペシャル特有の処理で、サード車には見られない。フロントにある牽引フックの位置も二台で異なり、サード車はラジエーター排気口左側、トラスト車は写真では写っていないがフロントカウル前端、右側開口部の奥にある。九二年の92C-V以降、トラストの車にはルーフ前端中央部に横長の識別灯が取り付けられており、モデルでもこの突起が再現されている。   
   
   
09

  

94CV-94LM-Irvine-Martini-Krosnoff-Ratzenberger-11サード車のルーフ上にはル・マンを戦った三人のドライバーの名前に加えて、当初出走する予定だったローランド・ラッツェンバーガーの名前も書き記されているが、モデルではこのドライバー名の書体が実車とまったく違うものになってしまっている。参考として実車の写真を配した。   
   
大方の予想通り、レースはスタート直後から二台のトヨタと二台のダウアー・ポルシェの激しいトップ争いが繰り広げられた。ダウアー・ポルシェは本来スポーツカーであるポルシェ962Cを市販スーパーカーとして改造したもので、GTクラスからの参戦であったためレギュレーション上はトヨタより有利であった。しかしサード・トヨタとトラスト・トヨタの二台は、ダウアー・ポルシェのアルミ・モノコックに対してカーボン・モノコックを使っていたためシャシー性能にすぐれ、またダンロップと共同開発した専用タイヤも大きな威力を発揮したため、総合的にはダウアー・ポルシェよりわずかながら速く走ることができた。ダウアー・ポルシェの相次ぐマイナー・トラブルにも助けられ、深夜過ぎになるとトラスト・トヨタ、サード・トヨタの二台が第一位、第二位を独占したまま、後続の車を徐々に引き離しはじめた。   
日曜午前四時頃になって、トラスト・トヨタの車が優勝争いから脱落した。トヨタの持病であったギヤボックス・トラブルが発生し、ギヤボックスをまるごと交換しなければならない事態におちいったのである。この交換作業で一時間近くをロスしたトラストの車は、優勝の望みをほぼ絶たれた。かわってサード・トヨタがトップに立ち、ただ一台残ったトヨタ車として、一九九一年以来の日本車によるル・マン総合優勝をめざして走ることになった。   
   
   
04フロントの形状は92C-V以来ほとんど変わっていない。実車のフロントアンダーパネルはカーボン・ケブラーで出来ており、モデルではデカール仕上げによりこの素材の特徴的な色味を再現している。ライトカバーの薄いフィルム様のパーツの接着がやや歪んでいるのがわかる。   
   
トップを走るサード・トヨタと二位・三位まで追い上げたダウアー・ポルシェとの差はじりじり開いていき、フィニッシュまで数時間を残すばかりとなった日曜午後にはその差は四周になっていた。日本向けにル・マンのテレビ放映を行っていたテレビ朝日に解説者として呼ばれていた津々見友彦は、ちょうどこのときチーム・サードのピットを訪れ、栗谷監督に簡単なインタビューを行った。インタビューの最後にサード・トヨタの勝利を確信した津々見は栗谷に「おめでとう」といって握手をもとめたが、栗谷は手をスッっと引っ込め、握手をしようとしなかった。栗谷はつぎのようにいった。   
「いや、まだ何が起こるかわからない」   
けっきょく津々見友彦は、握手をせずにチーム・サードのピットをあとにした。   
   
最終シケインを立ち上がってピット前のストレートを加速してきたサード・トヨタのジェフ・クロスノフが突如スピードをゆるめ、ピット・ロード出口の脇に車を止めたのは、レースが残り一時間十五分となったときだった。突然の出来事に誰もが一瞬言葉を失うなか、ジェフ・クロスノフは車を降りると、車の後部に手を突っ込んで、何かを操作しはじめた。クロスノフは三分か五分ばかり停車していたが、やがてふたたび車に乗り込みドアを閉めると、リタイヤに備えて群がってきたコース・マーシャルたちを振り切るように、再スタートしていった。しかしそのペースは緩慢で、ストレートを全速力で加速してきたほかの車にくらべると、まるで歩いているようなスピードだった。このときサード・トヨタはギヤボックスとシフトレバーをつなぐ金属製のパーツを折損しており、ジェフ・クロスノフはギヤボックスを手で直接操作して、無理やりギヤを三速に固定し再スタートしたのである。トヨタのグループCスポーツカーにおける持病であったギヤボックスのトラブルが、最悪のタイミングで発生してしまったのだった。サードの車にはこれに対する最後の防護措置として、車外からギヤボックス内部に直接操作をくわえて任意のギヤに固定できるギミックが搭載されていたが、クロスノフは事前にその方法をメカニックからきいて知っていたのである。まったく栗谷監督の言った通りで、ル・マンは最後まで何が起きるかまったくわからないレースだった。   
   
ジェフ・クロスノフはギヤがつっかえてしまった車でまるまる一周をスロー走行し、よろよろとピットインしてきた。栗谷監督の号令のもと、疲れきったチーム・サードのメカニックたちは最後の力を振り絞り、素早くリヤカウルを取り外すと破損箇所の修理にあたった。作業はなかなか終らなかった。破損した部分がちょうどエンジンとモノコックの結合部付近にあったのである。修復に十四分かかった。一周分をスロー走行したのと合わせると、サード・トヨタはすでに三十分近く遅れていた。こわれたパーツを交換し、当初の予定通りジェフ・クロスノフからエディー・アーヴァインに交代したサード・トヨタの車が轟音を上げてピットアウトしていったとき、サード・トヨタはトップのダウアー・ポルシェから一周遅れの三位に落ちていた。残り時間が一時間では再逆転は絶望的だった。   
加藤眞は思った。   
「いまさらおめおめと三位で帰れるか。こうなったら二位かリタイヤかどっちかだ」   
勝ち目がないことを知りながらも、加藤は車に乗り込んだエディー・アーヴァインに声をかけずにはいられなかった。   
「わかってるだろうな」   
エディー・アーヴァインはただひとこと、みじかい返事をした。   
「ああ、わかってる」   
   
コースを一周まるまる三速に固定されたまま走ったサード・トヨタの車は、三速ギヤが摩滅して使えなくなっていた。しかしエディー・アーヴァインはそんな状態の車で二位のダウアー・ポルシェをはげしく追い上げた。アーヴァインのラップ・タイムは、ギヤの故障によって落ちるどころか、むしろそれまでサード・トヨタがレース中に記録したどのタイムよりも速かった。すでに各車がフィニッシュにそなえてスロー・ダウンするなかで、二位を守ろうと必死に逃げるダウアー・ポルシェと、それを全速力で追いかけるサード・トヨタだけがレースをしていた。のちに加藤眞は、このときのアーヴァインの走りを、「あれはローランドの魂が乗り移った走りだったのではないか」と回想している。   
   
最終ラップに入る直前、最終シケイン手前で二位のダウアー・ポルシェが進路を周回遅れのGTカーにふさがれ、一瞬加速がおくれた。真後ろにつけていたエディー・アーヴァインはそのロスを見逃さず、とっさに走行ラインを変えてこのダウアー・ポルシェを外側から追い抜いていき、最後の最後で二位に上がった。ピット前のストレートを全開で通りすぎていったエディー・アーヴァインを、チーム・サードのメカニックたちが拳を振り上げなから見送った。まるで優勝でもしたかのような騒ぎだった。レースはダウアー・ポルシェが優勝し、サード・トヨタは一周遅れの二位でフィニッシュしたが、三位に入ったもう一台のダウアー・ポルシェとは2.5秒差しかなかった。四位はトラスト・トヨタだった。厳しいレースを戦い終えたアーヴァインは、フィニッシュ後にインタビュアーがマイクをむけると、つぎのようにいった。   
「ローランドがいりゃあ楽勝だったさ」   
   
一九九四年ル・マンのサード・トヨタは、最終盤にギヤボックス・トラブルが発生するまで、まちがいなく優勝にいちばん近いところにあった。しかし加藤眞の考えでは、レースはギヤボックス・トラブルのみによって失われたわけではなかった。レースがスタートしてからいちばん最初のブレーキ・パッド交換の際、メカニックのひとりがミスをおかしたためブレーキがきかなくなってしまい、この修復に四分ほどロスをしているのである。優勝したダウアー・ポルシェと二位のサード・トヨタの差は四分だった。このことをひいて、加藤眞はつぎのようにいっている。   
「あのミスがなければ、シフトリンケージのトラブルがあっても勝っていたはずです。競技とはそういうもので、野球だってバントのミスで負けることがありますよね。その意味で私は二位だった九四年より、五位だったけどノー・ミスで二十四時間を戦った九三年のほうがいいレースだったと思います」   
   
   
02四人のドライバーの名前を車体に背負ってル・マンを戦ったこのサード・トヨタは、現在ル・マンのサーキット付近にある博物館に保存・展示されている。実車はすでに経年劣化でライトカバーは白化し、各部の塗装は剥がれかけ、往時の勇姿は徐々に失われつつある。当時の写真と、アクリルケースの中のモデルカーだけが、四人のドライバーを乗せて勝利へひた走ったこの車の原初の姿をいまに伝える。   
   
サード・トヨタのレースは、ル・マン二十四時間レースだけではなかった。八月に開催される鈴鹿1000キロレースに、ル・マン帰りのサード・トヨタが参戦する予定になっていたのである。サード・トヨタの車はフランスから船便で日本にいったん送り返され、愛知にあるサードのファクトリーで分解整備を受けることになっていた。点検のためにリヤカウルを開けた加藤眞は驚愕した。リヤダンパーを接続する部品に大きな亀裂が入っており、あと数ミリで完全に破断するというところだったのである。もしレース中にそんなところが壊れていたら、大クラッシュにつながっていたかもしれなかった。まるで事故死したラッツェンバーガーが天から見守っていたような、このうえなく劇的なレースであった。トヨタ製グループCスポーツカーがル・マン二十四時間レースのスターティング・グリッドに並んだのは、この年が最後だった。   
   
一九九六年七月十四日、カナダ・トロントで行われたインディーカー・レースで多重クラッシュが発生した。追い抜きにかかろうとした車が前を走るステファン・ヨハンソンの車に接触し、宙を舞ってキャッチ・フェンスに激突したのである。この事故でドライバーと、巻き添えとなったコース・マーシャルが死亡した。ヨハンソンを抜こうとしてクラッシュしたドライバーの名前は、ジェフ・クロスノフといった。九四年ル・マンで、走ることをあきらめたサード・トヨタ94C-Vにふたたび命を吹き込んだ男である。   
   
トヨタ94C-Vは二台が同ナンバーのトヨタ91C-Vから、92C-V、93C-Vを経て改修された。一九九四年以前の各シャシーの戦績については、前記事を適宜参照されたい。   
   
シャシー・ナンバー002のトヨタ94C-Vは、トムスの91C-V 002から同チームの92C-V 002、トラスト・レーシングに払い下げられた93C-V 002を経て改修された車で、一九九四年ル・マン二十四時間レースにトラスト・レーシングから参戦し、四位でフィニッシュした。   
   
シャシー・ナンバー005のトヨタ94C-Vは、チーム・サードの91C-V 005から同チームの92C-V 005、93C-V 005を経て改修された車で、一九九四年ル・マン二十四時間レースにチーム・サードから参戦し、二位でフィニッシュした。   
   
(了)

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