カテゴリー「モデルカー」の記事

2017年4月30日 (日)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「白い道」~

一九九一 (平3) 年から施行された改訂版のグループC規定は、それまで燃費競争を主軸とする耐久レースであったスポーツカー・レースを、純粋にコース上での速さのみを競う中距離レースへと変貌させた。これは当時のF1カーと共通の3.5リッター自然吸気エンジンの採用や、レース距離の430キロへの短縮、燃料使用量制限の撤廃によって実現されたが、その結果として旧グループC規定に合わせて製作されたスポーツカーは一夜にして戦闘力をうしない、また一年の猶予期間をへて一九九二年からは世界選手権レースへの参戦そのものが不可能となった。これにより多くのプライベート・チームがスポーツカー・レースから撤退したばかりか、新規定に合わせたF1規格のエンジンを開発する予算を拠出できないメーカー・ワークス・チームもあいついで姿を消し、もはやスポーツカーの世界選手権レースはその命運が決したも同然であった。一方日本国内においては、国内選手権のレースとして開催されていた全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権 (JSPC) が一九九二年以降も旧規定の車を受け入れることを決定しており、新旧規定の車はそれぞれ別のクラスに組み入れられ、各クラスごとにチャンピオン・タイトルが与えられることになっていた。これは主に新規定に対応した車輌の開発がまに合わないメーカー・ワークスに向けた措置であったが、同時に旧規定車を使うプライベート・チームが離れていくことを食い止める効果も期待されていた。しかし日本においても海外においても、そのようなプライベート・チームが使っていたのは基本的に市販されているポルシェのスポーツカーであり、日本においてはそのポルシェ車はすでにニッサン、トヨタ両メーカーが総力を挙げて開発したワークス・カーに太刀打ちできないことがはっきりしていた。そのようなチームがあいついで撤退したことで、JSPCも結果的には世界選手権と同様に、参戦台数の低下に歯止めがかからない状態におちいってしまったのである。   
   
   
00

 

HPI製、品番8872「フロムA・R91CKニッサン 1992 Mine」レジン製1/43スケールモデルカーである。一九九二年JSPC最終戦・インターチャレンヂ美祢500キロレース仕様、マウロ・マルティニとハインツ・ハラルド・フレンツェンが操縦し三位で完走したノバ・ニッサンR91CKを再現している。シャシー・ナンバーはR90C-07であると思われる。   
   
名エンジニア・森脇基恭を擁するノバ・エンジニアリングは、一九九〇年までポルシェの車に独自の改造を施しながら全日本選手権に参戦していたが、すでに市販ポルシェの戦闘力がトヨタやニッサンにおよばないことを感じ取ると、ついに一九九〇年限りでポルシェ車に見切りをつけることを決意した。当時ノバはイギリスのシャシー・メーカーであるローラ社の日本代理店としても活動しており、F3000用のシャシーなどを輸入していた実績があったため、そのローラ社がニッサン用に設計した最新式のグループC規定シャシーを購入することができた。プライベーターであったノバはエンジンに関しても選択の自由があったが、ローラ社の車体はニッサン・エンジンに合わせて設計されており、エンジン供給の打診を受けたニッサン側もこれを快諾したため、ノバはローラ製シャシーにニッサン・エンジンという、ヨーロッパのニッサン・ワークス・チームと同じパッケージで全日本選手権を戦うことになった。   
   
ノバ・エンジニアリングは一九九〇年中にローラにシャシーを発注し、ローラは彼らのために一九九〇年仕様のニッサン・R90CK用モノコックを一台あたらしく製作した。これがシャシーナンバーR90C-07の個体であり、一九九〇年末にスペア・シャシーのR90C-06と共に日本へ輸送された。R90C-06は完成状態で発送されたが、新造シャシーであるR90C-07は分解状態で日本へ送られ、ノバ側で組み立てを行ったとされる。チームは一九九〇年十二月中からR90C-06でテスト走行を繰り返し、一九九一年シーズンの開幕にそなえた。これらの車体はニッサン・R90CKと共通であったものの、ノバ・エンジニアリングでの運用にあたって大径フロント・ブレーキ装着を目的とした前輪の18インチ化などの改造がほどこされたため、「R91CK」の車名が付与された。   
   
   
02

 

前々回の記事で紹介したニッサン・R90CKと共通の車体をもつ本車輌だが、一見しただけではそれがまったく分らないほどに改造を重ねられている。前述の通り、一九九一年の全日本選手権開幕戦の時点ではほぼニッサン・R90CKに準拠した仕様で走ったが、その後チーム側で近代化改修を重ねたことにより、オリジナルのローラ・シャシーの面影は、わずかに操縦室周辺に見られるのみである。   
   
一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースでは、ノバ・ローラは優勝したニッサン・ワークスの車から遅れることわずか1秒の二位で完走し、ニッサン・エンジンの優位性とノバ・エンジニアリングの優秀さを証明してみせた。ノバ・ローラは第四戦・鈴鹿1000キロレース、第五戦・菅生500キロレースでも連続して二位に入賞し、これにより一時はドライバーズ・ランキングで首位から4ポイント差の二位につけ、最終的にはプライベート・チーム最上位である四位に食い込む活躍を見せるなど、その戦闘力は高かった。この競争力はノバ・エンジニアリングのすぐれた開発能力に裏打ちされたもので、その象徴が一九九一年第三戦・富士500マイルレースから投入された、新型の二段式リヤウィングであった。   
この独特な構造をしたリヤウィングは、もともとはTWR・ジャガーが一九九一年のスポーツカー世界選手権ではじめて実戦に投入したもので、下段のウィングを車体下部のディフューザー出口に近づけて配置することで車体下面からの空気の吸い出しを助け、より強いダウンフォースを発生させることを主目的としていた。従来の考え方では一枚のリヤウィングを車体後部の高い部分に固定し、これをある角度まで傾斜させることによりダウンフォースを発生していたが、この手法では発生するダウンフォースの量に比例して空気抵抗が増加するという弊害があった。しかし車体下面でより大きなダウンフォースを発生させることができれば、その分リヤウィングへの依存度は減少し、あまりウィング角を立てなくとも必要な量のダウンフォースを得ることができるのである。これにより、同じ量のダウンフォースを発生しながら空気抵抗は減少するため、直線での最高速度は従来にくらべて速くなり、スポーツカー・レースにおいて最重要とされる燃費性能も改善されることが予想された。そのうえリヤウィングを立てれば、従来の車と同じ量の空気抵抗に対してより大きなダウンフォースをかけられるため、コーナーが連続するサーキットでも有利になることが予想されたのである。このように多くのメリットを享受できるため、TWR・ジャガーがこのリヤウィングを投入したと見るや、世界選手権でのライバルであったプジョーは大急ぎでこれをコピーし、自分たちの車にも同じものを取り付けたほどであったが、一九九一年夏の時点では二段式リヤウィングを採用していたの車はこの二車種だけであり、むろん日本ではノバがはじめての採用例となった。ノバ・ローラの場合、二段式リヤウィングに交換したことにより、富士スピードウェイにおける最高速は時速18キロ分の改善が見られたとされる。   
   
04

二段式リヤウィングを後方から見る。車体下部、ディフューザーの出口から吐き出された高速の気流が、下段ウィング下面の負圧によって加速され、車体からの吸い出し効果を高めることによって、床下で発生されるダウンフォース効果を高めている。一方上段のウィングは主に前後の空力荷重のバランスをとるために使用され、そのウィング角は従来のものに比べるとかなり寝た状態になっている。これにより少ない空気抵抗でより大きなダウンフォースを発生することが可能となる。実車ではウィング本体や翼端板はカーボン製、上下段ウィングの間に立っている二本の支柱は強度部材であるためか金属製であった。モデルでは樹脂様の材質で再現されているが、この個体では保管状態がまずかったのか製造時の個体差か、ウィングが若干だが弓なりにしなってしまっている。 

一九九一年シーズンを好調で終えたノバ・エンジニアリングがつぎに目を向けたのは、アメリカのデイトナ二十四時間レースであった。すでに前年から参戦を予定していた日本のニッサン・ワークス・チームと共に、ノバ・エンジニアリングも彼らのローラ・ニッサンを持ち込んだのである。事前のテスト走行では好タイムを記録したが、レースではワークス・チームが終始圧倒的な速さで戦場を支配したのとは裏腹に、ノバ・ローラはマイナー・トラブルの連続で順位を落とし、八位で完走するのがやっとだった。上位入賞は叶わなかったが、このレースはノバ・ローラの数少ない全日本選手権外での活動となった。 

全日本選手権では、一九九二年に入ってもノバ・ローラの勢いはそのままで、開幕戦・鈴鹿500キロレースで二位、第二戦・富士1000キロレースで三位、第三戦・富士500マイルレースでふたたび三位に入り、開幕戦から三戦連続で表彰台に登る活躍を見せた。またこの年の第三戦では、前年に続く二回目の大改修がほどこされ、それまで使われていたニッサン・R90CK後期型と同じ丸目四灯式ヘッドライトが取り外され、かわって操縦室前端部・フロントガラス内側に小型の二灯式ヘッドライトが設置された。これにより若干ながら車体が軽量化されたほか、重量物を車体中心付近に移動したことによる運動性の向上も見込まれた。以後ノバ・エンジニアリングは一九九二年最終戦までこの第二次改修後の姿でローラ・ニッサンを運用しており、本稿で取り上げているモデルもこの状態を再現している。 

 

03 

ヘッドライトが取り外されたことで全体の印象がおおきく変化し、二段式リヤウィングやハイダウンフォース・サーキットである美祢に合わせた二枚のフロントダイヴプレーンによって、ベース車輌よりも攻撃的なイメージを与えている。メインスポンサーにはアルバイト情報誌であるフロム・エーが付き、車体がイメージ・カラーである黄色一色で塗られているが、これも青色基調だったニッサン・ワークスとの鮮烈な対比を演出しており、いまなお全日本選手権末期のエントラントとして特に有名な一台である。フロントガラスの内側に、キャビン内部に設置された角型のヘッドライトが見える。リヤカウル形状はおおむねR90CKに準拠するが、後端部の造形に若干手が加えられている。   
   
全日本選手権の第三戦と第四戦の間に伝統の鈴鹿1000キロレースが開催されたが、この年の鈴鹿1000キロレースは世界スポーツカー選手権の一戦とされていたにもかかわらず、出走台数はわずか十一台というありさまで、それも鈴鹿のレースだけ賞典外の全日本選手権参戦車輌の出走を認めるという特例措置をうけてのもので、スポーツカー・レースの世界的な凋落を印象づける一戦になった。このとき全日本選手権のエントラントとして参戦した二台の車のうち一台がノバ・ローラで、旧規定車であったため燃費や給油速度、最低車重などに制約のある状態であったが、すぐれた車体やエンジン、信頼性を武器に新規定の車に割って入り、四位で完走している。   
ノバ・ローラは全日本選手権第四戦・菅生500キロレースで六位完走、第五戦・富士1000キロレースではスピンによりリタイヤに終った。つづく最終戦・インターチャレンヂ美祢500キロレースは、一九九二年のJSPC最終戦であると同時に、一九八三年に発足し十年間にわたって開催されてきた全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権の最後のレースでもあった。すでに世界的なスポーツカー・レースの衰退は隠すべくもなく、世界スポーツカー選手権はエントリー台数の不足から翌年以降の開催中止が決定しており、全日本選手権も一九九三年以降はインター・サーキット・リーグ (ICL) と名を変え、スポーツカーとGTカーの混走レースの体裁をとることで、なんとかその命脈を保とうとしていた。この最終戦でノバ・ローラは三位を獲得し、JSPC最後のレースを表彰台で締めくくった。   
   
   
05

 

キャビンセクションを見る。フロントカウル中央にあるラジエーターの排熱口や、その両脇にあるインタークーラー用開口部などは、ベース車両であるニッサン・R90CKの面影をよくとどめていることが分る。タイヤは国内ワークス・チーム同様ブリヂストンを使用した。   
   
   
09

 

ベースとなったニッサン・R90CKとの側面形の比較。ノバ・R91CKではリヤカウル後端が斜め下向きに切り落とされているが、これはディフューザー部からの空気の引き抜きを受け持つ下段ウィングへ効果的に空気を流すための処理である。リヤのブレーキダクトはオリジナルより大型化されている。   
   
全日本スポーツ・プロトタイプ耐久選手権は一九九二年をもって終了したが、ノバ・ローラがさいごの戦いを終えるのはもうすこし先のことだった。一九九三年、全日本選手権のあとをついで発足するはずだったインター・サーキット・リーグは、折からの不況も重なってエントリー台数がまったく集まらず、予定されていたレースはことごとく中止の憂き目にあっていたが、長い伝統のある鈴鹿1000キロレースだけは、海外からも各クラスのエントラントをかき集めた結果、なんとか開催できる見通しが立っていた。このレースに、最後となる近代化改修をほどこされ、「ノバ・R93CK」と名付けられたノバ・ローラが、たった二台のグループCスポーツカーのうち一台として参戦していたのである。いま一台は、ニッサン・ワークスとルマン商会が合同でエントリーしたニッサン・R92CPで、一九九二年のJSPCで使われていたワークス・カーそのものであった。このときノバ・ローラは、空力性能の向上を目的としたボディ形状の改修や30キロにおよぶ車体の軽量化を中心としたアップデートを受けており、一連のローラ・ニッサン車の最終仕様というべき状態に仕上げられていた。特に目を引いたのは、左右ドアの開口部を窓部分から上だけにしたことで、これにより車体下半分には開口部が存在しなくなり、車体の剛性に寄与するというものであったが、このように左右の窓のみを開口させて乗降口とする手法も、一九九一年にTWR・ジャガーがはじめてスポーツカーに使った方法だった。   
予選で一秒差をつけてポール・ポジションを獲得したノバ・ローラは、レースがスタートするとすばらしいペースで先を急ぎ、チーム・ル・マンのニッサン・R92CPが一分前後の差であとを追う展開になった。ノバ・ローラは快調に飛ばし続け、一七一周のレースが半分をすぎる頃には二位との差は二周にまでひらいた。しかしその直後から、悠々と逃げ切るかと思われたノバ・ローラに、立て続けに苦難が降りかかったのである。まず一〇九周目に、助手席側の開口窓が外れかかっていることが判明したためピットインし、この部分をテープで固定してふたたびコースインしたが、ほどなくして一一七周目にまったく同じトラブルに見舞われた。この一連の緊急修理のため二周あったチーム・ル・マン・ニッサンとの差は一周にまで縮まったが、まだ戦況はノバ・ローラに有利であった。一三二周目にこんどは運転席側の窓ガラスが外れかかり、ふたたび予定外の修復作業を強いられた結果、二位との差はついに20秒にまで詰まったが、その直後、一四〇周目にこんどは追撃中のチーム・ル・マン・ニッサンが勢い余ってスピンし、差はふたたび一周ほどにひらいたため、ノバ・エンジニアリングのスタッフは一息つくことができた。このままピットインごとに左右の窓ガラスをテープで補強しながら走れば、まだ勝つチャンスはじゅうぶんあった。   
一四五周目、ノバ・ローラ最後のピットインでさらなる不運が襲った。左フロント・タイヤを固定するホイール・ナットが想定以上の熱膨張を起こして固着してしまい、取り外せなくなってしまったのである。だめになったナットをようやく外してタイヤを交換し、黄色いノバ・ローラが猛然とピットレーンを加速していく頃には、チーム・ル・マンのニッサン・R92CPはコース中ほどにさしかかっていた。スタートから一四五周にわたって首位を死守してきたノバ・ローラが、その座から陥落した瞬間であった。しかしチーム・ル・マン・ニッサンはまだ給油のためのピットストップを一回しなければならず、それまでにノバ・ローラが差をじゅうぶん縮めれば、再逆転の可能性はまだあった。ノバ・ローラのマウロ・マルティニは思い切りアクセルを踏み、一周につき一秒以上を詰める猛攻撃を開始した。チーム・ル・マン・ニッサンが逃げ切れるかどうかは微妙なところだった。   
この日最後の災厄がノバ・ローラを襲ったのは、すでにサーキットに西日が傾き始めた一五四周目だった。最後のピット作業で補強しておいたはずの運転席側ドアの固定が、またしてもゆるみ始めたのである。ピットクルーたちが最後の緊急修理を終えてマルティニを送り出したときには、ショッキング・ピンクに塗られたチーム・ル・マン・ニッサンは一周さきを走っていた。コースに復帰したノバ・ローラはまったくペースが上がらず、最終的にトップから二周遅れの二位で完走することしかできなかった。さいごの追撃を担当したマウロ・マルティニは、がっくり肩をうなだれてつぎのように言った。   
「勝てると思っていただけにとてもがっかりしている。残念で言葉もないよ」   
鈴鹿1000キロレースの恒例行事である大花火大会が闇につつまれたコースを照らすなかで、日本におけるグループCスポーツカーによるレースは幕を閉じた。くしくも、このレースに参加した二台のスポーツカーはともにニッサンの車であり、その前年に全日本選手権のレースで火花を散らし合った二台だった。   
   
   
12

 

ノバ・エンジニアリングが三年間にわたって運用したローラ・ニッサンは、その戦歴のなかに一度のシリーズ・チャンピオンもなければ、一回の勝利すらも刻まれてはいない。しかしあざやかな黄色のボディカラーと、度重なる改修による異様なシルエットは、当時を知る人々の中にはいまなお鮮烈な印象を残しており、最末期の全日本選手権や、当時におけるスポーツカー・レースそのものの話題に無くてはならない存在になっている。使い古されたことばで表すなら、「記録よりも記憶に残る」ような役者であった。   
   
一九九三年を最後に、ニッサン・ワークスによるスポーツカー・レース活動はいったん途絶えた。ニッサンがふたたび国際レースにスポーツカーで参戦したのは一九九七年のことであり、かつてジャガーのスポーツカーを製作していたイギリスのTWRに開発を委託したシャシーで一九九八年までル・マン二十四時間レースに出走し、一九九九年にはアメリカ・Gフォース (現・パノス) 社製のシャシーにかえて参戦したが、この年限りでスポーツカー・レースからふたたび撤退し、以後は日本国内のGTレースなどに専念する状態がながく続いた。このときの最高位は一九九八年のル・マンで記録した三位であった。   
ニッサンが突如、LMP1-H規定の新型スポーツカーで世界耐久選手権と、その一戦であるル・マン二十四時間レースへの復帰を発表したのは二〇一四年のことであり、翌二〇一五年からの世界選手権へのフル参戦が予定されていた。ニッサンが最後に自社の名を冠したスポーツカーを走らせてから、十六年が経っていた。ニッサンが市販している高性能スポーツ・クーペの名をとって「GT-R LMニスモ」と名付けられた新型車は、エンジンを車体前半部に置くという独創的なレイアウトゆえ開発作業が遅れた結果、世界選手権の前半戦を欠場せざるを得なくなり、ル・マン二十四時間レースがデビュー・レースとなった。このレースでニッサンは二台が熟成不足に起因するトラブルでリタイヤし、残る一台はどうにか最後まで走り切ったが、周回数不足により順位は与えられなかった。当初ニッサンは新車の熟成テストを急ぎ、二〇一五年後半か二〇一六年にはレースに復帰する予定であった。しかし同年十二月中旬、北米のテストコースで翌年に向けた試験走行を行ったわずか数日後に、何の前触れもなくアメリカ・インディアナポリスにある本拠地が閉鎖され、すべてのスタッフは解雇通知もなしに施設から締め出された。こうして、ニッサンのル・マン・プロジェクトは唐突にその幕を閉じたのである。以後今日にいたるまで、ニッサンはル・マン二十四時間レースをふくめたいかなるスポーツカー・レースにも参戦しておらず、またそれらのレースに参戦する競技用のスポーツカーを作ってもいない。   
   
シャシー・ナンバーR90C-07のニッサン・R90CKは、一九九〇年十二月までに日本に輸送され、発注元であるノバ・エンジニアリングによって日本国内で組立作業がおこなわれた。ノバ・エンジニアリングは同時にワークス・チームで使用していたR90C-06も取得しており、このシャシーも実際のレースで走行した形跡がある (展示されていた同車を検分したところ、一九九一年鈴鹿1000キロレースの車検証と、一九九二年デイトナ二十四時間レース用と思しきデイトナ・スピードウェイのコース図が車内に存在したため、すくなくともこの二レースに関してはR90C-06を使用したと考えられる) が、正確な運用履歴はいまだ判明していない。

(了)

2017年3月26日 (日)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「薄紅」~

一九九一年のスポーツカー・レース最高峰カテゴリは、それまでの「世界スポーツ・プロトタイプ選手権」(WSPC) から「スポーツカー世界選手権」 (SWC) へと名称が変更され、あわせてFISAが推しすすめていた3.5リッター自然吸気エンジン使用の新規定がとりいれられたが、さしあたって一九九一年度いっぱいは、旧規定にしたがってつくられた燃費レース対応の車も世界選手権に参加できることになった。ル・マン二十四時間レースを主目標とさだめていたポルシェ系のプライベート・チームや日本のマツダ・ワークスは旧規定車で選手権に参戦したが、そこには前年めざましい活躍を見せたニッサンの姿も、捲土重来を期するトヨタの姿もなかった。トヨタは新規定に対応した完全新設計の車を設計・開発するため、少なくともル・マンを含む一九九一年前半は世界選手権レースに参加しないことが決っていたが、開発が終りしだい、はやければ同年終盤にも選手権に復帰する意向があった。そしてじっさいに一九九一年のスポーツカー世界選手権最終戦・九州オートポリス430キロレースにおいて、トヨタの最新鋭戦闘機であるトヨタ・TS010が一台、翌年に向けてのテスト参戦として投入されたのである。しかしニッサンは戻ってこなかった。この年から世界選手権の一戦に復帰したル・マン二十四時間レースに参戦するには選手権全戦への参戦が規則上必須であり、ワークス・チームの参戦を確保したいFISAは世界選手権開幕戦・鈴鹿430キロレースの予選日までエントリー申請期限をのばすという異例の措置をとった。しかしニッサン側の使者はついにFISAと接触することはなく、この時点で一九九一年のル・マン二十四時間レースにニッサンはやって来ないことが決定したのである。前年のル・マンにおける蹉跌がニッサン側の態度を必要以上に慎重にさせたことと、ニッサン社内の不必要な政争にまみれた情勢が参戦を阻んだのであった。林義正、水野和敏が口をそろえて「参戦していれば絶対に勝てた」と断言するレースで勝ったのは、日本のマツダだった。二〇一七年三月現在、このときマツダが記録した優勝がル・マン二十四時間レースの歴史上唯一の日本車による優勝となっている。

こうして、一九九一年のニッサンは国際レースの舞台からしりぞき、日本国内のレースだけに参加することになった。当時日本ではスポーツカー・レースのローカル選手権である全日本スポーツ・プロトタイプカー耐久選手権 (JSPC) が開催されており、トヨタとニッサンの国内二大ワークスは、国内でのマーケティング効果に直結するこのカテゴリを世界選手権レースと同じくらい重要視していた。両ワークスとも選手権初期から自前のワークス・チーム以外に関係の深いプライベート・チームを複数抱えており、その関係はいわば大企業と提携会社のようなものであった。このうちニッサン系のプライベート・チームとして、JSPC末期まで参戦したほぼ唯一のチームが、花輪知夫 (はなわ・ともお) ひきいるルマン商会のレース部門、チーム・ル・マンであった。


00

イグニッション・モデル製、品番0086「伊太利屋ニッサン・R91VP 1991 JSPC」レジン製1/43スケールモデルカーである。明記されてはいないが、おそらく和田孝夫/岡田秀樹/影山正彦の三人が操縦した一九九一年JSPC・鈴鹿1000キロレース仕様、シャシー・ナンバーR89C-03のニッサン・R90V (モデル名はR91VPとされているが、これはどうもエントリー書類上の登録名だったようである) を再現している。

チーム・ル・マンは一九七〇年代から富士グランチャンピオン・レースをはじめとする日本国内のさまざまなレースに参戦しており、全日本F2選手権では松本恵二を擁して活躍するなど、実力のあるプライベート・チームとして認識されていた。JSPCへの参戦開始は一九八四年のことで、社内の望月一男エンジニアが設計したオリジナル・シャシーに2リッターのニッサン・エンジンを搭載したちいさなスポーツカーを運用していたが、その後ニッサン製レーシング・エンジンがより大型・高出力の3リッター・エンジンになると、オリジナル・シャシーでは車体サイズや剛性が足りなくなったため、ニッサン・ワークスが使っていたマーチ製の汎用シャシーを払い下げてもらって運用していた。一九八九年後半からニッサンのワークス・チームが国内レースに最新型のローラ製シャシーを持ち込んだが、チーム・ル・マンはその翌年に型落ちとなったローラ・シャシーを一台購入し、ワークス・チームから一年遅れで長年使ってきたマーチ・シャシーと決別したのである。
チーム・ル・マンに払い下げられたのは、一九八九年に日本で走った二台のローラ・ニッサンのうち長谷見昌弘/アンダース・オロフソン組が使っていたシャシー・ナンバーR89C-03の車で、チームはこの車に一九九〇年の新型車用に設計されたサスペンション・パーツを組み込んでアップデートしたものを「R90V」という名称で走らせた。すでにニッサン系の国内プライベート・チームとしてはトップに近い地位を得ていたチーム・ル・マンは、翌一九九一年にニッサンから最新型のシャシーを一台供与されることになったが、同年開幕戦・富士500キロレースには新型車がまに合わなかったため、前年型R90Vのカラーリングを一九九一年仕様に塗り直して参戦した (このとき書類上の車輌名称も「R91V」に変更されている)。


09

「R90V」という車名があたえられてはいるが、そのモノコックはまぎれもなくニッサン・ワークスが一九八九年に運用したローラ・R89Cのものである。チーム・ル・マンのスポーツカーは一九九〇年まで和田孝夫の個人スポンサーであったキャビン煙草の赤色に塗られていたが、一九九一年にあたらしいメイン・スポンサーとして婦人服ブランドの伊太利屋を獲得したため、この車も同社のイメージ・カラーであるピンクと白に塗られた。映り具合の関係で淡い色彩に見えるが、実物はかなり強烈なピンク色であり、レーシングカーとしてはめずらしい、派手で華やいだ印象を与える。

R90Vは一九九一年のJSPC開幕戦を走ったのちスペア・カーとなり、チーム・ル・マンの主力はニッサンから受領した最新型R91CPがひきついだ。R91CPはマーチやローラといった外部のコンストラクターではなく、ニッサン社内で白紙から設計されたものであり、その潜在能力はひじょうに高いと予想された。ほかのメーカー・ワークス同様に、ニッサンもまたプライベート・チームに対しては常に一年落ちの型落ちシャシーを供給していたが、一九九一年シーズンにむけて国内にセミ・ワークス待遇の直属部隊を設ける意図があった。ニッサンとのつながりが深かったプライベート・チームで、当時も参戦を続けていたのはチーム・ル・マンしかなかったため必然的にこのチームに白羽の矢が立てられたが、新型R91CPは優秀なシャシーらしいということをききつけたアメリカやヨーロッパのプライベート・チームもこの車を欲しがっており、それらをさしおいて国内のチームに新型車を供給するには何かしらの理由をつける必要があった。ニッサンがとった方法は、完全新設計であるR91CPを「一年落ちの旧型車であるR90CPの改造車」という名目でチーム・ル・マンに「払い下げる」ことであり、この車は対外的にはあくまで「R90CP・改」であると発表されていた。資金とデータのワークス・チームとの共有、および先行開発部品の耐久テストをおこなうことを条件に引き渡されたR91CPはチーム・ル・マンによって「R91VP」という車名を与えられ、リヤウィング周辺のパーツがチーム・ル・マン独自設計のものに交換された。
新型車「R91VP」は、JSPC第二戦・富士1000キロレースから投入された。しかし続く第三戦・富士500マイルレースにおいて、R91VPは和田孝夫の操縦中に第一コーナー手前でタイヤ・バーストに見舞われ、操縦不能となってスピンした。うしろを向いた車はそのまま宙に舞いあがり、つぎの瞬間木の葉落としのように地面に叩きつけられると、漏れた燃料に引火して炎に包まれながら横転し、ひっくり返った状態で第一コーナー先のエスケープ・ゾーンに停止した。和田孝夫が無傷で車から脱出できたのが信じられないくらいの大クラッシュだった。この事故で虎の子の新型車はたった二戦で廃車になってしまい、第四戦からチーム・ル・マンはスペアカーとしてしまってあった旧型のR90Vをふたたび引っ張り出さなければならなくなった。以後最終戦までチーム・ル・マンはR90Vでシーズンを戦ったが、この年を最後にチームがJSPCから撤退したため、JSPCを走ったチーム・ル・マンのスポーツカーとしては最後の車となった*。


03

カウル形状などは、一九八九年最終盤に国内選手権で走った、ローラ・R89Cの改良型に準拠している。オリジナルの設計では前後17インチだったホイールは後輪が19インチに大径化され、リヤウィングは一枚式だったものが二枚式に変更されているが、いずれもオリジナルの設計ではル・マンのコースに合わせたロードラッグ志向だったものを、ダウンフォースが必要な中距離レース向けに最適化する改造であった。リヤウィングの支持部は、一九九〇年モデルではオリジナルの二本式マウントの外側に二枚の金属製補強部材をV字型に組み、独特な外観になっていたが、一九九一年になってこの補強部材は取り外されている。


06

R90Vはチーム・ル・マンの手によって、改良型R89Cからさらに様々な改造が施されている。フロントまわりでは、ヘッドライトカバーの形状が変更されたことや、フロントフェンダー上に排熱用ルーバーが切られていること、フロントカウル中央部にある排熱用開口部のレイアウト変更 (スリットの数が増やされ、サイズも大型化されている)、前輪用ホイール・カバーの追加などがあげられるが、このうちフロントフェンダーのルーバー追加とカウル中央のスリット数追加は一九九一年用の改造である。タイヤはニッサン・ワークスが使っていたブリヂストンから横浜ゴムに変更されたが、これに合わせて一九九〇年シーズンの開幕前にアンダーステア軽減のための大径 (高扁平率) フロントタイヤを開発してもらい、このタイヤを収めるためにフロントフェンダーはオリジナルより若干膨らんでいる。カウルそのものは新造ではなく、オリジナルのローラ製カウルに手を加えて使っていたことが、一九九〇年一月のシェイクダウン・テストのようすを伝えるオートスポーツ誌の記事 (1990.03.01号/Nr.548) 掲載の写真より分る。また、細かい点ではあるが、実車の写真ではカウル本体と左右にとりつけられたダイヴプレーンの部品で、ピンク色の色調があきらかに違って見えるものが数葉残されている。おそらく材質の違いに起因するものと思われる。

一九九〇年のR90VはJSPC第二戦・富士1000キロレースでポール・ポジションを獲得するなど速さを見せたが、一九九一年は開幕戦・富士500キロレースでの四位と、第五戦・菅生500キロレースでの五位が唯一の完走記録で、ほかのレースではすべてリタイヤに終っている (第二戦・第三戦ではR91VPを運用)。この頃のJSPCは、優秀な市販シャシーであったポルシェ・962Cが老朽化により戦闘力を維持できなくなったことによって有力なプライベート・チームがあいついで撤退したり、ほかのカテゴリに転向していったせいで参戦台数の減少に歯止めがかからず、冒頭に述べたFISAのスポーツカー・レースに対する強権的な改革案とあいまって、メーカー・ワークス以外のチームにとっては参戦意義を見出すことがむずかしくなりつつあった。ニッサンのセミ・ワークス・チームという肩書を得たチーム・ル・マンであったが、この年限りでスポーツカー・レースの活動を一旦休止し、同時に参戦していた全日本F3000の活動に専念することになる。


11

車体側面はほとんどR89Cのままだが、リヤカウル左右に排熱用ルーバーが追加されていることと、カウル側面の大型排熱口に仕切り板が設けられていることがR89Cとの主な差異である。カウル上のルーバーはモデルでは直接カウル上にスリットを開けているような表現がなされているが、実車ではスリットを開けた一枚板状のパーツをカウルにはめ込むような造形であったことが確認されている。アンテナはルーフ上から左右ドア前に移設されたが、これは一九九〇年序盤にR89C用カウルをとりつけて走ったワークス・チームのR90CPと共通する特徴である。


13

スポーツカー世界選手権は一九九一年の一年間を旧規定車への猶予期間としたのち、一九九二年には予定通り新規定車のみを受け入れたが、全日本選手権はこの年も旧規定車による選手権レースを開催するという方針が決っていた。しかしプライベート・チームを引きとめることはできず、一九九二年にはチーム・ル・マンにかわってテイクワン・レーシングがニッサン系のプライベーターとして参戦したが、ワークス・カーを含めても毎レース十台前後のエントリーしか集まらないという惨状で、四十年続いたスポーツカーの世界選手権が消滅するのを見届けるように、全日本スポーツ・プロトタイプカー耐久選手権もこの年を最後に歴史書の一頁となった。ニッサンは本来目指していたはずの国際レース大会から逃避するように目をそむけ、日本国内のレースでトヨタのみと戦うことを選んだ結果、一九九〇年から三年連続でJSPCのメーカー部門におけるチャンピオンを獲得した。ふたつのワークス・チームのみが優勝をあらそう、まるで運動会か発表会のようなレースにも、「日本一」という称号が大好きな日本のファンは一定の支持をあたえた。かくのごとくどこか空虚な末期JSPCの中にあって、チーム・ル・マンのようなわずかに残ったプライベート・チームは、艶やかな造花の花束の中に人知れず紛れ込んだ名もない薄紅色の花のように、目を向ける者をひっそりと楽しませたのである。

シャシー・ナンバー03のニッサン・R89Cは、一九八九年のル・マン二十四時間で実戦デビューしたシャシーで、このとき星野/長谷見/鈴木の日本人ドライバーが操縦した。ル・マン後は全日本選手権に参戦し、インター・チャレンヂ富士1000キロレースの八位が最高位であった。
一九九〇年にはチーム・ル・マンに売却され、同チームによる改造を経て「R90V」と名付けられ、同年の全日本選手権全戦および世界選手権開幕戦・鈴鹿480キロレース、ル・マン二十四時間レースに参戦した。全日本選手権での最高位は富士500マイルレースの六位、WSPC鈴鹿とル・マン二十四時間レースではそれぞれアクシデントと点火系トラブルによりリタイヤしている。
一九九一年は全日本選手権の開幕戦および第四戦から第七戦まで参戦し、最高位は開幕戦・富士500キロレースの四位であった。同年最終戦・菅生500マイルレースが、この個体の最後のレースであった。
一九九二年のシーズン開幕前におこなわれた「モータースポーツ・コレクション '92」なるイベントにおいて、この個体がテイクワン・レーシングのカラーに塗装され展示されていたことが判明しているが、このときの車の所有権については判明していない。またイベントそのものに関しても、背後のパネルに東海テレビのロゴマークが見えることから中部地方でおこなわれたと推測されるが、それ以外の情報は開催時期に至るまでまったく不明である。

*: チーム・ル・マンのスポーツカー・レース活動そのものとしては、一九九三年の鈴鹿1000キロレースにおいてニスモと合同でニッサン・R92CPを出走させたのが最後であったが、このレースはJSPC消滅後の開催であり、したがって全日本選手権はかけられていない。

2017年2月10日 (金)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「蒼い月」~

ニッサンが欧州における実働部隊であるニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパを通して、世界スポーツ・プロトタイプ選手権に参戦を開始したのは一九八九年のことであった。このときニッサンはそれまでのマーチ製シャシーにかえて、英国ローラ社に製作を委託した新型シャシーを使用していたが、翌一九九〇年も世界選手権レースならびにル・マン二十四時間レース (この年もル・マンは世界選手権から外されることが決定したため、メルセデスベンツの意向で世界選手権に専念したかったサウバーはル・マンを欠場した) では引き続きローラ・シャシーを使用することがニッサン全体の方針として決定していた。ローラ・ニッサンのシャシーはすでにデビュー年の一九八九年後半からさまざまな改造が施されており、一九九〇年用の新型車はこの改良された昨年型車をベースとして設計された。


00

イグニッション・モデル製、品番0083「ニッサン・R90CK 1990 WSPC」レジン製1/43スケールモデルカーである。一九九〇年のどのレースの仕様であったかは明記されていないが、ヘッドライトカバーやフロントのエアロパーツの形状から一九九〇年シルバーストーン480キロレースに参戦した仕様と推測される。このレースのNr23はシャシー・ナンバーR90C-01の個体であり、シーズン開幕前の一九九〇年二月に豪州フィリップ・アイランド・サーキットでシェイクダウンをおこなった第一号シャシーである (このときのテストカー仕様もモデル化されている)。

一九九〇年にはローラ製車輌のほかに、ローラ・シャシーの品質管理や完成度に不満を持っていた林義正が前年型R89Cのモノコックをベースに独自開発した車輌が日本国内の選手権レースに投入されたため、ローラ製の世界選手権用車輌とそれをベースにした全日本選手権用車輌を区別する必要が生じた。前者はR90CK、後者はR90CPと呼ばれたが、ローラ側ではこの世界選手権用車輌を前年型の名称「R89C」からの連番である「R90C」と公的に呼称しており (R89C同様、ローラ社内の命名規則にしたがった「T90/10」という名称も記録には登場する)、そのため海外の文献ではこの車は単に「R90C」とされることも多い。R90CKのKは当時ローラの施設があった英国クランフィールド (Cranfield。英国モータースポーツ産業の首都ともいわれるミルトン・キーンズにほど近い地名。日本語版Wikipediaでは"クラウンフィールド"とされているが誤記ではないかと思われる) のCから音をとった、当時ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの本拠地があったミルトン・キーンズのKをとった、あるいは単に「改」の意味であるなどと言われており諸説あり*、一方でR90CPのPは日本のニスモが本拠地を置いている追浜 (Oppama) のPをとったとされている。ローラ側の認識としては、あくまでも世界選手権用の主力機「R90C」が本命であった。

R90C (以下、混乱を避けるためR90CKと表記する) の基本設計はR89C同様ローラ社のエリック・ブロードレイおよびアンディ・スクリヴェンによってなされ、ボディワークの設計は主にニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパが行った。R90CKはモノコックレベルではほとんどR89Cと差がなく、3.5リッター8気筒のVRH35Z型ターボ・エンジンや、ヒューランド社製五速ギヤボックスなどもR89Cからのキャリーオーバーである。エンジンは九〇年に向けてニッサン側でアップデートされ、出力は約40馬力ほどアップした840馬力前後を発生したと伝えられる。このエンジンは耐久性がきわめて高く、世界選手権レースのピットでニッサン・エンジンだけが特にオーバーホールされたようすもなく、うっすらとホコリを被っている様に外国人記者がおどろいたという口碑が残されているが、真偽のほどは定かではない。


01

真横からR90CKを見る。フロントまわりからキャビン・セクションに至る造形はR89Cの影響が色濃く残されており、フロントウィンドウの傾斜角が強められた以外は、ほとんどR89C改のような設計となっている。一方リヤのデザインはロードラッグ一辺倒だったR89Cの流れを汲まず、タイヤカバーの装着を前提としないボディワークや高くマウントされたリヤウィングなど、比較的ダウンフォース重視のデザインであることがうかがえる。タイヤは前年に引き続きUKダンロップを使用。

前年後半にかけて、世界選手権でサウバー・メルセデスやヨースト・ポルシェと対等のパフォーマンスを発揮できるようになったニッサンは、翌一九九〇年を飛躍の年ととらえ、特にル・マン二十四時間レースにおける勝利を第一目標に据えた。この年のニッサンは世界選手権の短距離レースはあくまでもル・マンへ向けての予行演習と見ており、他チームのように積極的な予選順位争いや優勝争いを行わなかったことからも、ニッサンがル・マンをいかに重要視しているかが見て取れた。この年ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは前年までメルセデスベンツにいたデヴィッド・プライスやボブ・ベルを筆頭に、一年で世界選手権から撤退したアストンマーティンのワークス・チームなどから人材をかき集め、日本からは往年の名ドライバーである生沢徹がニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパの総大将として派遣されて来るなど、人事面でも増強が図られ、ニッサン欧州部隊はF1チームなみの人的資源を入手することになった。特にサウバーと組んで前年の世界選手権を蹂躙したメルセデスベンツからプライスとベルを雇い入れたことで、耐久王サウバー・メルセデスの知見を学習できたことは、ニッサンにとってこのうえない利益であった。

一九九〇年の世界スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦は四月八日の鈴鹿480キロレースだったが、このレースまでには新車の開発・熟成がまに合わず、またヨーロッパから遠い日本までワークス・カーや人員を輸送するコストなどを勘案した結果、鈴鹿ではR90CPのみが走行した。ローラ製R90CKのデビュー戦は続く第二戦、四月二十九日のモンヅァ480キロレースで、このレースから欧州部隊は二台のレース・カーに一台のスペア・カーという三台体制を組んだ。モンヅァではジュリアン・ベイリー/ケニー・アチソンのNr23がなんとか七位で完走したが、ジャンフランコ・ブランカテリ/マーク・ブランデルのNr24はフィニッシュ間際に燃料切れでリタイヤしてしまった。続くシルバーストーンのレースではNr23がサスペンション・トラブル、Nr24がまたしてもフィニッシュ間際の燃料切れで二台ともリタイヤとなったが、ル・マン直前の第四戦スパ・フランコルシャンではNr23が三位表彰台を獲得し、ル・マン本番への期待を高めた。

03

このモデルではいわゆる前期型のR90CKを再現しているが、判別点はいずれもフロント周りに集中している。まずヘッドライトがR89C後期型と同様のちいさな角型一灯であることからル・マン以前の仕様であると判別でき (ル・マン後の世界選手権レースではル・マン仕様と同じ丸型二灯のヘッドライトが装着されていた)、サイドミラーが赤色に塗装されていることからモンヅァを走った仕様ではないことが分る (モンヅァではサイドミラーが無塗装のままで黒かった) ため、シルバーストーンかスパ・フランコルシャンのいずれかの仕様となる。スパ・フランコルシャンのレースではニッサンは長いタイプのフロントアンダーパネルを使用していたため、フロントが短いモデルの仕様はシルバーストーン480キロレースの仕様であることが推理できた。フロントカウル上面のラジエーター排熱口やフロントウィンドウ両脇に設けられたインタークーラー用の吸気口など、多くの部分がR89Cと共通の設計であったことが分る。

一九九〇年のル・マン二十四時間レースは六月十六日の週末に行われた。すでに一九九〇年も世界チャンピオンは確実と見られていたサウバーは前述の通り欠場が決っており、ヨースト・ポルシェは他メーカーの新型車に太刀打ちできず次第に戦闘力を落としている状態で、日本のワークス・チームにとって敵は事実上TWR・ジャガーただ一チームのみという状況であったため、欧州部隊二台、北米部隊二台、日本のニスモが持ち込んだ一台の五台で挑むニッサンのル・マン初優勝に期待がかかった。
予選ではTWR・ジャガーとトムス・トヨタはレース重視の戦略として積極的なタイム・アタックをおこなわず、ヨースト・ポルシェは大改修をうけたコースで必要とされるダウンフォース量を見誤り、一台をクラッシュで全損させるなど苦戦した。新開発のパワフルな8気筒エンジンに助けられたニッサンは好タイムを連発したが、北米アンディアル社が特別にチューニングした3164ccのエンジンを搭載するブルン・モータースポーツのポルシェがその前に立ちはだかった。ニッサンは欧州部隊のスペアカーに予選アタック用のエンジンを一基積んでおり、マーク・ブランデルがブルンのタイムを逆転しようとコースインしていった。しかしタイム・アタックに入る直前になって、ターボの過給圧を制御するウェイストゲート・バルブがつっかえてしまい、過給圧が想定以上に上がっていることが判明した。これを知った日本人のエンジニアはすぐにブランデルをピットへ戻すよう指示を出させたが、デヴィッド・プライスはこの指令を出す際に「ついうっかり」無線のボタンを押し忘れたのである。何も知らないマーク・ブランデルはそのままタイム・アタックに飛び出して行った。ブランデルはパワーの怪物と化した車と格闘するように走り、ブルン・ポルシェを6秒も上回るタイムでポール・ポジションを奪還した。ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ最良のの時であった。
しかし予選後になって、このエンジンは思わぬトラブルを引き起こした。ニッサンの予選用エンジンはル・マンの一ヶ月ほど前に生沢徹の発案で製作されたが、時間がなかったため一基しか用意できなかった。ニッサン本社のモータースポーツ活動責任者であった町田収 (まちだ・おさむ) はニスモの水野和敏、北米部隊のキャス・カストナーにそれぞれ予選用エンジンの提供を打診したが、両チームの監督ともこれを断ったため、特別製エンジンの存在は予選が終るまで特に周知されていなかったのである。これを知った北米部隊のメカニックたちは激怒し、欧州部隊のメカニックとのあいだに暴力沙汰が発生するに至ったと伝わる。もともと組織内部での相互連携がとれていなかったニッサン艦隊の統率は、この一件で事実上崩壊した。


0509

R89Cと共に。デザインの継続性がなんとなく分る一枚である。ロードラッグ化を最重要目標とし、曲線的で優美なラインのR89Cに比べて、R90CKはよりダウンフォース重視の角ばったデザインをしているが、たとえば車体側面の処理などはほとんど変更されていない。ル・マン二十四時間レースが開催されるサルテ・サーキットが一九九〇年を前に改修され、長いストレートがシケインで分断されたことも影響していると思われる。赤・青・白の三色を配したワークス・カラーは、前年度から塗り分けが変更され、側面の白色が上面に移動している。

相互連絡に致命的な齟齬をかかえたまま、ニッサンは六月十六日・土曜日のル・マン決勝レースに臨んだ。午前のウォームアップ走行ではやくも欧州部隊のNr25が駆動系にトラブルを抱え込み、ギヤボックスが交換されたがフォーメーション・ラップ中にふたたびトラブルを起こして走行不能になってしまい、ニッサンはレースがスタートしないうちから一台をうしなってしまった。レースはスタート直後からポールポジションのNr24ニッサンと二位のブルン・ポルシェのトップ争いが繰り広げられたが、一時間ほどが経過した時点でまず北米部隊のNr84がホイールのトラブルから緊急ピットインを余儀なくされ、優勝争いからは一歩下がった。
スタートから四時間弱が経過した午後八時ごろ、ニッサン陣営にさらなる苦難がふりかかった。ジャンフランコ・ブランカテリの操縦するNr24ニッサンが、コントロールライン直後のゆるい右コーナーで周回遅れのトムス・トヨタと接触し、フロントカウルが大破したのである。この修復に時間を取られたNr24は優勝争いから完全に脱落し、かわって北米部隊のNr83がブルン・ポルシェやTWR・ジャガーを追う展開になった。Nr24はその後、深夜になってギヤボックス・ケーシングのトラブルでリタイヤし、この時点で欧州部隊が全滅したため、ニッサンの戦力は二台の北米部隊と一台の日本部隊に減った。そのうち北米部隊のNr84はさまざまなトラブルを抱え込んでペースが上げられず、日本のニスモが投入した独自設計のR90CPも熟成不足で期待されたパフォーマンスを発揮するに至らず、事実上Nr83が孤軍奮闘しているようなものだった。それでも北米部隊は持ち前の実戦勘と勝負強さでTWR・ジャガーに食らいつき、日曜日の日の出を迎えようとする午前五時すぎには、トップのジャガーと同一周回の二位を走っていた。日が昇ってから十分にペースアップできれば、TWR・ジャガーを逆転することも可能な位置であった。
そのNr83が突然ピットに飛び込んできたのは、サルテ・サーキットの空に夏至近くの太陽が昇りきった日曜日の朝のことであった。操縦していたチップ・ロビンソンが「コックピットに燃料の匂いが充満している」と訴えたのである。検査の結果、モノコック内部のゴム製燃料バッグが擦り切れて亀裂を生じ、そこから燃料が漏れていることが判明した。レース中にそんな大トラブルに対する処置が用意されているはずもなく、Nr83はまさにこれから追い上げにかかろうというところでリタイヤせざるを得なかった。もはやワークス・カーのうち生き残っているのは度重なるトラブルで挽回不可能なほど遅れてしまっている北米部隊のNr84と、こちらも万全ではない状態でトップテン圏内に踏みとどまる日本部隊のNr23だけであった。その後Nr23はレース終盤にギヤ・トラブルが発生しながらも、メカニックが十分強でギヤボックスを全交換するという離れ業を見せ、後方にいたトムス・トヨタが遅いペースで走り続けたことにも助けられ総合五位で完走した。もう一方のNr84は十七位だった。総合で五位というのは日本メーカーによるル・マン参戦の歴史の中では最高位の成績であったが、レース前の記者会見で総責任者の町田収が優勝を確約するほどの威勢の良さはどこにも見られなかった。ニッサンはふたたび敗れたのである。優勝したのは、四台中二台をトラブルでうしないながらも、残った二台で1-2フィニッシュを果たしたTWR・ジャガーだった。

ニッサンの命取りになったのは、レース前から問題となりつつもついに根本的な解決を見なかった、欧州部隊と北米部隊の反目だった。優勝争いをしていたニッサン車のうち、欧州部隊のNr24はギヤボックス・ケーシングの、北米部隊のNr83は燃料タンクのトラブルでそれぞれリタイヤした。しかし欧州部隊は改修されたサーキットの荒い路面が燃料タンクにダメージを与えることを、また北米部隊はヒューランド製のギヤボックス・ケーシングに構造上の欠陥があることをそれぞれ知っており、独自の対応策まで立てておきながら、この点を各ニッサン系チームに周知した形跡もなければ、活動の母体である日本のニスモに通達したようすもなかったのである (ニスモのR90CPはヒューランド製ではなく、ニッサン内製のギヤボックスを使用していた)。一九九〇年ル・マンにおけるニッサンは、連合軍の体裁は保っておきながら、実態としては三つの別々なチームの寄せ集めのようなものであった。この頃のニッサンは「同じ部署に天皇が三人いる」と言われたほどの異様な社内風紀で、何を発言するにも事前の根回しをやっておかなければならないという状況だったとの証言が存在するが、そんなニッサンの社風を鏡に写したような敗北だった。


02

リヤ周りを見る。R89Cではリヤカウル後端に取り付けられていたテールライトは、R90CKではアンダーパネル側に移設されている。規則の変遷により現代では見られなくなった大容積のディフューザーがひときわ目を引く。このスケールにしては比較的細部まで再現されており、フロントの細かいエアロパーツなどは薄いエッチング・パーツで仕上げられているが、やはり14,904円という定価を考えると、再現性や工作精度などは手放しで値段相応と折り紙をつけることはできない。

ル・マン後の世界スポーツ・プロトタイプ選手権後半戦では、熟成の進んだR90CKは表彰台圏内に割り込むパフォーマンスを安定して見せられるようになっていった。サウバーの牙城は依然として崩し難かったが、それ以外のチームの中ではトップレベルの速さを維持できるまでに成長していたのである。後半戦に向けてニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパははNr23にベイリー/ブランデル、Nr24にブランカテリ/アチソンとドライバー登録を組み換えたが、第五戦ディジョン・プレノワではNr23が二台のサウバーに次ぐ三位、第六戦ニュルブルグリンクでは同じくNr23が五位、第七戦ドニントンではNr24が四位と、まずまずのリザルトを記録している。
第八戦モントリオールは、ニッサンが世界選手権レースでの優勝にもっとも近づいた一戦になった。レースが半分ほど経過した六十一周目に、ヘスス・パレハが操縦するブルン・ポルシェを、他車のグラウンド・エフェクトで巻き上げられて舞い上がったたマンホールの蓋が直撃するというめずらしいアクシデントが発生したのである。ポルシェはひとたまりもなくコース脇の壁にクラッシュし、車からは火の手が上がったが、ドライバーのパレハは幸運にも無傷で脱出した。この事故でコース上が危険な状態にあると判断されたため赤旗が出され、レースはそのまま終了となったが、この時点でNr23はトップのサウバーから6秒遅れの二位を走っており、それがそのまま最終順位になったのである。ニッサンはこの後の最終戦メキシコでもNr23が記録上二位でフィニッシュしているが、これは本来二位でフィニッシュしたサウバーの車が規定量以上の燃料を使ったために失格処分となり、三位だったニッサンが繰り上がったもので、優勝したもう一台のサウバーとは二周差があった。


10

一九九〇年の世界選手権レースでは、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは一度も優勝できなかったが、後半戦に複数回の表彰台を獲得したので年間のチーム・ランキングでは前年の五位から躍進し三位を得た。二位のTWR・ジャガーとは4ポイント差だった。前年に比べて進歩が見られる内容だったが、ニッサンがもっとも重要視していたル・マン二十四時間レースで惨敗した事実は動かしようもなかった。一九九〇年は世界選手権レースが燃費競争として争われた最後の年だったが、ニッサンはこの年を最後にスポーツカーの世界選手権レースからは姿を消し、今日に至るまでル・マン二十四時間レース以外にその姿を見せていない。欧州と北米からそれぞれ最精鋭の部隊が出揃い、車体やエンジンが一線級の性能を有し、さらに有力なライバルチームが欠場していた一九九〇年のル・マンは、ニッサンにまわってきた千載一遇の、そして最後のチャンスであった。ニッサンはそれをものに出来なかったのである。

ニスモのチーフエンジニアとして、主に全日本選手権での戦いを指揮した水野和敏は、一九九〇年のル・マンについてつぎのような趣旨の回想をしている。
「(R90CPは) 一年目で熟成不足だったし、最初から勝てるとは思っていなかった」
「もし一九九一年のル・マンに出場していれば、優勝できたと思っている」
すこし穿った (ともすれば嫌味な) 見方をすれば、すでに一九九〇年の時点で日本側の林義正ひきいる実戦部隊にとって、欧州部隊はどうでもよい存在に成り下がっていたとも読み取れる。じっさい、ローラ社製のシャシーに不満を持ったニスモが独自に設計した、R90CPにはじまる日本製のニッサン・スポーツカーは、その後国内の選手権レースでトヨタを相手に優位に戦いを進め、特に車体やエンジンの性能では完全にトヨタを上回っていると考えられた。しかし一九九〇年以降のニッサンは、社内での勢力争いや内紛に明け暮れ、ニッサンの代表としてFISAや他メーカーの重鎮を相手に立ち回った町田収は本社を追い出され、翌年の世界選手権への参戦は不可能となった。一九九一年以降のニッサンは日本国内のスポーツカー・レースにのみ参戦し勝利を重ねたが、そこで得たものは「全日本チャンピオン」という、どこかむなしい響きの称号だけであった。かつてニッサンがあれほどがむしゃらに追い求めたル・マン制覇という目標は、ほかならぬニッサン自身の手によって打ち捨てられたのである。目指す理想郷の風景をみずから描いた絵を壁にかけておきながら、自分の手でその絵を破り捨ててしまったようなものであった。

ニッサン・R90Cまたはローラ・T90/10は、一九九〇年中に七台分のモノコックが製作され、うち六台が一九九〇年に実戦投入された。
シャシー・ナンバー01のニッサン・R90CKまたはローラ・T90/10は、一九九〇年二月までに完成し、オーストラリアのフィリップ・アイランド・サーキットや英国ドニントン・パーク・サーキットなどでシェイクダウン・テストを行ったと考えられる。一九九〇年四月二十九日の世界スポーツ・プロトタイプ選手権第二戦・モンヅァ480キロレースではNr23のスペア・カーとして持ち込まれ、続く第三戦・シルバーストーン480キロレースではNr23のレース・カーとして走行した。ル・マン二十四時間レースではNr24のスペア・カーとして予選用エンジンを搭載し、ポール・タイムを記録している。ル・マン後には世界選手権の第六戦ニュルブルグリンク、第七戦ドニントン・パークの各480キロレースに、それぞれNr24、Nr23のスペア・カーとして持ち込まれ、第八戦モントリオール、最終戦メキシコシティの各480キロレースではNr24のレース・カーとして、それぞれ五位、四位を記録した。最終戦の四位がこのシャシーの最高位であり、また記録にある分の最終レースでもある。

*: 「オートスポーツ」Nr.552 (1990.04.15号) において、Kは「改」の意味であるとする記述が見られる。日本では、ノバ・エンジニアリングが使用していたR90CベースのモノコックであるR91CKに限り「改」を意味するとの情報も敷衍しているが、どちらが正しいのかは不明である。

2016年10月31日 (月)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル ~「青の一番星」~

二〇一五年の世界耐久選手権は、当初ポルシェ、アウディ、トヨタの三メーカーに、ニッサンをくわえた四つのメーカーで競われることになっていた。このうちニッサンは新車の準備が遅れ、第三戦のル・マン二十四時間レースが事実上新車のシェイクダウン・テストとなる、逆風の吹き荒れるデビューとなった。ニッサンは三台の車をル・マンに持ち込んだが、うち二台がニッサンのコーポレート・カラーである深紅に塗られていたのに対し、残る一台には白と蒼をベースに赤色のストライプが入るさわやかなカラーリングが施されていた。このトリコロール・カラーこそは、かつてニッサンが二〇一五年とおなじようにル・マン二十四時間レースでの優勝を至上命題とし、幾度も挫折を経験しながらも挑戦を重ねた日々を思い起こさせる、象徴的なカラーリングであった。   
   

 

01イグニッション・モデル製品番0291、「ニッサンR89C・1989アリゾナテスト」レジン製1/43スケールモデルカーである。シャシー・ナンバーはR89C-01、この車の第一号シャシーであり、ある意味テストカーらしいナンバーであると言える。イグニッション・モデルはHPI社がモデルカー製造事業から撤退したのち、同社のレジン製精密模型の製造設備をひきつぐ形で創設されたといわれている日本のモデルカー・メーカーで、日本製のスポーツカーを主に製作している。    
   
このトリコロール・カラーに塗られたニッサンの新型スポーツカーをはじめて目にしたのは、一九八九年四月十五日にアメリカ・アリゾナ州の沙漠にあるニッサンの試験場にあつまった、ごく限られた開発スタッフのみであった (カラーリングそのものは、四月九日におこなわれた世界スポーツカー選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースにおいて、旧型車に施された塗装として披露されていた)。新車のシェイクダウン・テストそのものは四月三日から同五日にかけて、イギリスのスネッタートン・サーキットですでにおこなわれていたが、このときはまだ塗装を施されておらず、車体の一面がカーボンの黒色で覆われた状態だったのである。開発スタッフの中には、試運転のドライバーをつとめたジュリアン・ベイリー、チップ・ロビンソン、ジェフ・ブラバムの姿もあった。この日、彼らは北米ニッサンが所有するこのテスト・コースで、ル・マン二十四時間レースでの優勝を目標として開発された新型スポーツカー、ローラ・ニッサンR89Cの四日間にわたる高速耐久試験をおこなうことになっていたのである。この試運転で、R89Cは時速386キロの最高速度を記録したと伝わる。    
   
00よく知られているとおり、一般に「ニッサン・R89C」として知られているこのグループC規格スポーツカーを製作したのは、イギリスの老舗レーシング・カー製造者であるローラ・カーズである。ローラ側が一九八七年から導入した命名規則によれば、この車は「T89/10」の名前をつけられるはずであり、じっさいにローラ側の文書にこの車輌を「T89/10」としている記述が見られる (本稿ではニッサン側の呼称である「R89C」を用いる)。ローラはそれまでにもグループC規格のスポーツカーを製作していたが、このR89Cは同社初のカーボン製モノコックを有する車輌であった。    
   
05台座には車名を記した金属製プレートが貼り付けられているが、向かって右側の接着が若干浮いてしまっている。台座はプラ製で、同社製レーシングカー・モデルに共通のカーボン風パターンが天面に貼り付けられている。モデルは定価14,904円とひじょうに高価で、おおむねそれに見合うだけの製造クオリティは維持されているが、たとえばライトカバーやリヤウィング翼端板の素材が厚ぼったく実感を損なうものであったり、各所に接着剤漏れのような痕跡が見られたりと、この分野におけるベンチマークであるスパークモデル製と比較すると「詰めが甘い」ように感じられる点が目立つ。    
   
一九八九年は、さまざまな面において、ニッサンのスポーツカー活動における大きな転換点となった年であった。まず、それまで旧型の市販車用4気筒エンジンや6気筒エンジンを改造して使っていたエンジンを、思い切って専用設計の新型で置きかえる決断がなされた。新エンジンは林義正により設計され、排気量3.5リッター、V型8気筒ツインターボ・エンジンとされた。グループC規定ではエンジンの排気量や気筒数などは自由であり、すべてのエンジンが燃費によって制約を受けるため、新型エンジンの開発の主眼は燃費と出力の両立におかれた。車体の面においては、それまでイギリスのマーチ・エンジニアリング製汎用シャシーを購入して使っていたのを、ローラ・カーズにニッサン専用の車体を発注し、汎用シャシーからの脱却をめざすことになった。マーチ・シャシーは製造が簡単なアルミ製モノコックで、さまざまなタイプのエンジンに対応できる汎用性と、異なるエンジンを搭載しても操縦性が変化しないというすぐれた特性をもっていたが、ル・マンをはじめとするレースでの勝利を狙うには、市販のシャシーでは不十分であることが明らかになったのである。また、この年から世界スポーツカー選手権の規則が改定され、ル・マン二十四時間レースに出場するためにはほかの世界選手権レース全戦に参加しなくてはならなくなったため、ニッサンは欧州方面につくられたばかりの前線部隊であるニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパを通して、世界選手権レースに参戦することを決定した。これに従来通り参戦する全日本スポーツ・プロトタイプ選手権 (JSPC) と、この年からニッサン直属部隊とされたニッサン・パフォーマンス・テクノロジーInc. (NPTI) によるIMSA GT選手権がくわわり、それまで各地域のプライベート・チーム主導でほそぼそと続けられていたスポーツカー・レース活動が、一気に世界規模の大物量作戦に拡大されたのである。これに合わせて、世界中にスポーツカー・レースにおけるニッサンの存在を印象づけるという動機であったのか、この年からニッサンのスポーツカーには蒼、白、赤を組み合わせた、あかるい印象のカラーリングが施されるようになった。このカラーは形を変えながらニッサン・ワークスがスポーツカー・レース活動を打ち切る一九九二年まで継承され、以来ニッサンのスポーツカーと関連付けられ、つよく記憶されるようになった。    
   
02後方よりR89Cを見る。それまでの大柄でどことなく野暮ったいマーチ製シャシーに比べると、ローラ製シャシーは各部がスリムに絞り込まれ、いかにもスマートで速そうな印象を受ける。この車は設計段階から長いストレートをもつル・マンのコースに特化した設計がなされ、たとえば空気抵抗を削るべく追加された、後輪を覆い隠すボディ一体型のカバーなどはその一例である。全体的なスタイルや、カーボン・モノコックの採用などは、当時ポルシェにかわってグループCスポーツカーの最適解と認識されつつあったTWR・ジャガーの車体からの影響が見られる。設計はローラ・カーズのエリック・ブロードレイとアンディ・スクリベンが手がけたが、フロントの造形にはニッサン側のデザイン・スタッフの意見も取り入れられている。林義正の要求により、エンジンは当時のスポーツカーではめずらしかったフル・ストレス・マウントとされた。    
   
ニッサン・R89Cの第一号車は四月上旬までに完成し、上記の通りイギリスのスネッタートンとアメリカのアリゾナ州試験センターで試運転が行われた。五月四日にフランスのディジョンで開催された世界スポーツカー選手権の公式テストには第二号車をくわえた二台が参加している。ニッサンは一台のR89Cを世界選手権にエントリーさせ、ル・マンには欧州部隊、日本部隊、北米部隊の一台ずつ、あわせて三台を投入するつもりであった。    
ニッサンの次世代スポーツカー・レース活動を担う主力戦闘機として期待されたR89Cの世界選手権戦デビューは、五月二十一日に開催された第二戦・ディジョン=プレノワ480キロレースであった。開幕戦の鈴鹿480キロレースまでには、開発がまに合わなかったのである。このレースで、ジュリアン・ベイリーとマーク・ブランデルの操縦するニッサンの車は、予選六位、決勝十五位の結果に終った。ル・マンを目して開発されたローダウンフォース仕様の車体に、応急的にハイダウンフォース用のパーツを取り付けて出走したことを考えると、まずまずの順位だった。    
   
06テスト仕様を再現したモデルであるため、テストカー特有の装備類もそのまま再現されている。大きな特徴がこの折れ曲がったアンテナで、おそらくは直線での空気抵抗を削減するための工夫と思われる。この特徴的なアンテナは実戦では使用されておらず、この仕様のみに見られる。発売時はこのアンテナが不良品でないことをしめす注意書きが各店舗にて掲示されていた。側面の白色と青色の塗り分け部分をデカール処理していることが写真からわかる (青色の下地が透けてしまっている部分がある)。    
   
ディジョン=プレノワのつぎのレースは、六月十日に開催されたル・マン二十四時間レースであった。この年のル・マン二十四時間レースは、世界選手権の主催者であるFISAとル・マン二十四時間レースの主催者であるACOの関係が悪化したため、世界選手権レースの開幕直前になって選手権シリーズからはずされてしまったが、世界選手権に参戦しているチームのほとんどが参加した。ニッサンは予定通り新型車を三台持ち込み、日本のニスモ、欧州のNME、北米のNPTIからそれぞれ一台ずつがエントリーした。この年のル・マンは前年優勝者であるTWR・ジャガーをはじめ、サウバー・メルセデス・ベンツ、トムス・トヨタ、マツダスピード、アストン・マーティンなどといったメーカー・ワークス・チームが数多く参戦し、優勝争いは激しい戦いになることが予想された。    
予選では、ニッサン・チームは欧州部隊が得た十二位が最高で、以下十五位に北米部隊、十九位に日本部隊が並んだ。しかし土曜日の午後四時にレースがはじまるがはやいが、欧州部隊の車に乗るジュリアン・ベイリーが猛然と飛び出していき、一周で五位にまでジャンプ・アップしたのである。ベイリーのすばらしい追撃はとどまるところを知らず、四周目には二台のジャガーのすぐ後方、三位にまで上がった。ニッサンのスタッフたちは予想外の快進撃によろこんだが、そのよろこびも長くは続かなかった。五周目のミュルサンヌ・コーナーで、前を行くジャガーの車を抜いて二位に上がろうと動いたベイリーが、そのジャガーと接触してスピンしたのである。このアクシデントでジャガーは修復のため長時間のピットインを余儀なくされ、優勝争いから脱落した。ジュリアン・ベイリーは損傷した車をなんとかピットまで持ってくることができたが、接触のダメージでサスペンションの取り付け部分が破損しているのが発見され、現場での修復は不可能と判断されたため、欧州部隊はたった五周でレースから姿を消してしまうことになった。    
ニッサン・R89Cの戦闘力は高く、欧州部隊の車がリタイヤしたのち、レースが五時間目を迎える午後九時ごろには、かわって日本部隊の車が四位に上がってきた。日本部隊の車は国内の耐久レースで豊富な実績を持ち、長年ニッサンのワークス・ドライバーとして活躍してきた星野一義、長谷見昌弘、鈴木利男の三人が操縦しており、派手な速さこそなかったが、堅調な走りで着実に順位を上げていたのである。この年のル・マンはメーカー・ワークス同士の全面戦争の様相を呈しており、各車ともスタートからハイペースでのバトルをつづけたため、アクシデントやトラブルで脱落する車が続出し、ただ走っているだけでもどんどん順位が上がっていったのであった。しかしこの車は一六七周目になって、エンジンとラジエーターをつなぐ冷却水のパイプが破損するトラブルが発生したのでリタイヤしてしまった。これでニッサン勢のうちコース上にとどまっているのは、北米ニッサン直属のレース部隊が走らせる一台のみとなった。この車も予選十五位から五位まで順位を上げていたが、夜が明けた日曜午前八時ごろ、レースが残り八時間ほどのところで、エンジン・オイルが漏れるトラブルを起こしてリタイヤした。けっきょく、ニッサンの新鋭戦闘機は一台たりとも完走できなかったのである。しかしエンジンも車体も完全な新型であることを考えると、むしろレース中にTWR・ジャガーやサウバー・メルセデス・ベンツに匹敵しうるペースを見せることができたことをよろこぶべきであった。    
   
08ラジエーターはフロントに置かれ、この部分から排出される空気の流れをダウンフォース獲得に利用するレイアウトとなっている。開口部の奥にあるラジエーターがしっかり再現されている。    
   
   
07側面を見る。排気口の上部に開いている穴は、モノコック左右に配置されたインタークーラーを通った冷却気を排出するための開口部である。この開口部はボディ上面に開けられることが多かったが、この車においてはリヤウィングへ向かう気流を乱すことをきらったためか、側面に向かって開口されている。前年のル・マンで優勝したTWR・ジャガー同様、前方投影面積を抑えるためタイヤは前後同径の17インチを採用し、また空気抵抗を極力減らすため後輪をカバーで覆っている。このカバーに関しては、当時は比較的一般的な手法ではあったが、ニッサンの林義正はタイヤやブレーキの過熱の原因になるとして懐疑的な目線をむけていた。リヤウィングも低ドラッグ化のため、大型の一枚翼 (塗り分けの関係で二枚翼にも見える) が車体と同じ高さにセットされている。    
   
ル・マン二十四時間レース後は、欧州のNMEが一台体制で参戦した世界選手権と、日本のニスモが二台体制で新車を投入した全日本選手権が、R89Cの主戦場となった。このうちヨーロッパでは、世界選手権レースの合間に参加したドイツ・スーパーカップ選手権第四戦・ADACディープホルツ飛行場レースでニッサンが優勝し、結果的にR89C唯一の勝利を記録した。世界選手権のほうでは、七月末に開催されたブランズハッチ480キロレースから大改造を施した改良型R89Cが投入された。この改良型は後輪を19インチまで大径化し、ウィングの取り付け位置を高くセットしてコーナリング速度を稼ぐ方向に設定されたもので、翌年に投入する予定の新型車の先行開発も兼ねていた。この改良が功を奏し、世界選手権後半戦のニッサンはドニントン・パークとスパ=フランコルシャンの各480キロレースで三位を獲得し、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパは年間のチーム・ランキングで五位を得た。    
いっぽう日本では、状況はヨーロッパほど良くはなかった。ニッサン・R89Cはル・マン二十四時間レースの後、七月に開催された富士500マイルレースから二台体制で全日本選手権に投入されたが、参加した三レースすべてで、予選では良いタイムで走れても、決勝レースでは優勝はおろか表彰台にすら一度も登れなかったのである。予選ではデビュー・レースの富士500マイルレースで記録したポール・ポジションが、決勝レースでは第四戦・インターチャレンヂ富士1000キロレースの八位が最高位であった。エンジニアの林義正はこの状況の原因がローラ製シャシーの設計思想や製造品質にあると考え、シャシーの内製を模索するようになる。    
   
10ホイールはスピードライン製五本スポークの一体成型タイプを履いているが、この仕様のホイールはヨーロッパ方面でのみ使われていたもので、日本ではスピードスターホイール製のツーピース型・五本スポークのホイールが使われていた。前者は全面が黒く塗装されていたのに対し、後者はホイールリムの部分が銀メッキされていることが外観上の識別点であった。一般的に、R89Cのホイールというと後者が連想されることが多いようである。タイヤレターは「DUNLOP/DENLOC」となっているが、これは八八年用のものであり、八九年の実戦では「DUNLOP/SPORTS」に変更されていた (DENLOCはダンロップ製ランフラットタイヤの商品銘柄)。ホイールの奥に見えるディスク・ブレーキとそのキャリパーも精密に再現されている。    
   
03車輌後方から。車体中心部に見える銀色のチューブはエアジャッキである。リヤウィングの部品が全体的に厚ぼったいことや、ウィング本体と支柱の接着が若干甘いことなどが確認できる。支柱そのものは金属部品で薄く仕上げられている。現代のレーシングカーでは規則上装着できない、大容積のディフューザーが目を引く。「VRH35Z」と名付けられた新型エンジンは7600回転で約800馬力を発生するとされ、これにヒューランド製の五速ギヤボックスが組み合わされた。ターボ・チャージャーは石川島播磨重工業が製作したが、このターボ・チャージャーのルーツは八〇年代中頃にホンダのF1用エンジンのために設計された専用品にある。横長タイプのテール・ライトは初期型の特徴であり、ル・マン二十四時間レースではR89C-01シャシーは丸型のテール・ライトに交換されていた。    
   
09ニッサンは一九九〇年もローラ製シャシーでヨーロッパのレースをする方針が八九年中に決っていたが、ニッサンのエンジニアであった林義正や、八九年からニスモのチーム監督に着任した水野和敏らは、外部のコンストラクターに見切りをつけ、ニッサン側でシャシーを開発・製造する体制に移行することを水面下で決めていた。ローラがニッサンの注文を受けて製作した一連のグループCスポーツカーは、ニッサンのあらたな世界戦略の投影であったと同時に、同社のスポーツカー・レース活動が「中期」から「後期」、さらには「末期」へと歩みをすすめる過渡期の中で一瞬だけ見えた星のようでもあった。あるいは、前後長のみじかいキャビン・セクションやカバーで覆われた後輪、前後17インチ・タイヤの採用による低く構えたようなシルエットによって、この車を遠い未来から飛んできた宇宙船か何かであると見ることもできるかもしれない。ともあれ、一九八九年当時のスポーツカー・レースを追いかけていた人々にとっては、ニッサンは日本の自動車メーカー・ワークスの中でもっともおおきなリソースをつぎ込んでいる有力チームであり、そう遠からぬ未来にニッサンの車がル・マンで優勝するのは、きわめて現実的な予想であると考えられていた。おそらく林義正や水野和敏も、そう思っていたであろう。    
   
ニッサン・R89Cまたはローラ・T89/10は、一九八九年中に四台が製作された。    
シャシー・ナンバー01のニッサン・R89Cまたはローラ・T89/10は、一九八九年四月までに完成し、四月五日から八日にイギリス・スネッタートンで、同十五日から十八日にかけてアメリカ・アリゾナ州の試験施設で、五月四日にはフランスのディジョン=プレノワで、それぞれ試験走行をおこなったのち、一九八九年世界スポーツカー選手権第二戦・ディジョン=プレノワ480キロレースで実戦デビューし、十五位で完走した。ル・マン二十四時間レースでは予選十二位を獲得し、決勝レースでは五周でリタイヤしている。ル・マン後は世界選手権のブランズハッチ、ニュルブルグリンク、ドニントン・パークの各480キロレースにスペア・カーとして持ち込まれ、スパ=フランコルシャン480キロレースではレース・カーとして出走した。世界選手権レースの合間にドイツ・スーパーカップ選手権にも参戦し、こちらは第四戦ADACディープホルツ飛行場レースで優勝、第五戦ニュルブルグリンク・スーパースプリント・レースで三位に入っている。    
一九九〇年の世界スポーツカー選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースには、ニッサンで設計された新型車「R90CP」のサスペンション・パーツを移植され、比較試験のためR89C用のボディを架装した状態で出走した。その後同年のル・マン二十四時間レースでは、フランスのクラージュ・コンペティシオンに払い下げられ同チームから参戦しており、これが記録にある分としてはこの個体の最後のレースである。

2016年8月24日 (水)

ローラ・ニッサン・グループCプロジェクト・終りのクロニクル (草稿)

つぎの連載企画にむけてネタを暖めつつ資料をあたっていたら、Twitterの方でちょっとした新資料発見の騒ぎになっていたので、とりあえず本式の記事を執筆する前にまとめることにしておきます。これはいわば絵のラフスケッチみたいなもので、精読を前提としないメモ書きのようなものであることをご了承ください (連載がはじまったらこの記事は消すかも?)。例によって、自分が所有しているモデルカーの分だけの記事を書く予定ですが (現在の予定だとR89C・R90CK・R91V・R91CKの四台)、現在筆者が実家に帰省中で写真を用意できないため、連載開始は早くても九月末ごろになるでしょう。いつものことですが遅筆で申し訳ありません。


   

以下のシャシーはすべて英国ローラ社で製作された、GpC規格スポーツカー用カーボン・モノコックである。R89C、R90Cはそれぞれ社内呼称T89/10、T90/10とも呼ばれたが、これはニッサンではなくローラ社の命名規則にしたがった呼び方である。R89Cは四台、R90Cは七台が製作された。なお、各車の現在保存されている仕様に関しては調査が難航しているため、必ずしも正確ではないことをご了承願いたい。

R89C-01:    
1989 (平成1).04完成、04.03~04.05スネッタートンにてジュリアン・ベイリーがシェイクダウン (このときは無塗装)、04.15~04.18にかけて米アリゾナ州のニッサン試運転施設にて連続高速耐久試験 (ドライバーはベイリー、ロビンソン、ブラバム?) を実施、このとき計測最高速度時速386キロを記録。05.04までに (04.末?) -02完成。05.04WSPCディジョン公式テスト (開幕戦・鈴鹿の後)、ドネリー車。WSPCディジョンでレースカー、ル・マンではNr24 (ベイリー/ブランデル/ドネリー)、続くブランズハッチ、ニュルブルグリンク、ドニントンでTカー (レースカー: -04。B.H.ではTカーながらレースで使用)、スパでふたたびレースカー (このレースにスペアカー持ち込み無)。B.H.とニュルブルグリンクの間にSAT1スーパーカップ・ディープホルツ戦にてレースカー (ドネリー優勝)、スパ後に同選手権ニュルブルグリンク・スーパースプリント戦にてふたたびレースカー。以上89年分。   
1990 (平成2) 年WSPC開幕戦・鈴鹿にてNr24 (長谷見/オロフソン) として参戦? 外見R89C後期型、中身はR90CP準拠 (サスペンションレイアウト等)。この車もR90CPと呼称されることがある。実質R90CPだが記録上の扱いはあくまでR89C。   
1990年ル・マン、クラージュ・コンペティションからNr82 (ルゴー/ロス/クディーニ) としてレース出走。アンテナ位置により少なくとも90年WSPC鈴鹿と同じシャシーであることは確実。これが記録に残っている中では最後のレース。足回りなどの仕様 (R89C? R90CP?) 不明。   

R89C-02:    
おそらくもっともドラマチックな人生を歩んだシャシー? 1989.04.末日完成 (日付失念)、05.04WSPCディジョンテスト、星野/鈴木/長谷見 (国内専業だった長谷見をフランスに送り出す意味はあったのか…?) 車。このときは無塗装。ル・マン、Nr25 (北米チーム) として参戦。07.23JSPC第三戦・富士500マイルにて日本デビュー。以後第四戦・鈴鹿1000km (雨天順延)、最終戦・富士1000kmまでNr23 (星野/鈴木)。以上89年分。   
1990年、モノコックはR89CのままにR90CPへ改造を受ける*。JSPC開幕戦・富士500km (03.11) にて引き続きNr23 (ドライバー同じ)、このときR89Cルックであったが登記上R90CP。同第二戦・富士1000km (04.03) より二台ともR90CPルック? レースは雨で中止。04.08WSPC開幕戦・鈴鹿、R90CPとして参戦 (R90CPルック)。ル・マン、R90CP・Nr23 (日本人チーム) として参戦、五位。以降JSPCのNr23として富士、鈴鹿、菅生、富士。以上90年分、記録ここまで。 
現在この個体はR90CP Nr24のカラーリングで保存されている。
【*: シャシーナンバーの打刻は1990年以降もR89C-02のままであった。このことは近年撮影された写真より判明している。もう一台のR90CPがどのようなナンバーを付与されていたのか、現在のところ確認は取れていないが、とりあえずこの個体を便宜的にR90CP-01とし、新造されたほうのR90CPをR90CP-02としておく。この記法は裏が取れているわけではないので格段の注意を要する。】  

R89C-03:    
完成時期不明。1989年ル・マン、R89C Nr23 (日本人) として参戦。以降JSPC第三戦から第五戦までNr24 (長谷見/オロフソン) として参戦。以上1989年分。   
1990年、ルマン商会 (チーム・ル・マン) に払い下げ。R90CP用サスペンションを移植 (実質R90CP?)、キャビンカラー「R90V」として参戦。Vは「V型エンジン」? R90VとR90CPが厳密にどう違うのか未確認。ボディワークは基本R89C、リヤウィング支柱にブサイクな補強材、ライト形状変更 (角形)。JSPC全戦にNr85 (和田/中子+サラ) として、またWSPC開幕戦・鈴鹿にNr25 (和田/アチソン) として、ル・マンにはティノラスカラーNr85 (和田/オロフソン/サラ) として参戦。以上90年分。   
1991 (平3) 年、R91VとしてJSPC開幕戦・富士500kmに参戦 (伊太利屋カラー、Nr25、和田/岡田)。第二戦以降R91VP (この車については後述) 使用のためスペアカー。第三戦・富士500マイルにてR91VP全損・破棄のため第四戦・鈴鹿1000kmより最終戦まで再度レースカー (和田負傷離脱、岡田/影山+サラ)。以上91年分、記録にある分はここまで。   

R89C-04:    
完成時期不明。ニッサン・ヨーロッパのWSPC用スペアシャシー。1989年WSPCハラマ、ブランズハッチ、ニュルブルグリンク、メキシコにてレースカー。以上89年分、記録があるのはここまで。おそらく四台のR89Cシャシーの中でもっとも走行距離が少い?   

R90C-01:    
ヨーロッパ用。完成時期不明 (1990.02までには?)、豪州フィリップアイランド等でシェイクダウンテスト (このときボディワーク仕様違い)。1990年WSPC開幕戦モンヅァにてTカー、続くシルバーストーンではレースカー (Nr23、ベイリー/アチソン)。ル・マンではNr24のTカーとして予選PP。以後WSPCニュルブルグリンクでNr23T、ドニントンでNr24T、モントリオール、メキシコでレースカー (いずれもNr24、アチソン/ブランカテリ)。以上90年分、記録ここまで。   
[現存する車輌に関しては、シャシー・ナンバーは「R90-C-00x」と記述されている (-002で確認)。このプレートはローラ社ではなくニッサン社のものであるため、ローラ側でどのような記法をもちいていたかは判然としない。]

R90C-02:    
北米用。1990年ル・マン、Nr84 (アール/ロー/ミレン) として参戦。90年はこの一戦のみ。   
1991年デイトナ24h、NPTIよりNr83 (アール/デイリー/ロビンソン/ブラバム) として公式テスト含め参戦、二位。以上91年分。
1992 (平4) 年デイトナ24h、NPTIが持ち込んだ三台 (レース2+スペア1) のR90CKのうち一台として参戦。この年は排気量と最低重量のバランスをとる関係で、全車がNPTIの用意した3リッター・6気筒エンジンに換装されての出走であった (オリジナルのグループC仕様は3.5リッター・8気筒エンジン)。このとき、どの車がどのシャシーであったかは判明していない。この年のデイトナに参加したNPTIのR90CKはNr83が (ジェフ・) ブラバム/ロビンソン/ルイェンダイク、Nr83がスタート前に燃料漏れを起こしたためレースで使われたNr83Tが (ジェフ・) ブラバム/ロビンソン/ルイェンダイク/アール、Nr84がデイリー/ミレン/(ゲイリー・) ブラバム組であったが、このうちのいずれか一台であったはずである。記録分ここまで。
現在はこの車を含めた三台のR90CKが座間記念庫にて保管と思われる。現存するR90CKの中で、ニッサン本社などで時折展示されているのはこのシャシー。現在はカーナンバー84の仕様で保存されている。エアロはおおむね北米仕様に準拠するが、実戦仕様と異なっているディテールが多く、あまり考証の参考にはならないと思われる。   

R90C-03:    
ヨーロッパ用。1990年WSPC開幕戦モンヅァでNr23 (ベイリー/アチソン)、シルバーストーンでNr23T、スパで再度Nr23 (ドライバー同じ)。ル・マンではNr24 (ベイリー/ブランカテリ/ブランデル。「三人のB」) レースカー。以後WSPCニュルブルグリンク、ドニントンでレースカー (Nr24、アチソン/ブランカテリ)。以上90年分。   
1991年渡米。デイトナテスト及びデイトナ24hにNPTIよりNr1 (ベイリー/ルイェンダイク/デイリー) として参戦。本戦ではいわゆるランニング・スペアカーであった。以上91年分。
1992年、引き続きデイトナ24h参戦。 おそらく前年同様Tカーであり、この車がスタート前に燃料漏れを起こしたNr83にかわってレースに出走したNr83Tであったと考えられる (Nr84に関しては応急修理を施して出走したとされる)。この説を裏付けるものとして、某巨大掲示板における2004年5月17日の書き込みで「デイトナではローラモノコック特有の燃料タンクのトラブルで燃料漏れが発生したが、NMEはこれを独自に対策し、協力していたニスモもこれに対処していたが、NPTIのモノコックはこの改修がなされていなかった」という旨の記述が見られる。よく知られている通り、1990年ル・マンでNPTIの車が同様のトラブルで優勝戦線から脱落している事実があるためこの説の信憑性はある程度確保されていると思われる。1992年はこの一戦のみ、記録ここまで。蛇足ながら、上記の掲示板でも書き込まれていたが、1990年ル・マンで設計に起因するタンクまわりのトラブルが露見した後も、日本のニッサン本社側はこの所見を北米NPTI側と共有した形跡がなく、ニッサン社内における各組織の連携には疑問符をつけざるを得ない。
1992年デイトナでの当該部分のトラブルに関しては、この問題そのものは1990年ル・マンにてNPTI側の知るところとなった (黒井尚志の著書に、NPTI代表であったキャス・カストナーが、当該部分への対策があらかじめ施されたNMEのローラ・シャシーを見て激怒する場面が描写されており、すくなくともカストナーら上層部は1991年シーズンへ入る時点でこのことを知っていたはずである) ため、それ以降のシャシーに関してはNPTIが対策を怠ったか、または時間や予算の制約により必要十分な対策を施すことができなかったものと思われる。コメント欄の議論も併せて参照されたい。

R90C-04:    
ヨーロッパ用。1990年WSPC開幕戦モンヅァでNr24 (ブランカテリ/ブランデル)。以後シルバーストーン、スパも引き続きNr24のレースカー。ル・マンではNr25 (アチソン/グルイヤール/ドネリー)、レースカーだが決勝は1ミリたりとも走れず。WSPCディジョンにてNr24 (ブランカテリ/アチソン)。以上90年分、記録ここまで。   

R90C-05:    
北米用。1990年ル・マン、Nr83 (ブラバム/ロビンソン/デイリー) としてNPTIより参戦。90年はこの一戦のみ。   
1991年、デイトナテスト・デイトナ24hにNPTIよりNr84 (ベイリー/ミレン/ルイェンダイク/デール) として参戦。91年はこの一戦のみ。以上91年分。 
1992年、デイトナ24h参戦。Nr83またはNr84のいずれかであったと考えられる。92年はこのレースのみ、記録ここまで。  

R90C-06:    
ヨーロッパ用。1990年WSPC後半戦のディジョン、ニュルブルグリンク、ドニントン、モントリオール、メキシコにNr23 (ベイリー/ブランデル) のレースカーとして参戦。以上90年分、記録はここまで。   
1991年、下記のノバ・ローラのスペア・カーとして渡日。少なくとも1991年JSPC開幕戦において、実際にスペア・カーとして持ち込まれていたことが確認されている。このときノバは二台のR90Cシャシーに独自のナンバーを振っており、スペア・カーが「065」、レース・カーが「075」であったと記録されている。「065」に関しては「オートスポーツ」誌の1991.5.1号 (Nr.580) に「(WSPC) モントリオール、メキシコで実際に走った」シャシーとされており、後者のシャシーは英国からバラ部品のまま日本へ輸送されノバ側で組み立てられたとの記述があり、おそらく「075」があらたに発注した07、コンプリート・カーとして持ち込まれたスペア・カーが01または06 (番号の振り方を見ると06であった可能性が高いと思われる) であろう。 現在このシャシーはノバ・R91CKの最初期型の姿で、ニッサンの座間記念庫に保管されている。

R90C-07:    
日本用。ノバ・エンジニアリングがJSPCにおけるポルシェの使用を終了したため1990年中にローラに発注 (当時ノバはF3000でローラの代理店だった)。ワークス仕様ニッサン・エンジン搭載。1991年JSPC開幕戦・富士500kmにて、「ノバ・R91CK」としてデビュー (Nr27、中谷/ヴァイドラー+ダニエルソン)。当初はR89C後期型のような見た目だったが、同年第三戦・富士500マイルより特徴的な二段式リヤウィング装備。JSPC最終戦まで参戦。以上91年分。   
1992年、1月~2月にデイトナテスト・同24hレース参戦。事前テストでは星野/鈴木/アチソン、24hレースではマルティニ、ヴァイドラー、クロスノフが操縦 (いずれもNr27)。1992.04より、Nr27 (ヴァイドラー/マルティニ+金石) としてJSPC参戦。07.26、第三戦・富士500マイルよりヘッドライト移設 (フロント→コックピット内部)。このレースを最後にヴァイドラー引退。08.30、SWC鈴鹿1000kmにNr44 (マルティニ/金石/クロスノフ) としてスポット参戦。JSPC第四戦・菅生500km以降はマルティニ/金石/フレンツェン体制で最終戦・美祢まで参戦。以上92年分。   
1993 (平5) 年、大改造を受けR93CKに (ドアがいわゆる「開口窓」に、リヤウィング変更、ボディワーク大変更、軽量化)。同年ICL鈴鹿1000kmに参戦、二位。以上93年分、記録ここまで。   

           
   

また、以下のシャシーはニッサン・宇宙航空事業部 (20世紀末の業績不振のおり清算、石川島播磨に吸収) にて内製された、GpC規格スポーツカー用カーボン・モノコックである。本連載の趣旨からは外れるため連載ではあつかわない予定だが、同時期のニッサン・スポーツカー活動と深い関連を持つためあえてここに記す。R90CPは新車1+改造1の二台、R91CPはすべて新造の五台が存在する (した) と思われる。1992年用R92CPは、モノコックがR91CPと共通であり、そのシャシー・ナンバーはR91CPからの連番であることが判明している。しかしそれ以上のことはわかっておらず、特に1991年中のワークス・チームのシャシー運用に関して不明な点が多い。
R90CPはローラ製モノコックの影響を色濃く残す設計であったが、R91CPは水野和敏や林義正らニッサン側の人員によって (ローラ製がベースとなったかもしれないが) 基本的にはゼロから設計されたものであり、モノコック形状はまったく異なる。R91CPにおいてはサスペンションのピックアップ・ポイントやジオメトリが全面的に変更され、レーシングカーの常識に逆らってロールセンターを高めにとるようなセットが施されていた。車室は若干広げられ、また各種操作パネルの配置には人間工学が応用されるなど、競技用スポーツカーとしては一種異例の「味付け」がなされていた車である。後述するが、ニッサンはこの車をプライベート・チームに大々的に供与することを考えており、ワークス・ドライバーではない、技量・熟練度ともに劣る操縦者が操縦することを想定した結果であるとされる。
R92CPはR91CPのモノコックを使用して製作されたが、前年型のサスペンションは操縦性を改善するかわりにタイヤに過大な負荷をかけることが判明したため改良され、また後輪のサイズが19インチから18インチへ縮小されている。
   
R90CP-02:    
完成時期不明。R90CP-01についてはR89C-02参照。内製モノコック。1990年JSPC全戦にNr24 (長谷見/オロフソン) として参戦。1990年はこれ以外の戦歴無し? 以上90年分。 
1991年開幕戦、新車R91CPの準備がまに合わなかったNr1 (長谷見/オロフソン) 用のレースカーとして、R90CP仕様のまま投入された。第三戦・富士500マイルにて当該カーナンバー組のR91CP-02がクラッシュで全損したのち、第四戦・鈴鹿1000kmレースにて当初スペアカーとして持ち込まれ、レースで使用されたR90CPのシャシーもこの個体であったと推測される。91年分はこの二戦のみと思われる。記録分ここまで。

R91CP-01:
1991年JSPC、全戦にNr23 (星野/鈴木)として参戦。以上91年分。全日本のみ。   
1992年1月~2月、北米。デイトナテスト・デイトナ24h本戦参加、優勝 (Nr23、日本人+オロフソン)。この後おそらく一度オーバーホールしたうえでチーム・テイクワンに払い下げ。R91CP改としてJSPC鈴鹿、富士、富士、菅生、富士、美祢の全戦に参加 (Nr61、岡田/ダニエルソン)。以上92年分。記録に残っている分はここまで。   
シャシーは現存しており、現在は1992年JSPCに参戦したテイクワン・ニッサンR91CP改の仕様で保存されている個体がこれにあたると推測される。R91CP-03の項も参照されたいが、もともとデイトナ24h参戦仕様で保存されていたものが、のちにモノコック・タブのみを交換されたものと考えられている。

R91CP-02:    
完成時期不明。1991年JSPC第二戦・富士1000kmより、Nr1 (長谷見/オロフソン) 用R91CPとして投入された (と推測)。続く第三戦・富士500マイルにおけるクラッシュで損傷し、以後この年にレースをすることはなかったと思われる。以上91年分。 
1992年シーズンに使用されたR92CPのうち一台が、修復を経たこのシャシーだったのではないかとされている。現在、このシャシーはR92CP Nr.24の仕様で保存されていることがシャシー・プレートの撮影により確認されたことがその根拠であり、1991年のクラッシュ後どこかの時点で修理されたと考えられる。もし現在の仕様が当時と同じものであれば (そうである保証はないのだが)、この車は1992年のJSPC (おそらく開幕戦~最終戦まで) に参戦したNr24 (長谷見/影山+クロスノフ) ということになるが、この情報は未確定である。
1993年、インター・サーキット・リーグの一戦として開催された鈴鹿1000kmレースで、ルマン商会のチーム・ル・マンから出走した (実際の整備や運営はニスモが担当) 伊太利屋カラーのR92CP Nr25 (和田/鈴木) は、この個体であったとされている。93年はこの一戦のみ、記録分はここまで。

R91CP-03:    
上述のクラッシュを受けて、1991年JSPC第四戦以降のNr1用シャシーとして投入されたと推測される。そうであれば、第五戦・菅生500kmから最終戦・菅生500マイルまでNr1として使用されたと考えられる (R90CPが使用された第四戦にも、一応Tカーとして待機はしていた事実が当時の雑誌に記述されている。すなわち第三戦・鈴鹿1000kmで旧型のR90CPが引っ張りだされたのは、新モノコックの製造の遅れによるものではないと考えられる。このシャシーはおそらく開幕当初からスペアカーとして待機していたと思われる)。以上91年分。 92年の実戦記録は無いと思われる。
現在R91CP-03は1992年デイトナ24時間レース参戦車の仕様で保存されている。この個体はもともと1992年JSPCに参戦したテイクワンR91CP改の仕様であったと思われるが、おそらく2008.11から2009.01のあいだにモノコック・タブを交換され、現在の仕様となったと思われる。

R91CP-04: 
1991年JSPC第二戦・富士1000kmから、ルマン商会が「R91VP」という名のオリジナルシャシーとして、Nr25 (和田/岡田) で参戦。翌第三戦・富士500マイルにて和田がクラッシュし全損したため、R91VPとしてレースを走ったのはこの二戦だけであった。その後修復などはなされず、破棄されたのではないかと推測される。ルマン商会は以後のレースでは旧型 (R89C-03) のR90Vを「R91V」として使用した。記録分ここまで。
ニッサンはほかのマニュファクチャラー・チーム同様、伝統的にカスタマー・チームには一年落ちのシャシーを供給してきたが、1991年に向けてセミ・ワークス待遇のチームを設ける意向があったため (当時すでにポルシェの凋落で存続そのものが危うくなっていたJSPCのエントラントを確保する意図もあったと推測する)、ニッサンがスポーツカー・レース活動を再開した当初からのカスタマー・チームであったルマン商会 (チーム・ル・マン) に新型を一台供給することとなった。しかし関係者の弁によると (下記脚注も参照)、当時R91CPは北米のIMSA-GTPレースやヨーロッパの世界選手権レースに参戦するエントラントからも引き合いがあったためそのまま供給するわけにはいかず、当該関係者によると「ルマン商会に資金とデータ共有、先行開発部品の耐久チェックを条件にR90CP改名目でR91CPの4号車を出した」という。三栄書房刊「日本の名レース100選・057 '91 富士1000km」において、この車が「R90CP改」であるとされているのは、この「対外的な身分」の関係であると思われる。R91VPにはR90CP系で使われていたテール・ランプの部品が取り付けられていたり、リヤウィング部分がワークス・カーと異なる設計となっていたが、これにはおそらく対外的にこの車が最新型シャシーであることを隠蔽する目的もあったのではないかと推測したくなる。

R91CP-05:    
1992年用R92CP。おそらく1991年シーズン終了後に製作されたと思われる。2012年時点で確認された情報 (http://mr11herono.blog.fc2.com/blog-entry-326.html) では、R91CP-05がNr1 (星野/鈴木、最終戦のみ星野/和田) の塗装で保存されていることがわかる (しかし現役当時もそうであった保証は無い)。

<脚注>: もしR89C/R90CP (ローラ製) およびR91CP (ニッサン製) のモノコックがバスタブ・タイプのものであれば、前者を後者に改造することはわけない作業である。しかしそうではなく、こんにちのスポーツカーにおいて一般的な、ルーフまで一体成型のモノコックであった場合、そうすることはむずかしいのではないかという指摘をTwitterで受けた。前者と後者の外見上の相違点は、主にフロントウィンドウ周辺の曲率 (形状) の違い、側面窓後端から給油口までの距離、また燃料タンク周辺のボディワークの分割ラインの違いだからである。このあたりを改造するにはモノコックの構造からメスを入れなければならなくなる。こと記事中で言及したR91CKに関しては、現存する写真を観察すると、あとから工作をおこなって給油口周辺にパネルを追加し、外見上この部分がR91CP準拠の仕様に見えるように加工されている、とも見える。R91VPに関しては、フロントウィンドウまわりの造形 (下端の曲率がゆるやか)・側面窓と給油口の位置関係 (距離が狭い)・燃料タンク付近のボディワーク分割ラインのすべての要素が、R91CP準拠モノコックのように見える。しかし一方で、三栄書房の「名レース100選」内において、この文献がどこまで信用できるのか定かでないにしろ、はっきりと「(R91VPは) R90CP改」と明示されている以上、これをないがしろにすることは難しいと思われる (単なる誤記・誤植であることが分ればそれはそれとして解決できるが…)。本稿ではまず三栄書房の記述があることと、ニッサン系カスタマー・チームであった1990年のルマン商会や1992年のテイクワン・レーシングがいずれも一年落ちのシャシーを供給されていた事実を鑑み、これらをもってR91VPはR90CP改であったという説の根拠とした。より有力な反証をお持ちの方はぜひご教示いただきたい。
[2016.09.06追記: Bou_CK氏のブログにおいて、当時の関係者を名乗る人物からこの部分の不確実さをかなりまで払拭するコメントが投稿されたため、このコメントの記述にしたがい、当ブログでもR91VPはR91CP-04であったとする説を採用した。コメントを寄せてくださった人物に対し、ここに最大限の謝意を表明するものである。情報提供まことにありがとうございました。]

[2016.10.31 再改稿]

2016年4月30日 (土)

トヨタC-Vシリーズ・終りのクロニクル 「花終る闇」

今回の記事の内容は、二〇一四年に執筆したトヨタ・94C-Vに関する記事をベースに加筆・再構成したものであり、部分的に内容が重複していることを了承されたい。    
この記事をローランド・ラッツェンバーガーの思い出に捧げる。      
      
チーム・サードの加藤眞代表が、主戦ドライバーのローランド・ラッツェンバーガーから「F1のシートを獲得できたので、来季は国内の選手権には参戦できない」と伝えられたのは一九九三年の晩夏であった。何の前触れもなかったという。加藤は全日本スポーツ・プロトタイプ選手権時代から長く一緒にやってきて気心も知れたドライバーを手放すつもりはなく、「F1も二流チームまでならいいが、三流のチームなら行く価値は無いからやめたほうがいい」と諭したが、ラッツェンバーガーの意志は堅かった。彼がオファーを受けたのはシムテックというちいさなチームで、ラッツェンバーガー同様F1は初経験であり、ニック・ワースという腕利きのエンジニアがいるにはいたが、とても二流チームどころではなかった。しかしラッツェンバーガーはヨーロッパでレースをはじめたころからF1を最終目標としていて、このチャンスを逃すつもりはまったくなかった。彼はもう三十三歳で、F1ドライバーとして新しくやっていくにはそろそろギリギリの年齢に差し掛かっていたのである。加藤眞は仕方なく彼に、三月にル・マン用スポーツカーのテストがあることと、その日程を伝えておいた。しかしラッツェンバーガーはテストに現れなかった。彼は三月に開幕するF1の一九九四年シーズンに向けて、すでにシムテック・チームに合流して準備にあたっていたのである。 
   
世界スポーツカー選手権および全日本スポーツ・プロトタイプ選手権が一九九二年をもって崩壊し、アメリカのIMSA選手権も翌一九九三年にスポーツカー・クラスを再編してグループC規定のスポーツカーによるレースを打ち切ると、グループCの車を受け入れるレースはル・マン二十四時間レースただ一戦だけとなった。そのル・マンも世界的なスポーツカー・レースの衰退を見て、レースの主役をスポーツカーから市販GTカーに切り換えるつもりでいたが、一九九四年までは旧規定グループCの車にも出走が認められた。加藤眞は、一九九四年のレースはサードが長年の目標であったル・マンにおける勝利を実現する最大のチャンスだと考えていた。規則変更にともない新規定の3.5L自然吸気エンジンを積んだトヨタ、プジョーの両ワークス・カーはすでにサーキットになく、そうなればレースはプライベート・チーム同士の戦いになるだろうと踏んだのである。プライベート・チーム同士の戦いなら、加藤はどのチームにも負けるつもりはなかった。   
   
市販GTカーとの性能的な均衡をとるため、一九九四年のル・マンに出走する旧規定グループCカーには規則によりさまざまな制約が課せられた。エンジンには前年よりさらに径のちいさい33.4ミリのリストリクターを装着することが義務付けられ、これによりエンジン出力は500馬力から550馬力程度まで落ちた。燃料タンクの容量はGTカー・クラスの120Lに対し80Lとされ、ダウンフォースを減らすために前後車軸の間は完全なフラット・ボトムとすることが要求された。後車軸の手前から立ち上がる大型のディフューザーによるグラウンド・エフェクトでダウンフォースを稼いでいたグループCのスポーツカーにとっては、まるで足枷をはめたまま競走をさせられるような規則であった。すでにレースの主役はスポーツカーからGTカーに切り換えることが決っていた以上、時代遅れのスポーツカーにGTカーよりはるかに速いペースで走られてはまずい、というのがその理由だった。   
   

  

94CV-94T-94Mar一九九四年二月の「レーシング・オン」誌に掲載された、風洞実験中のチーム・サードの車。この車は外見的にも内部的にも、トヨタ92C-V/93C-Vの改修型であったが、年式に合わせて「トヨタ94C-V」の名が付けられた。この時点ではチーム・サードのイメージ・カラーであるブルーに塗られている。リヤまわりを写した写真がちいさく掲載されているが、この時点ではまだリヤ・セクションはほとんど92C-Vと共通であることや、規則変更に合わせてディフューザーの高さが低くなっていること、リヤウィング翼端板が小型化されていることが確認できる。リストリクター装着により出力が落ちたため、R36Vエンジンは低速・中速回転域でのパワーを重視する方向にチューニングされた。   
当初トヨタでは3.6LのR36Vエンジンを3.0L化する案も検討された。排気量を3.0Lまで下げるとリストリクター径が一段階大きくでき、結果として出力を向上できるのである。しかしシミュレーション・テストを行ったところ所期の性能を得られる見込みがなかったため、この新エンジンの開発はキャンセルされた。   
タイヤは九二年までのブリヂストンにかえて、九三年から引き続きダンロップ・タイヤを装着した。ダウンフォースが減ったことによりタイヤにかかる負担が増大すると予想されたことから、サード、トラストとダンロップが共同で一九九四年に向けた専用タイヤの開発を行っている。   
   
F1ドライバーとなったローランド・ラッツェンバーガーは一九九四年開幕戦のブラジル・グランプリを予選落ちで終えたが、第二戦のパシフィック・グランプリでは二十六位で予選を通過すると、そのまま十一位で完走を果たし、日本のファンの前で健在をアピールした。第三戦はサンマリノ・グランプリだった。レースにそなえて四月末にイモラ・サーキットへやってきたラッツェンバーガーは、そこでたまたまマツダスピードの大橋孝至監督に出会い、昼食を共にした。大橋は、彼の姿を認めた最後の日本人となった。    
一九九四年四月三十日はサンマリノ・グランプリの予選二日目だった。ラッツェンバーガーはいまだ完成度の低いシムテック・フォードの車で、予選を通過しようと懸命にアタックした。ラッツェンバーガーの車が突然コントロールを失い、コース中ほどにある右回りの高速コーナーでコンクリート・ウォールに激突したのは、彼が二周連続のタイム・アタックに入っていった直後のことだった。前の周回で縁石に当てて破損したフロント・ウィングが脱落したのが原因であった。   
この日、休暇をとって個人的にグランプリ見物にやってきていたチーム・サードのスタッフがあった。彼は観客席から一部始終を見届けると、すぐにチーム監督に連絡を入れた。    
「ローランドがクラッシュして、病院に運ばれました」   
加藤眞はこの連絡を受けた瞬間、「たぶんもうダメだろう」とだけ返事をした。彼らのローランドは助からなかった。加藤眞が「F1に行く」といったラッツェンバーガーの瞳に見ていたという死の影は、まぼろしではなかったのである。   
   
   
00スパークモデル製1/43スケールモデル、一九九四年ル・マン二十四時間レースに参戦した二台のトヨタ94C-Vである。右のNr.1・シャシーナンバー94C-V 005がチーム・サードのマウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ/エディー・アーヴァイン組、左のNr.4・シャシーナンバー94C-V 002がトラスト・レーシングのジョージ・フーシェ/スティーヴン・アンドスカー/ボブ・ウォレック組である。品番はそれぞれS1378/S1379。チーム・サードの車には当初ローランド・ラッツェンバーガーが乗り込む予定であったが、代役としてサードから九二年のル・マンを走ったエディー・アーヴァインが招聘された。   
   
   
16この年からサードの車はふたたび日本電装のスポンサー・カラーに塗られるようになった。九二年と同じく、サードの車は大型のダイヴ・プレーン、トラストの車はやや小ぶりなダイヴ・プレーンを装着しており、細部の設定が二チームで異なる。   
   
   
0693C-Vまでの車と94C-Vの外見上の違いとして、このロング・テール化されたボディを上げることができる。前述の規則によりダウンフォース量が減ったため、最適なボディ形状を検討すべく風洞実験がくりかえされた。これにより車全体の印象がそれまでのトヨタ製スポーツカーとはだいぶ違って見える。   
   
予選ではサード・トヨタが四位、トラスト・トヨタが八位につけた。サード・トヨタのタイムは3分53秒010で、九二年のタイムとくらべると13秒も遅かった。九四年のル・マンでも、サードはそれまでどおり積極的なタイム・アタックはまったく行わず、決勝レースに向けてのセッティング作業に専念したが、それでもサード・トヨタの予選タイムは予選第一位のタイムと2秒ほどしか違わなかった。このレースで優勝を争うことになるだろうと目されていたダウアー・ポルシェの二台はそれぞれ予選五位と予選七位で、ラップ・タイムもほとんど同じくらいだった。レースは激しい戦いになりそうだった。   
   
   
05リヤカウルの処理もサードとトラストで違っており、特に後端面の形状は二台で大きく異なっている。同じ白と赤のカラーリングだが、トラストの赤色はややくすんだ色合い、サードの赤色はそれに比べると彩度の高い赤色になっている。モデルの品質はさすがスパーク製といったところである。二〇一二年発売のやや古い金型であるため、細部に若干の組み付け不良が見られるが、よほど注意して観察しなければわからない、というレベルだろう。   
   
   
10サード車の大型ダイヴ・プレーンはエッチングパーツで再現されている。実車同様、92C-V (二〇一五年発売) と基本的な部分は共通と思われるが、やはり後発だけあって92C-Vのほうが細部に至るまで仕上げが綺麗であるように感じる。原型の問題と思われるが、フロントオーバーハングがやや長いように見えることと、正面から見たときのキャビン・セクションのラインが少々実車と違っていることがすこし残念である。   
   
   
11トラスト車のフロント周り。前記事にも書いた通り、トラストが九二年に使用した92C-V 001の個体は同年クラッシュにより大破しており、九三年・九四年のル・マンではスプリント専用車「トムス・スペシャル」の92C-V 002モノコックに補強を加えて使用した。トムス・スペシャルの面影はフロントカウル上部のラジエーター排気口フェンスに見て取ることができる。モデルでは高さが実車より低くなっているが、フロントガラス付近のフェンスに左右一箇所ずつちいさな切り欠きが設けられている。これはトムス・スペシャル特有の処理で、サード車には見られない。フロントにある牽引フックの位置も二台で異なり、サード車はラジエーター排気口左側、トラスト車は写真では写っていないがフロントカウル前端、右側開口部の奥にある。九二年の92C-V以降、トラストの車にはルーフ前端中央部に横長の識別灯が取り付けられており、モデルでもこの突起が再現されている。   
   
   
09

  

94CV-94LM-Irvine-Martini-Krosnoff-Ratzenberger-11サード車のルーフ上にはル・マンを戦った三人のドライバーの名前に加えて、当初出走する予定だったローランド・ラッツェンバーガーの名前も書き記されているが、モデルではこのドライバー名の書体が実車とまったく違うものになってしまっている。参考として実車の写真を配した。   
   
大方の予想通り、レースはスタート直後から二台のトヨタと二台のダウアー・ポルシェの激しいトップ争いが繰り広げられた。ダウアー・ポルシェは本来スポーツカーであるポルシェ962Cを市販スーパーカーとして改造したもので、GTクラスからの参戦であったためレギュレーション上はトヨタより有利であった。しかしサード・トヨタとトラスト・トヨタの二台は、ダウアー・ポルシェのアルミ・モノコックに対してカーボン・モノコックを使っていたためシャシー性能にすぐれ、またダンロップと共同開発した専用タイヤも大きな威力を発揮したため、総合的にはダウアー・ポルシェよりわずかながら速く走ることができた。ダウアー・ポルシェの相次ぐマイナー・トラブルにも助けられ、深夜過ぎになるとトラスト・トヨタ、サード・トヨタの二台が第一位、第二位を独占したまま、後続の車を徐々に引き離しはじめた。   
日曜午前四時頃になって、トラスト・トヨタの車が優勝争いから脱落した。トヨタの持病であったギヤボックス・トラブルが発生し、ギヤボックスをまるごと交換しなければならない事態におちいったのである。この交換作業で一時間近くをロスしたトラストの車は、優勝の望みをほぼ絶たれた。かわってサード・トヨタがトップに立ち、ただ一台残ったトヨタ車として、一九九一年以来の日本車によるル・マン総合優勝をめざして走ることになった。   
   
   
04フロントの形状は92C-V以来ほとんど変わっていない。実車のフロントアンダーパネルはカーボン・ケブラーで出来ており、モデルではデカール仕上げによりこの素材の特徴的な色味を再現している。ライトカバーの薄いフィルム様のパーツの接着がやや歪んでいるのがわかる。   
   
トップを走るサード・トヨタと二位・三位まで追い上げたダウアー・ポルシェとの差はじりじり開いていき、フィニッシュまで数時間を残すばかりとなった日曜午後にはその差は四周になっていた。日本向けにル・マンのテレビ放映を行っていたテレビ朝日に解説者として呼ばれていた津々見友彦は、ちょうどこのときチーム・サードのピットを訪れ、栗谷監督に簡単なインタビューを行った。インタビューの最後にサード・トヨタの勝利を確信した津々見は栗谷に「おめでとう」といって握手をもとめたが、栗谷は手をスッっと引っ込め、握手をしようとしなかった。栗谷はつぎのようにいった。   
「いや、まだ何が起こるかわからない」   
けっきょく津々見友彦は、握手をせずにチーム・サードのピットをあとにした。   
   
最終シケインを立ち上がってピット前のストレートを加速してきたサード・トヨタのジェフ・クロスノフが突如スピードをゆるめ、ピット・ロード出口の脇に車を止めたのは、レースが残り一時間十五分となったときだった。突然の出来事に誰もが一瞬言葉を失うなか、ジェフ・クロスノフは車を降りると、車の後部に手を突っ込んで、何かを操作しはじめた。クロスノフは三分か五分ばかり停車していたが、やがてふたたび車に乗り込みドアを閉めると、リタイヤに備えて群がってきたコース・マーシャルたちを振り切るように、再スタートしていった。しかしそのペースは緩慢で、ストレートを全速力で加速してきたほかの車にくらべると、まるで歩いているようなスピードだった。このときサード・トヨタはギヤボックスとシフトレバーをつなぐ金属製のパーツを折損しており、ジェフ・クロスノフはギヤボックスを手で直接操作して、無理やりギヤを三速に固定し再スタートしたのである。トヨタのグループCスポーツカーにおける持病であったギヤボックスのトラブルが、最悪のタイミングで発生してしまったのだった。サードの車にはこれに対する最後の防護措置として、車外からギヤボックス内部に直接操作をくわえて任意のギヤに固定できるギミックが搭載されていたが、クロスノフは事前にその方法をメカニックからきいて知っていたのである。まったく栗谷監督の言った通りで、ル・マンは最後まで何が起きるかまったくわからないレースだった。   
   
ジェフ・クロスノフはギヤがつっかえてしまった車でまるまる一周をスロー走行し、よろよろとピットインしてきた。栗谷監督の号令のもと、疲れきったチーム・サードのメカニックたちは最後の力を振り絞り、素早くリヤカウルを取り外すと破損箇所の修理にあたった。作業はなかなか終らなかった。破損した部分がちょうどエンジンとモノコックの結合部付近にあったのである。修復に十四分かかった。一周分をスロー走行したのと合わせると、サード・トヨタはすでに三十分近く遅れていた。こわれたパーツを交換し、当初の予定通りジェフ・クロスノフからエディー・アーヴァインに交代したサード・トヨタの車が轟音を上げてピットアウトしていったとき、サード・トヨタはトップのダウアー・ポルシェから一周遅れの三位に落ちていた。残り時間が一時間では再逆転は絶望的だった。   
加藤眞は思った。   
「いまさらおめおめと三位で帰れるか。こうなったら二位かリタイヤかどっちかだ」   
勝ち目がないことを知りながらも、加藤は車に乗り込んだエディー・アーヴァインに声をかけずにはいられなかった。   
「わかってるだろうな」   
エディー・アーヴァインはただひとこと、みじかい返事をした。   
「ああ、わかってる」   
   
コースを一周まるまる三速に固定されたまま走ったサード・トヨタの車は、三速ギヤが摩滅して使えなくなっていた。しかしエディー・アーヴァインはそんな状態の車で二位のダウアー・ポルシェをはげしく追い上げた。アーヴァインのラップ・タイムは、ギヤの故障によって落ちるどころか、むしろそれまでサード・トヨタがレース中に記録したどのタイムよりも速かった。すでに各車がフィニッシュにそなえてスロー・ダウンするなかで、二位を守ろうと必死に逃げるダウアー・ポルシェと、それを全速力で追いかけるサード・トヨタだけがレースをしていた。のちに加藤眞は、このときのアーヴァインの走りを、「あれはローランドの魂が乗り移った走りだったのではないか」と回想している。   
   
最終ラップに入る直前、最終シケイン手前で二位のダウアー・ポルシェが進路を周回遅れのGTカーにふさがれ、一瞬加速がおくれた。真後ろにつけていたエディー・アーヴァインはそのロスを見逃さず、とっさに走行ラインを変えてこのダウアー・ポルシェを外側から追い抜いていき、最後の最後で二位に上がった。ピット前のストレートを全開で通りすぎていったエディー・アーヴァインを、チーム・サードのメカニックたちが拳を振り上げなから見送った。まるで優勝でもしたかのような騒ぎだった。レースはダウアー・ポルシェが優勝し、サード・トヨタは一周遅れの二位でフィニッシュしたが、三位に入ったもう一台のダウアー・ポルシェとは2.5秒差しかなかった。四位はトラスト・トヨタだった。厳しいレースを戦い終えたアーヴァインは、フィニッシュ後にインタビュアーがマイクをむけると、つぎのようにいった。   
「ローランドがいりゃあ楽勝だったさ」   
   
一九九四年ル・マンのサード・トヨタは、最終盤にギヤボックス・トラブルが発生するまで、まちがいなく優勝にいちばん近いところにあった。しかし加藤眞の考えでは、レースはギヤボックス・トラブルのみによって失われたわけではなかった。レースがスタートしてからいちばん最初のブレーキ・パッド交換の際、メカニックのひとりがミスをおかしたためブレーキがきかなくなってしまい、この修復に四分ほどロスをしているのである。優勝したダウアー・ポルシェと二位のサード・トヨタの差は四分だった。このことをひいて、加藤眞はつぎのようにいっている。   
「あのミスがなければ、シフトリンケージのトラブルがあっても勝っていたはずです。競技とはそういうもので、野球だってバントのミスで負けることがありますよね。その意味で私は二位だった九四年より、五位だったけどノー・ミスで二十四時間を戦った九三年のほうがいいレースだったと思います」   
   
   
02四人のドライバーの名前を車体に背負ってル・マンを戦ったこのサード・トヨタは、現在ル・マンのサーキット付近にある博物館に保存・展示されている。実車はすでに経年劣化でライトカバーは白化し、各部の塗装は剥がれかけ、往時の勇姿は徐々に失われつつある。当時の写真と、アクリルケースの中のモデルカーだけが、四人のドライバーを乗せて勝利へひた走ったこの車の原初の姿をいまに伝える。   
   
サード・トヨタのレースは、ル・マン二十四時間レースだけではなかった。八月に開催される鈴鹿1000キロレースに、ル・マン帰りのサード・トヨタが参戦する予定になっていたのである。サード・トヨタの車はフランスから船便で日本にいったん送り返され、愛知にあるサードのファクトリーで分解整備を受けることになっていた。点検のためにリヤカウルを開けた加藤眞は驚愕した。リヤダンパーを接続する部品に大きな亀裂が入っており、あと数ミリで完全に破断するというところだったのである。もしレース中にそんなところが壊れていたら、大クラッシュにつながっていたかもしれなかった。まるで事故死したラッツェンバーガーが天から見守っていたような、このうえなく劇的なレースであった。トヨタ製グループCスポーツカーがル・マン二十四時間レースのスターティング・グリッドに並んだのは、この年が最後だった。   
   
一九九六年七月十四日、カナダ・トロントで行われたインディーカー・レースで多重クラッシュが発生した。追い抜きにかかろうとした車が前を走るステファン・ヨハンソンの車に接触し、宙を舞ってキャッチ・フェンスに激突したのである。この事故でドライバーと、巻き添えとなったコース・マーシャルが死亡した。ヨハンソンを抜こうとしてクラッシュしたドライバーの名前は、ジェフ・クロスノフといった。九四年ル・マンで、走ることをあきらめたサード・トヨタ94C-Vにふたたび命を吹き込んだ男である。   
   
トヨタ94C-Vは二台が同ナンバーのトヨタ91C-Vから、92C-V、93C-Vを経て改修された。一九九四年以前の各シャシーの戦績については、前記事を適宜参照されたい。   
   
シャシー・ナンバー002のトヨタ94C-Vは、トムスの91C-V 002から同チームの92C-V 002、トラスト・レーシングに払い下げられた93C-V 002を経て改修された車で、一九九四年ル・マン二十四時間レースにトラスト・レーシングから参戦し、四位でフィニッシュした。   
   
シャシー・ナンバー005のトヨタ94C-Vは、チーム・サードの91C-V 005から同チームの92C-V 005、93C-V 005を経て改修された車で、一九九四年ル・マン二十四時間レースにチーム・サードから参戦し、二位でフィニッシュした。   
   
(了)

2016年4月27日 (水)

トヨタC-Vシリーズ・終りのクロニクル 「夏の闇」

一九九一年のスポーツカー世界選手権は、ウェイト・ハンデを積むことを条件に一九九〇年以前の旧規定にのっとってつくられたグループCスポーツカーの出走を認めていたが、一九九二年からは新規定車のみを受け入れることとなったため、旧規定のスポーツカーは世界選手権から姿を消した。一九九二年シーズンの開幕時点では、日本の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権とアメリカのIMSA-GTP選手権のみが旧規定スポーツカーの出走を認めていた。トヨタは一九九一年をほぼまるごと費やして開発した新規定のスポーツカーをこの年の世界選手権に投入し、プジョーと真っ向から勝負するつもりでいた。トヨタ・ワークス・チームの活動の主軸はふたたび世界選手権とされ、全日本選手権ではあくまで参加するトヨタ系チームの物的支援に徹することとされた。

一九九二年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権は、もはや瓦解寸前であった。スポーツカー世界選手権を統括するFISAが一九九一年からグループC規定を刷新したのに対し、全日本選手権の統括団体である日本自動車連盟は九一年以降も従来どおりのグループC規定でレースをすることを決定した。しかし一九九〇年の時点で、ニッサン、トヨタ両ワークスの車体、エンジン双方におけるめざましい進歩により、プライベート・チームにとってほとんど唯一の選択肢であったポルシェの車では、両ワークスと競走して勝つことは不可能になりつつあったのである。一九九〇年の開幕戦から一九九一年の最終戦まで、世界選手権に参加していたジャガーがゲスト参戦し驚異的な速さで優勝した一九九一年最終戦を除けば、予選第一位も優勝もすべてトヨタかニッサンの車が記録していた。トヨタとの競り合いに勝ってポルシェの車が全日本チャンピオンになった一九八九年は、もはや遠い昔になりつつあった。一九九二年の全日本選手権開幕戦のグリッドには、ポルシェの姿はなかった。参加したのは四台のニッサン、三台のトヨタ、二台のマツダの九台だけだった。この年トヨタは二台体制から一台体制に縮小したトムスと、トヨタ系のプライベート・チームとしてトムスに並び立つ存在であったサードにくわえて、前年までポルシェを使用していたトラストを加えた三台体制の陣営でニッサンに対抗したが、世界選手権に参加しないニッサンはこの年も全日本選手権に全力を振り向けてくることが予想されたので、トヨタの苦戦は避けられなかった。

トヨタ・ワークスの活動がふたたび世界選手権を中心としたものになったあとも、トヨタ製旧規定スポーツカーの改修はほそぼそと続けられた。一九九二年型の92C-Vでは、拡大されたトレッド幅に合わせてサスペンションが改良され、90C-V以来の持病であったサスペンション特性が大幅に改善されている。しかし全体としてはマイナー・アップデート程度であり、ニッサン同様完全な新型車ではなかった。
ワークスによる開発が止まった92C-Vの全日本選手権における戦いは困難をきわめた。開幕戦の鈴鹿500キロレースではトラストの車が三位に入り、第二戦・富士1000キロレース、第三戦・富士500マイルではトムスの車がそれぞれ五位と二位に入ったが、いずれのレースもニッサンが優勝していた。開幕当初、トヨタは全日本選手権の前半戦のみ旧規定の車を使い、後半戦では世界選手権を戦っているのと同じ新規定の車を全日本選手権にも持ち込む予定でいたが、世界選手権のほうで予想外の苦戦が続いたため、日本の実戦チームは旧規定車を使い続けなければならなくなった。このままではニッサン・ワークスに勝つことはむずかしかった。
トヨタ陣営の第一チームであったトムスは、思い切って92C-Vの大改造を行うことにした。この改造を指揮したのは、トムスのチーフ・エンジニアであった今西豊だった。彼らはチームのスペア・カーを引っ張りだすと、まずモノコックを完全につくりかえた。剛性アップのため傾斜面や曲面のほとんどすべてが平面構成で置き換えられ、ありとあらゆる箇所にアルミ・ハニカム製の補強部材が仕込まれた。同時にモノコックの徹底した軽量化がほどこされ、リヤのエア・ジャッキまでもがとりはずされた。完成した車体は、従来型にくらべると20キロもの軽量化に成功していた。モノコックを改造したのに合わせてサスペンション・レイアウトも小変更を受けている。この車は「トムス・スペシャル」と呼ばれた。


92CV-92Mine-Sekiya-Raphanel

92CV-92-Sekiya-Raphanel-2トヨタ92C-V「トムス・スペシャル」(上) と、比較材料として従来型のトムス92C-V (下) である (写真は二枚ともイグニッションモデル公式ブログより)。トムス・スペシャルは当初モノコック以外にボディカウルの形状も変更される予定であったが、新型車の投入が焦眉の急となったためカウルは92C-Vのものが流用された。トムス・スペシャルの見た目上の識別点として、フロントカウル上にあるラジエーター排気口の形状があげられる。従来型では開口部周囲に低いフェンスが設けられているが、トムス・スペシャルではこの部分からの排気をより効果的に利用するため、フェンスの高さが従来型より大幅に高くなっている。上下の写真を比較すると、トムス・スペシャルの開口部フェンスはフロントガラス下端よりもせり上がっていることがわかる。
このトムス・スペシャルは当初七月の第三戦・富士500マイルレースまでに投入される予定であったが、開発の遅れにより九月の第四戦・菅生500キロレースでデビューした。デビュー時は従来型と同くエッソの赤いスポンサー・カラーに塗られていたため、フロントに設けられた巨大なフェンスからの連想で、同年七月公開のアニメ映画のタイトルから「紅の豚」という愛称で呼ばれた。軽量・高剛性モノコックの威力はすばらしく、トムス・スペシャルはデビュー戦の菅生で二位、つづく第五戦・富士1000キロレース (この年は富士の1000キロレースが二回開催された) では驚異的なタイムで予選第一位を記録した。この第五戦からトヨタはようやく新規定車を全日本選手権に投入したため、92C-Vはトヨタ陣営の主力戦闘機としての役目を終えた。
最終第六戦のインター・チャレンヂ美祢500キロレースは、すでにこの年をもって全日本スポーツ・プロトタイプ選手権の開催を中止することが決っていたため、実質的に同選手権最後のレースであった。このレースでトムスは、チームがはじめて全日本スポーツ・プロトタイプ選手権に参戦した一九八三年とまったくおなじカラーリングでレースに出走した (上写真の仕様)。全日本スポーツ・プロトタイプ選手権が発足した一九八三年から、シリーズが終焉を迎えた一九九二年まで、そのあいだのすべてのシーズンにわたって参戦を続けたのは、トムスとトラストの二チームだけである。


18スパークモデル製1/43スケールモデル、一九九二年ル・マン二十四時間レース仕様のトヨタ92C-Vである。この年トヨタの旧規定車は全日本選手権以外に、旧規定スポーツカーの参加を認めていたル・マンにもプライベート・チームの二台が遠征した。左のNr.34・シャシーナンバー92C-V 005がチーム・サードのエジェ・エルグ/ローランド・ラッツェンバーガー/エディー・アーヴァイン組、右のNr.35・シャシーナンバー92C-V 001がトラスト・レーシングのジョージ・フーシェ/スティーヴン・アンドスカー/ステファン・ヨハンソン組である。サードの車は途中ギヤ・トラブルで遅れ九位、トラストの車は旧規定クラスの最上位である五位で完走している。品番はそれぞれS2367/S2368。

一九九二年のル・マンには、トヨタとプジョーが三台ずつにくわえて、マツダも二台の新規定ワークス・カーを持ち込み、スターティング・グリッドの上位につけた。サードとトラストの旧規定車はいずれも無理なタイム・アタックを行わず、決勝レースを見据えたセッティング作業に専念したため、予選ではサードが十一位、トラストが十五位を得るにとどまった。新規定車は最低車重が軽く、燃料も使いたいだけ使えるので、あらゆる面で旧規定車より有利だったが、二十四時間のレースでは豊富な実戦データをもつ旧規定車にも、その信頼性をいかして上位に進出するチャンスはあった。サードのエジェ・エルグは、レースを前にしてつぎのようにコメントした。
「プジョーが二十四時間のあいだ何の問題もなく走りきれるとは思えない。クレマー・ポルシェやトラスト・トヨタは要注意だが、対等に戦えば入賞のチャンスは大いにあるだろう」


0804一九九二年のル・マンでは全日本選手権同様、サードの車がブリヂストン・タイヤ、トラストの車がダンロップ・タイヤを装着した。この年の海外レース用ブリヂストン・タイヤにはタイヤ側面に描かれているブランド名の文字が入っておらず (一九九二年デイトナ二十四時間レースに参戦したノバ・ニッサンR91CKも参照されたい)、モデルはこれを再現しているため、サード車のタイヤ部分にマーキングが見られないのはエラー品ではない。また実車写真を見ると、この年はサード車のみリヤウィング全体がかなり後方に傾けて装着されており、こちらはさすがに再現されていなかったが、リヤウィングの取り付けが若干歪んでいるのを修正する際に角度をつけた。おそらくロードラッグ化のためのセットアップと思われる。

一九九二年六月二十日・土曜日午後四時、雨が降る中でル・マン二十四時間レースがスタートした。トラスト・トヨタはリスクをとらず、スタートからフィニッシュまで事前に決められたペースを守ってフィニッシュすることに専念したが、サード・トヨタは序盤の雨に乗じてペースを上げ、スタートから一時間が経過する頃には、早くも新規定車の中に割って入る総合七位まで順位を上げた。サード・トヨタのスタート・ドライバーであるローランド・ラッツェンバーガーは雨を得意とするドライバーで、三時間目には旧規定車クラスのトップである総合六位に浮上した。



07ル・マン二十四時間レース参戦に合わせて、全日本選手権で使用されていた小型のヘッドライトのかわりに、耐久レース用の大型ライトが装備されたが、90C-Vのものとは形状が違っている。左のトラスト車は丸型のライトを左右二つづつ並べたものだが、右のサード車は片側に丸型一灯・矩形一灯の変則的な配置となっている。サード車のライトの配列はトヨタ・ワークスの新規定車「TS010」と同じもの。

土曜午後九時過ぎになって雨脚が強まり、視界が極端に悪化したため、各車ともクラッシュをおそれて大幅にペース・ダウンしたが、サード・トヨタ、トラスト・トヨタとも順位を落とすことなくこの雨を乗り切った。しかし真夜中すぎの百十二周目、ステファン・ヨハンソンの運転中に、まずトラストの車にトラブルが起きた。予定の時間をすぎても、ヨハンソンの運転するトラスト・トヨタがピット前のストレートに戻ってこなかったのである。メカニックたちの不安が募るなか、リヤカウルがなくなったトラスト・トヨタがよろよろとピットインしてきたのは、予定の時間を六分も過ぎてからだった。トラスト・トヨタは第一シケインの入り口付近でギヤのトラブルが発生し、ギヤ・チェンジできなくなってしまったのである。ヨハンソンはコース脇に車を止めると、ひとりでリヤカウルを外し、車載の工具で応急措置をおこなってピットまで戻ってきたのだった。このトラブルの修理に十二分かかったが、トラスト・トヨタは十位でコースに復帰することができた。ヨハンソンの機転と冷静な処置により、トラスト・トヨタはリタイヤを免れたのである。

快調に飛ばしていたサード・トヨタも、無傷というわけにはいかなかった。まずエディー・アーヴァインが日曜午前四時ごろにクラッチの不具合を訴えた。チームは二十分かけてクラッチを交換したため、サード・トヨタは九位に落ちた。そして夜が明けた日曜午前八時二十二分、こんどはエジェ・エルグの運転中に、ギヤボックス・トラブルが発生した。チームは修復をあきらめ、ギヤボックスをまるごと交換することにした。交換に三十分かかった。後続との差が開いていたので順位は変わらなかったが、サード・トヨタはこれでトップから二十三周遅れになってしまい、上位入賞はほとんどあきらめざるを得なくなった。


09リヤまわりは91C-Vからほとんど変わっていない。スパークモデルは一貫してモデルの素材にレジンを使用しているが、日本円にして八千円以下の価格帯でこれほどの精密な加工は他メーカーの追随をゆるさない、すばらしい出来栄えであると言えよう。翼端板やリヤウィング支柱などのパーツは金属製で薄く仕上げられ、モデルの実感を増している。エンジンは全日本選手権で使われているものと同様のR36V型3.6L・8気筒エンジン、ギヤボックスは90C-Vのル・マン仕様が専用の六速ギヤボックスを使っていたのに対し、92C-Vは五速ギヤボックスのままであった。

サード・トヨタがギヤボックス・トラブルに苦しんでいた午前八時ごろ、サードと入れかわるようにトラスト・トヨタがペースを上げ始めた。スタートから夜まで断続的に雨が降り続いたのでペースが上がらず、予定通りのペースでは燃料が余ってしまうことがわかったのである。ならばその分の燃料も使って追い上げ、ひとつでも上の順位でフィニッシュしようというのであった。トラスト・トヨタはそれまでずっと3分50秒台のラップ・タイムを守って周回を重ねていたが、これを一気にペース・アップして3分45秒台としたのである。折よく日の出とともに雨に濡れた路面が乾きだしたことにも助けられ、トラスト・トヨタは午前九時には七位まで順位を上げた。しかしそこまでだった。前を走る六位のクレマー・ポルシェとトラスト・トヨタのあいだにはこの時点で二周、時間にして約8分の差がついていたが、残り時間が七時間では、一周につき差を5秒縮めたとしても、ギリギリで届くかどうかといったところであった。しかもクレマーはこれまで何度もル・マン二十四時間レースに参戦してきた歴戦のチームであり、そんなチームを相手に七時間ものあいだ正確に5秒ずつ差を詰めていくのはほとんど不可能だった。

トラスト・トヨタのレースがふたたび動き出したのは、フィニッシュまで残り三時間弱となった午後一時すぎであった。クレマー・ポルシェのペースが急にガクッと落ちたのである。トラスト・トヨタはあいかわらず3分45秒のハイペースで追い上げを続けていたので、その差はみるみる縮まった。トラスト・トヨタは一周につきクレマー・ポルシェより10秒近くも速かった。トラスト・トヨタのステファン・ヨハンソンがドライバー交代のためピットインしてきた時には、すでにトラスト・トヨタはクレマー・ポルシェと同一周回まで追い上げていたのである。
ピットインしてきたヨハンソンは激しい追い上げにもかかわらず元気溌溂としており、ジョージ・フーシェに交代させるべくドアを跳ね上げたメカニックにむかって怒鳴った。
「もう一スティント乗せてくれ!」
トラスト・トヨタのピット作業は、クレマー・ポルシェより30秒以上速かった。ステファン・ヨハンソンはホイール・スピンさせながら猛然とピット・ロードへ飛び出して行くと、ふたたび一周あたり10秒近くを削り取る苛烈な追撃を開始した。その追い上げのペースは、一周ごとにサイン・ボードで前を行くクレマー・ポルシェとの差を知らせるトラストのメカニックが、毎周ガッツポーズをして車を見送るほどであった。クレマー・ポルシェが最後のピットインをおこなった午後三時には、二周あった差がたった17秒になっていた。
クレマー・ポルシェのピット作業は96秒かかった。その直後、トラスト・トヨタがドライバー交代のためにピットインしてきた。ステファン・ヨハンソンからジョージ・フーシェに交代したトラスト・トヨタは66秒でピットアウトしていった。ついにクレマー・ポルシェを抜いたのである。


14ル・マン仕様車はトラスト・トヨタとサード・トヨタで空力セッティングが異なり、トラスト・トヨタは小型のダイヴ・プレーンにみじかいフロントアンダーパネル、サード・トヨタは大型のダイヴ・プレーンに長めのフロントアンダーパネルを装備している。水色のサード・トヨタと赤色のトラスト・トヨタで、ちょうどカラーリングが対比色となっている。トラスト・トヨタはこのル・マン以降、建具などのレンタルを行う日綜産業のスポンサーを得て、それまでの白色から赤色のスポンサー・カラーに塗られた。サード・トヨタは九一年まで使っていた紅白の日本電装カラーを、北澤バルブのスポンサー・カラーである水色に塗りなおしており、チーム名も「キッツ・レーシング・チーム・ウィズ・サード」と改められた。

レースが残り一時間となった時点で六位を走っていたトラスト・トヨタは、ペースをまったくゆるめなかった。1分13秒前方に、五位のクーガー・ポルシェが走っていたのである。ジョージ・フーシェはトラストのファースト・ドライバーとしての意地を見せ、3分40秒408という最速ラップを記録しながらクーガー・ポルシェを追いかけた。このラップ・タイムは、トップを走っていたプジョーの平均タイムとたった3秒しか違わなかった。クーガー・ポルシェはペースを上げて逃げようとしたが、トラスト・トヨタのほうがはるかに速かった。勢いに乗ったジョージ・フーシェは、コーナーというコーナーで路面にブラック・マークを残し、シケインの出口では豪快なカウンター・ステアを当てながら加速していった。フーシェの耐久レースとはまるで思えぬタイム・アタックのような走りに、地元フランスのクーガー・ポルシェが追い詰められているにもかかわらず、観客は惜しみない声援を送った。
トラスト・トヨタがクーガー・ポルシェを完全にとらえ、ピット前のストレートで並ぶまもなく抜いていったのは、ゴールまで残り二十分となった三百三十周目であった。その六周後、二時間半ものあいだスプリント・レースを繰り広げたトラスト・トヨタは総合五位、旧規定車クラス首位でチェッカー・フラッグを受けた。トラスト・レーシングとしてル・マンに初参戦してから、たった三年目に達成された快挙であった。


06全日本選手権におけるトヨタ92C-Vは、主に全体的な開発不足の影響でニッサンの後塵を拝し、一勝もあげることができなかった。しかしニッサンの姿なきル・マンでは、接戦を制してプジョー、トヨタ、マツダの新規定車に次ぐ総合五位でフィニッシュするという輝かしい戦績を上げ、いくらかトヨタの溜飲を下げたのである。この翌年・一九九三年のル・マン二十四時間レースにも、「93C-V」と名付けられた二台のスポーツカーがサードとトラストから一台ずつ参戦したが、この車は九二年用の92C-Vを九三年のル・マン規定に対応させたもので、最大の違いは規則によりエンジンに35.7ミリ径のエア・リストリクターが装着され、出力が700馬力程度まで落ちていたことであった。九三年ル・マンでは一時トラストが旧規定車クラス首位である四位を走行したが、日曜午前五時に冷却水のリザーバー・タンクからの漏水を修理するために長時間のピットインを強いられ、六位に後退した。かわって旧規定車クラスのトップにサード・トヨタが立ち、そのまま五位でフィニッシュしている。この年サードの車は二十四時間のレース中一度もトラブルを起こさず、最初から最後まで完全にレース前の予定通りのラップ・タイムで走るという、耐久レースの手本のようなレースを見せた。トヨタ90C-Vの末裔は、当初の想定とは違う形ではあったが、90C-Vが目標としたル・マン二十四時間レースで、与えられた条件の中で最善の結果を残したのである。

トヨタ92C-Vは新造モノコックはなく、五台すべてが同ナンバーのトヨタ91C-Vから改修された。うち一台がクラッシュにより全損・破棄されている。各車の九一年シーズンの戦績については前記事を参照されたい。

シャシー・ナンバー001のトヨタ92C-Vは、92C-Vにリビルド後トラスト・レーシングに引き渡され、一九九二年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・鈴鹿500キロレースで実戦デビューした。このレースでトラストはシーズン最高位となる三位を獲得している。同年ル・マン二十四時間レースにトラスト・レーシングから出走し五位で完走している。十月の全日本選手権第六戦・富士1000キロレースのフリー走行でジョージ・フーシェが大クラッシュし、修復不能とされ廃棄された。

シャシー・ナンバー002のトヨタ92C-Vは、おそらくトムスのスペア・カーであったシャシーで、今西豊らによる近代化改修を受けたのち一九九二年の全日本選手権第四戦・菅生500キロレースからトムスのレース・カーとして最終戦まで投入された。デビュー戦の菅生で記録した二位が最高位である。
一九九三年にはル・マン二十四時間レースに向けてトラストに供給され、短距離レースに特化したモノコックをル・マン用に補強する改修を受けている。九三年ル・マンでは六位で完走した。

シャシー・ナンバー003のトヨタ92C-Vは、九一年シーズン以降テスト用シャシーとしてTRDが保管していたが (前記事も参照のこと)、第六戦でシャシーをうしなったトラスト・レーシングに貸し出され、九二年の全日本選手権最終戦・美祢500キロレースのみにトラストの車として出走した。このレースでは七位に入っている。

シャシー・ナンバー004のトヨタ92C-Vは、トムスのレース・カーとして九二年全日本選手権の開幕戦から第三戦までを走った。このうち第三戦・富士500マイルレースで三位に入ったのが最高位である。

シャシー・ナンバー005のトヨタ92C-Vは、チーム・サードのレース・カーとして九二年全日本選手権の全六戦、および同年ル・マン二十四時間レースに出走した。このうち全日本選手権第四戦・菅生500キロレースでシーズン最高位の三位を記録した。一九九二年の全日本選手権に、開幕戦から最終戦まで通して参加したシャシーはこの005のみである。
一九九三年には93C-Vとして引き続きサードからル・マン二十四時間レースに出走し、五位で完走している。

2016年4月25日 (月)

トヨタC-Vシリーズ・終りのクロニクル 「輝ける闇」

世界中のスポーツカー・レースに関するレギュレーションが改訂され、スポーツカーの世界選手権がグループC規定の車によって争われるようになったのは一九八二年のことであったが、はやくもその年の十月には新生世界選手権が日本に上陸を果たした。世界耐久選手権の第六戦・富士六時間耐久レースが富士スピードウェイで開催されたのである。日本人がはじめてグループCのスポーツカーを目の当たりにしたこのレースには三十八台の車が出走したが、そのうちグループC規定の車はたった四台しかいなかった。ポルシェ・ワークスが持ち込んだ最新鋭戦闘機ポルシェ・956が二台、フランスのジャン・ロンドウが製作した小型スポーツカーであるM382が一台、そしていま一台は日本のシャシー・コンストラクターである童夢が中心となって製作したトヨタ・セリカ・ターボCであった。ポルシェ・956から10秒近く遅いラップ・タイムを刻みながら、おっかなびっくりといったふうで五位に滑り込んだこの車が、日本初のグループC・スポーツカーとなったのである。その後十年以上にわたって展開し、グループCというカテゴリそのものと命運を共にしたトヨタのグループCスポーツカー・レース活動のはじめの一歩は、販売促進効果をねらってトヨタ・セリカのヘッドライトを装着された、ブリキ細工のような車だった。   
   
一九八七年から、それまで林みのるが指揮する童夢で設計・製作し、舘信秀ひきいるプライベート・チームであったトムスが実戦部隊となってほそぼそと運営していたトヨタのスポーツカー・レース活動を、トヨタ・ワークスが包括的に運営することになった。トムスは大企業であるトヨタから拠出される潤沢な資金の恩恵を受けることができるようになり、あわせてチーム名も「トヨタ・チーム・トムス」とされた。体制の刷新にあわせて、トヨタは当時参戦していた全日本スポーツ・プロトタイプ選手権に完全な新型車と新型エンジンを投入する用意をすすめていた。それまで童夢やトムスが走らせていた車は基本的にポルシェ・956に対抗することを念頭に置いて設計されたものであり、エンジンは一貫して2Lクラスの4気筒エンジンを搭載していたが、排気量のちいさいエンジンでグループC規定の要求である燃費とスピードの両立性を満足することがむずかしくなってきていたのである。ポルシェは2.65Lから2.8Lの6気筒エンジンを使っていたが、八七年頃になってくるとメルセデス・ベンツの5L・8気筒エンジンやジャガーの7L・12気筒エンジンなどが登場してきて、ポルシェの優位性をおびやかしつつあった。またメルセデス・ベンツ・エンジンを使うサウバーや、ジャガー・エンジンを使うTWRは、車体の面でも旧態的なポルシェより性能のよいシャシーをすでに作っていた。特にTWR・ジャガーの車体はF1で使われているカーボン・モノコックを使っており、ポルシェのアルミ板金製モノコックとは比べものにならない剛性を持っていた。そうした情勢を鑑みると、アルミ板金製モノコックの車体に小排気量エンジンを積んで戦っているあいだは、とても勝ち目はなさそうだった。ほかの多くの自動車メーカーと同じく、トヨタの最終的な目標は、ル・マン二十四時間レースで優勝することであり、それには優秀な車体とエンジンが必要不可欠だったのである。    
   
完全新設計の新型車が投入されたのは、一九八八年の全日本選手権中盤戦であった。新車は空力設計を童夢、新型エンジンの開発をトヨタの開発部門であるTRDが行い、モノコックは当時スポーツカーではTWR・ジャガー以外に採用例がなかったカーボン・モノコックとされ、この製造は東レ社に任された。エンジンはそれまでの市販車用エンジンをチューニングした2L・直列4気筒から新開発の3.2L・V型8気筒とされ、燃費が大幅に改善された。それまでの直列型エンジン搭載車と区別するため、この新車には末尾にVをつけた「88C-V」の名前が与えられた。一九八八年全日本選手権の後半戦で熟成テストをおこなったトヨタは、当初の予定通り翌一九八九年に88C-Vの改良型である89C-Vを投入し、ル・マン二十四時間レースでの総合優勝へむけて進撃を開始した。トムスと童夢の連合軍がプライベート・チームとしてトヨタ製のグループCカーでル・マンの土を踏んでから、四年が経過していた。    
   
   
00Qモデル製1/43スケールモデル、トヨタ90C-Vである。一九九〇年全日本スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・富士500キロレースに出走し、同レースで優勝したシャシー・ナンバー002の個体を再現している。Qモデルからは一九九〇年ル・マン二十四時間レースに出走した90C-Vが通常品としてモデル化されているが、このモデルはトムスの特注品であり、通常品とは違う艶消し黒に塗られた紙製の外箱に収められている。現在でもこのモデルはトムスのオンライン・ストアで購入することができる。    
   
一九八九年にトヨタが満を持して投入した89C-Vは、全日本選手権では最後までチャンピオン争いに踏みとどまり、ほんのすこしの運の差によってポルシェにチャンピオンをさらわれたが、速さでは完全にポルシェと同等であった。しかし反対に、この年から参戦をはじめた世界スポーツ・プロトタイプ選手権ではまったくいいところがなかった。一九八九年から世界スポーツ・プロトタイプ選手権に全戦参戦義務が制定され、世界選手権レースの一戦であるル・マンに参加するためには、他のすべての世界選手権レースに参加しなければならなくなったのである。この年の世界選手権レースでは、トヨタは旧型の4気筒エンジン搭載車で参戦した第二戦・ディジョン480キロレースで得た四位が最高位で、トヨタがもっとも重視していたル・マンでは、レース開始から四時間も持たずにすべての車がリタイヤしてしまったのである。車に大規模な改良が必要であることは明らかだった。    
   
   
01モデルは精密模型で一般的に使われるレジン素材ではなく亜鉛合金のダイキャスト製であり、これにABS樹脂製の部品が組み合わされている。コスト面で有利だが細部の再現性には劣る方法で、このモデルでもたとえばリヤウィングの支柱パーツや翼端板パーツなど、本来金属製パーツで薄く成形されるべき部分が厚ぼったくなってしまい、見た目の実感を損ねている部分がある。現在のところ90C-Vの1/43スケール完成品はQモデル社製のものしか存在しないが、同社がすでに実質的な活動休止状態にあるいま、このモデルも希少になりつつある。    
   
トヨタ90C-Vは、名前の通り一九九〇年に投入された新型スポーツ・カーであり、この車の基本設計がその後のすべてのトヨタ製グループCスポーツ・カーの設計の基礎となっている。89C-Vが前年型シャシーの改良版であったこととは対照的に、90C-Vはほぼすべての部分が新設計されており、前年から流用されているのはR32V型3.2L・8気筒エンジンだけであった。車体の開発は鳩谷和春が、エンジンの開発は小林日出男が中心となって行った。この90C-Vの基本設計は、一九九〇年以降トヨタが投入したすべてのグループCスポーツ・カーの設計と相通ずるものであり、この車はある意味、グループCというカテゴリそのものと盛衰を共にした、この時期のトヨタのスポーツカー・レース活動の「終りのはじまり」と呼ぶにふさわしいのである。    
   
   
0289C-Vに比べると、あらゆる面で実戦的なシャシー設計に近づいたことが外見からわかる。89C-Vは全長6キロの直線を持つル・マンのコースに特化した低ドラッグ志向の空力特性をもっていたが、そのため操縦性がやや過敏であり、耐久レースの車としてはいささか不適当であった。具体的には、直線走行時の空気抵抗を減らすために全幅は規定最大値より60ミリ狭く作られ、またノーズ先端はノミのようにするどく尖った造形に仕上げられていた。90C-Vでは全幅が規定最大値である2000ミリまで広げられ、合わせて前輪のトレッド幅も拡大されたことで、コーナリング性能が向上した。89C-Vの鋭く尖ったノーズ先端は車体の姿勢変化に対して空力特性が極端に変化する欠点があったことから、90C-Vでは神経質な挙動をなくすべく、ノーズ前面に高さ30ミリの段差が設けられた。この改修により89C-Vの持っていた車体前面の流れるようなラインはうしなわれたが、挙動の改善には効果があったため、この年の世界選手権レース序盤戦で90C-Vと併用された89C-Vにも同様の改修がほどこされた。タイヤは前年に引き続き日本のブリヂストン・タイヤを使用している。    
   

 

10フロント部のアップ。前端部に設けられた段差のようすがわかる。ヘッドライトは前年までの「猫目」と呼ばれた独特な円形から、オーソドックスな角形に改められた。長距離耐久レースでは片側二灯だったが、モデルは500キロの短距離レース仕様であり、軽量化のため左右一灯ずつとされている。このほかにフロントのアンダーパネル面積が拡大され、カウル左右にダイヴ・プレーンが装着され、リヤウィング翼端板が大型化されるなど、短距離レース仕様では全体的にダウンフォースの獲得を優先したセットアップが施されている。また90C-Vのギヤボックスは通常マーチ製の五速ギヤボックスが搭載されていたが、ル・マン二十四時間レースでは駆動系への負担を減らすため専用設計の六速ギヤボックスが使用された。    
   
新型90C-Vの第一号車であるシャシー・ナンバー001の個体は一九九〇年一月に完成し、同年二月にはル・マンに向けての耐久テストが開始された。それまでのトヨタのスポーツカーは、性能を向上させるためのテスト走行は行っても、耐久性の向上を目的とした連続走行テストはほとんど行っていなかったのである。高速耐久試験はオーストラリアのフィリップ・アイランド・サーキットと、北海道の士別にあるトヨタのテスト施設でそれぞれ行われ、総走行距離は13,000キロにおよんだ。    
90C-Vのデビュー戦は一九九〇年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦、富士500キロレースであった。このレースでトヨタはトムスの新型90C-Vを一台、サードの前年型89C-Vを一台の二台体制でニッサンを迎え撃ったが、完全な新車であり熟成不足が懸念されていたにもかかわらず、小河等と関谷正徳のすぐれた操縦にも助けられて、90C-Vはデビュー戦でポール・トゥ・ウィンを達成する快挙を演じたのである。四月に行われた世界スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースでも、ジェフ・リースが1000分の16秒という僅差でサウバーを下して予選第一位を獲得し、レースでは最終的にガス欠を起こして四位にしかなれなかったが、序盤のうちは出遅れたサウバーやTWR・ジャガーをむこうにまわしてレースをリードしていた。誰もがトヨタの新型車の性能に舌を巻き、また期待をかけた。    
しかし調子がよかったのは最初のうちだけだった。ル・マン二十四時間レースまでに、世界選手権レースはモンヅァ、シルバーストーン、スパの各480キロレースが行われたが、そのいずれにおいてもトヨタはさんざんな結果に終ってしまったのである。トヨタは三戦とも新型車と旧型車を一台ずつ持ち込んでいたが、新型車が完走できたのはそのうちシルバーストーンのレースだけで、モンヅァでは二台揃ってリタイヤ、スパでは鈴木亜久里が予選中に新型車をクラッシュさせ、決勝レースへの参加をとりやめる始末であった。トヨタ90C-Vは、すくなくともこの時点では旧型車が抱えていた操縦性の持病を完全には解決できておらず、路面がスムーズな日本のサーキットではそれなりの速さを見せても、路面の舗装が荒いヨーロッパのサーキットでは、トヨタのドライバーは車を手懐けるのに苦労した。特に世界選手権のチームはジェフ・リースやジョン・ワトソン、鈴木亜久里といったフォーミュラーカー・レースの経験者が中心となっていたので、フォーミュラー・カーとは真逆のセンスを要求するトヨタの車とは相性が悪かったのである。全日本選手権でトヨタのワークス・ドライバーだった小河等や関谷正徳は、いずれもスポーツカー・レースの経験が長く、トヨタ90C-Vのような車をどう操縦すればいいかをよく理解していた。    
   
   
07車体後方を見る。円形のテールランプはおそらく89C-Vと共通の部品を使用しているものと思われる。ギヤボックスから伸びるブリーザーパイプまでしっかり再現してあるが、やはり低価格帯モデルの悲しさで、リヤウィングのマウント部や牽引フックなど、全般的に厚ぼったくシャープさに欠ける造形であると言わざるを得ない。    
   
   
09トヨタのグループCスポーツカーは、その開発が本格的にスタートした一九八三年から一貫してサイドラジエーター方式を採用していた。一九八八年に新エンジンを開発することになった際に、ラジエーターの搭載位置を見直すチャンスがあるにはあった。しかしトヨタのエンジニアたちにとって、ワークスのレーシングカーを開発するのは一九七〇年代のトヨタ7以来じつに十八年ぶりのことであり、彼らは新型車の基本コンセプトをフロントラジエーターともサイドラジエーターとも決めかねていたのである。最終的には、実際の製造を担当した童夢の林みのるが開発の遅れを見かねて、全体をコンパクトにまとめられるサイドラジエーター方式を続けることを主張し、これが受け入れられた。    
   
一九九〇年のル・マン二十四時間レースに、トヨタは五台の90C-Vを持ち込んだ。そのうち二台はスペア・カーであった。一九九〇年六月の時点で完成していた90C-Vがすべて動員されたのである。ドライバーも小河等や関谷正徳、ジェフ・リース、鈴木亜久里、ジョニー・ダムフリーズといった、トヨタ選りすぐりのワークス・ドライバーたちが集められ、万全の体制が敷かれた。    
予選ではトヨタはまったくタイム・アタックをせず、淡々と決勝レース用の燃費セッティングに専念した。前年一九八九年の予選で、トヨタがサウバーと激しいポール・ポジション争いを展開したことを記憶していた日本のファンは落胆したが、短時間のうちに三台の車がつぎつぎ倒れていった前年の決勝レースの苦い記憶が残っているトヨタ・チーム・トムスは、とにかく決勝レースでの完走を最優先としていたのである。    
レースではニッサンとブルン・ポルシェの車が真っ先に飛び出し、その後方からトヨタとジャガーが機をうかがう展開になった。スタートから四時間ほどが経過した午後八時ごろ、ジャンフランコ・ブランカテリのニッサンが鈴木亜久里のトヨタを周回遅れにしようとして、第一コーナーで無理なオーバーテイクを仕掛けてきた。二台はコーナーの真ん中で接触し、弾き飛ばされたトヨタはそのままサンド・トラップを突っ切ってコンクリート・ウォールにはげしく衝突した。このクラッシュで90C-Vのモノコックは修復が不可能なほどの損傷を受け、運転していた鈴木亜久里は病院に運ばれて精密検査を受けるはめになったが、幸い生命に関わるような怪我は無かった。夜が明けた日曜日の午前六時ごろに、もう一台のトヨタがエンジン・トラブルでリタイヤした。たった一台残ったトヨタは終盤まで七位を走っていたが、レースが残り三時間ほどというところになって、前を走るニッサンと同一周回に持ち込んだ。この時点で六位のニッサンはギヤボックスの調子が万全ではなく、これ以上のペース・アップはむずかしい状況だったが、トヨタはそれまでずっとコンスタントなペースで走っていたおかげで大きなトラブルはなく、追い上げ用の燃料にも余裕があった。ペースを上げればすぐにでも順位を逆転できたのである。しかしたった一台残った車をここへ来て失うことを恐れたトヨタ・チーム・トムスは、ドライバーにあくまでもペースを維持してフィニッシュするよう指示した。その後二位を走っていたポルシェがリタイヤしたため、トヨタは六位でフィニッシュした。勝ったのは鈴鹿のレースでトヨタとトップ争いをしたTWR・ジャガーだった。    
   
   
08タイヤのマーキングもしっかり再現されている。「ポテンザ」のロゴは文字が傾斜していない旧タイプのものだが、スパーク製モデルではこの時代のブリヂストン・タイヤ装着車でも新タイプのロゴを印刷してしまっており、考証面において若干見劣りがする。写真の36号車はメインスポンサーのカメラ・メーカーであるミノルタのカラーに合わせて、明るいブルーのホイールを装着している。    
   
ル・マン二十四時間レース後の七月に開催された世界選手権のディジョン480キロ・レースに、排気量を3.6Lに拡大した改良型のR36Vエンジンが投入されたが、状況は好転しなかった。ちょうどこの頃、あたらしいグループC規定に合わせた3.5L自然吸気エンジン搭載のスポーツカーを白紙から開発するプロジェクトがスタートし、90C-Vの開発リーダーだったTRDの鳩谷和春をはじめとする日本の開発チームの人手がほとんどそちらに取られてしまったのである。実戦部隊は実戦部隊で、全日本選手権ではニッサンを相手に戦いながら、世界ラリー選手権に参戦しているトヨタ・セリカの改良作業もやらなければならなかったため、トヨタのレース部門はどこをとってもひどい人手不足の状態だった。こんな状況で新エンジンの開発が思うように進むはずがなかった。ディジョンではジェフ・リースが予選で五位を獲得したが、レースではガス欠でリタイヤしてしまった。ル・マン後の世界選手権レースにおけるトヨタはずっとこのような調子で、燃費を気にせずにひたすらアクセルを踏む予選ではそれなりのタイムを出せても、決勝レースでは驚異的な燃費とスピードのバランスを実現していたサウバーの車についていこうとすると、どうしてもガソリンが足りなくなった。3.6Lの新エンジンは全開状態での燃費セッティングはほとんど出ていたが、耐久レースに不可欠な、アクセルをじわりと踏んでゆっくり加速していく過渡状態での燃費セッティングがぜんぜん決っていなかったのである。けっきょく一九九〇年のト世界スポーツ・プロトタイプ選手権でのトヨタ・チーム・トムスが獲得した選手権ポイントは、開幕戦の鈴鹿480キロ・レースで獲得した3ポイントだけで、あとのレースはすべてガス欠でリタイヤするか、はるか後方をのろのろ走ってただ完走するだけというレースだった。年間のチーム・ランキングは八位で、ポルシェを使うプライベーターのブルン・モータースポーツやクレマー・レーシングにも負けていた。この年のル・マン二十四時間レースは世界選手権からは外れていたので、せっかくの六位完走も世界選手権ランキングにはカウントされなかったのである。トヨタ90C-Vは、ル・マン二十四時間をはじめとする世界規模のレースで勝つための設計がなされ、大きな期待を寄せられたにもかかわらず、世界選手権レースでは、その期待に見合う結果を残したとは言い難かった。    
   

 

15全日本選手権では状況は多少良かった。七月から投入された新エンジンはここでも信頼性の問題を抱えていたが、ニッサンは世界選手権におけるサウバーほど速くはなかったため、トヨタにも優勝争いはできたのである。しかし結局、必要なタイミングで必要な開発リソースをじゅうぶんに割り当てることができなかった結果として、トヨタ・エンジンには熟成不足に起因するトラブルが多発し、ニッサンに優勝をさらわれる展開が続いた。最終戦で旧型車を持ち込んだサードが優勝し、この年トヨタ陣営の二勝目をようやく挙げたが、チャンピオンはニッサンのものとなった。トヨタはここでも、その速さをレース結果につなげることができなかったのである。なんとも歯がゆい状況だったが、レースは結果がすべてだった。一九九〇年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権で、トヨタは三回のポール・ポジションを獲得し、二勝を挙げた。ニッサンはポール・ポジションこそ二回とトヨタより少なかったが、トヨタより多い三回の勝利を挙げ、チャンピオンに輝いたのである。    
   
グループC規定の変更をめぐる混乱により、トヨタは一九九一年のル・マン二十四時間レースには参加しないことになった。そのため一九九一年のトヨタのスポーツカー・レース活動は全日本スポーツ・プロトタイプ選手権に限定されることになり、一九九〇年の後半に苦労した開発リソースの不足はある程度解消される目処がたった。全日本選手権のレースは500キロから1000キロの中距離レースのみで構成されていたため、車やエンジンはこれに特化した開発をすることが可能となった。トヨタは90C-Vの設計をベースに改修をほどこした新車91C-Vを用意し、全日本選手権でニッサンとのタイトル争いをふたたび展開することになる。    
   
トヨタ90C-Vは、一九九〇年一月から六月のあいだに合計五台が製作され、うち一台が事故により喪失、一台がリビルドを受けてあたらしいナンバーを与えられている。
      
シャシー・ナンバー001のトヨタ90C-Vは、一九九〇年一月に完成した第一号のシャシーであり、おもにテスト走行に使われた。一九九〇年世界スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースでは、三台目のレース・カーとしてサードに貸し出され実戦を走っている。その後はふたたびル・マンに向けた耐久試験に供され、ル・マン二十四時間レースではスペア・カーの一台として持ち込まれた。八月の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権第三戦・鈴鹿1000キロレースに向けてリビルドされ、新しく「006」のシャシー・ナンバーを与えられたうえでトムスにデリバリーされている。ナンバー001としての実戦は前述の鈴鹿480キロレースが唯一だが、このレースではガス欠によりリタイヤしている。    
シャシー・ナンバー006の個体としては、全日本選手権の鈴鹿1000キロレース、菅生500キロレース、富士1000キロレースに参戦しており、最高位は鈴鹿1000キロレースの三位であった。    
一九九一年の全日本選手権には、新型車91C-Vの投入がまに合わなかったため、開幕戦・富士500キロレースおよび第二戦・富士1000キロレースにトムスから参戦した。001はいちばん最初に製作された90C-V用モノコックであったが、結果的にいちばん長く走ったモノコックとなった。    
   
シャシー・ナンバー002のトヨタ90C-Vは、本稿で紹介した全日本選手権開幕戦・富士500キロレースで優勝し、その後は世界選手権レースの鈴鹿480キロレース、モンヅァ480キロレース、シルバーストーン480キロレース、スパ480キロレースの各レースおよびル・マン二十四時間レースに参戦した。ル・マン二十四時間レースでのクラッシュにより大破し、修復不能と判定され破棄されている。90C-Vの中で全損・破棄されたシャシーとしては、これが唯一のものである。    
   
シャシー・ナンバー003のトヨタ90C-Vは、一九九〇年ル・マン二十四時間レースでチーム・サードの車として運用され、その後は全日本選手権で引き続きサードの車として富士500マイルレースおよび鈴鹿1000キロレースに参戦した。菅生500キロレースと富士1000キロレースではサードは旧型の89C-Vを使用したため、一九九〇年中の実戦投入は以上に述べた分だけである。一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースではサードの車としてレースを走ったが、これがこのシャシーの最後のレースとなった。    
   
シャシー・ナンバー004のトヨタ90C-Vは、一九九〇年の世界選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースでトヨタ・チーム・トムスの二台目として実戦に投入され、その後はル・マン二十四時間レースに参加し六位で完走している。その後は全日本選手権の富士500マイルレース、鈴鹿1000キロレース、菅生500キロレースの各レースにトムスから参戦した。一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースではトムスの車としてレースを走った。前述の003同様、このレースがこのシャシーの最後のレースである。    
   
シャシー・ナンバー005のトヨタ90C-Vは、一九九〇年のル・マン二十四時間レースでトムスのスペアカーとして持ち込まれ、その後002の全損にともない世界選手権レースに参戦し、ディジョン480キロレース、ニュルブルグリンク480キロレース、ドニントン480キロレース、モントリオール480キロレース、メキシコシティ480キロレースの各レースで走った。このシャシーは一九九一年以降の運用歴は残っていない。

2016年4月 1日 (金)

ブラック・ビューティー ~渋谷 凛・ニュージェネレーションVer.~

「アイドルマスター シンデレラガールズ」 (以下単に「シンデレラガールズ」) は、二〇〇五年にアーケード・ゲームとして登場し、その後二〇〇〇年代後期~二〇一〇年代の日本を代表する美少女ゲーム・コンテンツにまで成長した「アイドルマスター」シリーズのスピンオフ作品のひとつとして、二〇一一年十一月末に基本無料制モバイルゲームとして配信が開始された作品である。スタート当初は課金制ソーシャル・ゲームという、それまでのアイドルマスター・シリーズになかったスタイルに戸惑うファンが多かったが、初期状態で百人を超える登場アイドルのバリエーションの豊富さやキャラクターの強烈さなどが受容され、シリーズを構成するメイン・コンテンツとしての地位を確立していった。初期にはキャラクターに固有のボイスなどはなく、台詞はゲーム画面に表示される文字列のみで構成されていたが、のちに一部キャラクターに声優が声を当てることが発表され、二〇一二年四月にはアイドルマスターに欠かせない、キャラクター・ソングを収録したシングルCDが発売された。この音楽CDは「CINDERELLA MASTER」シリーズとして、二〇一六年三月現在四十五人のアイドル (=四十五枚のCD) がフィーチャーされてきたが、このシリーズの栄えある第一弾 (一回のリリースで五人分のCDが発売される)・ナンバー001を担当したのが、渋谷凛であった。   
   
「シンデレラガールズ」内では、百数十人の在籍アイドルのすべてに誕生日・血液型・利き手などのプロフィールが用意されているが、これによると渋谷凛は八月十日東京生まれの十五歳である。配信開始当初から登場していたアイドルのひとりで、ゲームの最序盤でプロデュース属性をキュート/クール/パッションから選択する際「クール」を選ぶと、初期メンバーとして設定される。ゲームのキャラクター原案を担当した「杏仁豆腐」氏が最初にデザインを描いたのがほかならぬ渋谷凛であったことからか、二〇一二年一月に放送されたゲームのテレビCFではいちはやくボイスが付いた状態でオンエアされた。キャストは当初公表されていなかったが、のちのCD化にあたって福原綾香氏であることが明かされている。ゲームの性格上「シンデレラガールズ」には明確な主人公、主役などは設定されていないが、渋谷凛の対外的な立ち位置はキュート属性初期メンバーである島村卯月、パッション属性初期メンバーである本田未央とともにこのゲームの事実上のメイン・キャラクターという扱いであり、この三人がゲーム配信開始当初から今日に至るまで、「シンデレラガールズ」のいわば三本の柱として活動している。      

 

28グッドスマイル・カンパニー製1/8スケールモデル「渋谷凛・ニュージェネレーションVer」である。発売は二〇一四年。実際に「シンデレラガールズ」内で、キャラクター・ボイス実装記念に追加されたカードイラストを再現したもので、同じ「ニュージェネレーションVer.」として前述の島村卯月、本田未央の各アイドルも同スケールでモデル化されている。モデル単体でも高さが約20センチとかなり大きく、手持ちの小型撮影ブースにギリギリ入る程度であった。サイズが大きいだけあって、細部までよく再現されている。   
   
   
Refこちらが二〇一二年にゲーム内で登場した「ニュージェネレーション」のカードイラスト。モデルはこの仕様を再現したものである。完全に余談になるが、現在の英国ツーリングカー選手権 (BTCC) で使用されているスーパー2000規定をベースにした独自の車輌規則、およびこの規則にしたがって作られたBTCCカーの名称が「ニュージェネレーション・ツーリングカーズ (New Generation Touring Cars/NGTC) である。   
   
   
01とにかく巨大である。箱のサイズは1/18スケールの精密模型に匹敵する。比較用に脇に置いてあるのがスパーク製1/18モデルの箱だと言えば、おおよそのサイズ感が掴めるだろう。写真では少々わかりづらいが、底面以外の外箱全体にラメ様の表面処理が施されている。   
   
05ブリスター・パックの様子。頭部前面のパックが平面にされており、外箱越しに見ても歪みなどが発生しないよう配慮されている。モデル本体、台座、マイクスタンド/マイク、マイク用コードがそれぞれ別パーツで封入されており、購入者がある程度の組み立てを行う必要がある。モデルカーではあまり見られない方式である。   
   
   
06台座にはモデルの右足を固定するための突起があり、これをモデルの靴底にあるダボ穴にはめ込んで固定する。サイズ比較用に一般的な1/43スケールモデルを配した。メインのダボ穴に対応する突起は金属製のインサートで出来ており、強度を確保している。このほか向かって左奥にマイク用コードの先端をはめ込んで固定する小穴が開いているが、写真では写り具合の関係で見えづらい。   
   
07モデルのみを台座に固定したところ。左足はフリーフローティングであり、全体の荷重が右足一本で支えられる設計である。元がイラストであり立体化にあたっては少なからぬ苦労が伴ったと想像できるが、最小限のアレンジで原作イラストをよく表現している。肌の色に少々赤味が足りないのが若干気になる所だが、イラスト通りステージ上で白っぽいライトを当てられている状態を再現しているのかもしれない。   
   
もともと「シンデレラガールズ」はゲームの性格上大筋にあたるストーリーは無く、個々のアイドルの日常場面や芸能活動のひとコマを切り取ったシーンが各カードに与えられてあるのみであった。本家「アイドルマスター」に遅れること約三年、二〇一四年一月に「シンデレラガールズ」のTVアニメ化が発表され、二〇一五年一月から十月に放映された (一月から四月までの第一期、七月から十月までの第二期)。このアニメ版でも島村卯月、渋谷凛、本田未央の三人が主役級で出演し、渋谷凛は主人公である島村卯月、同期の本田未央とともに三人組ユニット「ニュージェネレーション」として、またシーズン後半では新規ユニット「トライアド・プリムス」として活動するようすが描かれた。アニメ内で登場した「トライアド・プリムス」参加時の渋谷凛は、このモデルの仕様そのままの衣装でパフォーマンスを行っている。   
   
アニメでの渋谷凛は、劇中の「346 (みしろ) プロダクション」に所属するプロデューサー (シリーズの伝統にのっとり、特に名前は設定されていない) が立ち上げた育成プログラムである「シンデレラ・プロジェクト」の一員として、三人分の欠員枠を補充するひとりとして加入した。ほかの二人である島村卯月と本田未央はそれぞれ養成所からのステップアップ、オーディションによる選抜であったのに対し、渋谷凛はプロデューサーに街頭でスカウトされてプロジェクトに加入したため、最初は芸能活動にあまり積極的ではなかった。三人は第二話での宣材写真撮影を経て、第三話では早くも城ヶ崎美嘉のステージでのバックダンサーとして実戦の舞台に出ることとなる。この出演は城ヶ崎美嘉本人の意向によるものであったが、新人としては異例の大舞台であったことには違いない。ステージそのものは成功裡に幕を閉じ、さらに三人はプロジェクト内のもう一組のユニットである「LOVE LAIKA」とともに、いち早くCDデビューを果たした。「ニュージェネレーションズ (原作ゲームと違い複数形になっている)」のユニット名はこの段階で付けられたが、プロデューサーがいくつか持っていた仮案の中のひとつをそのままとったものである。CD発売にあわせて行われたミニライブのステージで、考え方の違いからプロデューサーと本田未央が対立し、ユニットは瓦解の危機に瀕したが、このときはほかの二人があいだに立って仲裁役をつとめ、最終的に事なきを得ている。第十三話ではシンデレラ・プロジェクトのメンバー十四人・八ユニット全員で出演 (序盤のみ体調不良から新田美波が欠場) した「346プロ・サマーアイドルフェス」の舞台にニュージェネレーションズとして登場し、パフォーマンスを行った。   
   
第十四話で、北米の関連会社から帰国しアイドル部門の統括役におさまった346プロダクションの美城常務 (下の名前は明らかになっていない) が「進行中の全プロジェクトを白紙に戻し、みずから選出したアイドルでユニットを組みこれを重点的にプロモートする」という決定を、強権を発動させて押し通した。常務の考え方に反発するプロデューサーはこれに対抗すべく、同様に苦しい立場に置かれた他部署と連携をとりつつさまざまな新企画を打ち出し、みずからのやり方を通すべく奔走することとなる。プロデューサーのアイディアの核は、冬に予定されている「シンデレラの舞踏会」と銘打たれた大型ライブステージの企画であった。そのさなか、第二十話で美城常務は始動間近の直属プロジェクトである「プロジェクト・クローネ」のメンバーに、シンデレラ・プロジェクトから渋谷凛とアナスタシアを引き抜くことを画策し、同時にシンデレラ・プロジェクトの戦績しだいでプロジェクトそのものを解散させることを通達した。アナスタシアはプロジェクト・クローネの一員としてソロ活動を開始することを決め、これとは別に本田未央、新田美波もそれぞれシンデレラ・プロジェクトと平行して独立したソロ活動を開始することを発表したことから、シンデレラ・プロジェクトは急速に分散していった。   
   
渋谷凛はいろいろ考えた結果、最終的にプロジェクト・クローネの一員として、新ユニット「トライアド・プリムス」に加入し、そのメンバーとして秋フェスのステージに上ることを決断する。この三人は原作ゲーム内でも三人ユニットとして同系列の衣装カードが登場しており、二〇一三年にユニット名がつけられる以前は俗称として主に「りんなおかれん (凛・奈緒・加蓮)」と呼ばれていた。ニュージェネレーションズがプロデューサーの判断で出場を見送った秋フェスで、トライアド・プリムスの三人はライブのトップバッターである鷺沢文香の不調により出場順が大幅に繰り上がるというトラブルを経験しながらもステージを成功させている。第二十三~二十四話ではニュージェネレーションズの島村卯月が一時的に不調に陥り、ユニットがふたたび崩壊の危機を迎えたが、このとき渋谷凛は「古巣」であるニュージェネレーションズの危機に取り乱しながらも本田未央やプロデューサーとともに島村卯月の説得にあたり、第二十四話終盤で描かれたユニット単体のクリスマスライブでの島村卯月の復帰をサポートした。最終話である第二十五話ではシンデレラ・プロジェクトの一員として、ふたたび全員で「シンデレラの舞踏会」のステージに立つ姿を見せている。   
   
   
09マイクスタンドを組み立て、装着するとこのような状態になる。マイクやスタンドは握った形状の手先パーツにうまくはめ込む形式だが、特に問題なく組み立てられる。マイク用のコードは少々トリッキーで、マイク尾部への差し込みがやや甘いことと、台座に開いた穴のサイズが合わず、コード先端をはめ込むのに難儀した。コードそのものは硬質のワイヤーに近い材質で、台座側の先端部のみゴムと思われる軟質の素材でできている。この状態ではマイクスタンドの基部も接地せず、フリーフロート状態となる。   
   
   
14モデル背面。スカートのフリルは原作イラスト同様、上から黒・半透明・黒・半透明の素材を重ねあわせて表現している。コード尾部を台座に取り付けているようすがわかる。写真ではコントラストの関係でやや見えづらいが、左足の膝裏の表現がひじょうに繊細で真に迫っており、このモデルの見どころのひとつとなっている。はげしい動きの最中を意識したポージングで、長い髪が舞う表現が付加されている。   
   
   
15膝裏のクロースアップ。伸びている状態の腱の再現には息を呑むばかりである。ブーツの光沢も実物に限りなく近い。   
   
   
17おどろくべきことに、ブーツの紐には軟質素材の別パーツが奢られている。ベルトや金具、シワの表現に注目されたい。神は細部に宿っている。   
   
19髪が長い関係で角度が制約されるが、肩から背中にかけての表現も老舗のグッドスマイル・カンパニーらしく、じつに自然に造形されている。衣装のデザインの関係で肩が露出しているが、華奢な体格から骨格がすこし浮き出て見えるこの絶妙なバランスをみごとにものにしていると言える。胴体部分にコルセットのような衣装がつけられているが、この部分とほかの布地の部分で光沢の具合が異なり、前者がつやあり、後者が半つやで表現されており、質感の違いに説得力をもたせている。   
   
   
16手首部分とマイクパーツ。黒い手袋をはめ、手首には同色のリボンが巻かれている。マイクスタンドはT字型部材/基部の2パーツで構成され、高度な造形を可能としている。表面の光沢から推測すると、この手袋は布製であろう。   
   
   
29顔の表情もしっかり決まっており、元のイラストからうまくアレンジして二次元を三次元に投影している。瞳の色はやや青の強いエメラルドグリーンといったところ。どの角度からイラストと見比べても違和感のないよう、特に頭部の造形は徹底的に攻められている。   
   

 

26激しい動きに合わせて大きく散らばっている長髪や棚引く長いリボン、髪飾りの部分など、どれをとってもひじょうに繊細な造り込みである。モデルカー・メーカーで言えばルックスマートかBBRといったレベルになるだろうか、とにかく全体を見渡してみて造形面での妥協がどこにも見当たらないのがすさまじい。   
   
   
18ゲーム内の公式プロフィールによると、渋谷凛は身長165センチ・体重44キロ、スリーサイズは80-56-81とされている。とりたててグラマラスというほどではないが、あえて個人的な感想を述べるなら「必要にして十分」といったところだろう。肩~鎖骨~胸/二の腕へ至る微妙な曲線の解釈が上手い。   
   
   
21さほど過激ではないものの、適度に抑揚のついているこのシルエットがとても良い。   
   
   
22

極上。   

   
24

絶景である。   

   
20神域!!   
   
   
Xディフューザー下面の造形はひじょうに手の込んだもので、この部分でのダウンフォースの発生量や空力中心の位置を最適化しようとする努力の跡がうかがえる。その甲斐あって、基本的には見えない部分であるものの、それ単体がひとつの芸術品であるかのような趣がある。空力特性的にも満足の行く仕上がりであっただろう。背中側の肩甲骨の表現にも注目されたい。   
   
   
25カードイラストに合わせたアングルで撮影したもの。マイクのコードや乱れた髪により、モデルでありながら全体に躍動感がみなぎっている。「渋谷凛」というキャラクター名がどの段階で出てきたのかは定かではないが、まさにこの佇まいにしてこの名ありというべき、きわめてよく似合う名前だと感じられる。   
   
原作ゲームでの渋谷凛が与える印象について、「リスアニ」誌二〇一五年十二月号では「渋谷を歩いていそうな凛とした、でも何かつまらなそうな女の子」と評している。ゲーム、アニメともあまり愛想のなさそうな素っ気ない台詞の多い彼女だったが、年齢相応の情熱もしっかり有しており、戸惑うことの多かったアイドル活動にも全力で打ち込み、おおむね努力に見合うだけの成果は上げたということができるだろう。クール属性の看板役だけあって、十五歳にしては外見、表情とも大人びているという印象で見られることが多いが、一方で原作の端々ではいわゆる「中二病」的な大仰な台詞を発するシーンもいくつか用意されており、彼女の持つもうひとつのチャーム・ポイントとなっている。   
   
27「アイドルマスター シンデレラガールズ」は二〇一五年末に四周年を迎えたが、そのすべての期間において、渋谷凛は作品の中核を担う人物のひとりでありつづけた。ボイス実装やCDリリース、参加声優によるライブの大成功、リズムゲーム「アイドルマスター シンデレラガールズ・スターライトステージ」のリリースなど、勢いに乗って活発な展開が続くシンデレラガールズだが、おそらくはこの先いつの時代になっても、シンデレラガールズという作品の先頭には、島村卯月、本田未央とともに、変わらず凛然と立つ彼女の姿がそこにあるだろう。ことシンデレラガールズという作品に関して、われわれすべての人間が、いま歴史の目撃者となっているのである。   
   
   
最後になるが、本記事はエイプリルフール企画の一環として主筆がなかば冗談のつもりで書き上げたものなので、内容に事実と異なる点や不適切な記述が見られた場合においても、主筆はこれを加筆・修正または削除するつもりは毛頭ないことを申し上げておく。

2016年3月29日 (火)

風は東へ ~JRMレーシング・HPD ARX-03a (2012)~

イギリス人ジェームス・ラムゼイ率いるJRモータースポーツ・グループの名前がレース・シーンにあらわれたのは二〇一〇年と、比較的あたらしい部類に入る。もともとSUMO POWERという日本車向けチューニングパーツの販売店を営業していたラムゼイが、この年新設されたFIA GT1世界選手権に参戦するために組織したチームであり、車は日本で開発されたニッサンGT-R GT1を初年度から二台運用することになっていた。ジェームス・ラムゼイは八週間という、レーシング・チームを設立するには短すぎる準備期間でゼロからチームを興し、この年のFIA GT1世界選手権第二戦で優勝を飾る快挙を達成した。翌年ラムゼイはSUMO POWERのほかにJRMと名付けたセカンド・チームを六週間のうちに設立し、四台のGT-R GT1を運用する大艦隊の指揮官となった。このうち一台のGT-Rが二〇一一年のFIA GT1世界選手権チャンピオンとなったが、GT1の世界選手権はエントラントの不足によりこの年で打ち切られることが決ってしまい、GT1カーを使うレースは地上からなくなってしまったのである。ラムゼイがつぎなる目標として打ち立てたのが、二〇一二年から開催されることが決定したFIA世界耐久選手権 (WEC) であった。スポーツカー・レースの世界選手権が開催されるのは、グループC時代の一九九二年以来じつに二十年ぶりのことであった。参戦の発表は開幕戦・セブリング十二時間レースが間近に迫った二月になって唐突になされ、事前に通達されていなかったJRMのスタッフもこの決定に驚いたと伝わる。   
   

 

00スパークモデル製1/43スケールモデル、HPD ARX-03aである。二〇一二年ル・マン二十四時間レースに、JRMから出走し総合六位に入賞した、シャシー・ナンバーARX03-07の個体を再現している。品番はS3709と通常のスパーク製品と変わらないが、ル・マンを走ったスポーツカーやGTカーをメインに据えているスパークモデルらしく、ル・マン出走車に与えられる特別デザインの紙製スリーブ・ケースに収められている。   
   
二〇一二年に世界耐久選手権が復活するまで、ル・マン二十四時間レース以外のスポーツカー・レースの最高峰は北米大陸を中心に行われているアメリカン・ル・マン・シリーズ (ALMS) だと考えられていた。そのALMSに北米ホンダのレース部門であるホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント (HPD) がアキュラ・ブランドで参戦を開始したのが二〇〇七年のことである。* 世界的な不況によりアキュラ・ブランドでのスポーツカー・レース活動は二〇〇九年でいったん終了したが、その後はHPDと各プライベート・チームが連携する形で独自に開発が続けられ、車名は「アキュラ」から「HPD」に変わった。二〇一一年にはハイクロフト・レーシングとともにトップ・カテゴリであるLMP1クラスへの進出を図ったが、この年発生した東日本大震災によりホンダの海外レース活動はおおきな制約を受け、せっかくのLMP1カーは三月のセブリング十二時間レースを走っただけで、倉庫の奥にしまい込まれてしまった。しかしHPDはスポーツカーを走らせる計画を終了するつもりはなく、二〇一二年に向けたLMP1クラス用の新型車の開発は続けられた。それまでの「ARX-01」シリーズの改修型ではないことを意味する「ARX-03」の名前が付けられたこの新型車は、ALMSのみならず世界耐久選手権にも投入されることが決定した。   
   
   
01JRMレーシングのコーポレート・カラーである黒と赤に塗られたボディが精悍な印象を与えている。チーム名の入ったデカール以外スポンサー・ロゴはほとんど見当たらない。JRMはここでも準備期間の不足に悩まされ、二〇一二年世界耐久選手権の開幕戦であるセブリング十二時間レースの前に車を組み立てる時間が十日しかなかった。このためスポンサーを探す時間的余裕がなく、資金のほとんどはチームからの持ち出しに頼っていたという。   
   
前述のとおり、ARX-03aは二〇〇七年から二〇一一年まで使用されたARX-01シリーズとは違う、まったく新しいスポーツカーとして開発されたと発表された。しかし実際には、LMP1向けに最適化されたAR6型3.4L・8気筒自然吸気エンジンや車体各部の空力処理などは、二〇一一年に開発されたARX-01eからそのまま流用されており、モノコックもARX-01シリーズ同様クラージュ製スポーツカーのものを使用している。ARX-01eはそれまでLMP2クラスで走っていた車を改修し、LMP1用に仕立てあげた改造車であったため、当時のライバルであったレベリオン・レーシングの使うローラ製スポーツカーに比べると、戦闘力の不足は隠せなかった。   
   
   
02上方からARX-03aを俯瞰する。フェンダー上部に矩形の穴が開口されていることと、車体後部に大型の垂直安定板が取り付けられていることが外見上の大きな特徴だが、これは前年二〇一一年から施行された新しい車体レギュレーションに対応したものである。サイドポッドは箱型に近い直線的な造形で、あまり手の込んだ処理は施されていない。同時期のローラやOAKモーガン製のスポーツカーが、この部分を曲面を多用した造形に仕上げているのとは対照的である。リヤフェンダー内側にある突起は排気口のハウジング。   
   
きびしい資金難と、ピット内で最後の組立作業を行わなければならないほどの準備期間不足に見舞われながらも、JRMは初戦であるセブリング十二時間で健闘を見せた。予選ではレベリオン・レーシングが持ち込んだ旧型のローラ・トヨタを上回る六位を獲得し、レースではトラブルにより最終的に十七位完走扱いに終ったが、一時は総合二位まで浮上したのである。このレースにはALMSに参戦しているピケット・レーシング、世界耐久選手権に参戦しているストラッカ・レーシングとJRMから一台ずつ、合計三台のARX-03aがスタートしたが、最高位はストラッカ・レーシングの十位であった。   
   
世界耐久選手権は第二戦以降ヨーロッパ大陸でのレースに戻ったが、JRMはヨーロッパでは苦戦が続いた。ル・マン二十四時間レースに向けた実戦テストの意味合いもあるスパ=フランコルシャン六時間レースでは、予選八位・決勝十二位のリザルトがやっとだったのである。同じ車を使うストラッカ・レーシングは予選六位・決勝七位だった。原因は資金難以外にも、JRMの経験不足が大きかった。JRM自体がまだ歴史の浅いチームだったことと、それまでJRMが参戦していたGTカーのレースとスポーツカー・レースではものごとの進め方がだいぶ違っていたことが、チームの足を引っ張ったのである。直接のライバルであるストラッカ・レーシングやレベリオン・レーシングは、それまでも何年かスポーツカーの耐久レースに参戦しており、スタッフも全員が耐久レースの戦い方をよく知っていた。JRMがストラッカ・レーシングよりすぐれている点があるとすれば、耐久レースで活躍していたデヴィッド・ブラバムとピーター・ダンブレック、前年にF1グランプリも経験したカルン・チャンドクという三人のすぐれたドライバーの存在であった。デヴィッド・ブラバムはFIA GT1選手権でSUMO POWERのGT-R GT1に搭乗していてチームとは気心の知れた関係であり、まだ若いチームの牽引力となることが期待された。   
   
   
03

 

08フロントフェンダーの全長が短縮された以外、全体の空力処理は先代であるARX-01eと似通っている。独特な多角形断面のモノコックや、二本の長いバルジが設けられたノーズ・セクションは、ベースとなったクラージュ製モノコックの面影を感じさせる。フロントエンドに設けられた垂直なスプリッター・プレートもARX-01eから引き継がれたパーツだが、二〇一二年仕様では高速コースであるスパ=フランコルシャンとル・マンでのみ用いられ、それ以外のレースでは一般的なダイヴプレーンが装着されていた。フロア中央部は高く持ち上げられ、床下へ積極的に空気を流す構造になっている。ヘッドライト脇のスリットは追加パーツで再現されているが、実車の複雑な一体成型パーツ (上記リンクのARX-01e細部写真を参照されたい) をこのスケールで再現するのはさすがに無理があったのか、簡単な追加パーツで形を作ってある。内部機構的には、前後サスペンションのレイアウトは二〇〇八年に走ったアキュラARX-01bの頃からほとんど変わっていない。   
   
ル・マン二十四時間レースの予選では、JRMは十一位を得るにとどまった。ストラッカ・レーシングは七位であった。チームとしての経験が浅いJRMは、プラクティスと予選の走行時間を決勝用セッティングの最適化に費やすことにしていたため、積極的なタイム・アタックは行わなかったのである。   
レースは土曜日の午後三時にスタートしたが、ストラッカ・レーシングはスタート直前にギヤボックス・トラブルが発生し落伍した。JRMのスタート・ドライバーであったデヴィッド・ブラバムはスタートで前にいたペスカローロ・チームの童夢・ジャッドを抜いて九位にあがり、その後一時間近くにわたって後方のペスカローロ・チームとOAKレーシングの追撃をかわしつづけた。その後ドライバーはチャンドク、ダンブレックと交代したが、JRMは安定したペースで走り続け、そればかりかつぎつぎに順位を上げ始めたのである。前を行くワークス・カーがあいついでアクシデントで脱落したためだった。まずトヨタの一台が周回遅れのフェラーリと接触してクラッシュし、もう一台も下位クラスの車を追い抜く際に接触して車体を破損し、ピットインを余儀なくされて脱落した。日没前後にはアウディの一台がコースアウトしてタイヤバリアに衝突し、これも修理に時間を取られたため後退を余儀なくされた。JRMは無理にペースを上げて前の車を追いかけることをしなかったが、終始トラブルを起こさず走り続けており、午後九時三十分の時点では総合六位を走っていた。   
午後十時すぎ、コース序盤のS字コーナーでピーター・ダンブレックがスピンした。原因はタイヤのパンクであった。車はサンドトラップに突っ込んで止まったので車体へのダメージはなかったが、ダンブレックは三輪状態の車でコースをほとんど一周してピットへ戻らなければならなかった。このピットインでタイヤ交換と同時にサスペンション・ダメージのチェックも行ったため、JRMは十七位まで落ちた。しかしそれまでのレース・ペースはよかったので、うまくいけばレース終了までにポジションをいくつか回復できるはずであった。   
デヴィッド・ブラバムに交代したJRMはふたたび安定したラップ・タイムで周回を重ね、後方から追い上げてきたストラッカ・レーシングのペースを意識しながら快調にとばした。ドライバーはその後チャンドク、ダンブレックと交代し、長い夜が明けた午前六時半頃にはダンブレックが七位を走っていた。他車のリタイヤにも助けられたが、数時間のうちに十七位からはるばる追い上げてきたのである。例年リタイヤが続出し「魔の時間帯」と呼ばれる日曜午前二時から午前五時までの間、JRMはクラッチの点検のために一度ピットに入っただけで、それ以外はいかなるトラブルにも見舞われなかった。   
日曜午前十時すぎになって、五位を走っていたレベリオン・レーシングの車がクラッチ・トラブルで脱落した。これでJRMは六位に上がった。あとは何も起きなかった。アウディが1-2勝利を達成したル・マンで、JRMは何もかもが初体験の状態で六位という成績を収めたのである。上々の結果といわなければならなかった。ル・マン二十四時間レースも世界耐久選手権の一戦に組み込まれていたが、レース距離が長いため獲得ポイントは通常のレースの二倍とされていた。そのル・マンで六位に入ったことにより、JRMはLMP1チーム・ランキングで、レベリオン・レーシングにつぐ順位に上昇した。レベリオン・レーシングが二台体制で、JRMが一台体制であることを考えると、この順位は望外のものだった。   
   
   
05車体側面はこの時代のLMP1カーにしては単純な造形であり、サイドポッド前端下部の造形もあまり手が込んでいるようには見えない。この部分のデザインもおおむねARX-01eからのキャリーオーバーである。助手席スペースに立っている黒い長方形状の物体はオンボードカメラだが、このパーツはARX-01eでは搭載されていなかった。リヤのホイールハウス前端部、ミシュランのロゴが貼ってある部分が曲線状にへこんでいるが、このへこみの部分で空気溜まりを作り、ボディ側面を流れる気流が剥離しないようにする処理である。二〇一二年になるとLMP1のワークス・チームが使い始めたミシュラン製の幅広フロントタイヤがプラベート・チームにも行き渡るようになったが、設計の古いARX-03aはこの新型フロントタイヤを使用できず、コーナリング性能で新型タイヤを使うレベリオン・レーシングのローラ製スポーツカーに一歩遅れをとっていた。   
   
   
11現在のル・マン用スポーツカーではドラッグ低減のためリヤフェンダー前端をサイドポッド中央付近まで持ってくることが多いが、この車はまだ従来のみじかいフェンダーを持っている。フェンダー前端、ビバンダムマークの下にある開口部はリヤブレーキ冷却用。フェンダー上面はARX-01eではなだらかな曲面状であったが、ARX-03aではここに高圧空気を引き抜くための穴を開けることが規則できめられたため、この部分を平面状に成形し、その両側をフェンスで囲む処理が施されている。開口部の前後で発生する乱流を一定の領域に押し込めて、リヤウィングの効率に影響しないようにする措置と考えられる。モデルのパーティングラインからもわかるが、一見つながっているように見えるリヤウィング翼端板とフェンダー上のフェンスはそれぞれ別パーツであり、ハイダウンフォース仕様のセッティングではこの大型フェンスが存在しないタイプのカウルも使用された。   
   

 

07リヤエンドの造形もこれまたARX-01eに瓜二つと言ってよいものだが、レギュレーションに従い取り付けられた大型の垂直安定板と、リヤウィング翼端板付近の処理はARX-03シリーズ特有のものである。リヤウィング翼端板の外側と内側でフェンダーの高さが違っていることに注目されたい。二本のリヤウィング支柱の間に渡しかけられた横方向の支持部材に、垂直安定板の突起が接続され、リヤウィングの取り付け強度を部分的に受け持っている。この車の準同型車であるLMP2クラスのARX-03bや、オレカ製スポーツカーなどにも見られる処理である。   
   
   
06ボディ後端を見る。リヤウィングを上面から吊り下げて支持するタイプのマウント (いわゆるスワンネック・マウント) が特徴的だが、このタイプのマウントは二〇〇九年にアキュラのスポーツカーがはじめて導入したものである。ウィングによるダウンフォース効果のほとんどはその下面を流れる空気の流速により生み出されるが、ウィングを上から吊り下げることで下面の障害物をなくし、空気をよりスムーズに流してダウンフォース量を増加させる効果がある。当然ながらこのタイプのリヤウィング・マウントもARX-01eで見られたものである。   
   
ル・マン二十四時間レースでの好成績によりストラッカ・レーシングをリードしたJRMだったが、ル・マン後の世界選手権戦に入ると形勢が逆転した。第四戦、第五戦であるシルバーストーンとサンパウロの六時間レースで、JRMはそれぞれ七位と九位で完走したが、ストラッカ・レーシングはどちらのレースも五位で完走した。チームは第六戦バーレーン六時間レースで失地を回復しようと意気込んでいたが、このレースでJRMは電装系のトラブルで二〇一二年シーズン唯一のリタイヤを喫し、反対にストラッカ・レーシングはシーズン最高の総合三位でフィニッシュしたので、JRMはストラッカにポイントランキングを逆転され、この年ワークス・チーム以外でLMP1クラスにフル参戦していた三チームの中でランキング最下位に落ちてしまった。せめてもの慰めは、バーレーンに続く富士と上海の六時間レースでJRMの車がともに五位で完走したことであった。ストラッカ・レーシングは二戦とも六位だった。JRMは最終的にLMP1プライベート・チーム選手権で123ポイントを獲得し、ランキング三位を得た。二位のストラッカ・レーシングは148ポイント、一位のレベリオン・レーシングは205ポイントであった。何もかもがはじめての経験だったJRMにとって二〇一二年は学習の年となったが、翌年以降のパフォーマンスに期待が持たれた。   
   
09側面形状は取り立てて大きな特徴の無い、ごく平凡なオープン・トップのスポーツカーといった具合である。この頃からスパークモデルはレジン製完成品特有の個体差、特に部品の取り付け・接着精度のバラツキがかなり改善され、モデルカーというより「精密模型」に近い雰囲気を持つようになった。写真の個体にも特に大きな組み付けミスは見られず、わずかに左後輪が少々タイヤハウスからはみ出している程度である。ベースの黒色部分は塗装仕上げ、赤色と灰色はデカールにより再現されているが、黒色の艶具合がうつくしい。   
   
二〇一三年一月なかば、JRMは資金的な理由により同年の世界耐久選手権へのフル参戦をとりやめ、ル・マン二十四時間レースに集中することを発表した。一二年のJRMがほとんどスポンサーのいないまま一年間世界選手権を転戦していたことを知っていた人々は、この発表には特におどろかなかった。しかし二月になってから、JRMは同年のル・マン二十四時間レースにも参戦しないこと、今後スポーツカー・レースから撤退することを発表したのである。原因は人員的・資金的な負担と、この年から本格的に手がけはじめたニッサンGT-R GT3レースカーのヨーロッパにおけるレース活動および販売業務に集中するためとされた。イギリスからやってきた若く元気なレーシング・チームは、たった一年の間だけスポーツカー・レースの舞台に姿をあらわし、そのまま一陣の風のように去っていってしまったのである。   
   
HPD ARX-03は、LMP1クラス用のARX-03aが三台、LMP2クラス用のARX-03bが五台の、合計八台が製作され、シャシー・ナンバーはすべて「ARX03-XX」の連番であった。ARX-03bのうち一台は二〇一一年のARX-01eから改修されたもので、このシャシーはもともと二〇〇八年にハイクロフト・レーシングにデリバリーされたARX-01b、さらに元をたどればクラージュ製のCn.LC70-11の個体である。ARX-03aはこのうちCn.ARX03-01/-04/-07の三台であった。   
   
ARX03-01は二〇一二年一月にストラッカ・レーシングにデリバリーされ、同年セブリング十二時間レースおよびル・マン二十四時間レースを含む世界耐久選手権全戦に参戦し、最高位はバーレーン六時間レースでの三位であった。   
翌二〇一三年は改修を受けてARX-03cにアップデートされ、ポールリカール・サーキットで行われた公式テスト、開幕戦シルバーストーンからル・マン二十四時間レースまでの世界耐久選手権に参戦した。ストラッカ・レーシングは童夢の製作する新型スポーツカーをテストするため、ル・マン後は世界選手権への参戦を一時休止している。   
   
ARX03-04は同様に二〇一二年一月にグレッグ・ピケット率いるピケット・レーシングにデリバリーされ、同年セブリング十二時間レース (FIAの世界選手権とアメリカン・ル・マン・シリーズの併催あつかいだった) をはじめとするアメリカン・ル・マン・シリーズ全戦に参戦した。ピケット・レーシングは第二戦ロングビーチGPから第六戦ミッドオハイオ二時間四十五分レースまで破竹の五連勝を果たし、第七戦ロードアメリカ四時間レースでもトップから0.083秒という僅差の二位でフィニッシュした。最終的にピケット・レーシングは全十戦中それぞれ六回の優勝とポール・ポジションを獲得し、この年のアメリカン・ル・マン・シリーズ年間チャンピオンに輝いたのである。   
二〇一三年にはストラッカ・レーシング同様近代化改修を受けてARX-03cへとアップデートされ、この年もアメリカン・ル・マン・シリーズ全戦に参戦した。この年のピケット・レーシングは前年にも増して力強い走りを見せ、第二戦ロングビーチGPから第九戦ヴァージニア二時間四十五分レースまで、無傷の八連勝という圧倒的な戦績で連続チャンピオンとなった。この同一シャシーによる八連勝という記録は、一九八八年のIMSA-GTPレースでエレクトラモーティヴ・ニッサンがうちたてた不滅の大記録に並ぶものであった。アメリカン・ル・マン・シリーズがグランダム・シリーズと統合されてユナイテッド・スポーツカー選手権となったため、ピケット・レーシングはLMP1クラスでの参戦をこの年限りで休止した。ARX03-04はLMP1規格のARX-03aの中では、もっとも長くレースをしていた個体である。   
   
ARX03-07は本稿でとりあげた個体である。このシャシーは二〇一二年二月にJRMにデリバリーされ、同年の世界耐久選手権全戦に参戦し、最高位は富士と上海の各六時間レースにおける五位であった。JRMが一年限りでスポーツカー・レース活動を休止したため、このシャシーは二〇一二年の世界選手権最終戦・上海六時間レースを最後に引退しており、ARX-03aの中では実働期間のもっとも短かったシャシーである。   
   
*二〇〇七年から二〇〇九年までのHPDによるアキュラ・ブランドでのALMSシリーズ参戦、また二〇一〇年および二〇一一年のHPD製スポーツカーの活動状況については、「一梨乃みなぎ」氏によるこちらのブログ記事に詳しく記されているので、読者諸兄はそちらのエントリーもぜひ一読されたい。本稿で解説した内容の前日譚にあたる話であり、合わせて読むと当時のHPDの活動やスポーツカー・レースそのものを取り巻く環境について、より深い理解が得られるであろう。

フォト
無料ブログはココログ

リンクリスト

  • Kumaryoong's Paddock
    ソビエト時代の東側諸国におけるモータースポーツ活動について書かれているたいへん誰得なブログ (褒め言葉)。この辺の史料を日本語でまとめたサイトって史上初かもしれません。
  • 作った静止画一覧
    主にMMDで作った静止画を上げています。最近はこっちの頻度のほうが高いですね。
  • Racing Sports Cars
    ル・マンや旧WEC/WSPC/SWC、さらには旧WCMなど、スポーツカー・レースの参戦車両の膨大な資料写真を有するサイト。ドライバー別・車種別検索機能完備。F1もちょびっとだけあります(70年~82年)。
  • F1-Facts
    1950年イギリスGPより、F1に関する全記録を蒐集・公開しているサイト。各年度リザルトページからマシン一覧・写真ページに飛ぶことができます。あなたの知らない名車に出会えるかも。IEは右クリックでの画像保存が出来ないので、PCに保存する際はFireFoxなどを使用してください。
  • 誰得 (boulog)
    謎多きF1マニア(?)、bou_ckさんのブログ。「Wikipediaに載ってないような脳内資料置き場」を標榜するだけあって、その名に恥じぬディープ過ぎるF1マシン解説!Wikiどころか、ネット上にもそうそう無いようなマシンが目白押し。ちなみに「誰得」とは「誰が得するんだこんなもん」的意味合いのフレーズ。 2015.12.13追記: このほどYahooブログからfc2ブログに移転されました。
  • 作ったもの一覧。
    私の動画作品一覧です。気力の低下と更新頻度の低下はすべからく連動しています。
  • アカクテハヤイ フェラーリエフワン
    沖縄在住のフェラリスタ、Shigeoさんのブログ。1日1更新(原則)でフェラーリのさまざまな話題を取り扱います。レア物のフェラーリミニカー募集中だそうな。
  • METMANIA
    私の作るペーパークラフトの大半はここからきています。ヘルメットのぺパクラって多分ここにしかありません。