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2016年4月30日 (土)

トヨタC-Vシリーズ・終りのクロニクル 「花終る闇」

今回の記事の内容は、二〇一四年に執筆したトヨタ・94C-Vに関する記事をベースに加筆・再構成したものであり、部分的に内容が重複していることを了承されたい。    
この記事をローランド・ラッツェンバーガーの思い出に捧げる。      
      
チーム・サードの加藤眞代表が、主戦ドライバーのローランド・ラッツェンバーガーから「F1のシートを獲得できたので、来季は国内の選手権には参戦できない」と伝えられたのは一九九三年の晩夏であった。何の前触れもなかったという。加藤は全日本スポーツ・プロトタイプ選手権時代から長く一緒にやってきて気心も知れたドライバーを手放すつもりはなく、「F1も二流チームまでならいいが、三流のチームなら行く価値は無いからやめたほうがいい」と諭したが、ラッツェンバーガーの意志は堅かった。彼がオファーを受けたのはシムテックというちいさなチームで、ラッツェンバーガー同様F1は初経験であり、ニック・ワースという腕利きのエンジニアがいるにはいたが、とても二流チームどころではなかった。しかしラッツェンバーガーはヨーロッパでレースをはじめたころからF1を最終目標としていて、このチャンスを逃すつもりはまったくなかった。彼はもう三十三歳で、F1ドライバーとして新しくやっていくにはそろそろギリギリの年齢に差し掛かっていたのである。加藤眞は仕方なく彼に、三月にル・マン用スポーツカーのテストがあることと、その日程を伝えておいた。しかしラッツェンバーガーはテストに現れなかった。彼は三月に開幕するF1の一九九四年シーズンに向けて、すでにシムテック・チームに合流して準備にあたっていたのである。 
   
世界スポーツカー選手権および全日本スポーツ・プロトタイプ選手権が一九九二年をもって崩壊し、アメリカのIMSA選手権も翌一九九三年にスポーツカー・クラスを再編してグループC規定のスポーツカーによるレースを打ち切ると、グループCの車を受け入れるレースはル・マン二十四時間レースただ一戦だけとなった。そのル・マンも世界的なスポーツカー・レースの衰退を見て、レースの主役をスポーツカーから市販GTカーに切り換えるつもりでいたが、一九九四年までは旧規定グループCの車にも出走が認められた。加藤眞は、一九九四年のレースはサードが長年の目標であったル・マンにおける勝利を実現する最大のチャンスだと考えていた。規則変更にともない新規定の3.5L自然吸気エンジンを積んだトヨタ、プジョーの両ワークス・カーはすでにサーキットになく、そうなればレースはプライベート・チーム同士の戦いになるだろうと踏んだのである。プライベート・チーム同士の戦いなら、加藤はどのチームにも負けるつもりはなかった。   
   
市販GTカーとの性能的な均衡をとるため、一九九四年のル・マンに出走する旧規定グループCカーには規則によりさまざまな制約が課せられた。エンジンには前年よりさらに径のちいさい33.4ミリのリストリクターを装着することが義務付けられ、これによりエンジン出力は500馬力から550馬力程度まで落ちた。燃料タンクの容量はGTカー・クラスの120Lに対し80Lとされ、ダウンフォースを減らすために前後車軸の間は完全なフラット・ボトムとすることが要求された。後車軸の手前から立ち上がる大型のディフューザーによるグラウンド・エフェクトでダウンフォースを稼いでいたグループCのスポーツカーにとっては、まるで足枷をはめたまま競走をさせられるような規則であった。すでにレースの主役はスポーツカーからGTカーに切り換えることが決っていた以上、時代遅れのスポーツカーにGTカーよりはるかに速いペースで走られてはまずい、というのがその理由だった。   
   

  

94CV-94T-94Mar一九九四年二月の「レーシング・オン」誌に掲載された、風洞実験中のチーム・サードの車。この車は外見的にも内部的にも、トヨタ92C-V/93C-Vの改修型であったが、年式に合わせて「トヨタ94C-V」の名が付けられた。この時点ではチーム・サードのイメージ・カラーであるブルーに塗られている。リヤまわりを写した写真がちいさく掲載されているが、この時点ではまだリヤ・セクションはほとんど92C-Vと共通であることや、規則変更に合わせてディフューザーの高さが低くなっていること、リヤウィング翼端板が小型化されていることが確認できる。リストリクター装着により出力が落ちたため、R36Vエンジンは低速・中速回転域でのパワーを重視する方向にチューニングされた。   
当初トヨタでは3.6LのR36Vエンジンを3.0L化する案も検討された。排気量を3.0Lまで下げるとリストリクター径が一段階大きくでき、結果として出力を向上できるのである。しかしシミュレーション・テストを行ったところ所期の性能を得られる見込みがなかったため、この新エンジンの開発はキャンセルされた。   
タイヤは九二年までのブリヂストンにかえて、九三年から引き続きダンロップ・タイヤを装着した。ダウンフォースが減ったことによりタイヤにかかる負担が増大すると予想されたことから、サード、トラストとダンロップが共同で一九九四年に向けた専用タイヤの開発を行っている。   
   
F1ドライバーとなったローランド・ラッツェンバーガーは一九九四年開幕戦のブラジル・グランプリを予選落ちで終えたが、第二戦のパシフィック・グランプリでは二十六位で予選を通過すると、そのまま十一位で完走を果たし、日本のファンの前で健在をアピールした。第三戦はサンマリノ・グランプリだった。レースにそなえて四月末にイモラ・サーキットへやってきたラッツェンバーガーは、そこでたまたまマツダスピードの大橋孝至監督に出会い、昼食を共にした。大橋は、彼の姿を認めた最後の日本人となった。    
一九九四年四月三十日はサンマリノ・グランプリの予選二日目だった。ラッツェンバーガーはいまだ完成度の低いシムテック・フォードの車で、予選を通過しようと懸命にアタックした。ラッツェンバーガーの車が突然コントロールを失い、コース中ほどにある右回りの高速コーナーでコンクリート・ウォールに激突したのは、彼が二周連続のタイム・アタックに入っていった直後のことだった。前の周回で縁石に当てて破損したフロント・ウィングが脱落したのが原因であった。   
この日、休暇をとって個人的にグランプリ見物にやってきていたチーム・サードのスタッフがあった。彼は観客席から一部始終を見届けると、すぐにチーム監督に連絡を入れた。    
「ローランドがクラッシュして、病院に運ばれました」   
加藤眞はこの連絡を受けた瞬間、「たぶんもうダメだろう」とだけ返事をした。彼らのローランドは助からなかった。加藤眞が「F1に行く」といったラッツェンバーガーの瞳に見ていたという死の影は、まぼろしではなかったのである。   
   
   
00スパークモデル製1/43スケールモデル、一九九四年ル・マン二十四時間レースに参戦した二台のトヨタ94C-Vである。右のNr.1・シャシーナンバー94C-V 005がチーム・サードのマウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ/エディー・アーヴァイン組、左のNr.4・シャシーナンバー94C-V 002がトラスト・レーシングのジョージ・フーシェ/スティーヴン・アンドスカー/ボブ・ウォレック組である。品番はそれぞれS1378/S1379。チーム・サードの車には当初ローランド・ラッツェンバーガーが乗り込む予定であったが、代役としてサードから九二年のル・マンを走ったエディー・アーヴァインが招聘された。   
   
   
16この年からサードの車はふたたび日本電装のスポンサー・カラーに塗られるようになった。九二年と同じく、サードの車は大型のダイヴ・プレーン、トラストの車はやや小ぶりなダイヴ・プレーンを装着しており、細部の設定が二チームで異なる。   
   
   
0693C-Vまでの車と94C-Vの外見上の違いとして、このロング・テール化されたボディを上げることができる。前述の規則によりダウンフォース量が減ったため、最適なボディ形状を検討すべく風洞実験がくりかえされた。これにより車全体の印象がそれまでのトヨタ製スポーツカーとはだいぶ違って見える。   
   
予選ではサード・トヨタが四位、トラスト・トヨタが八位につけた。サード・トヨタのタイムは3分53秒010で、九二年のタイムとくらべると13秒も遅かった。九四年のル・マンでも、サードはそれまでどおり積極的なタイム・アタックはまったく行わず、決勝レースに向けてのセッティング作業に専念したが、それでもサード・トヨタの予選タイムは予選第一位のタイムと2秒ほどしか違わなかった。このレースで優勝を争うことになるだろうと目されていたダウアー・ポルシェの二台はそれぞれ予選五位と予選七位で、ラップ・タイムもほとんど同じくらいだった。レースは激しい戦いになりそうだった。   
   
   
05リヤカウルの処理もサードとトラストで違っており、特に後端面の形状は二台で大きく異なっている。同じ白と赤のカラーリングだが、トラストの赤色はややくすんだ色合い、サードの赤色はそれに比べると彩度の高い赤色になっている。モデルの品質はさすがスパーク製といったところである。二〇一二年発売のやや古い金型であるため、細部に若干の組み付け不良が見られるが、よほど注意して観察しなければわからない、というレベルだろう。   
   
   
10サード車の大型ダイヴ・プレーンはエッチングパーツで再現されている。実車同様、92C-V (二〇一五年発売) と基本的な部分は共通と思われるが、やはり後発だけあって92C-Vのほうが細部に至るまで仕上げが綺麗であるように感じる。原型の問題と思われるが、フロントオーバーハングがやや長いように見えることと、正面から見たときのキャビン・セクションのラインが少々実車と違っていることがすこし残念である。   
   
   
11トラスト車のフロント周り。前記事にも書いた通り、トラストが九二年に使用した92C-V 001の個体は同年クラッシュにより大破しており、九三年・九四年のル・マンではスプリント専用車「トムス・スペシャル」の92C-V 002モノコックに補強を加えて使用した。トムス・スペシャルの面影はフロントカウル上部のラジエーター排気口フェンスに見て取ることができる。モデルでは高さが実車より低くなっているが、フロントガラス付近のフェンスに左右一箇所ずつちいさな切り欠きが設けられている。これはトムス・スペシャル特有の処理で、サード車には見られない。フロントにある牽引フックの位置も二台で異なり、サード車はラジエーター排気口左側、トラスト車は写真では写っていないがフロントカウル前端、右側開口部の奥にある。九二年の92C-V以降、トラストの車にはルーフ前端中央部に横長の識別灯が取り付けられており、モデルでもこの突起が再現されている。   
   
   
09

  

94CV-94LM-Irvine-Martini-Krosnoff-Ratzenberger-11サード車のルーフ上にはル・マンを戦った三人のドライバーの名前に加えて、当初出走する予定だったローランド・ラッツェンバーガーの名前も書き記されているが、モデルではこのドライバー名の書体が実車とまったく違うものになってしまっている。参考として実車の写真を配した。   
   
大方の予想通り、レースはスタート直後から二台のトヨタと二台のダウアー・ポルシェの激しいトップ争いが繰り広げられた。ダウアー・ポルシェは本来スポーツカーであるポルシェ962Cを市販スーパーカーとして改造したもので、GTクラスからの参戦であったためレギュレーション上はトヨタより有利であった。しかしサード・トヨタとトラスト・トヨタの二台は、ダウアー・ポルシェのアルミ・モノコックに対してカーボン・モノコックを使っていたためシャシー性能にすぐれ、またダンロップと共同開発した専用タイヤも大きな威力を発揮したため、総合的にはダウアー・ポルシェよりわずかながら速く走ることができた。ダウアー・ポルシェの相次ぐマイナー・トラブルにも助けられ、深夜過ぎになるとトラスト・トヨタ、サード・トヨタの二台が第一位、第二位を独占したまま、後続の車を徐々に引き離しはじめた。   
日曜午前四時頃になって、トラスト・トヨタの車が優勝争いから脱落した。トヨタの持病であったギヤボックス・トラブルが発生し、ギヤボックスをまるごと交換しなければならない事態におちいったのである。この交換作業で一時間近くをロスしたトラストの車は、優勝の望みをほぼ絶たれた。かわってサード・トヨタがトップに立ち、ただ一台残ったトヨタ車として、一九九一年以来の日本車によるル・マン総合優勝をめざして走ることになった。   
   
   
04フロントの形状は92C-V以来ほとんど変わっていない。実車のフロントアンダーパネルはカーボン・ケブラーで出来ており、モデルではデカール仕上げによりこの素材の特徴的な色味を再現している。ライトカバーの薄いフィルム様のパーツの接着がやや歪んでいるのがわかる。   
   
トップを走るサード・トヨタと二位・三位まで追い上げたダウアー・ポルシェとの差はじりじり開いていき、フィニッシュまで数時間を残すばかりとなった日曜午後にはその差は四周になっていた。日本向けにル・マンのテレビ放映を行っていたテレビ朝日に解説者として呼ばれていた津々見友彦は、ちょうどこのときチーム・サードのピットを訪れ、栗谷監督に簡単なインタビューを行った。インタビューの最後にサード・トヨタの勝利を確信した津々見は栗谷に「おめでとう」といって握手をもとめたが、栗谷は手をスッっと引っ込め、握手をしようとしなかった。栗谷はつぎのようにいった。   
「いや、まだ何が起こるかわからない」   
けっきょく津々見友彦は、握手をせずにチーム・サードのピットをあとにした。   
   
最終シケインを立ち上がってピット前のストレートを加速してきたサード・トヨタのジェフ・クロスノフが突如スピードをゆるめ、ピット・ロード出口の脇に車を止めたのは、レースが残り一時間十五分となったときだった。突然の出来事に誰もが一瞬言葉を失うなか、ジェフ・クロスノフは車を降りると、車の後部に手を突っ込んで、何かを操作しはじめた。クロスノフは三分か五分ばかり停車していたが、やがてふたたび車に乗り込みドアを閉めると、リタイヤに備えて群がってきたコース・マーシャルたちを振り切るように、再スタートしていった。しかしそのペースは緩慢で、ストレートを全速力で加速してきたほかの車にくらべると、まるで歩いているようなスピードだった。このときサード・トヨタはギヤボックスとシフトレバーをつなぐ金属製のパーツを折損しており、ジェフ・クロスノフはギヤボックスを手で直接操作して、無理やりギヤを三速に固定し再スタートしたのである。トヨタのグループCスポーツカーにおける持病であったギヤボックスのトラブルが、最悪のタイミングで発生してしまったのだった。サードの車にはこれに対する最後の防護措置として、車外からギヤボックス内部に直接操作をくわえて任意のギヤに固定できるギミックが搭載されていたが、クロスノフは事前にその方法をメカニックからきいて知っていたのである。まったく栗谷監督の言った通りで、ル・マンは最後まで何が起きるかまったくわからないレースだった。   
   
ジェフ・クロスノフはギヤがつっかえてしまった車でまるまる一周をスロー走行し、よろよろとピットインしてきた。栗谷監督の号令のもと、疲れきったチーム・サードのメカニックたちは最後の力を振り絞り、素早くリヤカウルを取り外すと破損箇所の修理にあたった。作業はなかなか終らなかった。破損した部分がちょうどエンジンとモノコックの結合部付近にあったのである。修復に十四分かかった。一周分をスロー走行したのと合わせると、サード・トヨタはすでに三十分近く遅れていた。こわれたパーツを交換し、当初の予定通りジェフ・クロスノフからエディー・アーヴァインに交代したサード・トヨタの車が轟音を上げてピットアウトしていったとき、サード・トヨタはトップのダウアー・ポルシェから一周遅れの三位に落ちていた。残り時間が一時間では再逆転は絶望的だった。   
加藤眞は思った。   
「いまさらおめおめと三位で帰れるか。こうなったら二位かリタイヤかどっちかだ」   
勝ち目がないことを知りながらも、加藤は車に乗り込んだエディー・アーヴァインに声をかけずにはいられなかった。   
「わかってるだろうな」   
エディー・アーヴァインはただひとこと、みじかい返事をした。   
「ああ、わかってる」   
   
コースを一周まるまる三速に固定されたまま走ったサード・トヨタの車は、三速ギヤが摩滅して使えなくなっていた。しかしエディー・アーヴァインはそんな状態の車で二位のダウアー・ポルシェをはげしく追い上げた。アーヴァインのラップ・タイムは、ギヤの故障によって落ちるどころか、むしろそれまでサード・トヨタがレース中に記録したどのタイムよりも速かった。すでに各車がフィニッシュにそなえてスロー・ダウンするなかで、二位を守ろうと必死に逃げるダウアー・ポルシェと、それを全速力で追いかけるサード・トヨタだけがレースをしていた。のちに加藤眞は、このときのアーヴァインの走りを、「あれはローランドの魂が乗り移った走りだったのではないか」と回想している。   
   
最終ラップに入る直前、最終シケイン手前で二位のダウアー・ポルシェが進路を周回遅れのGTカーにふさがれ、一瞬加速がおくれた。真後ろにつけていたエディー・アーヴァインはそのロスを見逃さず、とっさに走行ラインを変えてこのダウアー・ポルシェを外側から追い抜いていき、最後の最後で二位に上がった。ピット前のストレートを全開で通りすぎていったエディー・アーヴァインを、チーム・サードのメカニックたちが拳を振り上げなから見送った。まるで優勝でもしたかのような騒ぎだった。レースはダウアー・ポルシェが優勝し、サード・トヨタは一周遅れの二位でフィニッシュしたが、三位に入ったもう一台のダウアー・ポルシェとは2.5秒差しかなかった。四位はトラスト・トヨタだった。厳しいレースを戦い終えたアーヴァインは、フィニッシュ後にインタビュアーがマイクをむけると、つぎのようにいった。   
「ローランドがいりゃあ楽勝だったさ」   
   
一九九四年ル・マンのサード・トヨタは、最終盤にギヤボックス・トラブルが発生するまで、まちがいなく優勝にいちばん近いところにあった。しかし加藤眞の考えでは、レースはギヤボックス・トラブルのみによって失われたわけではなかった。レースがスタートしてからいちばん最初のブレーキ・パッド交換の際、メカニックのひとりがミスをおかしたためブレーキがきかなくなってしまい、この修復に四分ほどロスをしているのである。優勝したダウアー・ポルシェと二位のサード・トヨタの差は四分だった。このことをひいて、加藤眞はつぎのようにいっている。   
「あのミスがなければ、シフトリンケージのトラブルがあっても勝っていたはずです。競技とはそういうもので、野球だってバントのミスで負けることがありますよね。その意味で私は二位だった九四年より、五位だったけどノー・ミスで二十四時間を戦った九三年のほうがいいレースだったと思います」   
   
   
02四人のドライバーの名前を車体に背負ってル・マンを戦ったこのサード・トヨタは、現在ル・マンのサーキット付近にある博物館に保存・展示されている。実車はすでに経年劣化でライトカバーは白化し、各部の塗装は剥がれかけ、往時の勇姿は徐々に失われつつある。当時の写真と、アクリルケースの中のモデルカーだけが、四人のドライバーを乗せて勝利へひた走ったこの車の原初の姿をいまに伝える。   
   
サード・トヨタのレースは、ル・マン二十四時間レースだけではなかった。八月に開催される鈴鹿1000キロレースに、ル・マン帰りのサード・トヨタが参戦する予定になっていたのである。サード・トヨタの車はフランスから船便で日本にいったん送り返され、愛知にあるサードのファクトリーで分解整備を受けることになっていた。点検のためにリヤカウルを開けた加藤眞は驚愕した。リヤダンパーを接続する部品に大きな亀裂が入っており、あと数ミリで完全に破断するというところだったのである。もしレース中にそんなところが壊れていたら、大クラッシュにつながっていたかもしれなかった。まるで事故死したラッツェンバーガーが天から見守っていたような、このうえなく劇的なレースであった。トヨタ製グループCスポーツカーがル・マン二十四時間レースのスターティング・グリッドに並んだのは、この年が最後だった。   
   
一九九六年七月十四日、カナダ・トロントで行われたインディーカー・レースで多重クラッシュが発生した。追い抜きにかかろうとした車が前を走るステファン・ヨハンソンの車に接触し、宙を舞ってキャッチ・フェンスに激突したのである。この事故でドライバーと、巻き添えとなったコース・マーシャルが死亡した。ヨハンソンを抜こうとしてクラッシュしたドライバーの名前は、ジェフ・クロスノフといった。九四年ル・マンで、走ることをあきらめたサード・トヨタ94C-Vにふたたび命を吹き込んだ男である。   
   
トヨタ94C-Vは二台が同ナンバーのトヨタ91C-Vから、92C-V、93C-Vを経て改修された。一九九四年以前の各シャシーの戦績については、前記事を適宜参照されたい。   
   
シャシー・ナンバー002のトヨタ94C-Vは、トムスの91C-V 002から同チームの92C-V 002、トラスト・レーシングに払い下げられた93C-V 002を経て改修された車で、一九九四年ル・マン二十四時間レースにトラスト・レーシングから参戦し、四位でフィニッシュした。   
   
シャシー・ナンバー005のトヨタ94C-Vは、チーム・サードの91C-V 005から同チームの92C-V 005、93C-V 005を経て改修された車で、一九九四年ル・マン二十四時間レースにチーム・サードから参戦し、二位でフィニッシュした。   
   
(了)

2016年4月27日 (水)

トヨタC-Vシリーズ・終りのクロニクル 「夏の闇」

一九九一年のスポーツカー世界選手権は、ウェイト・ハンデを積むことを条件に一九九〇年以前の旧規定にのっとってつくられたグループCスポーツカーの出走を認めていたが、一九九二年からは新規定車のみを受け入れることとなったため、旧規定のスポーツカーは世界選手権から姿を消した。一九九二年シーズンの開幕時点では、日本の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権とアメリカのIMSA-GTP選手権のみが旧規定スポーツカーの出走を認めていた。トヨタは一九九一年をほぼまるごと費やして開発した新規定のスポーツカーをこの年の世界選手権に投入し、プジョーと真っ向から勝負するつもりでいた。トヨタ・ワークス・チームの活動の主軸はふたたび世界選手権とされ、全日本選手権ではあくまで参加するトヨタ系チームの物的支援に徹することとされた。

一九九二年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権は、もはや瓦解寸前であった。スポーツカー世界選手権を統括するFISAが一九九一年からグループC規定を刷新したのに対し、全日本選手権の統括団体である日本自動車連盟は九一年以降も従来どおりのグループC規定でレースをすることを決定した。しかし一九九〇年の時点で、ニッサン、トヨタ両ワークスの車体、エンジン双方におけるめざましい進歩により、プライベート・チームにとってほとんど唯一の選択肢であったポルシェの車では、両ワークスと競走して勝つことは不可能になりつつあったのである。一九九〇年の開幕戦から一九九一年の最終戦まで、世界選手権に参加していたジャガーがゲスト参戦し驚異的な速さで優勝した一九九一年最終戦を除けば、予選第一位も優勝もすべてトヨタかニッサンの車が記録していた。トヨタとの競り合いに勝ってポルシェの車が全日本チャンピオンになった一九八九年は、もはや遠い昔になりつつあった。一九九二年の全日本選手権開幕戦のグリッドには、ポルシェの姿はなかった。参加したのは四台のニッサン、三台のトヨタ、二台のマツダの九台だけだった。この年トヨタは二台体制から一台体制に縮小したトムスと、トヨタ系のプライベート・チームとしてトムスに並び立つ存在であったサードにくわえて、前年までポルシェを使用していたトラストを加えた三台体制の陣営でニッサンに対抗したが、世界選手権に参加しないニッサンはこの年も全日本選手権に全力を振り向けてくることが予想されたので、トヨタの苦戦は避けられなかった。

トヨタ・ワークスの活動がふたたび世界選手権を中心としたものになったあとも、トヨタ製旧規定スポーツカーの改修はほそぼそと続けられた。一九九二年型の92C-Vでは、拡大されたトレッド幅に合わせてサスペンションが改良され、90C-V以来の持病であったサスペンション特性が大幅に改善されている。しかし全体としてはマイナー・アップデート程度であり、ニッサン同様完全な新型車ではなかった。
ワークスによる開発が止まった92C-Vの全日本選手権における戦いは困難をきわめた。開幕戦の鈴鹿500キロレースではトラストの車が三位に入り、第二戦・富士1000キロレース、第三戦・富士500マイルではトムスの車がそれぞれ五位と二位に入ったが、いずれのレースもニッサンが優勝していた。開幕当初、トヨタは全日本選手権の前半戦のみ旧規定の車を使い、後半戦では世界選手権を戦っているのと同じ新規定の車を全日本選手権にも持ち込む予定でいたが、世界選手権のほうで予想外の苦戦が続いたため、日本の実戦チームは旧規定車を使い続けなければならなくなった。このままではニッサン・ワークスに勝つことはむずかしかった。
トヨタ陣営の第一チームであったトムスは、思い切って92C-Vの大改造を行うことにした。この改造を指揮したのは、トムスのチーフ・エンジニアであった今西豊だった。彼らはチームのスペア・カーを引っ張りだすと、まずモノコックを完全につくりかえた。剛性アップのため傾斜面や曲面のほとんどすべてが平面構成で置き換えられ、ありとあらゆる箇所にアルミ・ハニカム製の補強部材が仕込まれた。同時にモノコックの徹底した軽量化がほどこされ、リヤのエア・ジャッキまでもがとりはずされた。完成した車体は、従来型にくらべると20キロもの軽量化に成功していた。モノコックを改造したのに合わせてサスペンション・レイアウトも小変更を受けている。この車は「トムス・スペシャル」と呼ばれた。


92CV-92Mine-Sekiya-Raphanel

92CV-92-Sekiya-Raphanel-2トヨタ92C-V「トムス・スペシャル」(上) と、比較材料として従来型のトムス92C-V (下) である (写真は二枚ともイグニッションモデル公式ブログより)。トムス・スペシャルは当初モノコック以外にボディカウルの形状も変更される予定であったが、新型車の投入が焦眉の急となったためカウルは92C-Vのものが流用された。トムス・スペシャルの見た目上の識別点として、フロントカウル上にあるラジエーター排気口の形状があげられる。従来型では開口部周囲に低いフェンスが設けられているが、トムス・スペシャルではこの部分からの排気をより効果的に利用するため、フェンスの高さが従来型より大幅に高くなっている。上下の写真を比較すると、トムス・スペシャルの開口部フェンスはフロントガラス下端よりもせり上がっていることがわかる。
このトムス・スペシャルは当初七月の第三戦・富士500マイルレースまでに投入される予定であったが、開発の遅れにより九月の第四戦・菅生500キロレースでデビューした。デビュー時は従来型と同くエッソの赤いスポンサー・カラーに塗られていたため、フロントに設けられた巨大なフェンスからの連想で、同年七月公開のアニメ映画のタイトルから「紅の豚」という愛称で呼ばれた。軽量・高剛性モノコックの威力はすばらしく、トムス・スペシャルはデビュー戦の菅生で二位、つづく第五戦・富士1000キロレース (この年は富士の1000キロレースが二回開催された) では驚異的なタイムで予選第一位を記録した。この第五戦からトヨタはようやく新規定車を全日本選手権に投入したため、92C-Vはトヨタ陣営の主力戦闘機としての役目を終えた。
最終第六戦のインター・チャレンヂ美祢500キロレースは、すでにこの年をもって全日本スポーツ・プロトタイプ選手権の開催を中止することが決っていたため、実質的に同選手権最後のレースであった。このレースでトムスは、チームがはじめて全日本スポーツ・プロトタイプ選手権に参戦した一九八三年とまったくおなじカラーリングでレースに出走した (上写真の仕様)。全日本スポーツ・プロトタイプ選手権が発足した一九八三年から、シリーズが終焉を迎えた一九九二年まで、そのあいだのすべてのシーズンにわたって参戦を続けたのは、トムスとトラストの二チームだけである。


18スパークモデル製1/43スケールモデル、一九九二年ル・マン二十四時間レース仕様のトヨタ92C-Vである。この年トヨタの旧規定車は全日本選手権以外に、旧規定スポーツカーの参加を認めていたル・マンにもプライベート・チームの二台が遠征した。左のNr.34・シャシーナンバー92C-V 005がチーム・サードのエジェ・エルグ/ローランド・ラッツェンバーガー/エディー・アーヴァイン組、右のNr.35・シャシーナンバー92C-V 001がトラスト・レーシングのジョージ・フーシェ/スティーヴン・アンドスカー/ステファン・ヨハンソン組である。サードの車は途中ギヤ・トラブルで遅れ九位、トラストの車は旧規定クラスの最上位である五位で完走している。品番はそれぞれS2367/S2368。

一九九二年のル・マンには、トヨタとプジョーが三台ずつにくわえて、マツダも二台の新規定ワークス・カーを持ち込み、スターティング・グリッドの上位につけた。サードとトラストの旧規定車はいずれも無理なタイム・アタックを行わず、決勝レースを見据えたセッティング作業に専念したため、予選ではサードが十一位、トラストが十五位を得るにとどまった。新規定車は最低車重が軽く、燃料も使いたいだけ使えるので、あらゆる面で旧規定車より有利だったが、二十四時間のレースでは豊富な実戦データをもつ旧規定車にも、その信頼性をいかして上位に進出するチャンスはあった。サードのエジェ・エルグは、レースを前にしてつぎのようにコメントした。
「プジョーが二十四時間のあいだ何の問題もなく走りきれるとは思えない。クレマー・ポルシェやトラスト・トヨタは要注意だが、対等に戦えば入賞のチャンスは大いにあるだろう」


0804一九九二年のル・マンでは全日本選手権同様、サードの車がブリヂストン・タイヤ、トラストの車がダンロップ・タイヤを装着した。この年の海外レース用ブリヂストン・タイヤにはタイヤ側面に描かれているブランド名の文字が入っておらず (一九九二年デイトナ二十四時間レースに参戦したノバ・ニッサンR91CKも参照されたい)、モデルはこれを再現しているため、サード車のタイヤ部分にマーキングが見られないのはエラー品ではない。また実車写真を見ると、この年はサード車のみリヤウィング全体がかなり後方に傾けて装着されており、こちらはさすがに再現されていなかったが、リヤウィングの取り付けが若干歪んでいるのを修正する際に角度をつけた。おそらくロードラッグ化のためのセットアップと思われる。

一九九二年六月二十日・土曜日午後四時、雨が降る中でル・マン二十四時間レースがスタートした。トラスト・トヨタはリスクをとらず、スタートからフィニッシュまで事前に決められたペースを守ってフィニッシュすることに専念したが、サード・トヨタは序盤の雨に乗じてペースを上げ、スタートから一時間が経過する頃には、早くも新規定車の中に割って入る総合七位まで順位を上げた。サード・トヨタのスタート・ドライバーであるローランド・ラッツェンバーガーは雨を得意とするドライバーで、三時間目には旧規定車クラスのトップである総合六位に浮上した。



07ル・マン二十四時間レース参戦に合わせて、全日本選手権で使用されていた小型のヘッドライトのかわりに、耐久レース用の大型ライトが装備されたが、90C-Vのものとは形状が違っている。左のトラスト車は丸型のライトを左右二つづつ並べたものだが、右のサード車は片側に丸型一灯・矩形一灯の変則的な配置となっている。サード車のライトの配列はトヨタ・ワークスの新規定車「TS010」と同じもの。

土曜午後九時過ぎになって雨脚が強まり、視界が極端に悪化したため、各車ともクラッシュをおそれて大幅にペース・ダウンしたが、サード・トヨタ、トラスト・トヨタとも順位を落とすことなくこの雨を乗り切った。しかし真夜中すぎの百十二周目、ステファン・ヨハンソンの運転中に、まずトラストの車にトラブルが起きた。予定の時間をすぎても、ヨハンソンの運転するトラスト・トヨタがピット前のストレートに戻ってこなかったのである。メカニックたちの不安が募るなか、リヤカウルがなくなったトラスト・トヨタがよろよろとピットインしてきたのは、予定の時間を六分も過ぎてからだった。トラスト・トヨタは第一シケインの入り口付近でギヤのトラブルが発生し、ギヤ・チェンジできなくなってしまったのである。ヨハンソンはコース脇に車を止めると、ひとりでリヤカウルを外し、車載の工具で応急措置をおこなってピットまで戻ってきたのだった。このトラブルの修理に十二分かかったが、トラスト・トヨタは十位でコースに復帰することができた。ヨハンソンの機転と冷静な処置により、トラスト・トヨタはリタイヤを免れたのである。

快調に飛ばしていたサード・トヨタも、無傷というわけにはいかなかった。まずエディー・アーヴァインが日曜午前四時ごろにクラッチの不具合を訴えた。チームは二十分かけてクラッチを交換したため、サード・トヨタは九位に落ちた。そして夜が明けた日曜午前八時二十二分、こんどはエジェ・エルグの運転中に、ギヤボックス・トラブルが発生した。チームは修復をあきらめ、ギヤボックスをまるごと交換することにした。交換に三十分かかった。後続との差が開いていたので順位は変わらなかったが、サード・トヨタはこれでトップから二十三周遅れになってしまい、上位入賞はほとんどあきらめざるを得なくなった。


09リヤまわりは91C-Vからほとんど変わっていない。スパークモデルは一貫してモデルの素材にレジンを使用しているが、日本円にして八千円以下の価格帯でこれほどの精密な加工は他メーカーの追随をゆるさない、すばらしい出来栄えであると言えよう。翼端板やリヤウィング支柱などのパーツは金属製で薄く仕上げられ、モデルの実感を増している。エンジンは全日本選手権で使われているものと同様のR36V型3.6L・8気筒エンジン、ギヤボックスは90C-Vのル・マン仕様が専用の六速ギヤボックスを使っていたのに対し、92C-Vは五速ギヤボックスのままであった。

サード・トヨタがギヤボックス・トラブルに苦しんでいた午前八時ごろ、サードと入れかわるようにトラスト・トヨタがペースを上げ始めた。スタートから夜まで断続的に雨が降り続いたのでペースが上がらず、予定通りのペースでは燃料が余ってしまうことがわかったのである。ならばその分の燃料も使って追い上げ、ひとつでも上の順位でフィニッシュしようというのであった。トラスト・トヨタはそれまでずっと3分50秒台のラップ・タイムを守って周回を重ねていたが、これを一気にペース・アップして3分45秒台としたのである。折よく日の出とともに雨に濡れた路面が乾きだしたことにも助けられ、トラスト・トヨタは午前九時には七位まで順位を上げた。しかしそこまでだった。前を走る六位のクレマー・ポルシェとトラスト・トヨタのあいだにはこの時点で二周、時間にして約8分の差がついていたが、残り時間が七時間では、一周につき差を5秒縮めたとしても、ギリギリで届くかどうかといったところであった。しかもクレマーはこれまで何度もル・マン二十四時間レースに参戦してきた歴戦のチームであり、そんなチームを相手に七時間ものあいだ正確に5秒ずつ差を詰めていくのはほとんど不可能だった。

トラスト・トヨタのレースがふたたび動き出したのは、フィニッシュまで残り三時間弱となった午後一時すぎであった。クレマー・ポルシェのペースが急にガクッと落ちたのである。トラスト・トヨタはあいかわらず3分45秒のハイペースで追い上げを続けていたので、その差はみるみる縮まった。トラスト・トヨタは一周につきクレマー・ポルシェより10秒近くも速かった。トラスト・トヨタのステファン・ヨハンソンがドライバー交代のためピットインしてきた時には、すでにトラスト・トヨタはクレマー・ポルシェと同一周回まで追い上げていたのである。
ピットインしてきたヨハンソンは激しい追い上げにもかかわらず元気溌溂としており、ジョージ・フーシェに交代させるべくドアを跳ね上げたメカニックにむかって怒鳴った。
「もう一スティント乗せてくれ!」
トラスト・トヨタのピット作業は、クレマー・ポルシェより30秒以上速かった。ステファン・ヨハンソンはホイール・スピンさせながら猛然とピット・ロードへ飛び出して行くと、ふたたび一周あたり10秒近くを削り取る苛烈な追撃を開始した。その追い上げのペースは、一周ごとにサイン・ボードで前を行くクレマー・ポルシェとの差を知らせるトラストのメカニックが、毎周ガッツポーズをして車を見送るほどであった。クレマー・ポルシェが最後のピットインをおこなった午後三時には、二周あった差がたった17秒になっていた。
クレマー・ポルシェのピット作業は96秒かかった。その直後、トラスト・トヨタがドライバー交代のためにピットインしてきた。ステファン・ヨハンソンからジョージ・フーシェに交代したトラスト・トヨタは66秒でピットアウトしていった。ついにクレマー・ポルシェを抜いたのである。


14ル・マン仕様車はトラスト・トヨタとサード・トヨタで空力セッティングが異なり、トラスト・トヨタは小型のダイヴ・プレーンにみじかいフロントアンダーパネル、サード・トヨタは大型のダイヴ・プレーンに長めのフロントアンダーパネルを装備している。水色のサード・トヨタと赤色のトラスト・トヨタで、ちょうどカラーリングが対比色となっている。トラスト・トヨタはこのル・マン以降、建具などのレンタルを行う日綜産業のスポンサーを得て、それまでの白色から赤色のスポンサー・カラーに塗られた。サード・トヨタは九一年まで使っていた紅白の日本電装カラーを、北澤バルブのスポンサー・カラーである水色に塗りなおしており、チーム名も「キッツ・レーシング・チーム・ウィズ・サード」と改められた。

レースが残り一時間となった時点で六位を走っていたトラスト・トヨタは、ペースをまったくゆるめなかった。1分13秒前方に、五位のクーガー・ポルシェが走っていたのである。ジョージ・フーシェはトラストのファースト・ドライバーとしての意地を見せ、3分40秒408という最速ラップを記録しながらクーガー・ポルシェを追いかけた。このラップ・タイムは、トップを走っていたプジョーの平均タイムとたった3秒しか違わなかった。クーガー・ポルシェはペースを上げて逃げようとしたが、トラスト・トヨタのほうがはるかに速かった。勢いに乗ったジョージ・フーシェは、コーナーというコーナーで路面にブラック・マークを残し、シケインの出口では豪快なカウンター・ステアを当てながら加速していった。フーシェの耐久レースとはまるで思えぬタイム・アタックのような走りに、地元フランスのクーガー・ポルシェが追い詰められているにもかかわらず、観客は惜しみない声援を送った。
トラスト・トヨタがクーガー・ポルシェを完全にとらえ、ピット前のストレートで並ぶまもなく抜いていったのは、ゴールまで残り二十分となった三百三十周目であった。その六周後、二時間半ものあいだスプリント・レースを繰り広げたトラスト・トヨタは総合五位、旧規定車クラス首位でチェッカー・フラッグを受けた。トラスト・レーシングとしてル・マンに初参戦してから、たった三年目に達成された快挙であった。


06全日本選手権におけるトヨタ92C-Vは、主に全体的な開発不足の影響でニッサンの後塵を拝し、一勝もあげることができなかった。しかしニッサンの姿なきル・マンでは、接戦を制してプジョー、トヨタ、マツダの新規定車に次ぐ総合五位でフィニッシュするという輝かしい戦績を上げ、いくらかトヨタの溜飲を下げたのである。この翌年・一九九三年のル・マン二十四時間レースにも、「93C-V」と名付けられた二台のスポーツカーがサードとトラストから一台ずつ参戦したが、この車は九二年用の92C-Vを九三年のル・マン規定に対応させたもので、最大の違いは規則によりエンジンに35.7ミリ径のエア・リストリクターが装着され、出力が700馬力程度まで落ちていたことであった。九三年ル・マンでは一時トラストが旧規定車クラス首位である四位を走行したが、日曜午前五時に冷却水のリザーバー・タンクからの漏水を修理するために長時間のピットインを強いられ、六位に後退した。かわって旧規定車クラスのトップにサード・トヨタが立ち、そのまま五位でフィニッシュしている。この年サードの車は二十四時間のレース中一度もトラブルを起こさず、最初から最後まで完全にレース前の予定通りのラップ・タイムで走るという、耐久レースの手本のようなレースを見せた。トヨタ90C-Vの末裔は、当初の想定とは違う形ではあったが、90C-Vが目標としたル・マン二十四時間レースで、与えられた条件の中で最善の結果を残したのである。

トヨタ92C-Vは新造モノコックはなく、五台すべてが同ナンバーのトヨタ91C-Vから改修された。うち一台がクラッシュにより全損・破棄されている。各車の九一年シーズンの戦績については前記事を参照されたい。

シャシー・ナンバー001のトヨタ92C-Vは、92C-Vにリビルド後トラスト・レーシングに引き渡され、一九九二年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・鈴鹿500キロレースで実戦デビューした。このレースでトラストはシーズン最高位となる三位を獲得している。同年ル・マン二十四時間レースにトラスト・レーシングから出走し五位で完走している。十月の全日本選手権第六戦・富士1000キロレースのフリー走行でジョージ・フーシェが大クラッシュし、修復不能とされ廃棄された。

シャシー・ナンバー002のトヨタ92C-Vは、おそらくトムスのスペア・カーであったシャシーで、今西豊らによる近代化改修を受けたのち一九九二年の全日本選手権第四戦・菅生500キロレースからトムスのレース・カーとして最終戦まで投入された。デビュー戦の菅生で記録した二位が最高位である。
一九九三年にはル・マン二十四時間レースに向けてトラストに供給され、短距離レースに特化したモノコックをル・マン用に補強する改修を受けている。九三年ル・マンでは六位で完走した。

シャシー・ナンバー003のトヨタ92C-Vは、九一年シーズン以降テスト用シャシーとしてTRDが保管していたが (前記事も参照のこと)、第六戦でシャシーをうしなったトラスト・レーシングに貸し出され、九二年の全日本選手権最終戦・美祢500キロレースのみにトラストの車として出走した。このレースでは七位に入っている。

シャシー・ナンバー004のトヨタ92C-Vは、トムスのレース・カーとして九二年全日本選手権の開幕戦から第三戦までを走った。このうち第三戦・富士500マイルレースで三位に入ったのが最高位である。

シャシー・ナンバー005のトヨタ92C-Vは、チーム・サードのレース・カーとして九二年全日本選手権の全六戦、および同年ル・マン二十四時間レースに出走した。このうち全日本選手権第四戦・菅生500キロレースでシーズン最高位の三位を記録した。一九九二年の全日本選手権に、開幕戦から最終戦まで通して参加したシャシーはこの005のみである。
一九九三年には93C-Vとして引き続きサードからル・マン二十四時間レースに出走し、五位で完走している。

2016年4月26日 (火)

トヨタC-Vシリーズ・終りのクロニクル 「91C-V補遺」

一九九一年に世界スポーツ・プロトタイプ選手権の規則が全面的に刷新され、競技の方向性がそれまでの燃費レースからセミ・スプリント・レースに舵を切ったことによって、一九九〇年以前のグループC規定にのっとってつくられたスポーツカーは戦いの場をうしなった。それまで世界選手権レースで一大勢力を築いていた、主にポルシェの車を使うプライベート・チームは、重いウェイト・ハンデを受け入れて世界選手権レースにもう一年だけ踏みとどまるか、グループC規定の車を受け入れていたアメリカのIMSA選手権などのカテゴリーに主戦場を移すか、ひと思いにスポーツカー・レースから撤退するかの決断を迫られることとなったのである。自動車メーカー系のワークス・チームは、新規定に合致した車を開発することを迫られたが、もちろん完全な新車は短時間で製作できるものではなく、一九九一年のスポーツカー世界選手権の開幕戦に登場した新規定のワークス・カーは、ジャガー、プジョー、メルセデス・ベンツのみであった。

一九九〇年に世界選手権レースで見るべきところなく終ったトヨタは、新規定によるスポーツカー世界選手権への参戦には前向きで、一九九〇年なかばからトヨタ本社の橋本利幸を中心とした開発チームを立ち上げ、新規定に合致する3.5L自然吸気エンジンを搭載する新車の開発をスタートさせた。車体開発のチーフ・エンジニアは鳩谷和春に任されたが、同時にTRDは新型スポーツカーの設計にあたって外国人デザイナーをひとり雇った。デザイナーの名はトニー・サウスゲートといった。このイギリス人のエンジニアはそれまでTWR・ジャガーのスポーツカーを設計していた男で、他メーカーにさきがけて強度にすぐれるカーボン・モノコックをいちはやく採用するなど、スポーツカー・レース界では優秀なデザイナーのひとりであった。鳩谷はサウスゲートと共同で新型車の開発をすすめることになったが、この3.5L自然吸気エンジン車の開発作業と並行して、サウスゲートにはもうひとつの仕事が用意されていた。全日本スポーツ・プロトタイプ選手権に参戦する予定の3.6Lターボ・エンジン車の改良作業であった。


91CV-91T-2
91CV-91T一九九一年三月の「オートスポーツ」誌および「レーシング・オン」誌に掲載された、初期テスト段階のトヨタ製スポーツカー。この車には90C-Vの九一年向け改良型であることから、「91C-V」の名が与えられた。トヨタは3.5L自然吸気エンジン車の開発に専念するため、この年一九九一年のスポーツカー世界選手権にはフル参戦しないこととなった。ふたたび世界選手権の一戦となったル・マン二十四時間レースにも出走しないことが決ったため、これに合わせて91C-Vは短距離レース専用機としての改修がほどこされている。外見的には、長距離レース用の四灯式ライトをおさめるための大型の開口部がふさがれ、ヘッドライトが小型化されたことと、過敏な操縦特性をうち消すためのボディ前端部の処理が変更を受けたことが特徴となっている。このほか、旋回性能の向上のため前後のトレッド幅が前年型よりさらに広げられ、重心を前方へ移動させるべくホイールベースは90C-Vに比して50ミリ延長された。R36V型3.6L・8気筒ターボ・エンジンは搭載位置が20ミリ下げられ、低重心化に貢献している。写真は二枚とも「def_D11」氏より提供を受けたもの。


91CV-91Fuji-Sekiya-Ogawa-2開発が遅れたため、新型車は一九九一年の全日本選手権開幕戦には投入がまに合わず、第二戦の富士1000キロレースで二台が投入された。写真はそのうちトムスが走らせた一台である。上の写真に見られた新型カウルは、テスト走行の結果ダウンフォース量が不足していることが判明したため使用を見送られ、このレースでは前年型90C-V用のフロントカウルを装着して走った。写真はRacing Sports Carsアーカイヴより。


91CV290C-Vカウルを装着した91C-Vの旧型車との識別点は、リヤウィング翼端板形状およびリヤカウル後端形状である。写真はこの年の全日本選手権第三戦・富士500マイルレース仕様の91C-Vだが、第二戦でもこれと同じ仕様のリヤカウルが使用されていた。前記事の90C-V各部写真と見比べられたい。90C-Vではリヤカウルに装着されていた四灯式テールライトが移設され、端面には排熱用のスリットが設けられている。写真はイグニッションモデル公式サイトより。

90C-Vで機械的な信頼性以外に問題となったのが、燃費セッティングの不完全さと燃費そのもののわるさだった。前者に関してはテスト走行を繰り返すことでほぼ解決することができたが、後者はエンジンまわりを改造しない限りどうしようもなかった。分析の結果、90C-Vではエンジンの排気量に対して冷却能力が不足していたことが燃費悪化の原因と考えられたため、91C-Vではラジエーターが大型化された。しかしテスト走行を行っていくうちに、こんどは大型化されたラジエーターにうまく空気が流れないというトラブルが出てきた。90C-Vの設計では車体両側面にそれぞれターボ・チャージャー用インタークーラーとラジエーターを前後に並べて納めていたが、新車の車体もこの設計をベースとしている以上、ラジエーターは大型化できてもインテーク形状のほうを最適化するのに限界があったのである。けっきょく、突貫工事でラジエーターをフロントに移設し、空いたスペースはインタークーラーを大型化して埋めることになり、この改良型91C-Vのデビューは全日本選手権第三戦・富士500マイルレースと定められた。


91CV-91全日本選手権第三戦・富士500マイルレースでの91C-V。フロントカウル中央天面に、ラジエーターを冷却した空気を逃がすための大型排気口が開いている。この排気口には、車体全体が発生する揚力を減衰させてダウンフォースの効きを安定化させる空力的な効果も付与されていた。レーシングカーの車体は横から見ると正翼断面に近い形状であり、ルーフ上を流れる空気はそのままでは負圧域を形勢し揚力を発生する。この部分の空気流に向けてラジエーターを通過した空気を投射し一様な流れをあえて乱すことで、揚力の発生を抑制している。

一九九一年の全日本選手権は開幕二戦をトヨタの不調に乗じたニッサンが連勝し、コンストラクターズ・ランキングを大きくリードするかたちで幕を開けたが、改修を受けたトヨタ91C-Vが投入された第三戦で、小河等/関谷正徳組がこの年トヨタ勢にとって初となる優勝を記録した。この年ニッサン・ワークスが二台体制で参戦していたのに対し、トヨタ・ワークスは一台多い三台体制で参戦していたため、コンストラクターズ・タイトルをめぐる争いでは若干ながら有利であった。トヨタは第四戦、第五戦でも優勝して三連勝を達成し、コンストラクターズ・ランキングのトップを走るニッサンを追い詰めにかかった。トヨタ91C-Vはここに至ってようやく、当初期待されたとおりの性能を発揮しはじめたのである。しかし第六戦ではなんとか勢いを盛り返したニッサンが勝ったので、トヨタとニッサンのポイント差はふたたび開いた。最終第七戦では、トヨタが優勝しニッサンが三位以下にならなければ、トヨタのコンストラクターズ・チャンピオンは決定しない状況であった。ニッサンとしてはトヨタに勝たせないか、トヨタが優勝してもどちらか一台が二位に入っていればよいという展開で、情勢はややニッサン有利であった。

この年の全日本選手権最終戦は菅生500マイルレースであった。レースは十一月三日におこなわれたが、ちょうど十月二十七日に大分県のオートポリス・サーキットでおこなわれたスポーツカー世界選手権最終戦に参加していたTWR・ジャガーの新型車が、ゲストとしてこのレースに参戦することになっていた。ジャガーの車はF1用のフォード製3.5L自然吸気エンジンを搭載した新規定車で、長距離のレースでは燃費や耐久信頼性に不安があったが、速さはトヨタやニッサンの旧規定車とはくらべものにならなかった。トヨタやニッサンの車は直線で爆発的に加速し、コーナーではゆっくりブレーキを踏みながらよろよろとカーブを曲がっていった。それに比べるとジャガーの車は、まるで磁石か何かで路面に吸い付いているような走りで、コーナリング中にも一瞬たりとも挙動を乱すようなことがなかった。
トヨタやニッサンのエンジニアたちは、このジャガーの存在を必要以上に脅威に感じてはいなかった。新規定車であるジャガーの車はあくまでも430キロの世界選手権レースに合わせて設計されたものであり、800キロを走らなければならない菅生のレースでは、よほどペースをおさえて走らなければ、必ずどこかが壊れるか、ガス欠になって止まってしまうだろうと考えていたのである。じっさい、二台のジャガーのうち一台は、レース途中にサスペンションのパーツを壊して修理に時間を取られ、九位でフィニッシュするのがやっとというありさまだった。
予選前のフリー走行で、トヨタはエースである小河等/関谷正徳のスペア・カーを改造し、ジャガーやプジョーの新規定車を真似た大型のフロント・ウィングを取り付けた車を走らせた (残念ながら詳細な写真は残されていないと思われる。鈴木英紀/Sports-Car Racing Group発行「Sports-Car Racing」Vol.14に、一枚だけ正面からのカットがちいさく掲載されている)。この改造を発案したのはトムスのレース・エンジニアである伊藤宗治であった。トムスではトヨタとは独立した設計プロジェクトとして、フロント・ウィング付きのスポーツカーのデザインを研究していて、ある程度はデータの蓄積があったのである。しかし大急ぎで設計されたフロント・ウィングは何の役にも立たなかったばかりか、かえって車の空気抵抗を増加させる始末で、スペア・カーは三十分ほど走っただけでそそくさとガレージの奥にしまい込まれてしまった。ラップ・タイムは十秒も遅かった。運転していた小河等は苦笑しながらつぎのように言わなければならなかった。
「空力の重要性がよく分ったよ」

予選でははたしてジャガーの新型車が第一位、第二位を独占したが、レースになるとまずラファネル/ラッツェンバーガーのサード・トヨタがジャガーの機先を制して飛び出し、エース・カーの援護役となるべくジャガーを抑えはじめた。しかしこのトヨタは早々にジャガーに追いぬかれて三位に落ちてしまい、その後デフのトラブルでリタイヤしてしまった。前をふさぐ車がなくなったのでジャガーの二台は好きに走れるようになり、かわって三位に上がってきたトムス・トヨタとの差はぐんぐん開いていった。
レース中盤になって、ジャガーの一台がトラブルで脱落したのでトムス・トヨタは二位になった。ペースの違いから、トムス・トヨタがコース上でもう一台のジャガーを追い抜くのはほとんど不可能だったが、ジャガーがトヨタやニッサンと同じ燃費でこのままレースを完走することも、同じくらい不可能と考えられた。しかしもう一台のジャガーには何のトラブルも起きなかった。そればかりか、F1用エンジンを積んだジャガーの車は、トヨタやニッサンの車に与えられたのとまったく同じ量のガソリンで、500マイルのレースを走りきって優勝してしまったのである。二位のトヨタとは四周も差がついていた。
レース後になって、二台のジャガーに燃料関連の規則違反が見つかった。サーキットが各車に支給したものとはちがう燃料が使われていたことが分ったのである。トヨタがこれに対して抗議をおこなえば、ジャガーの車が失格になるのはほとんど明らかなほどの重大な違反だった。そうなれば二位のトヨタは繰り上がりで優勝となるはずであったが、トヨタ側は抗議をしなかった。トヨタの後方、三位と四位でフィニッシュしたのがいずれもニッサンの車で、かりにジャガーが失格処分を下されてトヨタに優勝がまわってきても、二位にニッサンが来る以上トヨタがチャンピオンを取れる可能性はなかったのである。ジャガーが勝とうが勝つまいが同じことだった。トヨタはまたしても戦いにやぶれたのである。


91CV-91Fuji-Sekiya-Ogawa-391C-V以降のトヨタ製旧規定グループCスポーツカーがこの車の直系の改修型であることは、マニアには周知の事実として知られているが、この車も元をたどれば大改修を受けた90C-Vであるということができる。じっさい、ラジエーターがフロントに移動されたことと、これにともない前後カウルの造形が変更されていることを除けば、外見上90C-Vと91C-Vを区別する要素はほとんど無い。翌一九九二年になると、トヨタは3.5L自然吸気エンジン搭載の新規定車でふたたび世界スポーツカー選手権に参戦することになり、全日本選手権に参戦するチームへの支援は大幅に縮小されたため、この91C-Vが旧規定車としては事実上最後のトヨタ・ワークス・カーということになる。写真はイグニッションモデル公式ブログより。

トヨタ91C-Vは五台が製作され、三台がトムスに、二台がサードに供給されたとされている。シャシー・ナンバーに関しては不明な点が多く、前述の鈴木英紀発行「Sports-Car Racing」Vol.14 (長いので以下「SCR/14」と表記) に記載された主張や、当時の雑誌の記述・写真から推測できる要素などを極力取り入れたが、残念ながら最後までその全容の完全な解明はできなかった。以下の記述はすべてこれらの材料をもとにした筆者の推測であり、この記述が正しいという保証は一切無いことをことわっておく。

シャシー・ナンバー001の91C-Vは、一九九一年二月までに完成し、三月に富士スピードウェイでシェイクダウン・テストをおこなった。五月の全日本選手権第二戦でトムスのNr.36 小河/関谷組が使用し実戦デビューしている。同月中にラジエーターをフロントに移設する大改造を受け、第三戦・富士500マイルレースではトムスのNr.37 リース/エルグ組が使用したと思われる (ナンバー003の項参照)。第四戦以降はふたたび小河/関谷組が使用し、以後最終戦まで使用された。

シャシー・ナンバー002の91C-Vは、おそらくサードに供給され、一九九一年の全日本選手権第二戦・富士1000キロレースから第四戦・鈴鹿1000キロレース、および第六戦・インターチャレンヂ富士1000キロレースと第七戦・菅生500マイルレースで、Nr.38 サードのレース・カーとして使用されたと考えられる。

シャシー・ナンバー003の91C-Vは、おそらく一九九一年の全日本選手権第三戦・富士500マイルでNr.36 小河/関谷組のレース・カーとして投入され、その後第四戦ではNr.37 リース/エルグ/ウォレス組のレースカーに回されたのち、TRDのファクトリーに返却されたと考えられる。「SCR/14」中に「91CV-003は、最初トムスにデリバリーされてミノルタ・カラー (筆者注: Nr.36) で走った後、剛性不足が指摘され、エッソカラー (筆者注: Nr.37) に塗り替えられた。新たにエッソ用として91CV-004が完成した後TRDに戻され (後略)」という記述が見られるのがその根拠である。残念ながら詳細な時期までは記録されておらず、またこの記述の裏を取ることも現在世に出ている資料の範疇では不可能であると言わざるを得ない。
第六戦・インターチャレンヂ富士1000キロレースではトムスNr.36が決勝レースでスペア・カーに乗り換えており、また最終戦・菅生500マイルレースではトムスのスペア・カーを改造した車が走ったことを記事中で言及したが、そのスペア・カーは003である可能性が高い。

シャシー・ナンバー004の91C-Vは、おそらく一九九一年の全日本選手権第五戦・菅生500キロレースに、Nr.37 エルグ/リース組のシャシーとして投入され (前出の記述参照)、その後最終戦までNr.37組が使用したと考えられる。

シャシー・ナンバー005の91C-Vは、サードに供給され、おそらく全日本選手権第五戦・菅生500キロレースにNr.38 ラッツェンバーガー/ラファネル組として実戦投入されたものと思われる。第六戦以降サードは何らかの理由 (「車輌の破損」と言及されている資料が存在するが、この第五戦ではサードは何事も無く完走しており疑問である) により旧モノコック (002) に戻していると見られるため、このシャシーの実戦はこの一戦のみであると思われる。

シャシー履歴を簡単な表にまとめたものが以下の画像である。
91CV


この考察をおこなうに当たり、資料の提供や分析、推察などを行ってくださった「def_D11」氏ならびに「Bou_CK」氏にこの場を借りて深謝したい。

2016年4月25日 (月)

トヨタC-Vシリーズ・終りのクロニクル 「輝ける闇」

世界中のスポーツカー・レースに関するレギュレーションが改訂され、スポーツカーの世界選手権がグループC規定の車によって争われるようになったのは一九八二年のことであったが、はやくもその年の十月には新生世界選手権が日本に上陸を果たした。世界耐久選手権の第六戦・富士六時間耐久レースが富士スピードウェイで開催されたのである。日本人がはじめてグループCのスポーツカーを目の当たりにしたこのレースには三十八台の車が出走したが、そのうちグループC規定の車はたった四台しかいなかった。ポルシェ・ワークスが持ち込んだ最新鋭戦闘機ポルシェ・956が二台、フランスのジャン・ロンドウが製作した小型スポーツカーであるM382が一台、そしていま一台は日本のシャシー・コンストラクターである童夢が中心となって製作したトヨタ・セリカ・ターボCであった。ポルシェ・956から10秒近く遅いラップ・タイムを刻みながら、おっかなびっくりといったふうで五位に滑り込んだこの車が、日本初のグループC・スポーツカーとなったのである。その後十年以上にわたって展開し、グループCというカテゴリそのものと命運を共にしたトヨタのグループCスポーツカー・レース活動のはじめの一歩は、販売促進効果をねらってトヨタ・セリカのヘッドライトを装着された、ブリキ細工のような車だった。   
   
一九八七年から、それまで林みのるが指揮する童夢で設計・製作し、舘信秀ひきいるプライベート・チームであったトムスが実戦部隊となってほそぼそと運営していたトヨタのスポーツカー・レース活動を、トヨタ・ワークスが包括的に運営することになった。トムスは大企業であるトヨタから拠出される潤沢な資金の恩恵を受けることができるようになり、あわせてチーム名も「トヨタ・チーム・トムス」とされた。体制の刷新にあわせて、トヨタは当時参戦していた全日本スポーツ・プロトタイプ選手権に完全な新型車と新型エンジンを投入する用意をすすめていた。それまで童夢やトムスが走らせていた車は基本的にポルシェ・956に対抗することを念頭に置いて設計されたものであり、エンジンは一貫して2Lクラスの4気筒エンジンを搭載していたが、排気量のちいさいエンジンでグループC規定の要求である燃費とスピードの両立性を満足することがむずかしくなってきていたのである。ポルシェは2.65Lから2.8Lの6気筒エンジンを使っていたが、八七年頃になってくるとメルセデス・ベンツの5L・8気筒エンジンやジャガーの7L・12気筒エンジンなどが登場してきて、ポルシェの優位性をおびやかしつつあった。またメルセデス・ベンツ・エンジンを使うサウバーや、ジャガー・エンジンを使うTWRは、車体の面でも旧態的なポルシェより性能のよいシャシーをすでに作っていた。特にTWR・ジャガーの車体はF1で使われているカーボン・モノコックを使っており、ポルシェのアルミ板金製モノコックとは比べものにならない剛性を持っていた。そうした情勢を鑑みると、アルミ板金製モノコックの車体に小排気量エンジンを積んで戦っているあいだは、とても勝ち目はなさそうだった。ほかの多くの自動車メーカーと同じく、トヨタの最終的な目標は、ル・マン二十四時間レースで優勝することであり、それには優秀な車体とエンジンが必要不可欠だったのである。    
   
完全新設計の新型車が投入されたのは、一九八八年の全日本選手権中盤戦であった。新車は空力設計を童夢、新型エンジンの開発をトヨタの開発部門であるTRDが行い、モノコックは当時スポーツカーではTWR・ジャガー以外に採用例がなかったカーボン・モノコックとされ、この製造は東レ社に任された。エンジンはそれまでの市販車用エンジンをチューニングした2L・直列4気筒から新開発の3.2L・V型8気筒とされ、燃費が大幅に改善された。それまでの直列型エンジン搭載車と区別するため、この新車には末尾にVをつけた「88C-V」の名前が与えられた。一九八八年全日本選手権の後半戦で熟成テストをおこなったトヨタは、当初の予定通り翌一九八九年に88C-Vの改良型である89C-Vを投入し、ル・マン二十四時間レースでの総合優勝へむけて進撃を開始した。トムスと童夢の連合軍がプライベート・チームとしてトヨタ製のグループCカーでル・マンの土を踏んでから、四年が経過していた。    
   
   
00Qモデル製1/43スケールモデル、トヨタ90C-Vである。一九九〇年全日本スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・富士500キロレースに出走し、同レースで優勝したシャシー・ナンバー002の個体を再現している。Qモデルからは一九九〇年ル・マン二十四時間レースに出走した90C-Vが通常品としてモデル化されているが、このモデルはトムスの特注品であり、通常品とは違う艶消し黒に塗られた紙製の外箱に収められている。現在でもこのモデルはトムスのオンライン・ストアで購入することができる。    
   
一九八九年にトヨタが満を持して投入した89C-Vは、全日本選手権では最後までチャンピオン争いに踏みとどまり、ほんのすこしの運の差によってポルシェにチャンピオンをさらわれたが、速さでは完全にポルシェと同等であった。しかし反対に、この年から参戦をはじめた世界スポーツ・プロトタイプ選手権ではまったくいいところがなかった。一九八九年から世界スポーツ・プロトタイプ選手権に全戦参戦義務が制定され、世界選手権レースの一戦であるル・マンに参加するためには、他のすべての世界選手権レースに参加しなければならなくなったのである。この年の世界選手権レースでは、トヨタは旧型の4気筒エンジン搭載車で参戦した第二戦・ディジョン480キロレースで得た四位が最高位で、トヨタがもっとも重視していたル・マンでは、レース開始から四時間も持たずにすべての車がリタイヤしてしまったのである。車に大規模な改良が必要であることは明らかだった。    
   
   
01モデルは精密模型で一般的に使われるレジン素材ではなく亜鉛合金のダイキャスト製であり、これにABS樹脂製の部品が組み合わされている。コスト面で有利だが細部の再現性には劣る方法で、このモデルでもたとえばリヤウィングの支柱パーツや翼端板パーツなど、本来金属製パーツで薄く成形されるべき部分が厚ぼったくなってしまい、見た目の実感を損ねている部分がある。現在のところ90C-Vの1/43スケール完成品はQモデル社製のものしか存在しないが、同社がすでに実質的な活動休止状態にあるいま、このモデルも希少になりつつある。    
   
トヨタ90C-Vは、名前の通り一九九〇年に投入された新型スポーツ・カーであり、この車の基本設計がその後のすべてのトヨタ製グループCスポーツ・カーの設計の基礎となっている。89C-Vが前年型シャシーの改良版であったこととは対照的に、90C-Vはほぼすべての部分が新設計されており、前年から流用されているのはR32V型3.2L・8気筒エンジンだけであった。車体の開発は鳩谷和春が、エンジンの開発は小林日出男が中心となって行った。この90C-Vの基本設計は、一九九〇年以降トヨタが投入したすべてのグループCスポーツ・カーの設計と相通ずるものであり、この車はある意味、グループCというカテゴリそのものと盛衰を共にした、この時期のトヨタのスポーツカー・レース活動の「終りのはじまり」と呼ぶにふさわしいのである。    
   
   
0289C-Vに比べると、あらゆる面で実戦的なシャシー設計に近づいたことが外見からわかる。89C-Vは全長6キロの直線を持つル・マンのコースに特化した低ドラッグ志向の空力特性をもっていたが、そのため操縦性がやや過敏であり、耐久レースの車としてはいささか不適当であった。具体的には、直線走行時の空気抵抗を減らすために全幅は規定最大値より60ミリ狭く作られ、またノーズ先端はノミのようにするどく尖った造形に仕上げられていた。90C-Vでは全幅が規定最大値である2000ミリまで広げられ、合わせて前輪のトレッド幅も拡大されたことで、コーナリング性能が向上した。89C-Vの鋭く尖ったノーズ先端は車体の姿勢変化に対して空力特性が極端に変化する欠点があったことから、90C-Vでは神経質な挙動をなくすべく、ノーズ前面に高さ30ミリの段差が設けられた。この改修により89C-Vの持っていた車体前面の流れるようなラインはうしなわれたが、挙動の改善には効果があったため、この年の世界選手権レース序盤戦で90C-Vと併用された89C-Vにも同様の改修がほどこされた。タイヤは前年に引き続き日本のブリヂストン・タイヤを使用している。    
   

 

10フロント部のアップ。前端部に設けられた段差のようすがわかる。ヘッドライトは前年までの「猫目」と呼ばれた独特な円形から、オーソドックスな角形に改められた。長距離耐久レースでは片側二灯だったが、モデルは500キロの短距離レース仕様であり、軽量化のため左右一灯ずつとされている。このほかにフロントのアンダーパネル面積が拡大され、カウル左右にダイヴ・プレーンが装着され、リヤウィング翼端板が大型化されるなど、短距離レース仕様では全体的にダウンフォースの獲得を優先したセットアップが施されている。また90C-Vのギヤボックスは通常マーチ製の五速ギヤボックスが搭載されていたが、ル・マン二十四時間レースでは駆動系への負担を減らすため専用設計の六速ギヤボックスが使用された。    
   
新型90C-Vの第一号車であるシャシー・ナンバー001の個体は一九九〇年一月に完成し、同年二月にはル・マンに向けての耐久テストが開始された。それまでのトヨタのスポーツカーは、性能を向上させるためのテスト走行は行っても、耐久性の向上を目的とした連続走行テストはほとんど行っていなかったのである。高速耐久試験はオーストラリアのフィリップ・アイランド・サーキットと、北海道の士別にあるトヨタのテスト施設でそれぞれ行われ、総走行距離は13,000キロにおよんだ。    
90C-Vのデビュー戦は一九九〇年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦、富士500キロレースであった。このレースでトヨタはトムスの新型90C-Vを一台、サードの前年型89C-Vを一台の二台体制でニッサンを迎え撃ったが、完全な新車であり熟成不足が懸念されていたにもかかわらず、小河等と関谷正徳のすぐれた操縦にも助けられて、90C-Vはデビュー戦でポール・トゥ・ウィンを達成する快挙を演じたのである。四月に行われた世界スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースでも、ジェフ・リースが1000分の16秒という僅差でサウバーを下して予選第一位を獲得し、レースでは最終的にガス欠を起こして四位にしかなれなかったが、序盤のうちは出遅れたサウバーやTWR・ジャガーをむこうにまわしてレースをリードしていた。誰もがトヨタの新型車の性能に舌を巻き、また期待をかけた。    
しかし調子がよかったのは最初のうちだけだった。ル・マン二十四時間レースまでに、世界選手権レースはモンヅァ、シルバーストーン、スパの各480キロレースが行われたが、そのいずれにおいてもトヨタはさんざんな結果に終ってしまったのである。トヨタは三戦とも新型車と旧型車を一台ずつ持ち込んでいたが、新型車が完走できたのはそのうちシルバーストーンのレースだけで、モンヅァでは二台揃ってリタイヤ、スパでは鈴木亜久里が予選中に新型車をクラッシュさせ、決勝レースへの参加をとりやめる始末であった。トヨタ90C-Vは、すくなくともこの時点では旧型車が抱えていた操縦性の持病を完全には解決できておらず、路面がスムーズな日本のサーキットではそれなりの速さを見せても、路面の舗装が荒いヨーロッパのサーキットでは、トヨタのドライバーは車を手懐けるのに苦労した。特に世界選手権のチームはジェフ・リースやジョン・ワトソン、鈴木亜久里といったフォーミュラーカー・レースの経験者が中心となっていたので、フォーミュラー・カーとは真逆のセンスを要求するトヨタの車とは相性が悪かったのである。全日本選手権でトヨタのワークス・ドライバーだった小河等や関谷正徳は、いずれもスポーツカー・レースの経験が長く、トヨタ90C-Vのような車をどう操縦すればいいかをよく理解していた。    
   
   
07車体後方を見る。円形のテールランプはおそらく89C-Vと共通の部品を使用しているものと思われる。ギヤボックスから伸びるブリーザーパイプまでしっかり再現してあるが、やはり低価格帯モデルの悲しさで、リヤウィングのマウント部や牽引フックなど、全般的に厚ぼったくシャープさに欠ける造形であると言わざるを得ない。    
   
   
09トヨタのグループCスポーツカーは、その開発が本格的にスタートした一九八三年から一貫してサイドラジエーター方式を採用していた。一九八八年に新エンジンを開発することになった際に、ラジエーターの搭載位置を見直すチャンスがあるにはあった。しかしトヨタのエンジニアたちにとって、ワークスのレーシングカーを開発するのは一九七〇年代のトヨタ7以来じつに十八年ぶりのことであり、彼らは新型車の基本コンセプトをフロントラジエーターともサイドラジエーターとも決めかねていたのである。最終的には、実際の製造を担当した童夢の林みのるが開発の遅れを見かねて、全体をコンパクトにまとめられるサイドラジエーター方式を続けることを主張し、これが受け入れられた。    
   
一九九〇年のル・マン二十四時間レースに、トヨタは五台の90C-Vを持ち込んだ。そのうち二台はスペア・カーであった。一九九〇年六月の時点で完成していた90C-Vがすべて動員されたのである。ドライバーも小河等や関谷正徳、ジェフ・リース、鈴木亜久里、ジョニー・ダムフリーズといった、トヨタ選りすぐりのワークス・ドライバーたちが集められ、万全の体制が敷かれた。    
予選ではトヨタはまったくタイム・アタックをせず、淡々と決勝レース用の燃費セッティングに専念した。前年一九八九年の予選で、トヨタがサウバーと激しいポール・ポジション争いを展開したことを記憶していた日本のファンは落胆したが、短時間のうちに三台の車がつぎつぎ倒れていった前年の決勝レースの苦い記憶が残っているトヨタ・チーム・トムスは、とにかく決勝レースでの完走を最優先としていたのである。    
レースではニッサンとブルン・ポルシェの車が真っ先に飛び出し、その後方からトヨタとジャガーが機をうかがう展開になった。スタートから四時間ほどが経過した午後八時ごろ、ジャンフランコ・ブランカテリのニッサンが鈴木亜久里のトヨタを周回遅れにしようとして、第一コーナーで無理なオーバーテイクを仕掛けてきた。二台はコーナーの真ん中で接触し、弾き飛ばされたトヨタはそのままサンド・トラップを突っ切ってコンクリート・ウォールにはげしく衝突した。このクラッシュで90C-Vのモノコックは修復が不可能なほどの損傷を受け、運転していた鈴木亜久里は病院に運ばれて精密検査を受けるはめになったが、幸い生命に関わるような怪我は無かった。夜が明けた日曜日の午前六時ごろに、もう一台のトヨタがエンジン・トラブルでリタイヤした。たった一台残ったトヨタは終盤まで七位を走っていたが、レースが残り三時間ほどというところになって、前を走るニッサンと同一周回に持ち込んだ。この時点で六位のニッサンはギヤボックスの調子が万全ではなく、これ以上のペース・アップはむずかしい状況だったが、トヨタはそれまでずっとコンスタントなペースで走っていたおかげで大きなトラブルはなく、追い上げ用の燃料にも余裕があった。ペースを上げればすぐにでも順位を逆転できたのである。しかしたった一台残った車をここへ来て失うことを恐れたトヨタ・チーム・トムスは、ドライバーにあくまでもペースを維持してフィニッシュするよう指示した。その後二位を走っていたポルシェがリタイヤしたため、トヨタは六位でフィニッシュした。勝ったのは鈴鹿のレースでトヨタとトップ争いをしたTWR・ジャガーだった。    
   
   
08タイヤのマーキングもしっかり再現されている。「ポテンザ」のロゴは文字が傾斜していない旧タイプのものだが、スパーク製モデルではこの時代のブリヂストン・タイヤ装着車でも新タイプのロゴを印刷してしまっており、考証面において若干見劣りがする。写真の36号車はメインスポンサーのカメラ・メーカーであるミノルタのカラーに合わせて、明るいブルーのホイールを装着している。    
   
ル・マン二十四時間レース後の七月に開催された世界選手権のディジョン480キロ・レースに、排気量を3.6Lに拡大した改良型のR36Vエンジンが投入されたが、状況は好転しなかった。ちょうどこの頃、あたらしいグループC規定に合わせた3.5L自然吸気エンジン搭載のスポーツカーを白紙から開発するプロジェクトがスタートし、90C-Vの開発リーダーだったTRDの鳩谷和春をはじめとする日本の開発チームの人手がほとんどそちらに取られてしまったのである。実戦部隊は実戦部隊で、全日本選手権ではニッサンを相手に戦いながら、世界ラリー選手権に参戦しているトヨタ・セリカの改良作業もやらなければならなかったため、トヨタのレース部門はどこをとってもひどい人手不足の状態だった。こんな状況で新エンジンの開発が思うように進むはずがなかった。ディジョンではジェフ・リースが予選で五位を獲得したが、レースではガス欠でリタイヤしてしまった。ル・マン後の世界選手権レースにおけるトヨタはずっとこのような調子で、燃費を気にせずにひたすらアクセルを踏む予選ではそれなりのタイムを出せても、決勝レースでは驚異的な燃費とスピードのバランスを実現していたサウバーの車についていこうとすると、どうしてもガソリンが足りなくなった。3.6Lの新エンジンは全開状態での燃費セッティングはほとんど出ていたが、耐久レースに不可欠な、アクセルをじわりと踏んでゆっくり加速していく過渡状態での燃費セッティングがぜんぜん決っていなかったのである。けっきょく一九九〇年のト世界スポーツ・プロトタイプ選手権でのトヨタ・チーム・トムスが獲得した選手権ポイントは、開幕戦の鈴鹿480キロ・レースで獲得した3ポイントだけで、あとのレースはすべてガス欠でリタイヤするか、はるか後方をのろのろ走ってただ完走するだけというレースだった。年間のチーム・ランキングは八位で、ポルシェを使うプライベーターのブルン・モータースポーツやクレマー・レーシングにも負けていた。この年のル・マン二十四時間レースは世界選手権からは外れていたので、せっかくの六位完走も世界選手権ランキングにはカウントされなかったのである。トヨタ90C-Vは、ル・マン二十四時間をはじめとする世界規模のレースで勝つための設計がなされ、大きな期待を寄せられたにもかかわらず、世界選手権レースでは、その期待に見合う結果を残したとは言い難かった。    
   

 

15全日本選手権では状況は多少良かった。七月から投入された新エンジンはここでも信頼性の問題を抱えていたが、ニッサンは世界選手権におけるサウバーほど速くはなかったため、トヨタにも優勝争いはできたのである。しかし結局、必要なタイミングで必要な開発リソースをじゅうぶんに割り当てることができなかった結果として、トヨタ・エンジンには熟成不足に起因するトラブルが多発し、ニッサンに優勝をさらわれる展開が続いた。最終戦で旧型車を持ち込んだサードが優勝し、この年トヨタ陣営の二勝目をようやく挙げたが、チャンピオンはニッサンのものとなった。トヨタはここでも、その速さをレース結果につなげることができなかったのである。なんとも歯がゆい状況だったが、レースは結果がすべてだった。一九九〇年の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権で、トヨタは三回のポール・ポジションを獲得し、二勝を挙げた。ニッサンはポール・ポジションこそ二回とトヨタより少なかったが、トヨタより多い三回の勝利を挙げ、チャンピオンに輝いたのである。    
   
グループC規定の変更をめぐる混乱により、トヨタは一九九一年のル・マン二十四時間レースには参加しないことになった。そのため一九九一年のトヨタのスポーツカー・レース活動は全日本スポーツ・プロトタイプ選手権に限定されることになり、一九九〇年の後半に苦労した開発リソースの不足はある程度解消される目処がたった。全日本選手権のレースは500キロから1000キロの中距離レースのみで構成されていたため、車やエンジンはこれに特化した開発をすることが可能となった。トヨタは90C-Vの設計をベースに改修をほどこした新車91C-Vを用意し、全日本選手権でニッサンとのタイトル争いをふたたび展開することになる。    
   
トヨタ90C-Vは、一九九〇年一月から六月のあいだに合計五台が製作され、うち一台が事故により喪失、一台がリビルドを受けてあたらしいナンバーを与えられている。
      
シャシー・ナンバー001のトヨタ90C-Vは、一九九〇年一月に完成した第一号のシャシーであり、おもにテスト走行に使われた。一九九〇年世界スポーツ・プロトタイプ選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースでは、三台目のレース・カーとしてサードに貸し出され実戦を走っている。その後はふたたびル・マンに向けた耐久試験に供され、ル・マン二十四時間レースではスペア・カーの一台として持ち込まれた。八月の全日本スポーツ・プロトタイプ選手権第三戦・鈴鹿1000キロレースに向けてリビルドされ、新しく「006」のシャシー・ナンバーを与えられたうえでトムスにデリバリーされている。ナンバー001としての実戦は前述の鈴鹿480キロレースが唯一だが、このレースではガス欠によりリタイヤしている。    
シャシー・ナンバー006の個体としては、全日本選手権の鈴鹿1000キロレース、菅生500キロレース、富士1000キロレースに参戦しており、最高位は鈴鹿1000キロレースの三位であった。    
一九九一年の全日本選手権には、新型車91C-Vの投入がまに合わなかったため、開幕戦・富士500キロレースおよび第二戦・富士1000キロレースにトムスから参戦した。001はいちばん最初に製作された90C-V用モノコックであったが、結果的にいちばん長く走ったモノコックとなった。    
   
シャシー・ナンバー002のトヨタ90C-Vは、本稿で紹介した全日本選手権開幕戦・富士500キロレースで優勝し、その後は世界選手権レースの鈴鹿480キロレース、モンヅァ480キロレース、シルバーストーン480キロレース、スパ480キロレースの各レースおよびル・マン二十四時間レースに参戦した。ル・マン二十四時間レースでのクラッシュにより大破し、修復不能と判定され破棄されている。90C-Vの中で全損・破棄されたシャシーとしては、これが唯一のものである。    
   
シャシー・ナンバー003のトヨタ90C-Vは、一九九〇年ル・マン二十四時間レースでチーム・サードの車として運用され、その後は全日本選手権で引き続きサードの車として富士500マイルレースおよび鈴鹿1000キロレースに参戦した。菅生500キロレースと富士1000キロレースではサードは旧型の89C-Vを使用したため、一九九〇年中の実戦投入は以上に述べた分だけである。一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースではサードの車としてレースを走ったが、これがこのシャシーの最後のレースとなった。    
   
シャシー・ナンバー004のトヨタ90C-Vは、一九九〇年の世界選手権開幕戦・鈴鹿480キロレースでトヨタ・チーム・トムスの二台目として実戦に投入され、その後はル・マン二十四時間レースに参加し六位で完走している。その後は全日本選手権の富士500マイルレース、鈴鹿1000キロレース、菅生500キロレースの各レースにトムスから参戦した。一九九一年の全日本選手権開幕戦・富士500キロレースではトムスの車としてレースを走った。前述の003同様、このレースがこのシャシーの最後のレースである。    
   
シャシー・ナンバー005のトヨタ90C-Vは、一九九〇年のル・マン二十四時間レースでトムスのスペアカーとして持ち込まれ、その後002の全損にともない世界選手権レースに参戦し、ディジョン480キロレース、ニュルブルグリンク480キロレース、ドニントン480キロレース、モントリオール480キロレース、メキシコシティ480キロレースの各レースで走った。このシャシーは一九九一年以降の運用歴は残っていない。

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